第3話


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 書物庫を出たガウェとエルザは、ニコルがいつ戻ってきてもいいように中庭の一角に移動していた。
 エルザはそこで書物庫から持ってきた書物を真剣な眼差しで読み耽り、ガウェは静かに後ろで待機している。
 まだ夏の日差しが刺さる季節なので椅子ではなく露台の木陰になった場所に腰を下ろしているエルザ。もし姉姫ミモザに見られたら叱責を受けてしまうというのに、それを気にする素振りも見せない。
 エルザはクレアの目から隠した治癒魔術に関する書物に何度も何度も目を通し、たまに自身の魔力を手のひらに出して訓練を始めて。
 そんな姿を見せるエルザに今更椅子に座れとは言えなかった。
 治癒魔術を操る魔術師がどれほど貴重な存在であるか、そしてその治癒魔術師が現在エル・フェアリアに存在しないという事実がどれほど危機的なことか。
 知っているからこそ、ガウェはエルザの好きなようにさせた。
「--エルザ様、ご機嫌麗しゅうございます」
 話しかけてきた声の主は、治癒魔術に関して勉強している事実を隠したがるエルザが安心して勉強過程を話せる数少ない人物の一人だった。
「まあ、クルーガー。どうされましたの?あなたがここに来るなんて」
 ガウェが所属する騎士団の団長であるクルーガーだ。
 老いてなお鋭い眼光を忘れないこの騎士を、ガウェはまるで喧嘩を売るように睨み付ける。
「ええ。ニコルとガウェに話があったものですから…ニコルはどこに?」
 しかし慣れたもので、クルーガーは一切ガウェの態度を気にしなかった。
「ニコルでしたら、御家族が突然面会に来られたとかで、兵舎外周の正門の方へ」
「…珍しい。それでガウェが真面目に護衛をしているわけですか」
「まあ、クルーガーまで」
 クレアと同じようなことを言うクルーガーに、エルザが鈴を転がすような声で楽しげに笑う。
「ニコルへの用件でしたら、私でよければ伝えますよ」
「…いえ、エルザ様のお手を煩わせるほどではございませんので--」
 クルーガーの背後から人影が伸びてきたのは、突然の事だった。
「--うわ、綺麗な人だ」
「!?」
 今まで気配を感じなかった。なのにどこから?
 クルーガーの背後からひょっこりと現れたのは、エル・フェアリアではよく見かける薄茶の髪を高い位置に結わえた若い男で、ガウェは男から離すように素早くエルザを自分の背に隠して庇った。
 突然の動きにエルザは書物を胸に抱いて素直に従う。その姿に、男はムッと口を曲げた。
「…取って食うんじゃないんだからさぁ」
「下がれ」
 馴れ馴れしい態度の男は、魔具を発動させて構えているガウェに怯えた様子も見せない。
「感じワル~。高圧的な態度は諍いしか生まないよ?」
「二度は言わんぞ」
「やめないか二人共」
 一触即発の雰囲気に、クルーガーが割って入る。
「…そちらの方は?」
「本日より騎士団入りする者でございます」
 ガウェの背中から顔を出すエルザにクルーガーは淡々と伝え、男に少し下がるよう促した。
「まあ、この時期に?」
「はい。…ただ」
「その感じじゃ、平民の先輩って、あんたじゃないよね?」
 何故か口の重そうなクルーガーの胸のうちを知ってか知らずか、男はガウェに平然とそう告げる。その意味に言葉を無くしたのはガウェもエルザも同時で、
「………まあ!クルーガーもしかして!!」
 ちらりとガウェがクルーガーに視線を向けると同時にエルザが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「…はい。ニコルと同じく平民からの入団となります」
「はじめましてー。パージャっていいます。あんたがエルザ姫?すっごい美人だね」
「初めまして。エル・フェアリア国デルグ王第二の娘、エルザ・ティナリス・エル・フェアリア・エーデルシュタインと申します。身分のせいで大変な思いをするかもしれませんが、頑張ってくださいね」
「うわぁ…名前長いね」
 男、パージャはクルーガーの背後から、エルザはガウェの背後から。互いに自己紹介をする姿はどこか間抜けた印象で。
 パージャはそのままガウェにも向き直った。
「あんたも、はじめましてー」
「こら!」
 さすがに軽すぎる。クルーガーが子供を叱るような叱責を飛ばせば、パージャは「んべ、」と舌を出した。
 あり得ない。ガウェがそう視線だけで訴えれば、クルーガーは気まずそうに説明を始めて。
「…実力は本物だ。今の王城騎士達にも良い刺激になるだろう。ニコルとガウェにはパージャの教育係を勤めてもらおうと思っているのだが…少し間が悪かったようだな」
 当たり前だろうがとりあえず敵ではないという事か。発動していた魔具を消して背中に庇っていたエルザに前を開けると、待っていたようにエルザが進み出た。
「ニコルでしたら、しばらく戻ってこれないと思いますよ」
「…それは、何故でしょうか?」
 そしてニコルの不在をエルザが告げる。真面目なニコルが持ち場を離れるなど本当に珍しく、眉根を寄せるクルーガーにガウェはしぶしぶ後の言葉を続けた。
「…ミュズという娘、ひたすら泣きじゃくっていましたから」
「え、ミュズ?」
 すると娘の名前にパージャが反応を見せた。
「どうかなさいましたの?」
「いや、ミュズなら俺の…家族にもいるから」
 一瞬にして、ガウェは正門で見た娘を思い出す。
「…容姿は?」
「めっちゃ可愛いよ。ちっちゃい小型の子犬みたいな感じでさ、目とかウルウルなの。もう天使って感じ。あんたも見たんだからわかるでしょ」
 こいつは相手を腹立たせる天才か。
「……薄桃色の短髪か?」
「そうそう。あんたの短い方よりちょい短いかねー」
 パージャはガウェの顔を見ながら、傷の付いてない左側の前髪を指し示す。
 ガウェもすぐに察した。間違えた、と。
 流れを汲み取れずに困惑するエルザとクルーガーをそのまま残してガウェは視線を逸らす。
 騎士になった平民の家族というからニコルの妹だと思ったのだが、よくよく思い返せば泣いていた娘はニコルに教えられていた妹の年齢よりも若く見えたし、それ以前にミュズという名前ではなかった気がする。思い出せないが、たしかエル・フェアリアにちなんだ名前だったはずだ。
「……」
 無言になったガウェに、パージャはポツリと呟いた。
「…俺のミュズっぽい感じ?」

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 王城を守る正門に設けられた休憩室は、男と女の大喧嘩大会の会場と化していた。
 男と女といっても、痴話喧嘩などというよくあるものではない。
 互いに知らぬ者同士でありながら少女はニコルに弱々しい腕で殴りかかり、ニコルはその腕を掴んで暴れるのを止めようと必死だ。
「だぁかぁらぁー!!あんたじゃないの!!パージャよ!!パージャを早くよんでよ!!もー!!」
「だから!平民の騎士なんて俺以外にいないって言ってんだろうが!!話通じねぇガキだな!!」
 少女はミュズという名だと教えられたが、それ以前に調べておく事があっただろうと若騎士達に視線を送れば、二人の騎士は困惑するばかりで使えそうにない。
 ただでさえミュズの腕は栄養が行き届いていないかのように細く痩せぎすで、少し力を加えただけでもすぐに折れてしまいそうなのに、当の本人が容赦なくニコルに掴みかかってくるのだ。
 少女一人簡単に捩じ伏せられるが、それを実行すれば確実に細い腕がもげるだろう。
「あんたなんか知らない!!パージャ呼んでよ!!」
「いねーんだよそんな奴!!泣くなクソ鬱陶しい!!」
 ニコルの登場になぜか激昂するミュズとは初っぱなからまともな会話も出来ず、元々の短気な性格が災いしてニコルの口も段々と悪くなる。
「なによっ!!泣きたくて泣いてるんじゃないわよっ!!バカー!!あんたなんか嫌いっ!!」
「嫌いで結構だ!!迷惑だから出てけ!!お前みたいな馬鹿を相手にしてるヒマねーんだよ!!」
「バカって言った!?バカって言ったぁ!?バカって言った方がバカなのよっ!!バカバカバカバカバカバカバカバカー!!」
「はぁあーっ!?お前が先に言ったんだろうが!!おい、縄もってこい!!適当に巻いて放り出すぞ!!」
「ひっどーい!!最低な男ね!!絶対にモテないでしょ!!この非モテ!!バカ!!童貞!!ハゲ!!短小包茎野郎!!」
「うるっせぇブス!!うわっ、鼻水まみれのきったねーツラ近付けんな!!痛って!!引っ掻くなクソガキ!!」
 繰り広げられる罵詈雑言の応酬に、若騎士二人はただ唖然とする。
 ミュズはとにかく、ニコルがこのように面と向かって暴言を吐くなど思ってもいなかったのだろう。
 二人にとってニコルは平民でありながら容姿にも実力にも恵まれた憧れの対象であったというのに。
 貴族というお綺麗な世界で育った若騎士には、ニコルとミュズの暴言はもはや異国語だ。
「…ニコル殿…」
 止めようにも、白熱する口喧嘩に口を出そうものならどんな八つ当たりを食らうか。
 ただ口喧嘩を聞くことしか出来なかった若騎士達にとって、ふと聞こえてきた扉を叩く音は天からの救いだった。
「は、はい!」
 慌てて扉を開けたのはクレメンテで、入室してくる面々に背筋を伸ばす。
 クルーガーを先頭に、エルザ、ガウェ、パージャの順で休憩室に入れば、腕を掴み合ったままニコルとミュズの喧嘩も止まった。
「…じゃあそういう事で」
 ミュズと目が合ったパージャが、最後尾なのを良いことにスルリと逃れようとするが、ガウェが許すはずが無かった。首根っこを捕まれたパージャが、あからさまに肩をすくめる。
「パージャああぁぁぁ!!」
 そしてミュズがブワリと涙を再暴発させるのを、その細い手首を掴んだままでいたニコルがドン引きながら見やった。
「…まあ」
 腕を掴んだままでいることにニコルが気付いたのは、エルザの冷めた声が聞こえてきた時だ。
「エルザ様!!これはその…」
 慌てて腕を離すが、何故かミュズはこれ幸いとばかりにニコルの胸元に殴りかかる。
「やっぱりパージャいたじゃない!!この大嘘つき!!最低男!!非モテ!!でくのぼう!!頭悪いんじゃないの!?」
「いてっ、だから知らねーって言ってんだろ!誰だよこいつ!見たことねぇよ!!」
 エルザの存在に何とか取り繕おうとするが、ミュズからの悪口は再びニコルを素の姿に戻した。
 パージャという男など知らないし、ガウェに掴まれた男に見覚えも無い。
 顔面にパンチを繰り出そうとしているミュズの腕を再々度止めながら、説明を求めるようにクルーガーの方を見た。
「…お前の後輩だ」
「ハジメマシテー」
 すると珍しくもガウェが余計に混乱するような説明をしてくれて、パージャが逃亡を諦めた様子で棒読みの挨拶を投げ寄越した。
「…場所を変えるぞ」
 唖然としたまま開いた口が塞がらないニコルに、ようやくクルーガーが打開の為に動き出してくれた。

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「…ではでは改めまして、うちのミュズがゴメイワクおかけしました。まさかお姫様を巻き込むとは思わず」
 場所を正門の休憩室から上階の控え室に移動し、パージャはエルザに向けて頭を下げた。ついでにミュズの頭を押さえ込んで無理矢理下げさせる。
 ニコルへの謝罪は無いらしい。
「私の事は気になさらないで。ミュズさんのお話しを聞いてあげてください」
「あ、そう?じゃあミュズ、何しに来たの?」
 その変わり身の早さに、エルザ以外の男達が唖然とした。
 エルザは良くいえば穏やか、悪くいえばボケッとしているので、パージャの変わり身にもニコニコと笑うだけだ。
 ニコル、ガウェ、クルーガーの三人はこの有り得ない行動ばかりやらかす男に呆れっぱなしだが。
 パージャはミュズに身体を向けているが、ミュズはひたすら俯いたままだ。
「…たの」
 ようやく口を開いたかと思えば、口内にこもってしまい何を喋っているのかわからない。
「え?何」
「連れ戻しに来たの!!なんでパージャが王城で働く騎士になるの!?」
 情緒不安定な様子で、突然声を荒らげて。
 皆が驚きながらミュズを見守るが、パージャは慣れたものだった。
「そりゃ俺に天才的な才能があるからでしょ」
「はぐらかさないで!!なんでパージャなの!?なんでエル・フェアリアなんかの--」
「ミュズ!」
「っ……」
 ニコルとの時のように始まりそうになる口喧嘩だが、パージャのやや大きめの声にビクリと身体をすくませて、再び口を閉じた。
 どこか含みのある発言だったが、ニコル達が首をかしげるより先にクルーガーがミュズに話しかける。
「…お嬢さん。彼を王城騎士に任命したのは私です」
 低い声だが、わかりやすいよう全て伝えるような丁寧な声だった。
「彼は剣術も魔力も、素晴らしい素質を持っている。私はそういった力のある者に是非この国の中核を護衛してもらいたいと願っているのです」
「でもパージャは」
「平民だろうと貴族だろうと関係ありません。彼の能力を最も活用できる場に、ここ以上は無いでしょう」
「ちが…」
 穏やかに話されたミュズは、先ほどニコルに喰ってかかった時とは比べようもないほどにしおらしくしている。それでも言いたい所はあるらしく身体を前へ傾かせたミュズを止めたのはパージャだった。
「あのー、よかったら二人だけで話していいですか?説得して帰らせるんで」
「パージャ!!」
 パージャの言葉遣いに瞬時に激昂して向き直ろうとするミュズだが、肩を強く押さえられたらしく立ち上がることも叶わない様子だ。
「…ゆっくり話しなさい」
「すんません。あ、ミュズ、お姫様にはちゃんと謝っときなって」
 どこまでもニコルに謝罪は必要無いらしい。
「私は構いませんよ」
「いえいえ、大事大事。ほら、ミュズ」
 促されて渋々頭を下げるミュズの目は不貞腐れて謝罪の色など見せてはいない。
「…ごめんなさい」
「気になさらないで」
 たったひと言の心のこもらない謝罪を快く受け入れたエルザを促しながら、ニコル達は二人を残し控え室の外に出た。
「…お見苦しい所をお見せしました。申し訳ございません」
 控え室の扉を閉めてすぐに、ニコルはエルザに頭を下げた。見苦しいとはつまり、先ほどの大喧嘩の件で。
「ニコルったら。でもニコルの御家族の一大事ではなくてよかったです」
 エルザはどこまでも優しいままで慈愛に満ちた姫と愛される所以を存分に見せてくれるが、ニコルには恥ずかしいかぎりだった。
「…まんまとガウェに騙されましたよ」
 照れ隠しの為にガウェを睨めば、ガウェもすぐに睨み返してくる。
「…私もあんなものが新しく入団しているなど知らなかったもので。この時期に…」
「その件は私の不備だ。すまなかった」
「いえ!」
 だがニコルを睨み返しつつガウェが責めているのは団長であるクルーガーで、ニコルは慌てて団長の謝罪を止めに入った。
「それで、彼も私と同じ平民からの入団になるんですね?」
「ああ。最近まで王都兵として働いていたようだが、魔力を持っていると聞いてな。会いに行ってみれば、懐かしい…」
「…懐かしい?」
「…いや…お前を初めて見つけた時のような喜びに満ちたのだよ。平民でありながら騎士に必要な要素である魔力を持つのだからな」
 そんなふうに言われて照れずにはいられなかった。少し熱くなった顔を隠すように視線を落とし、ニコルは騎士団にとって重要な会議について訊ねる。
「…それにしても、急すぎませんか?…明日は」
 ニコルの騎士団入りには二年かかったというのに。
「私も少し迷ったが…ファントムの件も考えて、すぐに使える戦力が欲しかったのだ。本音を言えば剣術や武術は並より少し上程度だが…魔力量ならニコル、お前を軽く越えている」
 それは驚くべき事実になるが、ニコルには少しもやりと心を雲が覆うような気分になった。
 まるで自分よりパージャの方が必要だと言われたような気がして。
「どちらかといえば魔術師団寄りだが…有能な平民を入れて騎士達に危機感を持たせて士気を上げたいというのも理由のひとつだ」
「それだと逆効果になる者ばかりだと思うのですが…」
「その程度の者なら王城騎士には必要無い。今の騎士達には目に見えて怠惰な者が多い…私を買収しようとする者さえいるのだからな。それを改善する為にも、彼のような存在は今すぐにでも必要だ」
 クルーガーの考えはもっともなようで、だがかつての自分を思い返せば納得のいかない部分が多い。その感情を見せられるほどクルーガーに当時を話したことは無いが。
 有能な平民を入れれば危機感を持つはずなら、ニコルの時はどうだったというのだ。
「…では、私は具体的に何をすればよいのでしょうか?」
「それは明日の全体会議で発表する。今日はパージャという存在を知っておいてほしかっただけだからな。…だがちょうどいい機会だ。今日の所は彼に兵舎と王城の案内、あと必要な物を渡しておいてほしい。部屋も空いている所に放り込めばいい。エルザ様の護衛時間が終わってからになるが」
「でしたら私もニコル達と一緒に案内に同行しますわ!」
 任務というよりも簡単な頼まれ事に、エルザが興奮しながら右手を高く上げた。
「それなら遅くなることもないですし、兵舎をじっくり見てみたかったのです!!」
「…エルザ様」
 他意の無い純粋な興味だろうが、女の子が面白いと思える要素は見当たらない。
「何も楽しい物は無いですよ?」
「それは行ってみないとわかりませんわ!!お願いします!!皆さんの邪魔にはなりませんから!!」
 皆さんと言いつつも懇願相手はクルーガーで、こういう所では誰に願い出れば希望が叶うかをきちんと熟知しているのだ。
「エルザ様が望まれるなら」
「ありがとうございます!」
 案の定、クルーガーはエルザのお願いを聞き入れてしまった。
「…本当につまらない所ですよ?」
「ずっと気になっていたのですよ!ニコルも兵舎外周にいらしたのでしょう?」
「…ええ。王族付きになる前は」
 一応念を押すニコルだが、エルザの興奮は冷めない。
「--ガウェ、逃げるなよ」
「……」
 エルザが飛び跳ねそうな勢いで嬉しそうに笑う後ろで、クルーガーが釘を指すようにボソリと告げた。

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 ニコル達と別れて長い渡り廊下を進む。
 パージャの件があったので正門まで訪れたが、今のクルーガーは本来それどころではないほど忙しい身なのだ。
 明日の用意もあるのだから。
「--待て」
 誰とは言わないが、声の主が呼び止めたのは自分しかいない。
 足を止めて振り返るクルーガーが見たものは、今にも殺しかかってきそうなガウェの姿だった。
「…何だ」
「何を隠してる?」
 呼び止めておきながら、訊ねてくる。
 何に対してかは言わずとも知れたが、ガウェは歩み寄りながら胸の内を吐いた。
「平民の入団、あまりにも急すぎる。ニコルの入団時には貴族達を頷かせるのに二年かかったはずだ。それを、まさか明日の会議の場で発表するつもりか?貴族主義共が黙っていないだろう」
「……」
「答えろ」
 ガウェの言葉遣いは団長相手にに語るものではない。しかし咎めはしなかった。
 咎めるには、クルーガーはガウェに負い目がありすぎる。
「…ニコルを失わない為だ」
 ただそれだけを言えば、訳がわからないと言うようにガウェの眉間の皺が深くなる。
「お前とお前の父親の確執がニコルに向かっている。ヴェルドゥーラ氏は唯一の息子が自分の言うことを聞かないのは、平民から悪影響を受けているからだと本気で思っているようだからな」
 そこまで言われて、ようやくガウェも気付いたようだ。ニコルを取り巻く不穏な空気に。
「パージャにはその事を伝えている。お前はパージャと共に、ヴェルドゥーラ氏の密命を承けた王城騎士、侍女を探し出すんだ」
「…俺がお前の言うことを聞くとでも?」
「多くの事には目を伏せてきた。今後もそうだろう。しかしこればかりは聞いてもらう。おまえの家の問題だからだ」
 ヴェルドゥーラ家はエル・フェアリア王家でも顔色を伺うほどの力を持った最上位貴族だ。ヴェルドゥーラが傾けば、国の半分は機能を失う。
 それほどの家の“親子喧嘩”に巻き込まれるなど、誰でも御免だ。
 そしてニコルの現状は目に見えて良くない。
「家の問題、か。…俺は今すぐにでもお前を殺す事が出来るし、その正当な理由もある。家の力を使えば俺がお前を殺しても不問に終わるだろう」
 それを払い除けるように鼻で笑ったガウェを、クルーガーはただ静かな瞳で見つめて。
「だがお前はそれをせん。…もう以前とは違う。月日が経ち、大切な物が新たに増えたはずだ」
「煩い!!お前が語るな!!私の大切なものを奪ったお前が!!」
 激昂は一瞬にして顔を見せた。
 深い憎しみを含んだ殺意がクルーガーを激しく包み込み、それをただ甘んじて受け入れる。
「覚悟しておけ…どんな理由であれ、お前は大罪人…私は必ずお前を殺す…罪を償わせてやる」
 これ以上この場に居たくないと言うように、ガウェは踵を返して去っていく。
 かつて、クルーガーはガウェの大切なものを奪った。
 まだ甘えの残る悪戯好きの生意気な若者は、その日を境に性格を一変させたのだ。
「…お前はいつまで縛られるつもりなのだ…これでは」
 呟きは最後まで続かなかった。
「--!!」
 視界の端に、いるはずのない姫が映る。
「…オデット様…」
 だがそれは単なる見間違いで、よくよく目を凝らせば、兵舎内周近くの噴水で末の第七姫オデットが騎士を巻き込んで無邪気に遊んでいるだけだった。
 大好きな姉姫を真似た髪型が、クルーガーに幻を見せたのだろう。
 そのオデット姫が、クルーガーの存在に気付いて逃げるようにその場を去り、オデット付きの騎士達が慌てながら後を追いかけていく。
「……」
 眺めることしか出来ないのは、離れた場所だからではない。
 クルーガーは、愛らしい末姫からも、大切なものを奪ったのだから。

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