第26話
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ガウェが書物庫に一人で訪れた時、その中のテーブルのひとつを全面使うフェントがパージャと共に古代文字の解読作業を行っている様子を見ることが出来た。
パージャ。謎ばかりの男。
平民出のはずなのに、貴族にすら難解な他国の古代文字をすらすらと読み解いていく。
それだけではない。
ガウェは一度、パージャを刺し貫いた。
その首に、脅しと殺意をもって剣の先を突き立てたのだ。だというのにパージャは。
自ら進んで剣を首に飲み込ませながらガウェに向かって進み、あろうことか完全に貫通した剣を、パージャは首に刺さったまま横になぎ払った。
肉を切り進む感触は今でも手のひらに残っている。なのに、死ぬはずのパージャは傷ひとつ無い。
血飛沫はその体に戻り、傷口は再生して。
有り得ない。
だが現実に。
「ここは?」
「あー、ごめんごめん、飛ばしてた。えっと…」
フェントはガウェに気付いていないのか、真剣にユナディクスの文献にのみ視界を使っている。パージャはちらりとこちらを見たが、フェントを優先した。少し前まで逃げ続けていたというのに、どういう風の吹き回しだろうか。
真面目に紳士に。それはおよそパージャには似合わない代物だ。
「ガウェ殿。どうされました?」
しばらく様子を眺めていれば、フェントの王族付きである騎士が静かに近づいてきてガウェに話しかけてきた。
先輩騎士はフェントのいる手前穏やかな様子ではいるが、ニコル同様に訓練では人が変わる男だ。
「エルザ様が人体組織の教本を読まれたいと」
「治癒魔術の勉強ですね」
「はい」
書物庫を訪れた理由を告げれば、ああ、とすぐに納得される。
エルザが治癒魔術の勉強を隠さなくなってから、周りの反応の多くは見守る目へと変わっていった。
それまでは決まらない嫁ぎ先の件などで気を揉む者が多かったが、治癒魔術師となる道を選ぶなら、他国に遠慮する必要など無くなる。
中規模を誇る国などは未だにエルザの獲得に動いているが、エルザが決めた道をコウェルズが正式に認めたのにそれを阻むなど、大国ラムタルでなければ不可能だろう。
前黄都領主バルナが今まで動いてエルザへの求婚を潰してきたのも、今となってはまあプラスだ。
父はガウェとエルザを結婚させる為に動いていただけだが、ガウェもエルザも結託していたのでそんなことになるはずもなかった。
そもそもガウェは、まだ結婚など考えてはいない。次代を作る必要はあるが、まだ存在しない妻や子供を愛せる自信もないし、今のままでは子供を作れない理由がある。
考えていることは、優秀な子供を引き取って跡取りとして育てることだが、それも立場上難しいだろう。
それに問題は他にもあった。
とある娘との縁談を持ちかけてくる者がいる。
娘は美しかった。そして内面も申し分ない。だが、娘はそのことを知らない。
ガウェ自身も親友の妹であるその娘なら大切に出来るだろうとは考えたが、愛せるかとなれば話は別だ。その娘は、心から理解して愛してくれる男と共になるべきだ、と。
ガウェの心は未だにただ一人に向けられているのだから。
エルザに頼まれた書物を探しながら、幼くして死んでしまった愛しい姫を思う。
第四姫リーン。
彼女への思いが尽きない。
それでも前に進むと決めてからは、幾分かリーンを思い起こす機会が減っていた気がする。
それはまるでリーンへの裏切り行為のようにも思えた。だが違うのだと自分に言い聞かせる。
リーンの為に前に進むのだ。
リーンの為に。
リーンの元に向かう為に--
「……」
書物を探していた手が、ふと止まる。
「…どうされました?」
問いかけてきたのは先輩騎士だ。
ガウェの隣で書物を探す様子を眺めていたらしいが、ガウェが手を止めた事に気付いて首をかしげている。
「…確かここに探している書物があったはずですが」
書物の置場所ならほとんど覚えている。何度となくエルザの代わりに本を見つけてきたのだから。だというのに、探していた本が見つからない。わずかに開いた空間を見れば、誰かが抜き取った様子ではあるが、わざわざ持ち出すような書物ではないはずだ。
先輩騎士と同じように首をかしげたガウェに、ふとパージャが思い出したように話しかけてきた。
「あー、何か昨日、知らない兄ちゃんがその辺りの本何冊か持ってったよ」
距離があるので大きめの声で。
ちらりと視線をパージャに向ければ、フェントもガウェの方をじっと見ていて目があった。
「人体に関する本を持ち出す者がいるとは…珍しいですね」
隣で先輩騎士が少し驚きながら呟く。
ガウェが探していた書物は、人体組織や筋肉、神経などのパーツをそれぞれ書き出した、端から見れば薄気味悪い医療書だ。
「二階のバオル国の棚に同じ本がありますわ。エルザお姉様ならバオル国の文字を読めますし、そちらではどうですか?」
ガウェが探そうとしていた書物を遠い位置から察したらしいフェントが、同じ書物のありかを教えてくれる。
目が悪いはずだが、と思ってしまうが、フェントなら記憶力だけでカバーしていることだろう。
「ありがとうございます。そちらを持っていきます」
「お役に立てて光栄ですわ」
頭を下げれば、フェントは少し嬉しそうにはにかんだ微笑みを見せてくれる。エルザの役に立てることが嬉しいのだ。
健気で可愛らしいフェント姫。その様子を護衛の騎士が見悶えながら見守るが。
「すっげ。本のことなら何でもお見通しだね。ほんと良い子だねー」
その隣で遠慮もなくフェントの頭を撫でたパージャに固まっている。
「きゃ、や、やめなさいと前にも言ったでしょう!」
「いやー、お姫様の頭なでなでした時の他の騎士さん達の殺気が気持ちよくて」
「変態みたいですわよ!」
どうやらわざとフェントの頭を撫でたらしい。そしてパージャの言う通り、その様子を目の当たりにした騎士が怒りを募らせるように殺気立っていく。
面倒事に巻き込まれる前に書物を持って出ていこう。そう決めて素早く動こうとするガウェだったが、わずかに動くのが遅かったらしい。
「…ガウェ殿、彼どうにかなりませんか…」
怒りの矛先を向けられて、さすがにガウェもムッとするが。
「なぜ私に…」
「飼い主でしょう」
さらりと告げられて否定できなかったのは、名目上パージャはガウェの部下に当たるからだった。
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魔力増幅装置の食い込む左手の薬指を撫でながら、コウェルズはちらりと隣を歩く娘に目を移した。
現在のエル・フェアリア唯一の治癒魔術師であるアリアは、今から向かう場所に緊張している様子だ。
コウェルズを中心にアリアの対側にいるのは王族付きを束ねるアドルフで、こちらは昨日から機嫌が悪い。理由はコウェルズの勝手な行動だ。
コウェルズが幼い頃からずっと我が儘に振り回し続けてきたので慣れていると思っていたが、魔力増幅装置の件には怒りがおさまらないらしい。
正直な話、ここまで誰からも賛同を得られないとは思わなかった。
命の危険を伴う禁忌の宝具を自分に使用すると言えば皆から反対されるだろうと踏んで黙って押し通したが、先に手に入れてしまえば、後は周りは仕方無いなぁ程度におさまるものだと考えていたのだ。
コウェルズの我が儘やイタズラに付き合わされてきた者達だから、頭の中に甘えが出たのだろう。まさかどこに行っても怒られることになるとは。
苦笑どころかため息も出てこない。ため息をつこうものなら「こちらの反応だ」とさらに怒りを買うからだ。
それほど心配してもらえることを有り難いと思うべきなのだろうが、少しはコウェルズの考えを汲んでくれていいのではとも思う。
格好つけたくて魔力増幅装置を手中に入れたわけではない。コウェルズなりに考えての結果なのだから。
どう考えたって、この装置を最も上手く操れるのはエル・フェアリアではコウェルズなのだ。
ニコル達アリアの護衛部隊も数歩離れてコウェルズ達の後に続くが、これから行う術式にわずかに表情を固くしている。
一番緊張しているのはやはりアリアだが。
「緊張しなくて大丈夫だよ。一応近くにいてほしいだけだから。たぶん怪我なんて誰もしないよ」
「は、はい…」
アリアの緊張をほぐすというよりも、このいたたまれない雰囲気を打開したくてアリアに話しかける。術式にアリアは必要はない。ただ万が一に備えて待機しておいてほしいだけなのだ。
今からコレーの魂を呼び戻すのだから。なのに。
「怪我しなくても、指輪を使いすぎて死んだら意味が無いんですよ」
背中を向けたというのに、アドルフが怒りもそのままにコウェルズの勝手をつついてくる。
昨日からずっとだ。そしてそれはアドルフだけでなく、コウェルズ付き全員に言えることだった。
さらに言ってしまえば、王族付き全員がコウェルズに小言を言ってくる。怒りながら、微笑みながら。
一番容赦が無いのはミモザの騎士達だ。
コウェルズの知らぬ場所でミモザが泣いたとしか思えない。そうでなければミモザの騎士全員から姑の小言じみた嫌味を連発されるはずがない。
ミモザは根から気高いのだから、本当にたまに見せる涙の破壊力を知っておくべきだ。王族付き達は皆、自分が守る対象には砂糖菓子以上に甘いのだから。
コウェルズ自身も騎士達とあまり距離を作りたくないとは思っていたが、どうやら近すぎたか。
「大丈夫なのに。みんな昨日から冷たいなぁ…」
「当然でしょうが!」
ぼそりと呟けば、聞こえていたらしく噛みつかれた。地獄耳め。
「昨日も言ったけど…君達が魔力増幅装置をつけるのと私がつけるのじゃ訳が違うんだよ」
「まったく…だからといって素直に頷けるはずもないでしょう。場合によっては二番手の存在の方が全体を通して上手く回せる事もあるんです。あなたが上手く装置を使おうが、周りがここまで困惑するようじゃ意味がないんですよ」
「そこは私を信じてくれたら済むことじゃないか」
「信じるだけで上手くいく世界なんてあるはずないでしょう!」
コウェルズがまだ若いのか、周りの頭が固いのか。恐らく前者の方が強い。だがコウェルズだって、思うところがあるからこそこの結果に行き着いたのだ。譲れない思いはコウェルズも変わらない。
「…コウェルズ様が使うのと、他の人が使うのって、どう訳が違うんですか?」
そこにアリアが申し訳なさそうに訊ねてくる。
口喧嘩のゴングが鳴る前に止めたかったのか本当に気になったから問うてきたのかはわからないが、ひとまずアドルフとの軽い口論は休止出来るので感謝だ。
「騎士達や魔術師達なら国の為に死ねるけど、私は国の為にも死ねないからね。私が生きていることが、エル・フェアリアにとって一番幸福な未来に繋がる。だから死ねない。死ねないから、私が使うんだよ」
昨日から何度も説明してきた言葉だ。
エル・フェアリアの優秀な騎士や魔術師達とコウェルズの決定的な違い。
彼らは国の為に命を投げ出せる。命じずとも、それで国が守られるなら喜んで命を冥府に差し出すような奴らばかりだ。
だがコウェルズは違う。エル・フェアリアにとって唯一の王子だ。何があろうが、次代を生み育てるまでは死ねない。
国の為に、コウェルズは死ぬことを許されないのだ。
だからこそコウェルズが魔力増幅装置を手にした。
死んで構わない者などコウェルズが認める者達の中にはいない。老い先短かろうが、リナト魔術師団長もまだまだ必要な男だ。
そんな優秀な者達に、命を捨てろと暗に告げるような宝具を使わせたくはなかった。
命を捨てさせる為に使う宝具ではない。命を守る為に使う宝具であるべきだから。
「…でも何かあったら」
アリアがコウェルズの思いをどこまで納得してくれたかはわからないから、その言葉は優しくコウェルズに突き刺さる。
万が一。もし。何かあったら。
そんな未来の話をされたって、コウェルズには信じてくれとしか言えないのに。
「…サリアの対の指輪は想定外だったよ。おかげで無闇に使えなくなってしまった」
「当たり前でしょうが!!」
何だか悔しくなって、わざと挑発するような言葉を口にする。そうすれば乗ってくるのはやはりアドルフだ。
「あははは」
「笑ってる場合ですか!!」
わざとらしく笑えば、また怒られてしまった。
「まあまあ落ち着いて。今から大事な術式を組むんだから」
そうしてようやく辿り着く天空塔に、アリアが緊張をさらに強くしてしまう。
アリアの出番は恐らくないはずだ。だが側にいる以上は気を抜けないのは当然だ。
クレア達のいる広間の扉の前で、コウェルズは治癒魔術師護衛部隊の隊長であるモーティシアを呼ぶ。アリアと護衛部隊は待機だが、何かあれば呼ばずとも来るようにと命じる。
モーティシアは切れ者なのでわざわざ言う必要も無いが、名目上というやつか。
始終穏やかな微笑みを絶やさない彼は、周りには気付かれないように別の任務を受けている。それを命じたのはコウェルズだが、上手くいかなくても構わないとは告げているが、どう動く事か。
アリア達と離れて、アドルフを連れて広間に入る。予め向かうことを告げていたので、既に準備は済んでいた。
円形に広がる魔術師達。壁際にはクレアとコレーの騎士達が見守り、中央にはコレーを抱いたクレアが口元を尖らせながらコウェルズを睨み付けている。
「兄様…」
「やあ。コレーは変わりないかい?」
さらりと流すように、クレアではなく眠り続けるコレーに目を向けて。
だがクレアは、触るなと言わんばかりにコレーを抱き寄せて、コウェルズの伸ばした手をペチ、と軽くひっぱたいた。
「…クレアも私に怒ってる」
「当然でしょ」
勝手なことをして、と。
「いろんな人達から怒られてると思うけど…私も怒るからね」
「ごめんね、心配かけて」
皆の怒りは、もはや甘んじて受ける以外には許されないのだろう。
苦笑しながらも謝れば、クレアはようやく許してくれるかのように抱いたコレーをコウェルズに見せてくれた。
眠り姫と化した小さな妹。
そっと額に手を添えれば、その魂に触れられないことに気付く。魂が抜けたわけではない。深い深い意識の底に潜ってしまっているのだ。
過去にも一度だけあった。
あれは確か、母が亡くなった四年前だ。
「…リナト」
「用意は出来ています」
円形に広がる魔術師団の陣とはわずかに外れた場所にいる魔術師団長リナトに訊ねれば、すぐに答えは返ってきた。
用意の早い。流石だ。
「…何をするの?」
「コレーの心に接触して、意識を無理矢理戻すんだ」
四年前、クレアはあの場にはいなかった。だから今からコウェルズが何をするのかわからないのだろう。簡単に説明をすれば、あまり理解できていないように首をかしげた。
「…でも」
「指輪があれば余裕」
さらりと魔力増幅装置を見せれば、クレアの眉根がわずかに寄る。
装置を使うのかと言いたげだが、既に装置はコウェルズの体の一部と化しているので、装置を使用せずに魔力を操作するなど不可能だ。
「昔は私も命懸けで取り組んだけど…今は当時より魔力を操れるようになったし、それに魔力増幅装置もある。何とかなるだろう」
四年前はコレーの魂を呼び戻すのに命からがらだった。今はその当時よりも劣っているつもりはない。
「クレアはコレーを抱きしめていて」
「…兄様」
「大丈夫だよ。魔力が空になるほど使うつもりは無いから。前に同じことをやって成功してるからね」
心配そうに声を震わせるクレアの頭を撫でて、信じてほしいと願う。無理な願いではないはずだ。辛くも一度は成功しているのだから。
「…はい」
頷いてくれるクレアに微笑みを返して、ちらりと背後のリナトに目を向ける。
「じゃあ、早速だけど…行くよ--」
合図を送れば、円に広がる魔術師達の魔力が淡く広がり、静かにリナトに注がれる。そしてリナトという媒介を通して、彼らの魔力はコウェルズに。
以前クレアがコレーの錯乱を止める為に行った方法と似ているが、唯一違うのは、魔術師達の魔力はコウェルズの一部になる訳ではないという事だ。
魔術師達の魔力を身に受けて、コウェルズはコレーの額に手を添える。
「--…」
そして静かに、深い意識の底に降りていった。
コウェルズの精神が身体から離れて落ちていく感覚。
両腕には魔術師達の魔力が力強いロープのように絡まり、コウェルズの命綱となる。
深い意識の闇の世界は底に向かう度に冷たくなっていく。
かつて味わった冷気。だが魔力増幅装置のお陰か、身体は震えない。
闇の世界は星空を眺めるように神秘的な場所だった。
コレーの記憶が輝いてキラキラと瞬く。
懐かしい光景もいくつか見られた。まだ若い自分と妹達。
騎士団や魔術師団のメンバー。
生きている母に、政務に励む父。
楽しいものばかりではなく、悲しい記憶も勿論ある。
コレーが妹である以上、コウェルズにとってその記憶は他人事と割り切るには辛すぎた。
コウェルズもそれなりに生きた。いくつもの別れも経験した。
それを、コレーの記憶が鮮明に思い出させる。
『--おにいさま!』
ふと甘える声が響いて思わず後ろを振り向けば、闇の中から5歳くらいの幼いコレーが満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。
抱きつきそうな勢いに無意識に腰を屈めて腕を広げたが、幼いコレーはするりと霞のようにコウェルズを通り抜けてしまった。
通り抜けたコレーを目で追えば、コレーと同じく若いコウェルズが優しく腕を開いてコレーを抱き上げる。
ここはコレーの記憶の中なのだから、現在のコウェルズが過去のコレーに接触できるはずなんてないのに。
わかっていたはずなのに思わず手を広げてしまった事実に、少しだけ寂しく笑った。
なおもコレーの意識を下りながら、コウェルズはそっと魔力増幅装置を見る。
--…やはり魔力増幅装置は凄いな…抵抗を感じない…
コレーの意識世界ではコウェルズはイレギュラーの存在だ。
四年前はそのせいで何度もコレーの中から弾かれそうになって、結果的には成功だろうがコウェルズも命の危機を感じた。
コレーの精神世界はまだ深い。だがこれなら大丈夫そうだ。
気は抜かないが、心のゆとりは視野を広げてくれる。
『--スカイ!抱っこ!』
またも聞こえてきたコレーの言葉に、今度は横に目を向ける。目を凝らせば、今の年齢に近いコレーが騎士のスカイに抱っこをねだっていた。
コウェルズや他の騎士達には見せない、わずかに頬を赤らめたコレーの笑顔が、その思いを知らしめてくる。
…まったく。
エルザだけでなく、コレーまでもが。
恋をするのは仕方無いが、エルザと違いコレーには婚約者がいるのだ。
このまま成長してしまったら、間違いなくコレーは泣くのだろう。
その前にスカイへの恋が終わればいいのだが。
エルザは幸いなことに婚約者がおらず、思い人であるニコルも魔力の質量などから見ても是非婚姻関係になってエル・フェアリアの次代の為に貢献してほしいものだが、コレーはそうはいかない。
いっそスカイが誰か適当な女を娶ってくれれば有り難いのだが、過去の恋人を未だに引きずるのだから人とは不思議な生き物だ。
愛だの恋だの、エル・フェアリアを優先するコウェルズには正直な話、よくわからない。
かつてアドルフには、エル・フェアリアを捨てても構わないと思えるほどの女性に出会ったらどうするかと訊ねられた事がある。
コウェルズには答えがわからなかった。
それ以前に、エル・フェアリアを捨てなければ手に入らないような女に手を伸ばすはずがないだろうと。
首をかしげつつ答えれば、アドルフを含めた既婚者の男達には笑われてしまった。
--女はいいもんですよ
そう告げるアドルフに、皆が一斉に頷いて。
--守りぬきたいと思えるほどの女に出会えたら、これほど幸せなことは無いですよ。そこまで思わせてくれる女は、どんな駄目男でも良い男に変えちまいますからね
本来男なら誰でも持つ“男”としての力を引き出してくれる。
そんな女に出会えたら。
出会ってしまったら。
そして彼女を手に入れる為には、エル・フェアリアを捨てなければならないとしたら。
どうする?
--愚問だろう。
そう切り捨てる。
エル・フェアリアを捨てるという選択肢を選ばせる時点で、そんな女はお断りだ。
それにコウェルズには、エル・フェアリアを思ってくれる女がいるのだから。
サリア・イリュエノッド。
出会いの過程はどうであれ、サリアが手に入ることはエル・フェアリアにとって非常に好ましいはずだ。
魔力は少ないが、彼女の精神の強さはどんな屈強な男でも舌を巻くだろう。それに何より健康な身体を持っている。
夫婦関係は、これから築き上げていけばいいだけの話だ。
--いた…
もはや一切の記憶の光も存在しない闇の中、ようやく辿り着いた意識の底をしばらく歩いたコウェルズは、何かを抱き締めて眠るコレーを見つけて思わず笑ってしまった。
いつもは甘えたで抱っこされたがるコレーが、何かを守るように大切に抱き締めるなど。
そっと近付いて、片膝をつく。
頭を撫でるように額に触れれば、わずかにだがコレーは幼子のようにぐずった。
可愛い妹。怖い思いをさせてごめんね。
--さあ、起きる時間だよ…
コレーを抱き上げて、戻る為に魔術師達の魔力のロープを伝おうとして。
コレーが抱き締めた何かが、バチンと弾けてコウェルズの眼前でキラキラと散らばった。
--これは!?
飛び散るのは記憶の欠片だ。だがそれはコレーの記憶ではない。
誰だ?誰の--
その記憶の持ち主が、何者かに突き落とされて、奈落に落ちていく。
手を伸ばす記憶の持ち主。しかし救いが訪れない。
--何だこれは?
何故コレーの中に、他者の記憶がある?
何故それを、コレーが大切に抱き締める?
--お前は!!
見知った男。
それが“彼女”を奈落に落とした。