第23話


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 耳から離れない言葉がある。
 「ごめん」
 アリアを見ながら、彼は謝罪した。
 「ごめん」
 アリアの目の前で、背の低い可愛らしい女性を抱き締めながら。
 「愛してない」
 抱き締めた女性を心から愛しみながら。
 「愛したことなんてない」
 アリアと過ごした六年間を否定した。
 「全部」
 何もかもが。
 「全部嘘だった」
 紛い物の愛だったと。

「--っ…」
 目覚めたアリアは、あまりの恐怖に上体を飛び起こさせた。
 全身に冷や汗が浮かび、血の気が引いて目眩を起こす。
 なんて嫌な夢を見たのだろう。思い出したくもない過去の夢。きっと二度も続けて告白なんてされたからだ。
 涙がぽろぽろと溢れてしまい、拭おうと頬に当てた手が小刻みに震えていた。
 彼は去っていったのだ。アリアを棄てて、他の女性の手を取って。それだけでは飽き足らず、アリアと過ごした時間全てを否定して。
 結婚しようと言ってくれたその口で、完膚なきまでにアリアの心を打ちのめした。だというのに、アリアの心にはまだ彼がいる。
 ベッドを起き上がれば、向かいのベッドでニコルが静かに眠っていた。
 窓の向こうはまだ暗く、あまり時間が経っていないことを知らせてくれる。
 騎士のくれた小さな可愛らしい花束は机の上で水の入ったコップにぞんざいに入れられており、兄らしい不器用な様子に思わず笑ってしまう。
 大切な兄さん。
 でも、本当は血は繋がっていない。
 きっとニコルはそのことをまだ知らない。アリアが教えられたのは、父の今際の時だ。
 異父兄妹ではなく、ニコルは母も別にいる。
 その事実を伝えるのはアリアの役目ではないと思っている。
 ととさん。
 ニコルの実父。
 何でも知っている不思議な彼は、今ごろどこで何をしているのだろうか。
 アリアを大切な娘だと言ってくれた優しい人。
「…?」
 ふと扉の向こうで女の子の小さな話し声が聞こえて、アリアはわずかに首をかしげた。
 こんな時間に。それに兵舎は深夜帯の侍女の立ち入りを完全に禁止していると聞いたのに。
 誰だろう?不思議に思って扉を開けて廊下を覗けば、見知った侍女が三人、アリアの部屋の扉の前にいる。
 二人は初めて風呂場に向かった時にアリアに良くしてくれた少女達だった。
 ロアとケルトと名乗った二人の少女。そしてその二人に挟まれているのは。
「どうして部屋におりませんの!?」
 小声ながらも怒っているのは、アリアを目の敵にしているジュエルではないか。
「ジュエル様、落ち着いてください…」
「お倒れになったそうですし、医務室にいるのかも…」
 二人はジュエルをなだめているが、その口調は以前ジュエルを前にした時と違い穏やかなものだ。
「全く…この私がわざわざお見舞いに来てあげましたのに」
「え!?」
 ジュエルの言葉に、アリアは素で返してしまった。
 わずかに離れた場所から聞こえたアリアの驚きの声に、三人が一斉に視線を向けてくる。
「あなたどうしてそちらに--」
 とたんに大きな声を出したジュエルの口を、二人が慌てて閉ざした。
 声を出した手前アリアも戻ることが出来ずに、ちらりとニコルに視線を向けて、まだ寝ていることを確認してから廊下に出る。
「えっと…どうしたの?」
 三人の娘達に訊ねれば、一番年下であろうジュエルが口を閉ざされていた手をどかせてアリアを睨みながら突っかかってきた。
「それはこちらのセリフですわ!あなたが倒れたなんてお兄様から聞かされたのでわざわざお見舞いに来てあげれば、どうしてご自分の部屋にいませんの!?」
「--誰だぁ?」
 ジュエルが話終えると同時に別の部屋の騎士が眠たそうな声を出すので、慌ててアリアは自室の扉を開けて三人を招き入れる。アリアの部屋にジュエル達もさすがに恐々と中に入って。
「…治癒魔術師様のお部屋!」
「夢みたい!」
 明かりを灯せば、ロアとケルトは何やら嬉しそうに部屋を見回し始めた。
「えっと…適当にどうぞ?」
 侍女長達が用意してくれた部屋は大きめのソファーもあるので促せば、ジュエル達もとりあえずソファーに座って。
 窓際の椅子を持ってきて、アリアも近くに座る。
「…えっと、三人は、あたしが倒れたと思ってお見舞いに来てくれた、と?」
 先ほどのジュエルの言葉を復唱すれば、ジュエルはふん、と鼻を鳴らしながら、両隣の二人はコクコクと頷いて肯定する。
「…ありがとう。倒れたわけじゃないから平気よ?」
「本当ですか?」
「一日の予定全て返上したと聞きましたし…」
「まだ本調子じゃなかっただけよ。ごめんね、心配させて」
 五日間眠り続けていたことを理由に上げれば、三人は納得したように頷いてくれた。
「それにしても、こんな時間にお見舞いなんて」
 そして真夜中の来訪をクスクスと笑えば、なぜかジュエルが顔を一気に真っ赤に染めてしまう。
 どうしたのだろうと首をかしげれば、二人の娘が微笑みながら事情を説明してくれた。
「ジュエル様、治癒魔術師様が倒れられたと聞いて、ずっと何も手につかなかったのですよ」
「それはもう、物凄い心配っぷりでしたから、こんな時間ですが行ってみようと」
「あぁあなた達!!」
 暴露されてジュエルがさらに赤くなる。
「…あなたが?」
「文句ありますの!?」
 噛み付くように返されて、思わず少し身を引いた。
「…文句っていうか、好かれてないと思ってたから」
「………」
 出会いから今まで、お互いに良い関係は築けなかったというのに。
 以前ミシェルからはジュエルについて許してやってほしいとは言われていたが。
「…ワスドラートお兄様を癒してくださった方を邪険にするほど心の狭い人間ではありませんわ!!」
 心が狭いというか、ジュエルの場合まだ子供すぎて世界が狭いだけだろう。
 それにしても、どうやら歩み寄ろうとしてくれているらしいのだが態度がとてもわかりやすく意地っ張りだ。
「…ワスドラートさんは?」
「解毒が済みましたので、もう紫都に出発されましたわ」
 彼は無事だったのか。
「…よかった」
 安堵のため息は、無意識だった。アリアのその様子をじっと見てから、ロアとケルトは何やらジュエルを促して。
 ジュエルもジュエルで何か言いたそうにはするが、意地が邪魔するのか上手く口を開かない。
「…どうしたの?」
 訪ねてみれば、娘達がまたジュエルを促した。
「わかってますわ!」
 急かされて二人を睨み付けてから、ジュエルが改まるように背筋を伸ばす。視線は床を見ているが。
「…その…」
 いったい何がジュエルの口を頑なにしているのかはわからないが、アリアは急かすでもなく静かに待ってやった。
 やがて口を開くジュエルはどこか泣き声のようで。
「…今まで…のことを、水に流してあげますわ」
「「ジュエル様!!」」
 とたんに両隣から叱責を受けて、ジュエルはびくりと肩を跳ねさせた。
「意地悪してごめんなさい!!」
 それと同時に出てきた謝罪の言葉に、アリアはきょとんと目をわずかに見開いた。
 今、謝りはしなかったか。
 早口すぎて聞き流してしまいそうなほどに、だが確かに。
 言い切ったジュエルはグッと唇を噛んで再度俯いてから、怒らせた母親の様子を窺うように恐る恐る顔を上げてくる。
 思い出すのは、ジュエルを可愛い妹だと告げたミシェルの言葉だ。
“もしジュエルが今までの非礼を詫びれたなら、水に流してやってほしい”と。
 訪れないのではと思っていたその願いが今、目の前にあるとは。
 気付いた時には、表情がほころんでいた。
 アリアの優しく笑う様子に、ジュエルも先程よりも顔を上げる。
「じゃあ、今からは友達だね」
 すっきりとした声の調子に、二人の娘がパッと笑顔を華やかせた。よかったですね、ジュエル様、と。
 初めてアリアが彼女達を見たときとは全く異なる印象で。
 アリアの方も、ジュエルの一生懸命な様子に今までのわだかまりが完全にほどけ去ったことに気付いた。
 言葉ひとつであれほど嫌な子だと思ったのに、今はするりと受け入れられる。
 それからほんの少しではあるが、四人でたわいないような話しに花を咲かせて。
 あまり長居すれば侍女長にばれてこっぴどく叱られてしまうからと、三人が戻る時間はすぐだった。
 また来ていいですか?と訊ねられたので笑顔で了承して。
「--あ…」
 帰り際の廊下で、ふと口を開いたジュエルは先ほどアリアに謝罪をした時よりも言いにくそうな様子で、申し訳なさそうに見上げてきて。
「…どうしたの?」
 何でも聞くよ、と訊ねれば、ジュエルはちらりとニコルの部屋を眺めて。
「…お姉様が…来られましたの」
「…?」
 誰にも言わないで、とでも続けてきそうなほどの小声だった。
「私のお姉様ですわ。以前侍女として王城にいましたが、結婚して辞められましたの。ですが最近また侍女に戻られて…」
「…何かあるの?」
 続きを訊ねても、ジュエルはぐっと押し黙ってしまう。
「…ジュエル様のお姉様はガブリエル様というのですが…以前王城にいらっしゃった頃に、ニコル様と痴情の縺れがあったという噂が」
「え、何それ」
 兄に女性関係の噂があったなど初耳で、アリアは普通に驚いてしまう。しかもジュエルの姉ということは、上位貴族の娘ではないか。
「ですから…少しだけ心配でしたの。お姉様、結婚されましたのに、他の男性と出掛けられることが何度かありましたので…」
 それは浮気というものだろうかと思ったが、口にするのはやめておいた。
 コソコソと帰っていく三人を見送って、アリアは小さくため息をつく。
 アリアだって婚約者がいたのだ。ニコルに恋人がいてもおかしくないだろうが、手紙に書いてくれてもよかったのに、と。
 ニコルには黙って部屋を出てしまったので、そっとニコルの部屋に戻る。
「--遅かったな」
「わあ!?」
 眠っていると思っていたニコルに話しかけられて、アリアは口から心臓が飛び出すかと思ってしまった。
「お、起きてたの!?いつから!?」
「お前が飛び起きた時からだ」
「…最初から?」
 ということは、まさかアリアの部屋での会話も聞かれていたのかと思ったが、そこまで薄い壁ではないのでまず無いだろうと訊ねるのはやめておいた。
「大丈夫か?」
「あ、うん…平気だよ。ごめんね、いっぱい心配かけて。あたし、部屋に戻るね」
「今日はここを使えばいい」
 心配してくれている心遣いが嬉しくて、部屋に戻ろうとした足が止まる。
 気恥ずかしいが、なぜだか一緒にいたかった。
「…仲良くなったみたいだな」
「聞いてたの?…仲良くなったというか、無事和解したというか」
 ニコルのベッドに腰を下ろしながら、少し頬を赤くしながら報告すれば、ニコルの方も何故だか嬉しそうに笑っている。
「…何よ」
「いや…仲間が増えるなら良いことだ」
「…年上ぶっちゃって」
 照れ隠しでぼやけば、年上だろうがと返されてしまった。
「…あ」
 そして、ジュエルが最後に心配していた事を思い出す。
「兄さんさ…」
「ん?」
「…昔の恋人を、まだ好きだったりする?」
 痴情の縺れがあったということは恋人同士だったのだろうと思い訊ねてみるが、ニコルは首をかしげただけだった。
「さあな。こっちで誰かと付き合ったことなんてないからわからないな」
「え、無いの?」
「…悪いか」
 とたんに不機嫌になったのですぐに首を横に振った。
「…え、でも…なら、ガブリエルさんは?」
「…誰だ?」
「え!?」
 首をかしげるニコルは嘘をついているようには見えないが、ならジュエル達のあの話は何だったのだ。
「…ちなみに、告白されたことは?」
「お前な、仮にもこっちは元王族付きだぞ」
 舐めんなと憤慨する兄は、どうやら本気で侍女と恋仲になったことは無いらしく。
「じゃあ、告白してくれた子達のことは覚えてる?」
「覚えてられるか。何人いると思ってんだ。…つかお前、自分のことは泣いて話さないくせに俺には聞くのかよ」
「だって…」
 そう言われてしまうと、もうガブリエルの事を聞くわけにもいかなかった。
 いったいどんな噂が立ったというのだろうか。
「まだ遅いからもう一回寝ろ」
「…うん。ごめんね、変なこと聞いて」
「…お前と違ってこっちは適当なもんだ。気にしないさ」
 適当だなどと。ニコルに告白した子達は本気だったはずで、その言葉は少しだけ棘となって胸に刺さった。
 近いうちにまた彼女達に聞いてみようか。そんなことを考えながら、アリアはニコルの匂いのするベッドにもう一度横になった。

第23話 終
 
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