第22話
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天空塔の広間は凄惨極まりない状況に陥っていた。
凄まじい閃光が爆発音と共に全てを包み込み、誰もが目を焼かれるほどの衝撃を受けた。
実際に焼け落ちなかったのは、天空塔を訪れたクレアが咄嗟に魔力で防御壁を生み出したからだ。
閃光の衝撃が緩和されて視覚と聴覚の戻った者達が目にしたのは、へたりこんで泣きじゃくるコレーと、その下に倒れ伏すトリックの姿だった。
他にも何人もの騎士や魔術師が身体の至るところから血を垂れ流しているが、誰の目にも、この広間で最も重傷なのはトリックだと気付けただろう。
意識を失っているトリックは真っ赤に染まっていた。
人の身体のどこにそれほどの量の血が存在したのかと訊ねたくなるほどに。
トリックは最もコレーの近くにいたのだ。抱き上げるという最悪の形で。
その状態では、いくらクレアが防御壁を築こうが無意味だったろう。
あまり日に当たらないトリックの白い肌が血液を失いさらに青白くなっている。このままでは危険だと理解できない者などいない。早くアリアを呼んで治療せねば手遅れになるだろう。
だというのに、ひたすら泣きじゃくるコレーがトリックごと自分に結界を張ってしまって近付けなかった。
視界が揺らぐような結界。天空塔の蔓が心配するようにコレーに触れようとする度に、揺らぐ結界は稲妻のように接触を拒み近付けさせない。
「動ける奴らは怪我人を下がらせろ!!クレア様と魔術師の邪魔になるな!!」
強い声で指示を出すのはクレアの護衛部隊長であるエリオットだった。
今から何をするべきかを的確に予想して部下に命じ、辺りすべてに目を光らせる。これから行うことは、今はクレアにしか出来ないことなのだ。
隊長の指示に無傷の騎士達が無駄の無い動きを見せ、自分では歩けない怪我人を担ぎ上げて広間の外に出していく。
魔術師の多くは壁際にいた為に深手の者はほとんどいないが、トリックほどでないにしろコレーの近くにいたコレーの王族付き達は悲惨だった。
唯一傷が浅いのはスカイだけだ。
スカイはトリックに次いでコレーの近くにいたが、直前に天空塔の蔓に身体を拘束されており、結果として蔓に守られた事になる。
だが光と音の衝撃はもろに食らったらしく、ふらふらと足元が覚束ずに片膝をついてしまった。
「ユージーン!スカイに手を貸せ!」
自分はすぐ近くに倒れる騎士を担ぎながら、部下であり副隊長のユージーンに命じる。
無口な仲間はエリオットの命令に迅速に動き、スカイに肩を貸してすぐに広間の外へと連れて行ってしまった。
広間にいる怪我人はエリオットの担ぐ騎士で最後だ。
歯を食いしばって呻きを堪える騎士を連れて広間を出れば、後はクレア達に委ねることしか出来なかった。
治癒魔術師が天空塔に向かっていることは肩に留まる魔眼蝶経由でフレイムローズから聞かされている。
後は一刻も早くコレーをなだめ、その下に転がるトリックを回収しなければ命が危ない。
「クレア様、いつでも可能です!」
邪魔を省いた広間で、無傷の、あるいは傷が浅く治癒の必要の無い魔術師達がコレーとクレアを中心に円を描くように陣形を組む。
時は一刻を争う。
これほどの魔力の暴発をコレーが起こしたことなど今まで無かった。
そして暴発が起きた理由は…
「わかりました。いきます!」
三十名近くの魔術師達に囲まれ、クレアが一人一人を確認するように眺めてから強く頷く。
“それ”をクレアがしたことはない。だが今この場では、クレアにしか出来ない。
意志を強く持つ時間も惜しかった。
コレーの結界に阻まれるギリギリのラインまで近付いていき、深く空気を肺に送り込む。
同時に、全身に魔術師達の魔力が入り込んでくる感覚に気付いた。
送り込まれる魔力を自分のものにして、自身への結界とする。
クレアの持つ魔力と、魔術師達の魔力。それらをかき集めて、ようやくコレーの結界に対抗できる。
クレアが生み出した結界は自身を守る為ではない。コレーの結界を相殺する為だ。
冷や汗を額から流しながら、クレアはそろりと両腕を前に付き出した。
結界の膜を破るように、結界を打ち消す為に。
床に倒れているトリックは虫の息で、時間があまり無いことを告げている。
焦るな。だが急げ。
そうしなければ、エル・フェアリアは重要な戦力を失うことになる。
トリックはエル・フェアリアで唯一の魔術騎士なのだから。
かざした両手の平、クレアを包む結界がコレーの結界にぶつかり、凄まじい光と音が轟いた。
クレアの両手から全身にも稲妻が駆け巡り、吹き飛ばされそうになる。
足りないのだ。クレアと魔術師達の魔力を足してもまだコレーの魔力には。
「っく…コレー!!」
喉が潰されてしまいそうな勢いで強くコレーを呼んでも、可愛い妹は自分の殻の中でひたすら泣きじゃくり耳を貸さない。
このままでは弾かれる。
だがクレアは諦めなかった。
武術の構えをとるように両足を広く踏み締め、腰を屈めて身体を安定させて。
力任せに両手を稲妻の渦の中に突っ込んだ。
今まで受けたことのない衝撃がクレアの指先を、手のひらを、腕を潰そうとする。
「クレア様っ!!」
後ろからエリオットの叫びが聞こえた。
クレアの爪が数枚剥がれ飛んだからだ。
ゴキリと鈍い音は稲妻に消されたが、誰もが息を飲んだ様子でようやく自分の左手首が折れ曲がった事にも気付いた。
腕の血管が悲鳴を上げて千切れ、自分の血を斑点のように浴びる。
剥がれた爪の痛みも、折れた手首の痛みも、千切れた身体の痛みも感じない。それ以上の激痛が全身を苛んでいるのだから。
魔術師達からの魔力の補給は未だに続いている。そこに新たな魔力が加わった。
誰の魔力かは後ろを見ずとも知れる。
クレアは自分の王族付き達の魔力の質を覚えている。
パキリと、今度は右の小指が折れた。
あらぬ方向に曲がった手首と小指。
愛しい人に見せたら何と言われるだろうか。
「…コレー、私よ。クレアよ」
苦痛に全身が捩れてしまいそうになる。だがそれらを根性で押さえ込んで、クレアは意識できるかぎりの穏やかな声でコレーを呼んだ。
反応はない。だが諦めることも出来ない。
「もう大丈夫よ…コレー」
「……」
ぴくりとコレーの身体が反応する。
その兆候を見逃さずクレアは優しい声色を途切れさせなかった。
「怖かったね?…でももう大丈夫よ」
「…クレア…お姉さま…」
完全に反応が訪れる。
結界が弱まり稲妻が収まり始めたところで、クレアは前に踏み込んでコレーを抱き締めた。
今のコレーに自分の姿を見せてはいけない。折れた手を、血の滴る身体を見せたらまた心を閉ざしてしまう。その前に。
「怖かったね…ごめんね、一人にして…」
「…お姉さまぁ」
胸に埋めるように抱き締めて、コレーから視界を奪う。
今のコレーは、クレアの優しい温もりだけを味わっていればいいのだから。
ようやくコレーの結界が消滅し、クレアはコレーを抱き締めたままその場にへたりこんだ。
エリオットが急いでトリックを回収して広間から出ていく。
魔術師達の取りあえずの安堵のため息を耳にしながら、クレアは小指の折れた右手でコレーの頭を撫で続けた。
私にも出来た。
コレーを守ることが。
遠退こうとする意識を身体に押し留めて、クレアはコレーをひたすら慰め続けて。
まだ終わってはいないと悟った時には、何もかもが遅すぎた。
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特殊な浮遊装置で天空塔に上がったアリア、レイトル、ミシェルの三人は、通路を走った先にある広間の前に、並べられるように寝かされた騎士達の様子に息を飲んだ。
唯一壁に背中を預けて座っているのはスカイただ一人で、後は血の海だ。
アリアが何も言わずに駆け寄り、一人一人の傷を確認していく。
命の危険を伴う者はこの中にはいない。それに安堵してから止血を行い始めるアリアを確認してから、レイトルとミシェルは広間を覗き、言葉を無くした。
かつての美しい広間は瓦礫と血飛沫にまみれて汚れ、その中央には。
「…ユージーン副隊長…これは?」
何があったのか。震える声でレイトルが名前を呼んだのは、かつて自分が所属した部隊の副隊長だ。
すぐ近くにいたユージーンは言葉無く立ち尽くすレイトルとミシェルに駆け寄り、レイトルの質問には答えずに無言のままアリアを探す。
「説明は後だ。トリック隊長が危険なんだ。治癒魔術師を」
「クレア様は!?」
ユージーンの言葉を遮り、レイトルは詰め寄るように訊ね返す。
広間の中央、クレアの王族付き達や魔術師達に囲まれて確認し辛いが、クレアが血にまみれて座り込んではいないか。
レイトルが王族付きとなってから三年間守り続けてきた姫だ。
なぜ守るべきクレアが血を浴びている。
「…クレア様の傷は浅い。先にトリック隊長を治す」
冷静な声で、ユージーンは広間の隅に寝かされたトリックを指し示す。その様を見て状況を把握し動けたのはミシェルだけだった。
ミシェルは急ぎアリアの元に戻り、レイトルは動けないまま。
「優先順位を考えられるだろう。クレア様は後回しだ」
後回し、それはつまり、クレアも傷を負っているという事だろうが。
レイトルは淡々と語るユージーンを強く睨み付けて、だが睨み返されてすぐに視線を落とした。
ユージーンはいつでも冷静沈着で。任務中のセクトルをそのまま成長させたかのようなこの上官に返せる言葉などレイトルは持ち合わせてはいない。
いっときの感情に流されない判断はとても冷たく映るが、いっときの感情に流されてしまえば取り返しのつかない結末を迎えてしまう事がわからないほどレイトルも馬鹿ではない。
「…わかりました」
踵を返し、ユージーンから逃れるようにレイトルも広間を出た。
クレアがどんな状況なのか、そればかりに支配されてしまいそうになる思考を振り払ってアリアとミシェルを探す。
止血程度ならすぐに済ませられることは今までの経験で覚えている。
「--アリア!こっちもだ!」
丁度全員の止血を終えたらしいアリアが、立ち上がると同時に立ち眩みに苛まれたかのようにふらついてミシェルに抱き止められた。
アリアは昨夜も遅くまで服毒したワスドラートの治癒に力を多く使っており、どこまで保ってくれるかわからない。
急いでトリックを治さねば。
ミシェルに身体を支えられたまま、アリアがレイトルに呼ばれるがままに駆け寄ってくる。
「ミシェル殿、アリアとトリック殿を」
「ああ」
トリックの止血は二人に任せ、レイトルは広間を出て怪我人達を見ていく。
ひとまずの応急処置に怪我人達は安堵しているが、止血をされただけで剥き出しの傷口は切り傷のように生易しいものではない。血濡れていなければ肉の色が鮮やかに見えた事だろう。
「--レイトル!」
「ニコル!」
アリア一人でこなせるのか?そう脳裏によぎった時に名前を呼ばれ、レイトルは弾かれたように顔を上げた。
駆け寄るのはニコル一人だけで、それでもレイトルよりアリアの力を理解している存在の到着に胸を撫で下ろす。
「アリアは?」
「中にいる。トリック殿が危険な状況だから今はそっちに。ここにいる全員の止血は終わってるよ」
レイトルの説明に、ニコルは広間の中を覗き込むだけに留めてすぐに戻ってきた。そしてすぐ近くの騎士の傷を見て、眉根を寄せる。
「ほとんどの傷が破壊されたみたいなものだよ」
「…治癒に時間がかかるぞ。アリアが集中出来る場所に移動させよう」
「確か奥にメディウム家が使っていた寝室があるはずだ。そこに」
「ああ」
天空塔はかつてメディウムと呼ばれる治癒魔術を操る一族が住んでいた塔だ。今は誰も住まないが、塔まで変わるわけではない。
「歩ける奴らは歩かせて、動けない奴らは…」
「担架を作ろう」
今後の展開について思案するニコルに提案を出した後で、アリアが疲弊した様子で広間の扉から顔を見せてきた。
「…兄さん、レイトルさん」
「どうした」
声も弱い。トリックの治癒に多量の力を使った様子で、ニコルとレイトルは無意識に顔を見合わせてしまった。
アリア一人でどこまで出来るのか。
周りの出来るサポートなどたかが知れているというのに。
「…トリック殿は?」
黙り込むアリアに、レイトルは唯一命の危険のあるトリックに何があったのかと表情を強張らせた。
「傷はもう大丈夫。…でも血が足りないの」
重い言葉をようやく吐き出せたかのように脱力しそうになるアリアを支えながら、ニコルがもう一度中を覗き込む。
広間の中央にいるクレアや魔術師、騎士達は今もコレーを守る為に静かに力を使っている。そしてトリックにはミシェルがついているが、ミシェルの表情も険しく歪んでいた。
失った血液は戻らないと聞いている。
だがどうすればいいかなど、ニコルもレイトルも知らない。
「…一つだけ方法がある。…あたしも試したことのない方法だけど」
唯一救える方法を知るらしいアリアは不安げに眉をよせるが、今はそれに頼るしかなかった。
「何を用意すればいい!?」
ろくに説明も聞かずに、ニコルがアリアに指示を促す。
それにすがるしかないなら迷うなと強く諭されて、アリアも決心したように疲れきっていた表情を締めた。
「人を集めて」
「…人?」
アリアの言葉に、ニコルとレイトルが目を見張る。
集められるなら何でも揃えてやるつもりだったが、人とはどういう意味なのか。困惑する二人に、アリアは説明を与えてくれた。
「トリックさんの無くなった血を他の人から補充するの。母さんがくれた本に書いてあった」
「補充?」
「…そんなことが?」
「身体を繋ぎ合わせれば不可能じゃないはずなの。ただ、血には人によっていくつかの種類があるの」
アリアの説明に驚いたばかりだというのに、この上血液に種類があると聞かされて、二人とも頭が白くなりそうだった。
血とは赤いだけのものではないのか。
「トリックさんと同じ血の種類を持つ人からしか補充出来ないから、なるべく多く人を集めてほしい」
「でも…どうやって見分けるんだい?血なんてみんな同じで…」
レイトルの言葉に、ニコルも頷かないまでも同調する。
だが。
「あたしならわかる」
強い口調に、アリアを信じるしかないと直感で感じ取った。
「…俺達の血は?」
「無理」
無意識に訊ねた言葉は、あっさりと切り捨てられた。
「家族なら合う確率が高いんだけど…」
「…リナト団長か」
「団長ならミモザ様達とこっちに向かってる」
それはニコルが天空塔に向かっている途中にフレイムローズから聞かされていた情報だった。
セクトルは医師団を連れてこちらに向かっているはずで、後の三人についてはまだわからない。
「…とにかく先に場所を移動させよう。ここじゃ気が散って集中出来ない」
「ああ」
「…どこに移動するの?」
「奥に行っててくれ。天空塔で暮らしていた一族が使っていた寝室がある」
メディウム家の寝室の件を伝えれば、アリアは頷いてから通路の奥に目をやった。
「歩ける方は一緒に来てください」
アリアの指示に、固まった表情のまま静かにしていた騎士達が立ち上がる。
「あなた方はここで待っててください!後で兄達に運ばせますから!」
胴体や足をやられたものは大人しく待っているかと思ったのに立ち上がろうとするから、アリアは苛立つ叱責を飛ばす。
その声には疲労が濃く浮かんでおり、なおも言うことを聞かずに動こうとする者には同じ様に治癒を受けた魔術師達が制止してくれた。
「…血は止まっている。歩ける」
「ふざけないでください。血を止めただけでぐちゃぐちゃのまんまなんです。変な場所に神経繋げたいんですか?また血が出たり歩けなくなったりするんで静かに待っててください」
それでも言うことを聞かないものにはとどめの言葉を刺し、ようやく大人しくなった者達を見据えてからアリアは歩ける者達と奥へと向かっていった。
ニコルとレイトルもアリア達を見送ってから広間へと入り、ミシェルの元へと向かう。
相変わらずクレアとコレーの様子は掴めず、心配する分を怪我人に回すように二人は頭を振った。
応急措置を施されたトリックは今も気を失っており、その顔色は青白いままだ。
「…何とか生きている状況だ」
先に近づいたレイトルに小さく語るミシェルは自分のマントをトリックにかけて冷えていく身体を温めてくれている。
「トリック殿を奥の部屋に連れていきます。手伝ってください」
「何をすればいい?」
「…魔具で担架を。お願いできますか?」
トリックの移動手段を聞いたミシェルは一瞬怪訝そうに眉根を寄せたが、すぐに理解したように頷いた。
レイトルの魔力量では大きな魔具は作れない。だから頼んだのだと。
「レイトル、任せた。俺は三人の居場所を教えてもらう」
「わかった」
トリックの事はレイトルとミシェルに任せて、ニコルは肩に留まる魔眼蝶に目を向ける。
『--セクトルは医師団と一緒にもうすぐ到着するよ。モーティシアとアクセルには毛布を持ってきてもらってる。こっちもすぐだよ』
フレイムローズは待ってましたと言わんばかりに現状を報告してくれ、その動きの早さはありがたかった。
「トリッシュは?」
『大臣に捕まったままなんだ』
「…何で大臣に」
『ニコルがクルーガー団長に呼ばれてた時、大臣がアリアを呼び出してたんだ。トリッシュはそれを断る為に大臣に合いに行ってたんだけど、納得できないって今も…』
フレイムローズから受けた説明にニコルは盛大に舌打ちをする。こんな時にまで。
『…今までコレー様の魔力の暴発は酷い怪我人なんて出なかったから…』
「…誰か近くにいる上位貴族の騎士に頼んで引き剥がしてくれないか」
『…ガウェが政務棟にいるから頼んでみる』
「頼む。あと手の空いている騎士がいるなら来るように伝えてくれ」
『トリック殿の血のことだよね。わかった』
交信はそこで切れ、ニコルはトリックを連れて先に奥へと向かった二人の後を追おうとして、近付く足音に気付き広間の中央に目を向けた。
「…ユージーン殿」
「治癒魔術師はまだ使えるか?」
アリアを物のように語られて少し頭に来たが、ユージーンが王族以外の人間を物のように話すのはいつものことなので何とか怒りを流す。
「まだ治癒は終わっていませんので何とも。そちらに怪我人は?」
「…クレア様だ」
「--」
怪我人の有無を訊ねたニコルは、姫の負傷に息を飲んだ。
ニコルのいる場所からは魔術師や騎士達が壁となりクレアとコレーの様子はわからない。
ただ解るのは、そこにいる者達がそろって魔力を緩やかに中央のクレアに流し込んでいる様子だけだった。
「腕の骨を折られた。だがコレー様を完全に落ち着かせるまではクレア様を治すことは出来ないだろう…命の危険は無いから怪我人達を直し終えてからでいい。治癒魔術師をここに」
「わかりました。我々は奥にいますので」
「ユージーン!終わったなら戻ってこい!」
会話の途中でエリオット隊長の怒声が響き、ユージーンはすぐに踵を返してしまう。
クレアとコレーがどんな状況にいるのかはわからないが、ニコルもすぐに広間を出て奥へと向かった。
メディウム家が使用していたという寝室は広く温もりがあり、ここならトリックの体温は何とか保てそうだと思っていた矢先にアリアがぶち切れていることに気付いた。
「…動くなって言われてた騎士達が歩いてついて来てたんだ」
レイトルから説明を受けて、そういえばニコルが広間を出た時に通路に誰もいなかったことを思い出す。移動させたにしては早いとは思っていたが、やはり自力で動いたか。
口には出さないが完全に怒りを前面に押し出したアリアの表情に、さすがに騎士達もバツが悪そうに目をそらす。
やっていいことと悪いことの区別がつかないような歳ではないが、じっとしていろと言われて「はいわかりました」と素直に言うことを聞く者など王族付きにはいない。
怒りを買わなかっただけで、動ける騎士達やニコル、レイトルでさえ動くなと言われても動いただろう。
それを今アリアに話しても更に苛立たせるだけなので口にはしないが。
「…人の確保は?」
「……フレイムローズに頼んだ。じきに何人か来てくれるはずだ」
相当不機嫌な様子を隠すこともしないアリアに訊ねられて、ニコルの返答もどこかぎこちないものになった。それでもアリアは確保が出来るならと何とか怒りを飲み込み、怪我人全員に傷を癒すまで二度と動くなと叱り飛ばす。
「それと兄さん、手伝ってほしい」
「何だ?」
「…あたしの魔力、けっこうガタが来始めてるから…まえに母さんがやってくれたみたいに、魔力が散らないようにカバーしてくれないかな?」
前にと言われてニコルが思い出したのは、まだニコルが11歳になったばかりの子供の頃だった。
アリアもはっきりと覚えているのか。母が亡くなった日の事を。
村を賊に襲われ、大多数の怪我人を癒すために若干5歳のアリアが懸命に力を駆使した事件。
母親の治癒魔術は病に特化し、傷を癒すことには不向きだった。その為にアリアが幼いながらに懸命に頑張ったのだ。
病弱な母は幼いアリアのサポートに回り、その代償に母は息絶えた。
その光景はニコルも強く覚えている。そして母親のサポートも。
そのサポートの力は…
「…兄さん」
「…俺には無理だ」
「!?」
ニコルの返答に驚いたのは、この部屋にいる意識のある者全員だった。
どうしてとアリアが瞳で訴えかけてくるのを、ニコルは口を開いて理由を教える。
「俺の魔力は強すぎるんだ。だからサポートに回ればお前の力を潰しちまう」
「…そんな」
出来ない理由は、やりたくないからではない。ニコルの魔力は強力で、他者との穏やかな連携には向かない。
「…俺には無理だが…レイトル、力を貸してくれないか?」
しかしレイトルなら。その意味を込めて、ニコルはレイトルを見据えた。
「…私が?」
「ああ。お前の魔力ならアリアを上手くサポート出来るはずだ。頼む、やってくれないか?」
ニコルの頼みにレイトルはわずかに言葉を失う。それはレイトルの魔力が本来なら騎士になれないほどに量が少ないことを示しているように聞こえたからだろう。
魔力量をコンプレックスにしているレイトルには素直に頷ける話ではない。だがそれも、ニコルが本当に言いたいことはここからだった。
「…魔力の操作はレイトルが一番上手い。少ない魔力を上手く生かす修行を行って成功させたのはお前だけだからな…魔力量の多さだけじゃアリアのサポートは出来ないんだ」
アリアのサポートに必要なのは魔力の質でも量でもない。
的確な操作力こそが、アリアのサポートに必要なのだ。
ニコルやミシェル、魔力の質と量に自信がある者はそれだけ魔力を無駄に使う傾向にある。
治癒魔術のサポートは細やかな作業だ。その作業に、無駄な魔力が垂れ流されればアリアの邪魔になるだけだ。
ニコルの説明に、レイトルは驚きを隠せないように目を見開き、やがて静かに頷いた。
「…わかった。でもどうすればいい?治癒魔術のサポートなんて私はしたことが無いよ」
「あたしの魔力が揺らぎ始めたら、カバーして魔力が他に散らないようにして下さい。あたしの手元にだけ、あたしの魔力が留まるように。お願いできますか?」
ニコルの説明に理解を示すアリアもすぐにレイトルに頭を下げた。
「…やってみるよ」
「なら早速!」
決心するレイトルの袖を掴み、アリアは急いでとトリックの元にレイトルを連れていく。
「待てアリア、血の種類とかいうやつは?」
「…俺の血が合うらしい」
ニコルの質問に答えたのは、トリックのすぐ近くに座り込んだスカイだった。
他の者達のような外傷は見当たらないが、気の遠そうな様子はいつもやかましいスカイとは思えず、彼の体調が万全でないことを物語っているが大丈夫なのか。
「…スカイ殿に深手は無いからな。コレー様の魔力の暴発を間近で受けて目眩があるらしいが、その程度ならトリック殿に血を分けるのに差し障りないから最初の実験体になってもらう」
「…実験とか怖いこと言うなよ…」
ミシェルの説明に嫌そうにスカイが突っ込みを入れる。
「スカイさん、今から言うことをよく聞いててください」
そしてスカイの隣にしゃがむアリアが、真剣な眼差しでスカイを見つめた。
「…おう」
「今からスカイさんの手首の血管を切って、トリックさんの血管と繋げます。繋いだ後は私の魔力で強制的にスカイさんの心臓の動きをトリックさんに合わせるので、最初はつらいと思いますが絶対に動かないでください」
「……?」
アリアの説明は頭のあまり働かないスカイには難しかった様子で。
「…何があっても動かないでください。トリックさんだけじゃなくて、あなたの命にも関わります」
「…おう」
一番重要な部分だけを伝えてようやく頷くスカイの手首を掴み、同時にトリックの服の袖もまくり上げて。
「…あ、ナイフ」
「使え」
肝心の皮膚を切り裂く剣を持たないことに気付いたアリアに、ニコルは魔具で短剣を生み出してアリアに渡した。
「ありがと…」
短剣はアリアの手に丁度よい片刃をして、それを手にしたアリアはまずスカイの手首を自身に寄せた。
人を切る恐怖からか、疲れが身体を苛んだだけか、アリアの手元が狂い上手く刃を当てられない。
「…大丈夫?」
すぐ近くで訊ねるレイトルに無言で頷き返すアリアは、疲労が色濃い様子だ。
「…切んの失敗しても気にすんな。傷なんて騎士には日常茶飯事だからな。それに切り傷くらいならすぐ治せんだろ。何回でもやり直しゃいいんだよ」
スカイの励ましはあまりにも大雑把すぎて、これには周りで静かに様子を見守る騎士達が力無く笑う。
「…ありがとうございます。…いきますね」
アリアもわずかに緊張がほどけた様子だった。
疲労したままだがクスリと笑い、スカイの手首に刃を当て。
そのまま決心の揺るがないうちに一気に手首を数センチ切り、すぐにトリックの腕にも切り込みを入れた。
「っく…」
流れ出る血と痛みにスカイは眉をひそめるが、目をそらしはしなかった。
アリアの動きを邪魔しないように促されるままに動き、トリックの切り込みの上に手首を合わせ。
そこからはアリア以外の誰にも、何が起きたのかは理解出来なかった。
アリアの魔力が淡く輝き、レイトルはそれが散らばらないように己の魔力で薄く膜を張る。
スカイは何度か苦痛の様子を見せるが呻きは口にせず。
皆が見守る中で、スカイの手首とトリックの腕が皮膚ごと接合された。
言葉無く見守る者達の中で、アリアは次にトリックとスカイの心臓の上に手を置く。
「…心臓に少し負担がかかりますが…我慢してください」
スカイが頷くより早く、アリアの手がスカイの心臓にかざした片側だけ淡く魔力を放出した。
「っぐ…」
これには流石のスカイも脂汗を滲ませたが、刃を食いしばって苦痛をこらえる。
ニコル達が見守る中で数分間、ようやくスカイの呼吸が落ち着くまで、緊迫した空気が辺りを包み続けた。
アリアが手を離せる頃にはスカイも何とか苦しみを和らげた様子だが、それでも疲労の度合いは強そうだ。
「…どうですか?」
心配そうに訊ねるアリアをスカイはわずかに白くなった顔で見上げる。
「…何か…気持ち悪い」
「たぶん血が抜けてトリックさんに回ってるからです。気持ち悪い以外には?」
「…ねぇよ」
ぶっきら棒な口調は、それだけスカイにも余裕がないという事だろう。
「…ひとまずはこのまま安静に」
「…寒い」
唐突なスカイの言葉に皆は一瞬固まる。しかしすぐに血の抜け始めた兆候であることに気付き、自分のマントを外してスカイにかけてやったのはニコルだった。
「じきにモーティシアとアクセルが毛布を持ってくるはずだから、それまでこいつで我慢しててください」
「…わりぃ」
そのまま大人しく項垂れるスカイを休ませて、アリアがふらつきながらも立ち上がる。
自身も初となる施術を何とか成功させたが、それだけでどれほどの魔力をまた消費したのかニコル達にはわからない。
だがまだ治癒を施さねばならない者達は十数名いるのだ。
それに、クレアも。
アリア一人に任せるには、あまりにも過酷ではないだろうか。今まではこんな酷い怪我人の出るような事件事故など無かったのに、アリアが来てから立て続けに。
国立児童保護施設の件といい、昨夜のワスドラートの服毒といい。
ふらつくアリアを今すぐ休ませてやりたいとニコルは思うが、それが許されるほど王城は甘くは無いのだ。
「--遅くなった!」
ここにいない治癒魔術師護衛部隊の中で最初に辿り着いたのはセクトルだった。
医師団数名と共にやって来たセクトルは肩で息をしながら辺りを窺う。
後はモーティシアとアクセルとトリッシュか。
アリアはレイトルを連れて既に別の者の治癒を開始しており、セクトルへ現状の説明をしたのはニコルだった。
ミシェルには医師と共にスカイとトリックの様子を頼み、今後の展開についても説明していく。
モーティシアとアクセルが到着したのはそれから数分後で、トリッシュがガウェと共に到着したのはリナト団長とミモザ達が到着した後だった。
説明をして、あるいは説明をされて全員でアリアのサポートに回る。
フレイムローズの呼び掛けに訪れてくれた騎士や魔術師達の中でトリックの血の種類と合う者は数名いてくれて、スカイの時と同じ様にアリアはトリックと接合していった。
その施術には医師団も驚きを隠せず見入り、今後の医療に役立てる話も聞かれた。
姫達のいる広間がどうなっているのかは相変わらず聞かされず、今するべき事に全力を注げとモーティシアからも命じられて。
時間が経つにつれてアリアは幽鬼のように表情を無くしていく。
アリアの疲労については、見て見ぬふりをすることしか出来なかった。
もはや気力でのみ動いているかの様子に、誰にも声をかけることが出来なくなっていたのだ。
時間が経つごとに怪我人一人一人に費やす時間も長くなっていく。
それでも確実に治していきながら、騎士と魔術師達全員を治すまでに一日を要し、その後に回復してくれたトリックから繋がった者達を剥がして、アリアをクレアの元に連れて行った時には、美貌の姫もアリアも、見る影もないほどに窶れてしまっていた。
コレーを抱いたままのクレアの骨折と剥がれた爪や千切れた血管を癒して。
全てが終わるまでに丸二日。
何もかもがようやく落ち着いた頃、アリアとクレアはようやく気を失えるかのように深い眠りについた。
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一度浮かび上がった意識は、奥底に眠っていた何かの目覚めによって、再び深い深い闇の中へと沈んでいった。
呼ばれるままに身体を沈めて、求められるままにそれを抱き寄せて。
抱き寄せながら、コレーはそれの懐かしさに涙を溢した。
嗚呼。
こんなところにいらしたのですね?
自分の魔力が暴発してしまったことには、一瞬取り戻した意識の間に気付いていた。
今ならもう、自力で上に上がれる。
だが。
抱き締めるそれを置いてはいけない。
それを手放してしまったら、取り返しのつかないことになってしまうだろう。
何とかそれを持って上に上がれたらいいのに、コレーは膨大な魔力量を持ちながら、その魔力を的確に操る術を知らないのだ。
こんなことなら、嫌がらずにきちんと魔力を操る修行をするのだった。
今の幼いコレーには、それを無くさないように大切に抱き締めることしか出来なかったから。
ここは暗くて冷たくて重くて苦しい。
でも大丈夫。きっとお兄さま達が助けに来てくださるから。
それまでは、私がお守りしますから。
何もかもを憎しみに染まらせようとする空間で。
コレーはそれをひたすら抱きしめ続けていた。
第22話 終