第8話:30秒の恋人、爆炎の口づけ
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第一幕:陽だまりを砕く足音
2022年3月。
横浜の港から吹き込む風には、もう冬の刺々しさはなく、柔らかな春の埃っぽさが混じり始めていた。
未華子は、週末になると、近所の子供食堂「ひまわり」でボランティアをするのが日課になっていた。
寸胴鍋から立ち上るカレーのスパイシーな湯気と、子供たちの笑い声。
親との関係に悩む子供たちにとって、彼女は姉であり、時には母のような体温を持った拠り所だった。
未華子自身も、このささやかな居場所を心から愛していた。
その日、食堂の穏やかな空気を引き裂いたのは、一台の黒塗りの高級車。
降り立ったのは、仕立ての良いスーツを着ているが、その眉間には神経質な皺が深く刻まれた男――神奈川県議会議員、羽瀬(はせ)だった。
「―――ナオト! 何をやってる、こんな場所で!」
怒声が、食堂の平和な空気を凍らせる。
男は、スプーンを握ったまま固まっている少年、ナオトに大股で歩み寄ると、その細い腕を乱暴に掴み上げた。
「や、やめてよ、お父さん!」
「うるさい! お前のような出来損ないは家の恥だ! 帰るぞ!」
気づけば、未華子の身体は思考よりも早く動いていた。
「待ってください!」
二人の間に滑り込み、男の手首を掴もうとする。
「まだご飯を食べてる途中です! それに、こんな乱暴な……!」
「部外者は、すっこんでろ!」
反論は、暴力によって遮られた。
男の掌底が、未華子の肩を思い切り突く。
受身を取る間もなく床に倒れ込むと、肩から背中にかけて、鈍く重い衝撃が突き抜けた。
その直後、視界の端で、羽瀬の磨き上げられた革靴が閃いた。
「ぐぅっ!」
ナオトの小さな身体がくの字に折れる。
父親が、息子の腹を、何の躊躇もなく、革靴で蹴り上げたのだ。
「立つんだよ、恥さらしが!」
羽瀬は、うずくまる少年の細い腕を乱暴に引きずり起こすと、そのままズルズルと食堂の外へと連れ去っていく。
「―――ってめぇっ!」
未華子は必死に上体を起こすと、もつれる足でサンダルを突っかけ二人の後を追う。
「待ちなさいよ!!」
叫びながら店の外へ飛び出したが、目の前で、黒塗りの高級車の後部座席へナオトの身体が粗雑に押し込まれるところだった。
重厚なドアが閉められる、そのコンマ一秒の刹那。
暗い車内から、ナオトがこちらを振り返った。
ただ、深い絶望と諦めを湛えた底なしに悲しい瞳が、未華子の姿を一瞬だけ捉える。
直後、唸りを上げるエンジン音と共にタイヤがアスファルトを噛み、車は非情にも走り去っていく。
未華子の頭の中で、何かが切れた。
足先から脳天まで、沸騰した血液が駆け巡るような、焦げるほどの怒り。
その全てが、沸点を超える。
元新聞記者としての矜持、そして何より、傷つけられた子供への慟哭にも似た感情が、彼女の視界を真っ赤に染め上げていった。
*
その夜。
横浜九十九課は、臨戦態勢に入っていた。
「羽瀬議員……調べれば調べるほど黒い噂が出てきますな! 建設業者との癒着、公費の不正流用、枚挙にいとまがありませんぞ!」
「だが証拠が無い。尻尾を掴ませねえ、狡猾なタヌキだな」
キーボードを叩く九十九と佐竹の指先が、焦りと苛立ちを孕んで弾む。
モニターの青白い光が、二人の深刻な表情を照らし出していた。
「……絶対に許さない」
低く燃えるような怒りを宿した、未華子の声。
杉浦は壁に寄りかかったまま、ただ黙って、その横顔を見つめていた。
彼が組み伏せた腕の中で、指先が苛立ちを紛らわせるように、二の腕の肉を強く掴んでいた。
*
翌日の九十九課。
「どうやら、面白いことになっているようだな」
九十九課のソファに優雅に脚を組んで座っているのは、コミジュル総帥のソンヒ。
その隣には、面白そうに眼鏡のブリッジを指で押し上げる、横浜流氓の元総帥・趙天佑の姿もある。
「ソンヒさん、趙さん。なぜ、そのことを?」
目を丸くする未華子に、ソンヒは呆れたようなため息を吐き出した。
「うちの若い衆が、昨日のお前の立ち回りを見ていたんだ。『九十九課の女神が、あのクソ議員にケンカ売ってました』ってな」
「異人町の噂の広まる速さは、光の速さとほぼ同じだからねぇ」
趙が付け加える。
羽瀬という議員は、この街の裏社会にとっても、喉に刺さった小骨のような存在だった。
金の臭いに敏感で、仁義などという言葉は辞書にない。
ソンヒも趙も、いつかその汚れた喉笛を噛み切ってやろうと狙っていた、共通の「獲物」。
「お前が始めた喧嘩だ」
ソンヒの瞳がキラリと光る。
「……なら、最後まで付き合うのが、この街のスジってもんだろう?」
それは、彼女なりの最大級の友愛の証であり、「共闘」の申し出だった。
そして、そのソンヒらとの密約の一部始終はもちろん、別の王の耳にも届いていた。
――コミジュルや横浜龍会と並ぶ「異人三」の一角、横浜流氓の現・総帥でありながら、その異人三すらをも配下に置く関東最大のヤクザ組織・東鞘会のトップ。
十朱雅だ。
横浜流氓のアジト、慶錦飯店の最上階。
佐竹から報告を聞いていた十朱が、受話器を耳に当てたまま面白そうに口の端を上げた。
「……ほう。あの女、今度はあのクズ(羽瀬)にケンカを売ったか」
彼は、指先で弄んでいた白磁の茶器をコトリとソーサーに戻し、短い指示を飛ばした。
「―――警察 の動きは、俺が完全に抑えてやる。…せいぜい、派手に暴れてこいと俺の"おもちゃ"に伝えておけ」
さらに、その報せは電波に乗り、遠く大阪の夜にも届く。
「サバイバー」のカウンター。
マスターの柏木が、誰かと電話をしている。
『―――なんや、あの姉ちゃん、またおもろそうなことに首突っ込んどるんか』
電話の向こうから聞こえてくる、あの独特の関西弁。
『……まあええわ。…もしホンマにヤバなったら、いつでも言えや』
横浜・東京、そして蒼天堀の裏社会を統べる「王」たちが、今。
たった一人の女性が抱いた、純粋すぎて痛々しいほどの義憤のために。
巨大な歯車となり、軋んだ音を立てて回り始めていた。
▼
しかし、現実は甘くない。
調査が進むにつれ、分厚い壁が立ちはだかる。
羽瀬は想像以上に用心深く、不正の痕跡は巧みに漂白され、証拠となるデータも巧妙に隠蔽されていた。
それでも、彼らは止まらない。
九十九と佐竹が鉄壁のセキュリティに穴を開け、杉浦や趙・ソンヒの部下たちが、泥臭く物理的な証拠を追う。
そして未華子もまた元記者の勘を研ぎ澄まし、過去の記事や公文書の行間から、羽瀬の過去の不正を一つ、また一つとあぶり出していった。
*
当然その動きは、羽瀬の知るところとなる。
ある夜。
横浜市中央図書館での調べ物を終え、事務所へと急ぐ未華子の背後に不吉なエンジン音が迫った。
ヘッドライトの強烈な光が、彼女の影を長くアスファルトに焼き付ける。
猛スピードで突っ込んできたのは、一台のダンプカー。
「危ない!」
刹那、横合いから強い力で弾き飛ばされた。
コンクリートに打ち付けられる衝撃。
直後、耳をつんざくようなブレーキ音と、金属が壁を削る甲高い音が響き渡る。
ダンプカーはガードレールをへし折って停車し、運転席の男は闇夜に紛れて姿を消した。
アスファルトの上、未華子を庇うように覆いかぶさっていたのは、杉浦だった。
「……杉浦くん!」
「……大丈夫?!」
至近距離で重なる視線。
彼の胸越しに、早鐘を打つ心臓の音が、痛いほど伝わってきた。
「うん……ごめん……」
「……わかってたよね? いつか、こうなるってこと」
そうだ。わかっていた。
それでも、止められなかった。
あの日見た、ナオトの絶望に満ちた瞳が忘れられないから。
「もう、やめようよ、未華子ちゃん」
身体を起こした杉浦の声は、懇願するように掠れていた。
彼は未華子の細い肩を掴む。
その指先は、小刻みに震えていた。
「これ以上深入りしたら、今度こそ、本当に死んじゃう」
その切実な光から、逃げるように未華子は視線を落とし――そして、ゆっくりとかぶりを振った。
「………嫌だ」
「ここでやめたら、私、私じゃなくなる。あの子を見捨てたら、私、一生自分を許せない」
どうしようもなく真っ直ぐな正義感。
杉浦は息を呑み、反論の言葉を喉の奥で噛み殺した。
――止められない。
この危ういほどに真っ直ぐな光を放つ女性を、止める術を持たない。
ならば。
自分の命に代えてでも、守り抜くしかない。
杉浦は深く息を吐き出すと、覚悟を決めたように未華子の手を強く握り返した。
*
命を削るような調査の果て。
ついに、羽瀬の不正の決定的な証拠が九十九課の手に収められた。
だが、それは、最後の絶望への、始まりの合図でもあった。
第二幕:摩天楼(バベル)の断末魔
全ての証拠は揃った。
羽瀬議員の腐りきった不正を告発するその記事は、未華子の署名入りの渾身のレポートとして完成した。
大学時代の同期である週刊誌の編集者は、その強烈な「爆弾」に一度は尻込みしたが、未華子の覚悟を前についに首を縦に振ってくれた。
明日の朝には、電子版の速報が世に出る。
もう後戻りはできない。
その夜。
未華子は、自宅マンションの部屋で一人、固唾を飲んでその時を待っていた。
テーブルの上、黒い画面のまま沈黙していたスマートフォンが、突如として不快な羽音を立てて振動した。
「非通知」の文字。
嫌な予感が胸をよぎる。
「……はい」
『――橘未華子か』
電話の向こうから聞こえてきたのは、羽瀬の怒りに震える声だった。
『……俺の人生を、滅茶苦茶にしやがって』
「自業自得です。あなたは議員である以前に、父親として最低の人間でしたから」
『父親、か。ハハ、面白いことを言う』
乾いた笑い声。
受話器越しでもわかる、荒い息遣い。
そこには、追い詰められた獣特有の、腐臭に近い気配が漂っていた。
『お前が、そんなに正義とやらを愛し、この横浜という街を愛しているのなら……』
『―――その愛する民衆と共に、俺と心中してみせろ』
『……うみねこタワーの展望台に爆弾を仕掛けた。…今すぐに、お前一人で来なければ。…タワーにいる罪のない観光客ごと、全て木っ端微塵だ』
―――うみねこタワー。
美しい夜景を一望できる、この街のシンボル。
観光スポットでもあり、多くの恋人たちが愛を語らう場所でもある、硝子の塔。
その言葉が、嘘やハッタリではないことを、未華子は本能で感じ取っていた。
▼
未華子は自宅を飛び出し、タクシーを拾うと、後部座席でインカムを耳にねじ込んだ。
「九十九氏、佐竹! 聞こえる!?」
『未華子氏!? どこへ行く気です!?』
「とにかく緊急事態だから! うみねこタワー周辺にいる人たちを避難させて!」
『未華子、よせ! 罠だ!』
だが、もう止まれない。
到着したうみねこタワーのロビーは、閉館間際の静寂に包まれていた。
警備員の目を盗み、業務用エレベーターへと駆け込む未華子の背後から、影が一つ、滑り込んできた。
杉浦だった。
「……………っ、はぁ、はぁ…」
肩で息をする杉浦が、閉じゆく扉と未華子の間に、壁のように立ちはだかる。
「杉浦くん!? なんで……!」
彼の瞳は、怒っているようでもあり、泣きそうにも見えた。
「降りて、未華子ちゃん。ここは、僕一人で行くから」
「嫌だ! これは私が始めたことなんだから!」
「これ以上、未華子ちゃんを危険な目に遭わせられない!」
「私だって、杉浦くんを危険な目に遭わせたくない!」
上昇していく密室の中で、二人の声がぶつかり合う。
未華子は、彼の胸をドンと突き飛ばした。
「どいて! 邪魔しないでよ!」
だが、彼は一歩も引かなかった。
逆に、その大きな手が伸び未華子の両肩を万力のように強く掴んだ。
「―――言ったよね?」
「……………」
「『一人にはしない』って」
静かだが、腹の底から絞り出したような声。
身体の震えが、彼の手のひらを通じて伝わってくる。
チン、と場違いなほど軽快な到着音が鳴り、エレベーターの扉が左右に開く。
その先に待っているのは、地獄かもしれない。
でも。
一人じゃない。
それだけで、不思議と恐怖はどこかに消えていた。
二人は視線を交わし、どちらからともなく頷くと、並んでその一歩を踏み出した。
*
地上106m。
息を呑むほど美しい夜景が広がる展望フロアは、異様な静寂に満ちていた。
その中央、巨大な柱の前に羽瀬は立っていた。
その手には、起爆装置と思われる不気味なスイッチが握られている。
「……来たか」
「何考えてるの? 無関係な人たちまで巻き込んで、道連れにする権利なんてあんたにはない!」
「権利? ハ、笑わせるな。このタワーの改修設計、構造計算、その全てを取り仕切ったのは俺だ。俺が産み直したこの塔を俺が殺す。誰に文句がある」
柱に触れる羽瀬の手つきは、愛撫するように優しく、それゆえに狂っていた。
「数カ所のメインフレームにC4爆薬を設置した。スイッチを押せば、全て終わりだよ」
絶望的な状況。
杉浦は静かに、一歩前に出た。
「……あんたの相手は、僕だ」
瞬きの間に距離を詰め、杉浦の蹴りが放たれる。
だが、羽瀬は紙一重でスウェイバックし、それを避けた。
返す刀で放たれた重い拳が、風を切って杉浦の頬を掠める。
元国体選手だという、ボクシングで鍛え上げた鋭いフットワークと重いパンチが、杉浦の変幻自在の蹴りを的確にいなしていく。
その肉体は、政治家の椅子にふんぞり返っていただけの鈍ったものではなかった。
「……あんた、一体何者なの」
激しい攻防の合間に、杉浦が問いかける。
「―――俺は、ただの負け犬さ」
羽瀬は、自嘲の混じった笑みを浮かべ、構えを取った。
羽瀬は、かつて、このうみねこタワーのリニューアルプロジェクトを任されていた大手ゼネコンの若きエースだった。
輝かしいキャリアが約束されていた。
しかし、彼の少しだけ強引なやり方が上層部の不興を買い、プロジェクトから外される。
そして、ありもしない汚職の疑いをかけられ会社を追われた。
彼は、復讐を誓った。
「……俺から全てを奪ったこの社会構造ごと、破壊してやるとな。そう誓ったんだよ」
彼は政治家になった。
力を手に入れるために。
そしていつか、この自分の夢とプライドの象徴であるうみねこタワーを、己の手で葬り去るために。
爆破の知識は、ゼネコン時代の解体現場で培ったものだ。
「……息子(ナオト)もそうだ。…あいつには、俺のようになってほしくなかった! 誰にも負けない、強い男になってほしかった。そのためには暴力による教育も必要だったんだ!」
「……ふざけんな。あんたはただ、自分の弱さを他人のせいにしてるだけじゃん」
杉浦の冷徹な指摘が、羽瀬の逆鱗を逆撫でする。
「うるさい!!!!!」
激情に任せた大ぶりの右ストレート。
杉浦は冷静にガードを固めた――はずだった。
「やめて!!」
未華子の悲鳴が、一瞬だけ、杉浦の意識を割いた。
そのコンマ一秒の隙を、フェイントを織り交ぜた羽瀬の足が鞭のようにしなり、杉浦の左脚――膝の関節を横から抉るように捉えた。
「ぐっあああああっ!」
杉浦が苦悶の声を上げ、左足を庇うように崩れ落ちた。
「ハハハ! どうだ! これが現実だ!」
羽瀬が高笑いし、勝利を確信して無防備に近づく。
終わった。
誰もがそう思った。
だが、杉浦文也という男の執念を、彼もまた見誤っていた。
「……言ったでしょ」
杉浦は、片膝をついたまま、不敵に笑った。
「あんたの、相手は……僕だ、って」
彼は残された右足を軸に、遠心力を利用した決死の胴回し回転蹴りを放った。
視界の外から飛来した踵が、羽瀬の側頭部に吸い込まれるように直撃する。
「がっ……!?」
白目を剥き、巨体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちる羽瀬。
その手から、黒い起爆装置が滑り落ちる。
カコン、と乾いた音を立てて床を転がり――
カチリ。
無慈悲な音が、静寂を引き裂いた。
落下衝撃が、最後のスイッチを押し込んだのだ。
『―――カウントダウン 開始』
『―――爆破まで 残り 3分』
無機質な合成音声が、死刑宣告のように冷たく響き渡った。
2022年3月。
横浜の港から吹き込む風には、もう冬の刺々しさはなく、柔らかな春の埃っぽさが混じり始めていた。
未華子は、週末になると、近所の子供食堂「ひまわり」でボランティアをするのが日課になっていた。
寸胴鍋から立ち上るカレーのスパイシーな湯気と、子供たちの笑い声。
親との関係に悩む子供たちにとって、彼女は姉であり、時には母のような体温を持った拠り所だった。
未華子自身も、このささやかな居場所を心から愛していた。
その日、食堂の穏やかな空気を引き裂いたのは、一台の黒塗りの高級車。
降り立ったのは、仕立ての良いスーツを着ているが、その眉間には神経質な皺が深く刻まれた男――神奈川県議会議員、羽瀬(はせ)だった。
「―――ナオト! 何をやってる、こんな場所で!」
怒声が、食堂の平和な空気を凍らせる。
男は、スプーンを握ったまま固まっている少年、ナオトに大股で歩み寄ると、その細い腕を乱暴に掴み上げた。
「や、やめてよ、お父さん!」
「うるさい! お前のような出来損ないは家の恥だ! 帰るぞ!」
気づけば、未華子の身体は思考よりも早く動いていた。
「待ってください!」
二人の間に滑り込み、男の手首を掴もうとする。
「まだご飯を食べてる途中です! それに、こんな乱暴な……!」
「部外者は、すっこんでろ!」
反論は、暴力によって遮られた。
男の掌底が、未華子の肩を思い切り突く。
受身を取る間もなく床に倒れ込むと、肩から背中にかけて、鈍く重い衝撃が突き抜けた。
その直後、視界の端で、羽瀬の磨き上げられた革靴が閃いた。
「ぐぅっ!」
ナオトの小さな身体がくの字に折れる。
父親が、息子の腹を、何の躊躇もなく、革靴で蹴り上げたのだ。
「立つんだよ、恥さらしが!」
羽瀬は、うずくまる少年の細い腕を乱暴に引きずり起こすと、そのままズルズルと食堂の外へと連れ去っていく。
「―――ってめぇっ!」
未華子は必死に上体を起こすと、もつれる足でサンダルを突っかけ二人の後を追う。
「待ちなさいよ!!」
叫びながら店の外へ飛び出したが、目の前で、黒塗りの高級車の後部座席へナオトの身体が粗雑に押し込まれるところだった。
重厚なドアが閉められる、そのコンマ一秒の刹那。
暗い車内から、ナオトがこちらを振り返った。
ただ、深い絶望と諦めを湛えた底なしに悲しい瞳が、未華子の姿を一瞬だけ捉える。
直後、唸りを上げるエンジン音と共にタイヤがアスファルトを噛み、車は非情にも走り去っていく。
未華子の頭の中で、何かが切れた。
足先から脳天まで、沸騰した血液が駆け巡るような、焦げるほどの怒り。
その全てが、沸点を超える。
元新聞記者としての矜持、そして何より、傷つけられた子供への慟哭にも似た感情が、彼女の視界を真っ赤に染め上げていった。
*
その夜。
横浜九十九課は、臨戦態勢に入っていた。
「羽瀬議員……調べれば調べるほど黒い噂が出てきますな! 建設業者との癒着、公費の不正流用、枚挙にいとまがありませんぞ!」
「だが証拠が無い。尻尾を掴ませねえ、狡猾なタヌキだな」
キーボードを叩く九十九と佐竹の指先が、焦りと苛立ちを孕んで弾む。
モニターの青白い光が、二人の深刻な表情を照らし出していた。
「……絶対に許さない」
低く燃えるような怒りを宿した、未華子の声。
杉浦は壁に寄りかかったまま、ただ黙って、その横顔を見つめていた。
彼が組み伏せた腕の中で、指先が苛立ちを紛らわせるように、二の腕の肉を強く掴んでいた。
*
翌日の九十九課。
「どうやら、面白いことになっているようだな」
九十九課のソファに優雅に脚を組んで座っているのは、コミジュル総帥のソンヒ。
その隣には、面白そうに眼鏡のブリッジを指で押し上げる、横浜流氓の元総帥・趙天佑の姿もある。
「ソンヒさん、趙さん。なぜ、そのことを?」
目を丸くする未華子に、ソンヒは呆れたようなため息を吐き出した。
「うちの若い衆が、昨日のお前の立ち回りを見ていたんだ。『九十九課の女神が、あのクソ議員にケンカ売ってました』ってな」
「異人町の噂の広まる速さは、光の速さとほぼ同じだからねぇ」
趙が付け加える。
羽瀬という議員は、この街の裏社会にとっても、喉に刺さった小骨のような存在だった。
金の臭いに敏感で、仁義などという言葉は辞書にない。
ソンヒも趙も、いつかその汚れた喉笛を噛み切ってやろうと狙っていた、共通の「獲物」。
「お前が始めた喧嘩だ」
ソンヒの瞳がキラリと光る。
「……なら、最後まで付き合うのが、この街のスジってもんだろう?」
それは、彼女なりの最大級の友愛の証であり、「共闘」の申し出だった。
そして、そのソンヒらとの密約の一部始終はもちろん、別の王の耳にも届いていた。
――コミジュルや横浜龍会と並ぶ「異人三」の一角、横浜流氓の現・総帥でありながら、その異人三すらをも配下に置く関東最大のヤクザ組織・東鞘会のトップ。
十朱雅だ。
横浜流氓のアジト、慶錦飯店の最上階。
佐竹から報告を聞いていた十朱が、受話器を耳に当てたまま面白そうに口の端を上げた。
「……ほう。あの女、今度はあのクズ(羽瀬)にケンカを売ったか」
彼は、指先で弄んでいた白磁の茶器をコトリとソーサーに戻し、短い指示を飛ばした。
「―――
さらに、その報せは電波に乗り、遠く大阪の夜にも届く。
「サバイバー」のカウンター。
マスターの柏木が、誰かと電話をしている。
『―――なんや、あの姉ちゃん、またおもろそうなことに首突っ込んどるんか』
電話の向こうから聞こえてくる、あの独特の関西弁。
『……まあええわ。…もしホンマにヤバなったら、いつでも言えや』
横浜・東京、そして蒼天堀の裏社会を統べる「王」たちが、今。
たった一人の女性が抱いた、純粋すぎて痛々しいほどの義憤のために。
巨大な歯車となり、軋んだ音を立てて回り始めていた。
▼
しかし、現実は甘くない。
調査が進むにつれ、分厚い壁が立ちはだかる。
羽瀬は想像以上に用心深く、不正の痕跡は巧みに漂白され、証拠となるデータも巧妙に隠蔽されていた。
それでも、彼らは止まらない。
九十九と佐竹が鉄壁のセキュリティに穴を開け、杉浦や趙・ソンヒの部下たちが、泥臭く物理的な証拠を追う。
そして未華子もまた元記者の勘を研ぎ澄まし、過去の記事や公文書の行間から、羽瀬の過去の不正を一つ、また一つとあぶり出していった。
*
当然その動きは、羽瀬の知るところとなる。
ある夜。
横浜市中央図書館での調べ物を終え、事務所へと急ぐ未華子の背後に不吉なエンジン音が迫った。
ヘッドライトの強烈な光が、彼女の影を長くアスファルトに焼き付ける。
猛スピードで突っ込んできたのは、一台のダンプカー。
「危ない!」
刹那、横合いから強い力で弾き飛ばされた。
コンクリートに打ち付けられる衝撃。
直後、耳をつんざくようなブレーキ音と、金属が壁を削る甲高い音が響き渡る。
ダンプカーはガードレールをへし折って停車し、運転席の男は闇夜に紛れて姿を消した。
アスファルトの上、未華子を庇うように覆いかぶさっていたのは、杉浦だった。
「……杉浦くん!」
「……大丈夫?!」
至近距離で重なる視線。
彼の胸越しに、早鐘を打つ心臓の音が、痛いほど伝わってきた。
「うん……ごめん……」
「……わかってたよね? いつか、こうなるってこと」
そうだ。わかっていた。
それでも、止められなかった。
あの日見た、ナオトの絶望に満ちた瞳が忘れられないから。
「もう、やめようよ、未華子ちゃん」
身体を起こした杉浦の声は、懇願するように掠れていた。
彼は未華子の細い肩を掴む。
その指先は、小刻みに震えていた。
「これ以上深入りしたら、今度こそ、本当に死んじゃう」
その切実な光から、逃げるように未華子は視線を落とし――そして、ゆっくりとかぶりを振った。
「………嫌だ」
「ここでやめたら、私、私じゃなくなる。あの子を見捨てたら、私、一生自分を許せない」
どうしようもなく真っ直ぐな正義感。
杉浦は息を呑み、反論の言葉を喉の奥で噛み殺した。
――止められない。
この危ういほどに真っ直ぐな光を放つ女性を、止める術を持たない。
ならば。
自分の命に代えてでも、守り抜くしかない。
杉浦は深く息を吐き出すと、覚悟を決めたように未華子の手を強く握り返した。
*
命を削るような調査の果て。
ついに、羽瀬の不正の決定的な証拠が九十九課の手に収められた。
だが、それは、最後の絶望への、始まりの合図でもあった。
第二幕:摩天楼(バベル)の断末魔
全ての証拠は揃った。
羽瀬議員の腐りきった不正を告発するその記事は、未華子の署名入りの渾身のレポートとして完成した。
大学時代の同期である週刊誌の編集者は、その強烈な「爆弾」に一度は尻込みしたが、未華子の覚悟を前についに首を縦に振ってくれた。
明日の朝には、電子版の速報が世に出る。
もう後戻りはできない。
その夜。
未華子は、自宅マンションの部屋で一人、固唾を飲んでその時を待っていた。
テーブルの上、黒い画面のまま沈黙していたスマートフォンが、突如として不快な羽音を立てて振動した。
「非通知」の文字。
嫌な予感が胸をよぎる。
「……はい」
『――橘未華子か』
電話の向こうから聞こえてきたのは、羽瀬の怒りに震える声だった。
『……俺の人生を、滅茶苦茶にしやがって』
「自業自得です。あなたは議員である以前に、父親として最低の人間でしたから」
『父親、か。ハハ、面白いことを言う』
乾いた笑い声。
受話器越しでもわかる、荒い息遣い。
そこには、追い詰められた獣特有の、腐臭に近い気配が漂っていた。
『お前が、そんなに正義とやらを愛し、この横浜という街を愛しているのなら……』
『―――その愛する民衆と共に、俺と心中してみせろ』
『……うみねこタワーの展望台に爆弾を仕掛けた。…今すぐに、お前一人で来なければ。…タワーにいる罪のない観光客ごと、全て木っ端微塵だ』
―――うみねこタワー。
美しい夜景を一望できる、この街のシンボル。
観光スポットでもあり、多くの恋人たちが愛を語らう場所でもある、硝子の塔。
その言葉が、嘘やハッタリではないことを、未華子は本能で感じ取っていた。
▼
未華子は自宅を飛び出し、タクシーを拾うと、後部座席でインカムを耳にねじ込んだ。
「九十九氏、佐竹! 聞こえる!?」
『未華子氏!? どこへ行く気です!?』
「とにかく緊急事態だから! うみねこタワー周辺にいる人たちを避難させて!」
『未華子、よせ! 罠だ!』
だが、もう止まれない。
到着したうみねこタワーのロビーは、閉館間際の静寂に包まれていた。
警備員の目を盗み、業務用エレベーターへと駆け込む未華子の背後から、影が一つ、滑り込んできた。
杉浦だった。
「……………っ、はぁ、はぁ…」
肩で息をする杉浦が、閉じゆく扉と未華子の間に、壁のように立ちはだかる。
「杉浦くん!? なんで……!」
彼の瞳は、怒っているようでもあり、泣きそうにも見えた。
「降りて、未華子ちゃん。ここは、僕一人で行くから」
「嫌だ! これは私が始めたことなんだから!」
「これ以上、未華子ちゃんを危険な目に遭わせられない!」
「私だって、杉浦くんを危険な目に遭わせたくない!」
上昇していく密室の中で、二人の声がぶつかり合う。
未華子は、彼の胸をドンと突き飛ばした。
「どいて! 邪魔しないでよ!」
だが、彼は一歩も引かなかった。
逆に、その大きな手が伸び未華子の両肩を万力のように強く掴んだ。
「―――言ったよね?」
「……………」
「『一人にはしない』って」
静かだが、腹の底から絞り出したような声。
身体の震えが、彼の手のひらを通じて伝わってくる。
チン、と場違いなほど軽快な到着音が鳴り、エレベーターの扉が左右に開く。
その先に待っているのは、地獄かもしれない。
でも。
一人じゃない。
それだけで、不思議と恐怖はどこかに消えていた。
二人は視線を交わし、どちらからともなく頷くと、並んでその一歩を踏み出した。
*
地上106m。
息を呑むほど美しい夜景が広がる展望フロアは、異様な静寂に満ちていた。
その中央、巨大な柱の前に羽瀬は立っていた。
その手には、起爆装置と思われる不気味なスイッチが握られている。
「……来たか」
「何考えてるの? 無関係な人たちまで巻き込んで、道連れにする権利なんてあんたにはない!」
「権利? ハ、笑わせるな。このタワーの改修設計、構造計算、その全てを取り仕切ったのは俺だ。俺が産み直したこの塔を俺が殺す。誰に文句がある」
柱に触れる羽瀬の手つきは、愛撫するように優しく、それゆえに狂っていた。
「数カ所のメインフレームにC4爆薬を設置した。スイッチを押せば、全て終わりだよ」
絶望的な状況。
杉浦は静かに、一歩前に出た。
「……あんたの相手は、僕だ」
瞬きの間に距離を詰め、杉浦の蹴りが放たれる。
だが、羽瀬は紙一重でスウェイバックし、それを避けた。
返す刀で放たれた重い拳が、風を切って杉浦の頬を掠める。
元国体選手だという、ボクシングで鍛え上げた鋭いフットワークと重いパンチが、杉浦の変幻自在の蹴りを的確にいなしていく。
その肉体は、政治家の椅子にふんぞり返っていただけの鈍ったものではなかった。
「……あんた、一体何者なの」
激しい攻防の合間に、杉浦が問いかける。
「―――俺は、ただの負け犬さ」
羽瀬は、自嘲の混じった笑みを浮かべ、構えを取った。
羽瀬は、かつて、このうみねこタワーのリニューアルプロジェクトを任されていた大手ゼネコンの若きエースだった。
輝かしいキャリアが約束されていた。
しかし、彼の少しだけ強引なやり方が上層部の不興を買い、プロジェクトから外される。
そして、ありもしない汚職の疑いをかけられ会社を追われた。
彼は、復讐を誓った。
「……俺から全てを奪ったこの社会構造ごと、破壊してやるとな。そう誓ったんだよ」
彼は政治家になった。
力を手に入れるために。
そしていつか、この自分の夢とプライドの象徴であるうみねこタワーを、己の手で葬り去るために。
爆破の知識は、ゼネコン時代の解体現場で培ったものだ。
「……息子(ナオト)もそうだ。…あいつには、俺のようになってほしくなかった! 誰にも負けない、強い男になってほしかった。そのためには暴力による教育も必要だったんだ!」
「……ふざけんな。あんたはただ、自分の弱さを他人のせいにしてるだけじゃん」
杉浦の冷徹な指摘が、羽瀬の逆鱗を逆撫でする。
「うるさい!!!!!」
激情に任せた大ぶりの右ストレート。
杉浦は冷静にガードを固めた――はずだった。
「やめて!!」
未華子の悲鳴が、一瞬だけ、杉浦の意識を割いた。
そのコンマ一秒の隙を、フェイントを織り交ぜた羽瀬の足が鞭のようにしなり、杉浦の左脚――膝の関節を横から抉るように捉えた。
「ぐっあああああっ!」
杉浦が苦悶の声を上げ、左足を庇うように崩れ落ちた。
「ハハハ! どうだ! これが現実だ!」
羽瀬が高笑いし、勝利を確信して無防備に近づく。
終わった。
誰もがそう思った。
だが、杉浦文也という男の執念を、彼もまた見誤っていた。
「……言ったでしょ」
杉浦は、片膝をついたまま、不敵に笑った。
「あんたの、相手は……僕だ、って」
彼は残された右足を軸に、遠心力を利用した決死の胴回し回転蹴りを放った。
視界の外から飛来した踵が、羽瀬の側頭部に吸い込まれるように直撃する。
「がっ……!?」
白目を剥き、巨体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちる羽瀬。
その手から、黒い起爆装置が滑り落ちる。
カコン、と乾いた音を立てて床を転がり――
カチリ。
無慈悲な音が、静寂を引き裂いた。
落下衝撃が、最後のスイッチを押し込んだのだ。
『―――カウントダウン 開始』
『―――爆破まで 残り 3分』
無機質な合成音声が、死刑宣告のように冷たく響き渡った。
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