第7話:忘却のレプリカ、追憶のアルペジオ
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診断の結果は、残酷なものだった。
「心的外傷による全生活史健忘です。強い精神的ショックが原因で、ご自身の名前や経歴を含め、これまでの記憶の全てを失っている状態です」
医師の冷静な説明を、九十九と佐竹はただ呆然と聞くことしかできなかった。
病室に戻ると、未華子は窓の外をただぼんやりと眺めていた。
まるで生まれたての赤子のように、無垢で、不安げな瞳で。
「……ええと」
九十九が、ぎこちない笑顔で名乗りを上げた。
「ボクは、九十九誠一と申しますぞ! あなたの職場の……所長です!」
「俺は、佐竹幸人です。あなたの同僚です」
未華子はその言葉に、小さくこくりと頷いた。
「……橘、未華子。それが、私の、名前……」
そして、深々と頭を下げる。
「初めまして。……ご迷惑をおかけします」
他人行儀な言葉と怯えたような瞳に、二人は胸が張り裂けそうになった。
いつも、太陽のように笑っていた彼女は、もうどこにもいない。
病室の外で、二人は重い沈黙の中、これからのことを話し合った。
「……記憶は、戻んのか」
「……医者の話では、きっかけさえあれば戻る可能性はある、と。ただ、無理に思い出させようとすると、脳に深刻なダメージを与える危険もある、とのことですぞ」
九十九の言葉に、佐竹は自分の無力さを呪った。
「……杉浦には、どう説明する」
「……ありのままを、話すしかありませんな」
*
数日後。
病室のドアが、静かに開いた。
九十九と佐竹に車椅子を押され、左肩を痛々しく固定した茶色い髪の青年が、そこにいた。
――杉浦文也。
未華子は、その青年を見た瞬間、本能的な恐怖に全身が総毛立った。
なぜかはわからない。
でも、この人は、怖い。
「……未華子ちゃん」
静かで優しい声を聞いた瞬間、未華子の頭の中で、何かが弾け飛んだ。
―――赤い血の匂い。
耳をつんざく銃声。
そして、自分を見下ろす、この男の苦痛に歪んだ顔。
「―――いやあああああああああっ!!」
未華子は、絶叫していた。
「来るな! 来ないで!! 嫌だ、怖い、怖いっ!!」
ベッドの上でシーツを固く握りしめ、パニックを起こして泣き叫ぶ。
その姿に、九十九と佐竹が慌てて駆け寄った。
杉浦はその光景を、ただ車椅子の上で、呆然と見つめることしかできなかった。
絶望が、彼の全身を支配する。
記憶を失わせてしまった。
自分のせいで、あんなに明るかった彼女の全てを奪ってしまった。
そして、自分のこの姿が、声が、彼女をさらに苦しめている。
自分がそばにいるだけで、彼女はあの地獄の記憶を、何度も何度も追体験してしまうのだ。
その二重の事実に、杉浦の心は音も立てずに粉々に砕け散った。
「……ごめん」
絞り出した声は、誰にも届かなかった。
病室に響き渡るのは、ただ、彼女の悲痛な絶叫だけだった。
第二幕:芽生える罪
パーティでの銃撃事件は、表向きは「暴力団の金銭トラブルによる内部抗争」として、早々に片付けられた。
逮捕された実行犯たちは決して口を割らず、その背後にいるであろう本当の黒幕の存在は、深い闇の中に閉ざされたまま。
未華子と、そして杉浦も退院の日を迎えた。
未華子の記憶は、依然として戻らない。
だが、日常生活を送る中で、何かのきっかけで記憶が戻る可能性に賭け、彼女は見慣れないはずの自宅マンションに戻り、そして、他人だらけの「職場」である横浜九十九課へと通うことになった。
「おはよう、ございます」
「おはようございますぞ、未華子氏!」
「……おはよう、未華子」
九十九と佐竹は、努めていつも通りに彼女を迎える。
変わったのは、ただ、彼女だけ。
ぎこちない敬語と怯えたような瞳が、三人の日常に静かな断絶を生んでいた。
そして、その事務所に杉浦の姿はなかった。
あの日以来、彼は徹底的に未華子を避けるようになった。
彼女が事務所にいる時間は、外で聞き込みをし、彼女が帰れば事務所に戻って報告書をまとめる。
すれ違いの生活。
それが、彼女をパニック発作から守るための彼ができる唯一の、そして切なすぎる選択だった。
◎場面転換:杉浦退院の前日[場所:深夜の病院の屋上]
杉浦は一人フェンスにもたれかかり、横浜の夜景をただぼんやりと眺めていた。
そこに、静かな足音と共に佐竹が現れた。
「……寒くないのか、杉浦」
「……佐竹くん。……うん、まあね」
二人の間に、重い沈黙が降りる。
先に口を開いたのは、杉浦だった。
「いやーはは、しかしまいったよね。まさか記憶喪失なんてさ。ドラマかよって感じ」
あどけないほどに明るい声に、佐竹は返す言葉を見失った。
「……お前、笑い事じゃ……」
「笑うしかないでしょ、こんなの」
杉浦はそう言って、乾いた笑みを浮かべた。
だが、その瞳の奥には、笑い事では済まされない、深い絶望の色が揺らめいていた。
「……ねえ、佐竹くん」
杉浦は、夜景から目を離さずに呟いた。
「お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「……なんだ」
「……あの子のこと、頼むよ」
佐竹は何も言わずに、隣に並んで、同じように夜景を見つめた。
「僕はもう、あの子のそばにはいられないからさ。僕の顔見るとダメみたいだし。……パニック、起こしちゃうから」
その声は、どこまでも軽やかだった。
だが、その軽やかさが逆に、彼の心の奥底にある悲痛な叫びを際立たせる。
「だからさ、代わりにそばにいてあげてくんないかな。あんたなら安心だし。頭もいいし、僕みたいにすぐカッとなったりしないしね」
それは、佐竹という男の能力と人間性を心の底から信頼し認めていなければ、決して出てこない言葉。
ライバルとして嫉妬もした。
だがそれ以上に、彼の実力に敬意を抱いていたのだ。
「……いいのか、俺で」
佐竹が、ようやく言葉を紡いだ。
「俺は、お前も知っての通り、一度はあいつを……」
――公安の”駒”として利用しようとした。
「わかってるよ、そんなこと」
杉浦がその言葉を遮る。
そして、初めて佐竹と視線を合わせ、少しだけ、本当に少しだけ、寂しそうに笑った。
「……でもさ、あんたも本気だったんでしょ? あの子のこと」
「……っ!」
「……まあどっちでもいいけどさ。とにかく頼むよ。僕には、もう、何もしてあげられないから」
真っ直ぐで切実な瞳。
目の前の男は、自分の存在を削り取ってでも、一人の女性の幸せを願っている。
その自己犠牲の重さに、息が詰まった。
杉浦は、ふぅと白い息を吐くと踵を返した。
「じゃ、そういうことで。……おやすみ」
去っていく背中に、佐竹はただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……ああ」
絞り出した声は、横浜の冷たい夜風に、かき消された。
言葉を交わす必要はなかった。
それが、崩壊した日常の中で結ばれた、男たちの新しい誓いだった。
◎現在[場所:九十九課事務所]
未華子の隣には、いつも佐竹がいた。
「未華子おはよう。朝飯買ってきたけど、食えるか?」
「あ……佐竹さん、おはようございます。すみません、いつも……」
「いいって。気にすんな」
彼が買ってくるのは、彼女が好きだった照り焼きチキンと玉子のサンドイッチだった。
事務所では、忘れてしまった仕事の手順を、一つ一つ根気強く教えた。
「……この書類の入力、以前の私ならもっと上手くできていたんでしょうか」
不安げに呟く彼女に、佐竹はできるだけ優しい声で応える。
「ああ。正直、俺よりずっと早くて正確だったよ。でも焦んなくていい。ちゃんと俺が、全部サポートするから」
「……はい」
その献身的な優しさに、未華子の心は、少しずつ少しずつ解かされていった。
未華子が夜、一人でいるのが怖いときは、佐竹も一緒に事務所の仮眠室に泊まり込むようになった。
ソファで一人膝を抱える彼女に、温かいココアを差し出す。
「……佐竹さん」
「ん?」
「……あの、佐竹さんはどうして、そんなに私に優しくしてくれるんですか?」
純粋な問いに、佐竹は言葉に詰まった。
(……あいつの代わりだからだよ)
そう言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。
「……昔の君には、いろいろ助けてもらったからな。その恩返しだよ」
それは、半分本当で、半分嘘だった。
「そうなんですね……」
未華子はそう言って、嬉しそうにはにかんだ。
記憶がない自分。
空っぽな自分。
そんな自分に、こんなにも優しくしてくれる人。
未華子の胸に、淡く、確かな好意が芽生え始めるのに、時間はかからなかった。
佐竹も、それをわかっていた。
彼女が、自分に向ける瞳に特別な感情が宿り始めていること。
その事実に、彼の心に、罪深くも甘い期待が芽生えてしまうのを、止めることができなかった。
(……俺が、杉浦の代わりになれるのかもしれない)
それは、かつて公安として他人の人生を駒としてしか見ていなかった自分には、到底考えられない人間的な欲望だった。
――だが、そんな佐竹の淡い期待を、未華子の何気ない一言が、粉々に打ち砕く。
ある日の午後。
九十九課の事務所で、未華子が壁に飾られた一枚の仮面の飾りを、じっと見つめていた。
ジェスターの仮面。
杉浦が、かつて使っていたものだ。
「……佐竹さん」
「……ん?」
「あの、……あれ。なんのお面なんですか?」
「……え?」
「……あれを見ると、なんというか、胸がドキドキするんですよね。全然わからないんですけど。……懐かしいような。切ない、ような」
その無垢な問いに、佐竹は何も答えることができなかった。
ああ、そうか。
こいつの中には、ずっといるんだ。
たとえ記憶がなくなっても、その魂の一番深い場所に、杉浦文也という男がずっとずっといるのだ。
そのどうしようもない事実が、佐竹の胸を強く強く締め付けた。
▼
数日後。
定期検診の帰り道だった。
雑踏の中、未華子はある光景を目にする。
―――ショーウィンドウに飾られた、あのパーティで着ていたものとよく似たネイビーのドレス。
その瞬間、頭をハンマーで殴られたような激しい衝撃が襲った。
「―――っ!」
赤い血。
銃声。
そして、自分を庇って倒れる茶色い髪の男の残像。
「……いやあああっ!」
その場にうずくまり、パニックを起こす未華子。
その様子を、通りの向こう側から、冷たい瞳で見つめている者がいた。
―――あの依頼人。榊と名乗った女だった。
(……記憶が戻り始めている。時間の問題ね)
女は静かにスマートフォンを取り出すと、どこかへ短い指示を飛ばした。
「……消して」
真の黒幕が、ついに最後の牙を剥いたのだ。
