第6話:仮面の告白、裸の真心
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スピンオフ:仮面の下の鼓動【佐竹SIDE】
【序幕:高鳴る】
俺の名前は、松田仁。
職業、警視庁公安部外事四課、潜入捜査官。
それが、俺の全てだった。
「佐竹幸人」という男を演じるのは、造作もないことだった。
横浜市主催の格式の高い会合に特殊なルートで潜り込み、ターゲットと繋がりのある、人の良さそうな老税理士(田所)に取り入る。
人の懐に潜り込むためのペルソナは、完璧に作り上げていた。
――横浜九十九課の人間関係を把握し、彼らを経由して伊勢佐木異人町の裏社会の情報を抜き取る。
それが、俺に与えられた任務。
ターゲットの中心は、橘未華子。
資料上の彼女は、単なる「情報源」だった。
元新聞記者で、正義感が強く、危険な事件に首を突っ込む傾向アリ。
そして、杉浦文也という男に心を寄せている。
好青年「佐竹幸人」として、彼女の相談相手になり、信頼を得て、内情を探る。
簡単な仕事のはずだった。
最初の違和感は、九十九課の事務所で彼女が淹れてくれた、一杯のコーヒーからだった。
「佐竹さん、お疲れさまでーす。どうぞ」
差し出されたマグカップ。
何気ない気遣い。
潜入捜査において、他人から与えられるものは、常に警戒の対象だ。
だが、彼女の「どうぞ」には、裏も計算もなかった。
ただ、疲れている人間を労う、当たり前の優しさだけがあった。
その温かさが、長年、偽りの人間関係の中にいた俺の心を、少しだけ戸惑わせた。
次に心を揺さぶられたのは、事務所での何気ない日常だった。
九十九と杉浦、そして彼女。
三人の、まるで本当の家族のような空気感。
杉浦をからかいながらも、その実力を誰よりも信頼している彼女の眼差し。
九十九の奇行を、呆れながらも温かく見守る、姉のような優しさ。
俺は、「佐竹幸人」として完璧にその輪に溶け込み、笑っていた。
だが、仮面の下の「松田仁」は、ただ、その光景を、眩しいものを見るように羨望の目で見つめていた。
俺が、生涯手に入れることのできない「居場所」が、そこにはあった。
決定的な瞬間は、ある日の昼下がり事務所で起きた。
連日の潜入任務で、少しだけ疲れていたのかもしれない。
彼女が差し出してくれた温かいコーヒーを受け取り、一口飲もうとした。
だがその時、一瞬だけ意識が飛んだ。
カップが、口元に届いていなかったのだ。
熱い液体が、俺の白いシャツの胸元にじわりと染みを作った。
「……っ!」
失態だ。
完璧な「佐竹幸人」にあるまじきミス。
「わ、大丈夫ですか? 火傷してないです?」
「あぁはい、全然……」
単なるドジだと分かったところで、彼女は、怒るでも呆れるでもなく、くすくすと楽しそうに笑ったのだ。
「ふふっ。佐竹さんも、意外とドジなとこ、あるんですね~」
そう言って、当たり前のように布巾でテーブルを拭き、新しいおしぼりを差し出してくれる彼女。
その何でもない一言と屈託のない笑顔が、俺の心を完全に破壊した。
俺の完璧な「演技」ではなく、俺の「失敗」を、彼女は笑って受け入れてくれた。
その瞬間から、俺の中で、何かが決定的に変わってしまった。
ターゲットを見る目が、一人の、気になる女性を見る目に。
だから、あの星空観察ツアーは地獄だった。
任務としては、彼女と二人きりになれる絶好の機会。
だが、俺の心は任務とは別の目的で高鳴っていた。
満点の星空の下。
彼女の横顔が、月明かりに照らされて、目を逸らせなかった。
――もう、ダメだった。
計画も任務も、全てがどうでもよくなった。
俺は、公安捜査官・松田仁としてではなく、ただの男として、彼女に想いを告げていた。
「……一目惚れに、近いのかもしれません。…人生で初めての、ね」
あれは、ターゲットを懐柔するための演技じゃない。
本心だった。
彼女が困ったように、でも、誠実に俺を拒絶した時。
俺の心は、任務が成功した安堵と、一人の男として失恋した絶望でぐちゃぐちゃになった。
だから、最後に言ってしまったのだ。
「俺は、諦めませんから」
あれも演技じゃない。
任務を逸脱した、俺自身の心の叫びだ。
俺は、とんでもない過ちを犯した。
潜入捜査官が、ターゲットに本気で惚れてしまったのだから。
【第一幕:堕ちる】
星空の下で、俺は任務を逸脱した。
公安捜査官・松田仁としてではなく、佐竹幸人という架空の男ですらなく、ただの一人の男として橘未華子に想いを告げた。
あの夜から、俺の世界は静かに狂い始めた。
「佐竹幸人」の仮面を被り、九十九課のメンバーと笑い合う。
その時間が、温かい陽だまりのように心地よく、そして同時に鋭い刃のように俺の心を切り裂いた。
彼らを欺き、彼らの信頼を利用している。
その罪悪感は、日に日に重くなる。
夜になれば、俺は「ベイサイド・サーベル」のリーダーに戻る。
これもまた、公安としての任務の一環。
この取るに足らない半グレ集団に潜入し、情報を抜き取り、そして最終的には、この組織ごと三すくみと共倒れさせる。
そのための「リーダー」という仮面。
目の前で繰り広げられる、下劣な犯罪計画。
俺は、その中心で冷徹なリーダーを演じなければならない。
どっちが本当の俺だ?
もう、わからなかった。
迫田さんからの次の通告が来たのは、そんな時だった。
『松田。その「ウサギ」を餌として使え』
短く、乾いた命令。
それは、作戦を「収穫」のフェーズへと移行させる合図だった。
潜入先のターゲット(未華子)に正体を明かし、恐怖と混乱を煽って駒として利用する。
彼女を釣り餌にして、まずはベイサイド・サーベルを検挙する。
わかっていたことだ。
これが、当初からの計画。
だが、その命令は想像を絶する重みで、俺の心にのしかかった。
あの不器用なくらい真っ直ぐな女性を、この薄汚いゲームの駒として使い潰す。
それが、俺が信じてきた「正義」なのか?
あの日、雑居ビルで彼女を待つ時間は永遠のように感じられた。
リーダーとしての冷酷な嘲笑を、顔に張り付ける。
彼女が現れた瞬間、その「信じられない」という絶望に満ちた瞳を見て、俺の心は完全に砕け散った。
言葉が、刃となって彼女を抉っていく。
「最高の情報源でしたよ」
そう言った時、仮面の下の俺は泣いていた。
杉浦と趙が飛び込んできた時、俺は、心のどこかで安堵していたのかもしれない。
早くこの茶番を終わらせてくれ、と。
彼女を人質に取り、窓枠に追い詰められる。
これも計画通り。
公安が突入するまでの時間稼ぎ。
だが彼女は、俺の計算を、公安の計画を、全てたった一つの行動で凌駕した。
唇に触れた、柔らかくて震える感触。
驚愕に目を見開いた俺の目に映ったのは、彼女の悲しい決意の瞳だった。
―――一人で、終わらせる気だ。
その、あっけなくも重い覚悟を理解した瞬間。
彼女の身体が、俺の拘束を振りほどき、窓の外へと消えていく。
俺の身体は、思考よりも早く動いていた。
消えゆく腕を掴み、引き寄せようとする。
だが、間に合わない。
俺の身体ごと、夜の闇へと吸い込まれていった。
落下する、ほんの数秒。
俺は、初めて神に祈ったのかもしれない。
―――間に合ってくれ、と。
【第二幕:賭ける】
あの夜、ベイサイド・サーベルは、計画通り警察の一斉検挙によって壊滅した。
迫田さんと俺が仕組んだ、シナリオ通り。
だが、俺の心には、計画の成功とは程遠い絶望だけが残っていた。
最後の光景。
俺の嘘と裏切りに全てを諦め、その身を虚空へと投じた彼女の悲しい瞳。
あの瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
あの瞬間、俺は、本当の意味で、公安を「裏切る」ことを決意したのかもしれない。
この女性の人生を、国の大義という名の空っぽな理想のために犠牲にはできない。
だが、公安に正面から逆らえば、俺も、そして、九十九課も消される。
選択肢は、一つしかなかった。
毒を以て、毒を制す。
その夜、俺はたった一人で、横浜流氓の元総帥・趙天佑の前に立った。
「……面白い冗談だねぇ。君が、公安?」
「ええ。そして、あなた方の組織は今、壊滅の危機にある」
俺は、公安の計画の全てを洗いざらい話した。
内部にスパイが潜り込み、抗争を煽り、自滅させようとしていること。
そして、その最終目的のために、橘未華子という女性が駒として使われようとしていること。
次に、コミジュルのアジトへ向かった。
ソンヒという女は、趙天佑以上に、冷静でそして鋭かった。
「……お前の話、信じるメリットが私には見当たらないな」
「メリットはあります。あなた方が最も嫌う、外部からの侵入者を完全に排除できる。そのためには、俺の情報が必要不可欠なはず」
そして、横浜星龍会。
会長の高部守は、俺を値踏みするように見つめていた。
「……筋は通っているように聞こえるな。だが、お前を信じる担保はどこにある?」
「……ありません。……この『命』以外には」
最後に向かったのは、横浜流氓の現総帥であり、異人三の頂点に君臨するあの男の元だった。
東鞘会会長、十朱雅。
彼は、俺の話を、ただ面白そうに聞いていた。
「……で? お前は、俺に何をさせたい?」
「協力を仰ぎたい。あなたにとっても、邪魔な公安の犬 を一掃するチャンスです」
十朱は、ふ、と笑った。
「俺が動く理由はそれだけか?」
俺は、最後のカードを切った。
「……彼女は、橘未華子は、追い詰められたら、責任を感じて自ら命を絶とうと行動を起こす。俺にはわかる。――彼女を救えるのは、もう、あなたたちしかいない」
それは、捜査官としてではなく、ただ彼女の心を理解してしまった、一人の男としての必死の懇願だった。
四人の王たちは、それぞれの思惑で、俺の無謀な賭けに乗った。
公安のシナリオを、裏社会の暴力で塗りつぶす。
これが、俺が選んだ唯一の「落とし前」だった。
【第三幕:生きる】
屋上の縁に立ち、迫田と対峙する。
眼下では、異人三の精鋭たちが公安の描いた筋書きを無慈悲に蹂躙していた。
すべては、俺が裏社会の王たちに差し出した「毒」が回った結果――俺の描いた逆襲劇。
だが、俺の心は、不思議なほど静かだった。
「……………これが、お前の答えか、松田」
激昂し、理性を失いつつあるかつての上司。
その声を、今の俺はひどく遠くで聞いていた。
「……もう、うんざりなんですよ」
「……なに?」
「国だの、正義だの、組織だの……。…もう、そういう、くだらないお遊びに飽きたんです」
優しい税理士の笑顔も、冷酷な半グレグループのリーダーの嘲笑も、そこにはない。
すべての仮面を剥ぎ取り、剥き出しの「個」となった松田仁が、ただそこに立っていた。
脳裏に焼き付いて離れない光景。
それは、すべてを諦め、それでも守るべきもののために虚空へと身を投げた彼女の震える肩。
絶望に満ちた瞳、そして唇に残った死を覚悟した熱量。
あれが、俺の見た真実だ。
理屈じゃない。
正義でもない。
ただ、守りたいものがそこにあった。
それだけだ。
――俺は、公安を辞めた。
エースとしての未来も、約束された地位も、全て捨てる。
偽りの人生はもういらない。
ただ、あの平穏という名の陽だまりに帰りたい。
もう一度、彼女が淹れたあのやけに美味いコーヒーが飲みたい。
そして今度こそ、本当の自分で。
彼女にもう一度だけ謝って、そして伝えたい。
――あの星空の下での告白だけは、嘘じゃなかったと。
ただ、それだけのために。
俺は初めて、誰かのためではなく、俺自身の人生を生きることを決めたのだ。
【第四幕:誓う】
「佐竹」として九十九課で働き始めて、一ヶ月が経った。
俺の本名が「松田仁」であることも、元公安であることも、今では笑い話の一つだ。
「はい、パシリの佐竹! この領収書、整理しといて!」
未華子に顎で使われるのも、日常の風景になった。
彼女は、あの告白のことも星空の下での出来事も、全て「任務のための演技」だったと信じている。
それが、今の俺たちにとって一番居心地の良い距離感なのだとわかっていた。
その夜。
珍しく、事務所には俺と杉浦の二人だけだった。
九十九はドローンの新作パーツを買いにアキバへ、未華子は海藤さんたちと夕食に出かけている。
少しだけ気まずい沈黙。
杉浦は、ソファでスマホをいじり、俺はデスクで経理ソフトと向き合う。
あいつは、まだ俺のことを心の底では許していないのだろう。
当然だ。
「……ねえ」
不意に、杉浦がスマホから目を離さずに呟いた。
「あんたさ、あの告白、本気だったんでしょ」
―――どくん。
心臓が、大きく跳ねた。
顔には出さない。
長年の訓練で、ポーカーフェイスは得意だ。
「……何の話だ?」
「とぼけないでよ。星空ツアーの日の、あれだよ」
杉浦が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、いつもの気だるげなものではなく、全てを見透かすような鋭い光を宿していた。
「……あれは、任務の一環だったと言ったはずだが」
「嘘つけ。……僕でもわかるよ」
杉浦は、ソファから立ち上がると、俺のデスクの前に立った。
「だって、あの時のあんたの顔。……未華子ちゃんが窓から飛び降りたとき」
「…僕が初めて、未華子ちゃんを助けなきゃって、本気で思った時の顔と同じ顔してたから」
直感的で、本質を射抜く一言。
見抜かれていた。
直感だけで生きているような男に、俺の心の一番深いところを。
「……だとしても、今さらどうだって言うんだ。終わった話だろ」
「終わってないよ」
杉浦の声は、静かだがどこか切実な響きを持っていた。
「あんたはこれからも、ここにいるんだ。あの子のすぐ隣に」
そして彼は少しだけ、本当に少しだけためらうように、視線を泳がせた。
まるで、言葉を探すように。
「……だから、言っとく」
彼は一度唇を噛むと、意を決したように真っ直ぐに俺の目を見た。
「あの子のこと、頼むよ」
「……は?」
予想外の言葉に、俺は素で間の抜けた声を出してしまった。
「あんたの方が、頭もいいし大人だし。それに、あの子が無理してる時ちゃんと気づいてあげれるでしょ」
杉浦は自嘲するように少しだけ笑った。
「僕には、そういう気の利いたことできないから。……見てるだけで、精一杯なんだ」
それは宣戦布告なんかじゃなかった。
彼が、どれだけ未華子のことを想い、そして自分に自信が持てずにいるか。
不器用で痛々しいほどの、誠実さの塊だった。
俺は呆気にとられていた。
そして次の瞬間、どうしようもないほどの愛おしさがこみ上げてきた。
――こいつには、敵わない。
本気でそう思った。
俺は椅子から立ち上がると、杉浦の肩を、ポンと叩いた。
「……安心しろよ、杉浦」
そこに、偽りの声はない。
この純情なライバルの眩しいほどの誠実さに、完全に心を絆されてしまった、ただの一人の男の偽らざる本音だった。
「あのな。俺は、略奪とか三角関係だとか、そういうドロドロしたのは趣味じゃない」
「……?」
「あいつが、本当に幸せになれる相手は、お前しかいないだろ。俺にはわかる」
だから、俺はこの気持ちを、「見守り役」という名の距離感に書き換えることにした。
一人の男としてではなく、彼女の、そしてこの不器用な男の一番の味方として、この場所にいると。
「……お前こそ、あいつのことちゃんと守ってやれよ。もし、泣かせでもしたら……」
俺はニヤリと、少しだけ意地悪く笑った。
「……俺が、横から掻っ攫うからな」
その言葉に、杉浦は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに子供のように顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……わかってるよ、そんなこと!」
静かな事務所に、二人分の少しだけ照れくさい笑い声が響いた。
ああ、こいつらの隣は、本当に居心地がいい。
俺は、心の底からそう思った。
<了>
【序幕:高鳴る】
俺の名前は、松田仁。
職業、警視庁公安部外事四課、潜入捜査官。
それが、俺の全てだった。
「佐竹幸人」という男を演じるのは、造作もないことだった。
横浜市主催の格式の高い会合に特殊なルートで潜り込み、ターゲットと繋がりのある、人の良さそうな老税理士(田所)に取り入る。
人の懐に潜り込むためのペルソナは、完璧に作り上げていた。
――横浜九十九課の人間関係を把握し、彼らを経由して伊勢佐木異人町の裏社会の情報を抜き取る。
それが、俺に与えられた任務。
ターゲットの中心は、橘未華子。
資料上の彼女は、単なる「情報源」だった。
元新聞記者で、正義感が強く、危険な事件に首を突っ込む傾向アリ。
そして、杉浦文也という男に心を寄せている。
好青年「佐竹幸人」として、彼女の相談相手になり、信頼を得て、内情を探る。
簡単な仕事のはずだった。
最初の違和感は、九十九課の事務所で彼女が淹れてくれた、一杯のコーヒーからだった。
「佐竹さん、お疲れさまでーす。どうぞ」
差し出されたマグカップ。
何気ない気遣い。
潜入捜査において、他人から与えられるものは、常に警戒の対象だ。
だが、彼女の「どうぞ」には、裏も計算もなかった。
ただ、疲れている人間を労う、当たり前の優しさだけがあった。
その温かさが、長年、偽りの人間関係の中にいた俺の心を、少しだけ戸惑わせた。
次に心を揺さぶられたのは、事務所での何気ない日常だった。
九十九と杉浦、そして彼女。
三人の、まるで本当の家族のような空気感。
杉浦をからかいながらも、その実力を誰よりも信頼している彼女の眼差し。
九十九の奇行を、呆れながらも温かく見守る、姉のような優しさ。
俺は、「佐竹幸人」として完璧にその輪に溶け込み、笑っていた。
だが、仮面の下の「松田仁」は、ただ、その光景を、眩しいものを見るように羨望の目で見つめていた。
俺が、生涯手に入れることのできない「居場所」が、そこにはあった。
決定的な瞬間は、ある日の昼下がり事務所で起きた。
連日の潜入任務で、少しだけ疲れていたのかもしれない。
彼女が差し出してくれた温かいコーヒーを受け取り、一口飲もうとした。
だがその時、一瞬だけ意識が飛んだ。
カップが、口元に届いていなかったのだ。
熱い液体が、俺の白いシャツの胸元にじわりと染みを作った。
「……っ!」
失態だ。
完璧な「佐竹幸人」にあるまじきミス。
「わ、大丈夫ですか? 火傷してないです?」
「あぁはい、全然……」
単なるドジだと分かったところで、彼女は、怒るでも呆れるでもなく、くすくすと楽しそうに笑ったのだ。
「ふふっ。佐竹さんも、意外とドジなとこ、あるんですね~」
そう言って、当たり前のように布巾でテーブルを拭き、新しいおしぼりを差し出してくれる彼女。
その何でもない一言と屈託のない笑顔が、俺の心を完全に破壊した。
俺の完璧な「演技」ではなく、俺の「失敗」を、彼女は笑って受け入れてくれた。
その瞬間から、俺の中で、何かが決定的に変わってしまった。
ターゲットを見る目が、一人の、気になる女性を見る目に。
だから、あの星空観察ツアーは地獄だった。
任務としては、彼女と二人きりになれる絶好の機会。
だが、俺の心は任務とは別の目的で高鳴っていた。
満点の星空の下。
彼女の横顔が、月明かりに照らされて、目を逸らせなかった。
――もう、ダメだった。
計画も任務も、全てがどうでもよくなった。
俺は、公安捜査官・松田仁としてではなく、ただの男として、彼女に想いを告げていた。
「……一目惚れに、近いのかもしれません。…人生で初めての、ね」
あれは、ターゲットを懐柔するための演技じゃない。
本心だった。
彼女が困ったように、でも、誠実に俺を拒絶した時。
俺の心は、任務が成功した安堵と、一人の男として失恋した絶望でぐちゃぐちゃになった。
だから、最後に言ってしまったのだ。
「俺は、諦めませんから」
あれも演技じゃない。
任務を逸脱した、俺自身の心の叫びだ。
俺は、とんでもない過ちを犯した。
潜入捜査官が、ターゲットに本気で惚れてしまったのだから。
【第一幕:堕ちる】
星空の下で、俺は任務を逸脱した。
公安捜査官・松田仁としてではなく、佐竹幸人という架空の男ですらなく、ただの一人の男として橘未華子に想いを告げた。
あの夜から、俺の世界は静かに狂い始めた。
「佐竹幸人」の仮面を被り、九十九課のメンバーと笑い合う。
その時間が、温かい陽だまりのように心地よく、そして同時に鋭い刃のように俺の心を切り裂いた。
彼らを欺き、彼らの信頼を利用している。
その罪悪感は、日に日に重くなる。
夜になれば、俺は「ベイサイド・サーベル」のリーダーに戻る。
これもまた、公安としての任務の一環。
この取るに足らない半グレ集団に潜入し、情報を抜き取り、そして最終的には、この組織ごと三すくみと共倒れさせる。
そのための「リーダー」という仮面。
目の前で繰り広げられる、下劣な犯罪計画。
俺は、その中心で冷徹なリーダーを演じなければならない。
どっちが本当の俺だ?
もう、わからなかった。
迫田さんからの次の通告が来たのは、そんな時だった。
『松田。その「ウサギ」を餌として使え』
短く、乾いた命令。
それは、作戦を「収穫」のフェーズへと移行させる合図だった。
潜入先のターゲット(未華子)に正体を明かし、恐怖と混乱を煽って駒として利用する。
彼女を釣り餌にして、まずはベイサイド・サーベルを検挙する。
わかっていたことだ。
これが、当初からの計画。
だが、その命令は想像を絶する重みで、俺の心にのしかかった。
あの不器用なくらい真っ直ぐな女性を、この薄汚いゲームの駒として使い潰す。
それが、俺が信じてきた「正義」なのか?
あの日、雑居ビルで彼女を待つ時間は永遠のように感じられた。
リーダーとしての冷酷な嘲笑を、顔に張り付ける。
彼女が現れた瞬間、その「信じられない」という絶望に満ちた瞳を見て、俺の心は完全に砕け散った。
言葉が、刃となって彼女を抉っていく。
「最高の情報源でしたよ」
そう言った時、仮面の下の俺は泣いていた。
杉浦と趙が飛び込んできた時、俺は、心のどこかで安堵していたのかもしれない。
早くこの茶番を終わらせてくれ、と。
彼女を人質に取り、窓枠に追い詰められる。
これも計画通り。
公安が突入するまでの時間稼ぎ。
だが彼女は、俺の計算を、公安の計画を、全てたった一つの行動で凌駕した。
唇に触れた、柔らかくて震える感触。
驚愕に目を見開いた俺の目に映ったのは、彼女の悲しい決意の瞳だった。
―――一人で、終わらせる気だ。
その、あっけなくも重い覚悟を理解した瞬間。
彼女の身体が、俺の拘束を振りほどき、窓の外へと消えていく。
俺の身体は、思考よりも早く動いていた。
消えゆく腕を掴み、引き寄せようとする。
だが、間に合わない。
俺の身体ごと、夜の闇へと吸い込まれていった。
落下する、ほんの数秒。
俺は、初めて神に祈ったのかもしれない。
―――間に合ってくれ、と。
【第二幕:賭ける】
あの夜、ベイサイド・サーベルは、計画通り警察の一斉検挙によって壊滅した。
迫田さんと俺が仕組んだ、シナリオ通り。
だが、俺の心には、計画の成功とは程遠い絶望だけが残っていた。
最後の光景。
俺の嘘と裏切りに全てを諦め、その身を虚空へと投じた彼女の悲しい瞳。
あの瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
あの瞬間、俺は、本当の意味で、公安を「裏切る」ことを決意したのかもしれない。
この女性の人生を、国の大義という名の空っぽな理想のために犠牲にはできない。
だが、公安に正面から逆らえば、俺も、そして、九十九課も消される。
選択肢は、一つしかなかった。
毒を以て、毒を制す。
その夜、俺はたった一人で、横浜流氓の元総帥・趙天佑の前に立った。
「……面白い冗談だねぇ。君が、公安?」
「ええ。そして、あなた方の組織は今、壊滅の危機にある」
俺は、公安の計画の全てを洗いざらい話した。
内部にスパイが潜り込み、抗争を煽り、自滅させようとしていること。
そして、その最終目的のために、橘未華子という女性が駒として使われようとしていること。
次に、コミジュルのアジトへ向かった。
ソンヒという女は、趙天佑以上に、冷静でそして鋭かった。
「……お前の話、信じるメリットが私には見当たらないな」
「メリットはあります。あなた方が最も嫌う、外部からの侵入者を完全に排除できる。そのためには、俺の情報が必要不可欠なはず」
そして、横浜星龍会。
会長の高部守は、俺を値踏みするように見つめていた。
「……筋は通っているように聞こえるな。だが、お前を信じる担保はどこにある?」
「……ありません。……この『命』以外には」
最後に向かったのは、横浜流氓の現総帥であり、異人三の頂点に君臨するあの男の元だった。
東鞘会会長、十朱雅。
彼は、俺の話を、ただ面白そうに聞いていた。
「……で? お前は、俺に何をさせたい?」
「協力を仰ぎたい。あなたにとっても、邪魔な
十朱は、ふ、と笑った。
「俺が動く理由はそれだけか?」
俺は、最後のカードを切った。
「……彼女は、橘未華子は、追い詰められたら、責任を感じて自ら命を絶とうと行動を起こす。俺にはわかる。――彼女を救えるのは、もう、あなたたちしかいない」
それは、捜査官としてではなく、ただ彼女の心を理解してしまった、一人の男としての必死の懇願だった。
四人の王たちは、それぞれの思惑で、俺の無謀な賭けに乗った。
公安のシナリオを、裏社会の暴力で塗りつぶす。
これが、俺が選んだ唯一の「落とし前」だった。
【第三幕:生きる】
屋上の縁に立ち、迫田と対峙する。
眼下では、異人三の精鋭たちが公安の描いた筋書きを無慈悲に蹂躙していた。
すべては、俺が裏社会の王たちに差し出した「毒」が回った結果――俺の描いた逆襲劇。
だが、俺の心は、不思議なほど静かだった。
「……………これが、お前の答えか、松田」
激昂し、理性を失いつつあるかつての上司。
その声を、今の俺はひどく遠くで聞いていた。
「……もう、うんざりなんですよ」
「……なに?」
「国だの、正義だの、組織だの……。…もう、そういう、くだらないお遊びに飽きたんです」
優しい税理士の笑顔も、冷酷な半グレグループのリーダーの嘲笑も、そこにはない。
すべての仮面を剥ぎ取り、剥き出しの「個」となった松田仁が、ただそこに立っていた。
脳裏に焼き付いて離れない光景。
それは、すべてを諦め、それでも守るべきもののために虚空へと身を投げた彼女の震える肩。
絶望に満ちた瞳、そして唇に残った死を覚悟した熱量。
あれが、俺の見た真実だ。
理屈じゃない。
正義でもない。
ただ、守りたいものがそこにあった。
それだけだ。
――俺は、公安を辞めた。
エースとしての未来も、約束された地位も、全て捨てる。
偽りの人生はもういらない。
ただ、あの平穏という名の陽だまりに帰りたい。
もう一度、彼女が淹れたあのやけに美味いコーヒーが飲みたい。
そして今度こそ、本当の自分で。
彼女にもう一度だけ謝って、そして伝えたい。
――あの星空の下での告白だけは、嘘じゃなかったと。
ただ、それだけのために。
俺は初めて、誰かのためではなく、俺自身の人生を生きることを決めたのだ。
【第四幕:誓う】
「佐竹」として九十九課で働き始めて、一ヶ月が経った。
俺の本名が「松田仁」であることも、元公安であることも、今では笑い話の一つだ。
「はい、パシリの佐竹! この領収書、整理しといて!」
未華子に顎で使われるのも、日常の風景になった。
彼女は、あの告白のことも星空の下での出来事も、全て「任務のための演技」だったと信じている。
それが、今の俺たちにとって一番居心地の良い距離感なのだとわかっていた。
その夜。
珍しく、事務所には俺と杉浦の二人だけだった。
九十九はドローンの新作パーツを買いにアキバへ、未華子は海藤さんたちと夕食に出かけている。
少しだけ気まずい沈黙。
杉浦は、ソファでスマホをいじり、俺はデスクで経理ソフトと向き合う。
あいつは、まだ俺のことを心の底では許していないのだろう。
当然だ。
「……ねえ」
不意に、杉浦がスマホから目を離さずに呟いた。
「あんたさ、あの告白、本気だったんでしょ」
―――どくん。
心臓が、大きく跳ねた。
顔には出さない。
長年の訓練で、ポーカーフェイスは得意だ。
「……何の話だ?」
「とぼけないでよ。星空ツアーの日の、あれだよ」
杉浦が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、いつもの気だるげなものではなく、全てを見透かすような鋭い光を宿していた。
「……あれは、任務の一環だったと言ったはずだが」
「嘘つけ。……僕でもわかるよ」
杉浦は、ソファから立ち上がると、俺のデスクの前に立った。
「だって、あの時のあんたの顔。……未華子ちゃんが窓から飛び降りたとき」
「…僕が初めて、未華子ちゃんを助けなきゃって、本気で思った時の顔と同じ顔してたから」
直感的で、本質を射抜く一言。
見抜かれていた。
直感だけで生きているような男に、俺の心の一番深いところを。
「……だとしても、今さらどうだって言うんだ。終わった話だろ」
「終わってないよ」
杉浦の声は、静かだがどこか切実な響きを持っていた。
「あんたはこれからも、ここにいるんだ。あの子のすぐ隣に」
そして彼は少しだけ、本当に少しだけためらうように、視線を泳がせた。
まるで、言葉を探すように。
「……だから、言っとく」
彼は一度唇を噛むと、意を決したように真っ直ぐに俺の目を見た。
「あの子のこと、頼むよ」
「……は?」
予想外の言葉に、俺は素で間の抜けた声を出してしまった。
「あんたの方が、頭もいいし大人だし。それに、あの子が無理してる時ちゃんと気づいてあげれるでしょ」
杉浦は自嘲するように少しだけ笑った。
「僕には、そういう気の利いたことできないから。……見てるだけで、精一杯なんだ」
それは宣戦布告なんかじゃなかった。
彼が、どれだけ未華子のことを想い、そして自分に自信が持てずにいるか。
不器用で痛々しいほどの、誠実さの塊だった。
俺は呆気にとられていた。
そして次の瞬間、どうしようもないほどの愛おしさがこみ上げてきた。
――こいつには、敵わない。
本気でそう思った。
俺は椅子から立ち上がると、杉浦の肩を、ポンと叩いた。
「……安心しろよ、杉浦」
そこに、偽りの声はない。
この純情なライバルの眩しいほどの誠実さに、完全に心を絆されてしまった、ただの一人の男の偽らざる本音だった。
「あのな。俺は、略奪とか三角関係だとか、そういうドロドロしたのは趣味じゃない」
「……?」
「あいつが、本当に幸せになれる相手は、お前しかいないだろ。俺にはわかる」
だから、俺はこの気持ちを、「見守り役」という名の距離感に書き換えることにした。
一人の男としてではなく、彼女の、そしてこの不器用な男の一番の味方として、この場所にいると。
「……お前こそ、あいつのことちゃんと守ってやれよ。もし、泣かせでもしたら……」
俺はニヤリと、少しだけ意地悪く笑った。
「……俺が、横から掻っ攫うからな」
その言葉に、杉浦は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに子供のように顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……わかってるよ、そんなこと!」
静かな事務所に、二人分の少しだけ照れくさい笑い声が響いた。
ああ、こいつらの隣は、本当に居心地がいい。
俺は、心の底からそう思った。
<了>
