第6話:仮面の告白、裸の真心
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第三幕:砕け散る仮面
佐竹が姿を消し、彼が率いていた半グレ集団「ベイサイド・サーベル」は、警察の一斉検挙によって壊滅したはずだった。
だが、伊勢佐木異人町に平穏は戻らなかった。
まるで、抑えが効かなくなったかのように、横浜流氓、コミジュル、そして横浜青龍会の内部で、小規模な抗争が頻発するようになったのだ。
街を支配していた「三すくみ」の絶妙なバランスが、明らかに崩れ始めている。
その不穏な空気は、確実に街全体を蝕んでいた。
「……私のせいだ」
九十九課の事務所で、ネットニュースに流れる抗争の記事を見ながら、未華子は唇を噛み締めていた。
自分が佐竹に利用されたことで、街の均衡が崩れてしまった。
その罪悪感が、重い鎖となって彼女の心を縛り付けていた。
*
そんな、数日後のある夜。
一本のメッセージが届く。
『未華子さん。全てをお話しします』
差出人は、姿を消した佐竹幸人。
指定された場所は、伊勢佐木異人町に新しくできた、高層ホテルの屋上だった。
「一人で行く。これは、私がケリをつけなきゃいけない問題だから」
案の定、九十九と杉浦に止められたが、未華子の決意は固かった。
「もし、私が戻らなかったら……その時は、二人で逃げて」
悲痛な覚悟を前に、二人は、ただ彼女の背中を見送ることしかできなかった。
冬の乾いた風が容赦なく吹き荒れる、ホテルの屋上。
そこに立っていたのは、佐竹一人ではなかった。
傍らには、穏やかな笑みを湛えたスーツ姿の中年男性が、静かに立っていた。
だが、その柔和な笑顔とは裏腹に、瞳の奥は一切の感情が読み取れない、生物としての体温を全く感じさせない冷たさだけが宿っていた。
「初めまして、橘未華子さん。私は警視庁公安部の
―――公安。
その言葉に、未華子の思考が停止する。
「松田くんは、私の部下だ。……ああ、君たちにとっては『佐竹くん』、だったかな。優秀な潜入捜査官だよ」
佐竹が、――いや、松田が、ゆっくりと顔を上げる。
その顔に、いつもの優しい笑顔も、あの時の冷酷な嘲笑もない。
ただ、無表情が張り付いているだけだった。
――全ては、この国の治安維持のため。
「異人三」の均衡を内部から崩壊させ、一網打尽にするための、公安の壮大な作戦。
そのための駒として、佐竹はベイサイド・サーベルに潜入し、そして、税理士として未華子に近づいた。
「今、伊勢佐木異人町の裏社会は、我々の計画通り自滅へと向かっている」
迫田は、まるで天気の話でもするかのように、淡々と語る。
「だが、仕上げにはあなたの力が必要だ。我々の
その見返りは、九十九課の安全。
協力しないのなら、横浜九十九課は、裏社会と通じた「犯罪幇助組織」として明日にも摘発される。
絶望的な二択。
(趙さんやソンヒさんたちを裏切るなんて、そんなことできるはずがない)
(でも、断れば、九十九氏も杉浦くんも……)
(……ああ、そっか)
――全ての元凶は、自分なのだ。
私がこの街に来たから。
私が、彼らと関わってしまったから。
私がいるから、みんなが不幸になる。
なら、答えは一つしかない。
九十九課は、もともと九十九氏と杉浦くんの二人で始まった。
私がいなくなっても何の問題もない。
私が、この世界から消えれば、全てが元通りになる。
「……わかりました」
未華子は、小さく息を吐くように笑った。
全てを諦め、全てを受け入れたその表情は、どこか俗世から切り離されたような、透き通った静謐さを湛えている。
彼女は、迫田ではなく、隣に立つ佐竹の瞳だけを真っ直ぐに射抜いた。
「……私ね。この、どうしようもない、ごちゃごちゃした街が、たまらなく好きだった」
「……!」
「趙さんもソンヒさんも。九十九課のみんなも。…大好きで、大切な人たちだったんだよ」
凪のように穏やかな声。
だが、その響きには退路を断った者特有の重みが宿っていた。
「―――だから、もう、誰も傷つけないで」
「……これで終わりにして」
言い終えるが早いか、彼女は何の躊躇もなくフェンスを乗り越える。
そして、夜の重力に身を委ね、虚空へとその身体を投げ出した。
「なっ!?」
迫田の驚愕を背後に、未華子は闇へと沈んでいく。
あのときのように、もう、その腕を掴むものは、ここにはいない。
もう、誰の指先も届くはずがない――。
―――はずだった。
ごふんっ、と。
肺の中の空気をすべて吐き出すような、間の抜けた衝撃。
背中を打つはずの硬い拒絶はなかった。
未華子の身体を沈み込ませたのは、アスファルトではなく、空気をはらんだ巨大な弾力だった。
目を開いた彼女の視界に飛び込んできたのは、ホテルの駐車場を埋め尽くす、鮮やかなオレンジ色の面。
消防用エアマットが、隙間なく敷き詰められていたのだ。
そのマットを音もなく運搬し、盤石に支えていたのは、横浜流氓とコミジュル、東鞘会からが誇る
そのマットから少し離れた場所で、不遜に腕を組み、未華子の方を見上げているのは趙天佑とソンヒ。
その傍らには、心配そうな顔をした杉浦と九十九の姿もあった。
――一体、何が起きているのか。
状況を理解できないのは、屋上に残された迫田も同じだった。
「……松田! これは、どういうことだ!」
怒りに震える声。
対峙する佐竹――いや、松田仁は、初めてその仮面を脱いだ。
上司を見据える瞳には、剥き出しの敵意と、絶対零度の冷徹さが同居している。
「……ゲームオーバーです。迫田さん」
すべては、松田仁という男が独りで描き、公安の組織網すら欺き抜いた、緻密な二重スパイ作戦の結果だった。
彼は、公安を裏切ることを決意していた。
守るべきは、大義名分を掲げた組織の命令などではない。
泥を啜りながらも懸命に生きる、たった一人の女性が守り続けてきた「日常」なのだ、と。
数日前、佐竹は自らの正体と公安の計画の全てを、趙天佑、ソンヒ、高部守、そして十朱雅に打ち明けた。
そして、提案したのだ。
公安を欺き、彼らがこの街に潜ませた全ての
佐竹は、未華子の危ういほどの自己犠牲の精神も、計算に入れていた。
彼女が仲間を救うために自らの命を投げ出すその瞬間こそが、迫田が完全に油断する、最高の「合図」なのだ、と。
彼は、その一点に彼女を救い、街を守り抜く唯一の勝機を懸けた。
「……馬鹿な真似を……! お前は、この国を裏切る気か!」
「あんたらがやろうとしてたことの方が、よっぽど、この国の正義に反してる」
その言葉が、見えない引き金を引いた。
ホテルの全階層、そして異人町のいたる場所で、一斉に戦火が噴き上がる。
ホテルを包囲していたはずの公安の手駒たちは、いつの間にか、その背後を取っていた横浜流氓の男たちによって、次々と無力化されていく。
内部に潜伏していた公安のスパイたちも、逃げ場のないほど精密に張り巡らされたコミジュルの網にかかり、一人、また一人と音もなく闇へと葬り去られていく。
そして、この屋上。
迫田の背後の扉が蹴破られ、なだれ込んできたのは、横浜星龍会の高部率いる精鋭たち。
「異人三」は、今、この瞬間、完全に一つの「牙」となったのだ。
「……………これが、お前の答えか、松田」
逃げ場を失った迫田が、忌々しげに吐き捨てる。
「ええ」
彼は、静かに頷いた。
「―――もう、うんざりなんですよ」
「……なに?」
「国だの、正義だの、組織だの……。…もう、そういう、くだらないお遊びに飽きたんです」
それは、大義を何よりも重んじてきた迫田にとって、理解の範疇を超えた極めて私的な決別だった。
完全に言葉を失ったかつての上司を、佐竹はもう見ていない。
その視線は、階下の駐車場で、仲間たちの手によってエアマットから慎重に救い出されている未華子の姿を捉えていた。
杉浦がその肩を抱き、趙が安堵したように彼女の顔を覗き込んでいる。
――なぜ、自分は、全てを捨ててまで、こんな馬鹿げた賭けに出たのか。
その問いの答えは、佐竹自身にも、まだ、わからなかったのかもしれない。
ただ、気づかないふりをしていた、心の奥底。
その、一番柔らかい場所が、あの女を前にした時だけ、どうしようもなく熱を帯びる。
その事実だけが、今の彼を突き動かしていた。
公安による伊勢佐木異人町制圧作戦は、こうして瓦解した。
そして、地獄絵図のような屋上で。
一人の、裏切り者の公安捜査官が、自らの魂の在処を、初めて見つけた物語が、静かに幕を閉じたのである。
▼
数日が経過した、伊勢佐木異人町。
街には、何事もなかったかのような平穏が戻っていた。
内部抗争を煽っていた火種も消え、共同作戦を経て「異人三」の間に生まれた信頼関係は、以前よりもさらに強固なものへとなりつつあった。
そして、いつしか、伊勢佐木異人町の裏社会では、一つの伝説が語られるようになっていた。
自らの命を投げ出そうとしてまで、三つの組織を、そしてこの街の平和を守った一人の女がいた、と。
その女の名は、橘未華子。
横浜流氓の鉄爪が、尊敬と畏怖の念を込めて、彼女に一つの名を贈った。
―――「女神(
それはもはや単なる愛称ではなく、この街の深淵で生きる者たちが彼女に捧げた、もっとも純粋な称号だった。
