第6話:仮面の告白、裸の真心
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第二幕:絶望の口づけ
年末から年明けにかけ、伊勢佐木異人町の空気は、目に見えて澱み始めていた。
街のあちこちで起きる、些細な暴力事件。
よそ者の、値踏みするような視線。
横浜星龍会、横浜流氓、そしてコミジュルも、明らかに警戒態態勢を強めている。
まるで嵐の前の静けさのように、街全体に不穏な緊張感をもたらしていた。
正月気分もまだ抜けきらない、1月上旬。
九十九課に、趙とソンヒが揃って訪れた。
その表情は、いつになく険しい。
「……お前ら、狙われてるぞ」
ソンヒが、静かに、そして冷徹に事実を告げた。
「お前たちが、私たちと深い関係にあるのは、もうこの街の裏社会じゃ公然の事実だ。私たちを潰したい連中が、まず手始めにここ(九十九課)を狙う可能性は高い」
趙も、腕を組み、いつもの軽薄さを消した声で続ける。
「特に、最近キミたちの周りに現れた人間には気をつけなよ。……どんなに、信用できそうな顔をしててもね」
最近、九十九課に近づいてきた人間。
そんな人物は、一人しかいなかった。
――佐竹幸人。
「……まさか」
未華子の顔から、血の気が引いていく。
「そんな……! まさか佐竹さん……が…?」
信じたくなかった。
あの誠実な瞳や優しい言葉が、脳を駆け巡る。
趙は、そんな未華子の葛藤を見透かすように、静かに、そして残酷に言った。
「みーちゃん。裏社会ってのはな、そういう場所なんだよ。一番信用できそうな顔の奴が、一番ヤバい牙を隠し持ってるもんなんだ」
未華子は、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を食らう。
混乱する。
感情が、ぐちゃぐちゃになる。
だが、彼女は泣きもせず叫びもせず、ただ静かに立ち上がった。
そして、コートとバッグを掴むと、事務所の出口へと向かったのだ。
「未華子ちゃん!?」
心配そうに、杉浦が声を上げる。
「……どこへ行くんですかな、未華子氏!?」
九十九も慌てて、椅子から立ち上がった。
未華子は、ドアノブに手をかけたまま、振り返らずに言った。
その声は、驚くほど冷静だった。
「―――田所先生の、ところへ」
その名前に、全員が息を呑んだ。
佐竹を九十九課に紹介した、あの老税理士だ。
「……確かめる。私が自分で、あの人がどこから来て、どういう人間なのか、確かめる。…憶測だけで人を疑うのは、私のやり方じゃないから」
「……!」
「……それまで、彼のことは、何も悪く言わないで」
それは、疑いたくないという乙女心と、真実から目を背けないというジャーナリストとしての矜持が、ギリギリのところで保った、彼女なりの戦いの姿勢だった。
杉浦は、そんな彼女の小さくも気高い背中を見て、小さく息を吐いた。
「……未華子ちゃんの気持ちもわかるよ。趙さんたちに言われたからって、簡単に人を疑うのは、違うと思う」
彼の、自分を理解しようとしてくれる言葉に、少しだけ心が安らぐ。
そして、彼は続けた。
「……でも、万が一のこともあるから。…僕も一緒に行くよ」
彼の言葉が、今の未華子には、何よりも温かく響いた。
ドアノブを掴む、その指の力が、ほんの少しだけ緩む。
「……ありがとう、杉浦くん」
その声は、泣いているよりも、ずっと痛々しかった。
*
未華子と杉浦は、田所税理士事務所の古びたドアの前に立っていた。
手には、新年の挨拶と称した、ありきたりな菓子折り。
「……失礼しまーす」
ドアを開けると、いつもの人の良さそうな笑顔で、田所先生が迎えてくれた。
だが、そこにいるはずの、あの男の姿はなかった。
「おお、未華子くんに杉浦くん! 明けましておめでとう!」
「おめでとうございます、先生」
「……佐竹さんは、今日、いらっしゃらないんですか?」
挨拶もそこそこに、未華子が単刀直入に切り出す。
「ああ、佐竹くんねぇ」
田所は、少しだけ困ったように頭を掻いた。
「それが、どうも実家の方で、何かあったみたいでね。『数日間お休みをください』と連絡が、来たきりなんだよ。…君たちも聞いてないのかい?」
―――聞いていない。
彼とは、年明けに、九十九課の皆と一緒に初詣に行ったのが最後だ。
そこから数日間、彼の顔も見ていないし、連絡も無い。
実家がバタバタしている?
ありきたりで、いかにも胡散臭い言い訳。
未華子の隣で聞いていた杉浦も、表情がどんどん険しくなっていく。
(……いや、まだ、決まったわけじゃない)
未華子は、自分に言い聞かせると、本題を切り出した。
「……ところで、先生」
「うん?」
「先生が、佐竹さんと初めてお会いになったという、横浜市の税理士の会合。…それって、いつ頃のお話でしたっけ?」
未華子の何気ない質問に、田所は「うーん」と少しだけ首を傾げた。
「ああ、あれかい? ……ええと、確か、2カ月ぐらい前だったかなぁ…」
「…その会合って、誰でも参加できるんですか?」
「いやいや、とんでもない! あれは、市が主催するかなり格式の高い勉強会でね。参加するには、実績やら推薦状やらが必要で、大変なんだよ」
「へぇ……。じゃあ、佐竹さんはそれまで、どこの事務所で実績を?」
「……いや、それが不思議でねぇ」
田所は、湯呑みのお茶を一口すすると、こう続けたのだ。
「私も、後から主催者に聞いたんだが。…どうも、名簿には彼の名前はなかったらしくてねぇ」
「……………え?」
「まあ、あれだけ優秀な若者だ。…きっと、誰か大物の政治家の先生の『特別推薦枠』でも使ったんだろう。…わっはっは」
無邪気な笑い声。
だが、未華子と杉浦は、もう、笑えなかった。
―――推薦状もない。名簿にも名前がない。
そんな男がどうやって、格式の高い税理士の会合に紛れ込み、そして、タイミングよく九十九課と繋がりのある、田所税理士に接触したのか。
答えは、一つしかない。
最初から、全てが、仕組まれていたのだ。
「九十九課に接近し、潜入する」という、ただ一つの目的のために。
その冷徹な事実に、未華子の全身からサッと血の気が引いていった。
(……あのマフラーも)
(……あの優しい言葉も)
(……あの星空の下の告白も)
(……全部……………嘘だったの…………?)
田所への別れの挨拶を早々に済ませ、未華子と杉浦は事務所を後にした。
帰り道。
冬の冷たい風が、痛いくらい頬を刺す。
二人とも無言だった。
さっきまで信じていた全てが、音を立てて崩れ落ちていく。
絶望的な沈黙を破ったのは、隣を歩く彼の声だった。
その声は、驚くほど静かだった。
「…………未華子ちゃん」
「…………」
「……しばらく、佐竹さんと会うのやめようよ」
それは、心配でも命令でもない。
ただ事実を告げるかのような、冷たい響きがあった。
「……用心するのに越したことはないでしょ? …あいつが、本当に何者なのか、わかるまでは」
その正論すぎる言葉が、今の未華子には、何よりも残酷に響いた。
「……わかってる」
未華子は、そう答えるのが精一杯だった。
俯いたその視界が、じわり、と滲んでいくのを、彼に気づかれたくなくて。
未華子は、ただ、固く唇を噛み締めることしかできなかった。
*
自宅マンションの、冷たいドアを開ける。
鍵をかける音だけが、やけに大きく、静まり返った部屋に響いた。
コートも脱がずに、そのまま、リビングの床にへたり込む。
(……馬鹿みたい、私)
今日一日、頭の中で、何度も何度も反芻していた言葉たち。
『一番信用できそうな顔の奴が、一番ヤバい牙を隠し持ってるもんなんだ』
趙の、重い言葉。
『名簿には、彼の名前はなかった』
田所税理士の、無邪気な証言。
ピースが、一つ、また一つと、最悪の形ではまっていく。
どう考えても、佐竹は「黒」だ。
(……それなのに、私……)
浮かんでくるのは、ここ数週間の自分の愚かな姿。
彼の完璧なスーツ姿に見惚れて。
彼のスマートなエスコートに、心を揺さぶられて。
首に巻いてくれた、カシミアのマフラーの温もりと匂い。
そして、星空の下での、真剣で、甘い「告白」。
(……全部、演技だったってこと…?)
少しだけ、潤んでいたように見えた瞳も。
『僕の情けないところを笑ってくれたのは、あなたが初めてだ』という、あの切ない声も。
全てが、自分を油断させ懐柔するための、完璧に計算され尽くした「芝居」だったというのか。
恥ずかしさと情けなさで、身体中の血が逆流しそうになる。
だが、本当に恐ろしいのはそんなことではなかった。
未華子が本当に犯してしまった、取り返しのつかない「ミス」。
(……そうだ。…私、あの人を……)
佑天飯店に連れて行ってしまった。
趙に「こちら、新しくお世話になってる、税理士の先生なんです」なんて、間抜けな顔で紹介してしまった。
コミジュル構成員も多く通う「オモニの誓い」にも、連れて行った。
ソンヒやジュンギとも、顔を合わせている。
――あの男は、何を見ていた?
店の間取り?
客層?
あるいは、ソンヒたちの何気ない会話の中に潜む、コミジュルの弱みを?
あの完璧な笑顔の裏側で。
彼は冷徹な観察眼を研ぎ澄まし、あらゆる情報を収集・分析していたに違いない。
(……私のせいで)
情けないほどの脇の甘さ。
ほんの少し優しくされただけで舞い上がった、己の愚かさ。
それが引き金となり、この街の危うい均衡が崩れてしまうかもしれない。
趙やソンヒ、そして杉浦や九十九まで、逃れられぬ凶事の渦に巻き込んでしまうかもしれない。
その恐ろしい予感に捉えられた瞬間、未華子の全身から、音を立てるように血の気が引いていった。
(……どうしよう)
(……どうにかしなきゃ)
罪悪感と焦燥が、逃げ場のない
冷え切ったフローリングの上で、未華子はただ一人、己の震えを抑え込むように膝を抱え続けた。
静まり返った部屋に、スマートフォンの短いバイブレーションが響いた。
画面に浮かび上がったのは、佐竹からの通知だった。
『未華子さん。急にごめんなさい。どうしても話したいことがあります。一人で、職安通りの雑居ビルまで来てもらえませんか』
「一人で来い」という、明らかな「罠」。
趙や杉浦の警告が、脳裏をよぎる。
――怖い。
――でも、それでも、行かなければ。
このままでは終われない。
自身の「甘さ」が招いた不穏な予兆を、ただ怯えて見過ごすことなど、未華子の矜持が許さなかった。
(……行かなきゃ)
震える指先でスマートフォンを握りしめ、彼女は立ち上がる。
たとえその先に、取り返しのつかない真実が待ち受けていようとも。
彼自身の口から語られる言葉だけを、今は求めていた。
