第6話:仮面の告白、裸の真心
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第一幕:顔整い税理士
2021年11月下旬。
横浜の街は、クリスマスイルミネーションの光で彩られ始めていた。
横浜九十九課も、年末調整という、探偵業とは少し毛色の違う業務に追われていた。
三人は、いつもお世話になっている税理士事務所の、古びたビルの階段を上る。
「失礼しますですぞー!」「こんにちはー」「お邪魔しま~す」
「おや、九十九くんに杉浦くん、それに未華子くんも。みんないらっしゃい」
迎えてくれたのは、人の良さそうなおじいちゃん税理士、田所先生だ。
だが、その隣には、見慣れない青年が立っていた。
すらりとした長身に、完璧なサイジングのネイビースーツ。
ボタンダウンシャツの首元から覗く男性らしい喉仏が、不思議な色気を放っている。
ゆるいパーマがかかった黒髪は自然に整えられ、柔らかく光を反射し、その下のくっきり二重のアーモンド型の瞳が、静かにこちらを見つめていた。
杉浦とは全く違うタイプの、知性と甘さが同居した、完成された美しさ。
未華子は、思わず息を呑んだ。
「ああ、紹介が遅れたね。新しく入った、佐竹くんだ。先日、横浜市の税理士の会合で知り合ってね、話してみたら、まあ優秀で。ちょうど、新しい事務所を探していると言うもんだから、うちにどうかなって、私から誘ったんだよ」
佐竹 幸人(さたけ ゆきひと)。
彼が、一歩前に出て、完璧な角度でお辞儀をした。
その一連の所作には、一切の無駄がない。
「初めまして。佐竹と申します。田所先生のお人柄と豊富なご経験に感銘を受け、こちらでお世話になることになりました。今後、皆様の担当をさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
その声は、低く、落ち着いていて、耳に心地よかった。
(……か、顔整いだぁ……)
未華子は、なぜか自分の顔が熱くなるのを感じ、慌てて会釈を返した。
*
それからしばらく、佐竹は頻繁に九十九課に出入りするようになった。
ある日の昼下がり。
経理書類の確認を終えた佐竹が、ふと時計を見ながら言った。
「あ、もうこんな時間だ。もしよろしければ、皆さんでランチでもどうですか? 近くに、美味しいパスタの店を見つけたんです」
そのスマートな誘いに、断る理由などなかった。
伊勢佐木モールの、少しお洒落なイタリアンレストラン。
「いやぁ、しかし佐竹殿の仕事ぶりは完璧ですな! ボクのガジェット購入費も、見事に経費として計上してくださるとは!」
「はは、あれは九十九さんのプレゼン資料が見事だったからですよ。『事務所の防犯能力及び情報収集能力の向上に必要な設備投資』。これぞ完璧なロジック! …でしたよ」
「でしょー!」
仕事中の、完璧に計算されたような敬語とは打って変わって。
オフになった瞬間に見せる、少しだけ崩れた親しみやすい言葉遣いと、柔らかな表情。
オンとオフの鮮やかなギャップが、彼の魅力を、より一層深いものにしていた。
「杉浦さんは、普段お昼はどうしてるんですか?」
「僕? あー……面倒な時は、コンビニとか、その辺の中華屋とかかな」
「わかります、僕もコンビニ飯になりがちで。でも、たまにはこういうのもいいですよね」
「……うん、まあ……そだね」
誰とでも壁を作らずに話せる佐竹のコミュニケーション能力に、杉浦ですら、いつの間にか心を許しているようだった。
「未華子さんは、辛いものとか、大丈夫です?」
「え? あ、はい、好きですけど」
「よかった。この店のアラビアータがうまいらしいんです。もしよかったら、また今度一緒にどうです? ……あ、もちろん、九十九さんたちも一緒に、ですよ(笑)」
どこまでも爽やかで、下心を感じさせない笑顔に、未華子は「はい」と頷くことしかできなかった。
食事を終え、店を出る。
肌寒い12月の夜風が、薄手のコートを着た未華子の身体を撫でた。
「……さむっ」
小さく呟いたその一言を、彼は聞き逃さなかった。
「……これ、使ってください」
佐竹は、自分が巻いていた上質なカシミアのマフラーを、するりと解くと、それを未華子の首に、優しく巻いてくれたのだ。
「えっ、でも!」
「僕は、帰りは車ですから。…それに、風邪ひくと大変だし」
スマートで優しい気遣い。
マフラーから、ふわりと香る、彼の上品な香水の匂い。
(……うわ、やばい。……これは、やばいかも……)
未華子の心臓が、大きく跳ねた。
杉浦とは全く違う種類の、完成された大人の男の余裕。
抗いがたい魅力に、彼女の心の天秤がほんの少しだけ、ぐらり、と揺れたのを自覚せざるを得なかった。
事務所へと戻る、昼下がりの道。
九十九と杉浦が、少し前を、楽しそうに歩いている。
「いやーしかし! あの、ペペロンチーノの、ガーリックの塩梅! まさに、黄金比でしたな!」
「だよねー。今度、また、みんなで行こっか」
平和な背中を見ながら、未華子と佐竹もゆっくりと歩いていた。
首に巻かれた彼のマフラーが、まだ温かい。
「……それにしても」
未華子が、切り出す。
「佐竹さんって、本当に何でもできるんですね。仕事もできるし、お洒落なお店も知ってるし……」
(……顔も良いし、と言い掛けて辞めた)
「……そんなことないですよ」
彼が、少しだけ照れくさそうに笑う。
次の角を曲がれば、事務所のあるビルが見えてくる。
その角に差し掛かった、まさに、その時だった。
佐竹は、何も疑うことなく、事務所とは全く逆の方向へと、その長い足を踏み出そうとした。
「え、ちょ、佐竹さん!」
未華子が慌てて、その腕を掴む。
「そっちじゃないです! 事務所こっち!」
「―――わ、すみません!」
彼は慌てて足を止め、その勢いで、彼の身体と未華子の身体が、こつん、と軽くぶつかった。
「……ああ、いや…。…まだ、この辺りの道にあまり慣れてなくて……」
見え透いた言い訳。
完璧だったはずの彼の表情が、ほんの少しだけ狼狽えているのを、未華子は見逃さなかった。
彼女の中に、悪戯心が芽生える。
そして、ニヤリと笑いながら言ったのだ。
「……もしかして」
「……?」
「佐竹さんて、…………方向音痴ですか?」
直球すぎる一言に、彼の完璧な顔が、サッと、赤くなるのが見て取れた。
「ち、違いますって!」
「あはは! 図星だ! …うそ、あんなに完璧人間なのに! 意外と可愛いとこ、あるんですね〜!」
「……………うるさいですって!」
初めて見る、彼の子供のような拗ねた顔。
そのギャップに、未華子の胸が、またしても大きく鳴った。
オフの時の彼は、仕事中の完璧な姿が嘘のように、気さくで、よく笑い、そして、少しだけおっちょこちょいな、普通の好青年だった。
―――この時の未華子は、そう信じて疑わなかった。
*
そんなある週末。
佐竹の提案で、みんなで星空観察ツアーへ行くことになった。
メンバーは、九十九、杉浦、未華子、佐竹の四人に加え、なぜか話を聞きつけた海藤親子(雅治、美希子、准)も参加することになり、総勢七名の大所帯となった。
昼間は、男たちで釣りを楽しみ、未華子は美希子と温泉に浸かって、少しだけ大人な恋バナに花を咲かせた。
全員で囲んだ賑やかなBBQのあと、夜の帳が下りるのを待ってガイド付きのナイトツアーへと繰り出す。
頭上に瞬く無数の光に、誰もが子供のように歓声を上げた。
宿泊先のコテージへ帰還して、ひと息ついた頃。
未華子はふらりと独り、湖畔へと降り立った。
夜風は心地よく冷たい。
仰いだ空には、こぼれ落ちそうなほどの星々。
都会の喧騒など遠い国の出来事のように思えるほど、静かで、完璧な夜だった。
「――綺麗ですね」
不意に、すぐ隣から声がして、心臓が跳ねた。
いつの間にか、佐竹が隣に立っていた。
彼の手には、温かいココアが入ったマグカップが二つ。
湯気が、冷たい夜気に溶けて、白い軌跡を描いている。
「冷えるかと思って。どうぞ」
「……ありがとうございます」
差し出されたマグカップを受け取ると、指先からじんわりと温もりが伝わってきた。
二人、無言で星空を見上げる。
聞こえるのは、風が木々の葉を揺らす音と、遠くで聞こえる、仲間たちのかすかな笑い声だけ。
「オリオン座、わかりますか?」
佐竹が、そっと夜空を指さす。
「あの三つ星が目印です。冬のダイヤモンドっていう、一等星を結んだ形も今ならよく見える」
静かで落ち着いた声。
博識な彼らしい、何気ない会話のはずなのに。
なぜか、その一言一言が、未華子の心の一番柔らかい場所に、染み込んでいくような気がした。
彼の横顔が、月明かりに照らされて、昼間とは違う、少し憂いを帯びた、知らない顔に見えた。
その美しさに、未華子は思わず目を逸らしてしまう。
(……まずいな)
心臓が、勝手に早鐘を打っている。
この静寂も、星空も、ココアの香りも、そして、隣に立つ、この男の存在も。
全てが完璧すぎる。
まるで、誰かが描いた、完璧な舞台装置のようだ、と、場違いなことを考えてしまった。
その、ロマンチックな空気に後押しされてか。
未華子の口から、ずっと気になっていた言葉が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「…………あの」
「はい?」
「……佐竹さんって、……その……彼女、いないんですか?」
唐突な問いに、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに面白そうに笑った。
「いませんよ。……今度のクリスマスも、一人です」
「えー! 嘘だ! こんなに完璧なのに!?」
「はは。…ありがとうございます」
少しだけ和んだ空気。
甘いココアの香り。
その時だった。
彼が、ふと、星空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
その声は、いつもの自信に満ちた響きではなく、少しだけ、独り言のようだった。
「……でも」
「え?」
「……………好きな人は、います」
静かで、しかし、確信に満ちた一言。
未華子の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
聞きたくなかった。でも、聞きたい。
その矛盾した感情の渦の中で、彼女は、ただ黙って、彼の次の言葉を待っていた。
「……僕の良い面、というか……その、表面的なスペックだけを見て、寄ってくる人間は、これまでもたくさんいたんです」
彼は、ゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように語り始めた。
「スマートだとか、仕事ができるとか、学歴とか。そういうところは、よく褒められるんですよね」
「…………」
「……でも、僕の情けない部分も、心の底から楽しそうに笑ってくれたのは……」
彼は、そこで一度、言葉を切り、初めて、真っ直ぐに、未華子の瞳を見据えた。
「……あなたが、初めてだった」
その瞳の熱に、未華子は、もう、息をすることもできない。
「……一目惚れ、に近いのかもしれません。…人生で初めての、ね」
「……………え……………」
(もしかして……)
(それって…………)
「―――未華子さん」
低く、甘く、そして、どこまでも真摯な声が、彼女の名前を呼んだ。
「……好きです。僕と、付き合ってもらえませんか」
静かな湖畔に、彼の声だけが響く。
未華子は、言葉に詰まった。
彼の誠実で、真っ直ぐな告白。
その重みを、感じないわけではなかった。
嬉しくない、と言えば、もちろん、嘘になる。
――だが、それでも。
自分の心の中には、もう、あの、どうしようもなく不器用で、目が離せない男の姿が、住み着いてしまっている。
「……………ありがとうございます」
未華子は、まず、深く深く頭を下げた。
「お気持ちは、本当に嬉しいです。……すごく、光栄に思います」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、一切の迷いなく、彼のことを見つめていた。
「―――でも、ごめんなさい」
それが、未華子が出せる、精一杯の誠実な答えだった。
「私……他に、好きな人がいるんです。だから、佐竹さんの気持ちには、応えられません」
きっぱりと告げると、未華子はマグカップを彼に返し、「先に戻ってますね」と、コテージへ続く小道へ踵を返した。
その時、不意に腕を強く掴まれた。
「……!」
振り返ると、そこには、少しだけ悲しそうに、でも、諦めてはいない強い光を宿した瞳で、こちらを見つめる佐竹がいた。
「……わかりました。でも、一つだけ覚えておいてください」
彼は、掴んだ腕をそっと離すと、未華子の耳元で、囁くように言った。
「俺は、諦めませんから」
そして、何事もなかったかのように、完璧な笑顔に戻ると、
「……おやすみなさい、未華子さん」
と告げ、先にコテージの方へと歩いていった。
残された未華子は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。
掴まれた腕に残る、彼の熱が、いつまでも消えないような気がした。
*
――佐竹による未華子への夜空の下での告白は、木陰から一部始終を見ていた目撃者(九十九)によって、瞬く間に広がった。
異人町に帰ってきてから数日後のこと。
准の誠稜高校入試が迫る中、九十九課で行われている未華子の“特訓”(家庭教師)もまた、文字通り「正念場」に差し掛かっていた。
そんな折、いつものように佐竹が事務所を訪れる。
その姿を認めるやいなや、准はなぜか彼に対し、剥き出しのライバル心をぶつけていく。
「おい、インテリ兄ちゃん! 抜け駆けは禁止だかんな!」
「……え?」
「こないだの、星空ツアーのとき、未華子さんに告ったんだろ! 順番守れよな!……まず一番は杉浦の兄貴で、二番が趙さん、三番が俺なんだから! 俺に喧嘩で勝たねえと、その順位は抜けねえからな!」
その、中学生らしい意味不明な理屈に、佐竹はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
クリスマスには、九十九課でささやかなパーティーを開いた。
もちろん、そこにも佐竹の姿はあった。
年越しも、結局みんなで近所の神社へ初詣に行った。
完璧なルックスで、スマートで、誰にでも優しい佐竹。
そんな彼の隣で、楽しそうに笑う未華子の姿を見るたびに、杉浦の胸には、チリリとした、黒い何かが燻り始めていた。
それは、彼が初めて自覚する、醜い「嫉妬」という感情だった。
2021年11月下旬。
横浜の街は、クリスマスイルミネーションの光で彩られ始めていた。
横浜九十九課も、年末調整という、探偵業とは少し毛色の違う業務に追われていた。
三人は、いつもお世話になっている税理士事務所の、古びたビルの階段を上る。
「失礼しますですぞー!」「こんにちはー」「お邪魔しま~す」
「おや、九十九くんに杉浦くん、それに未華子くんも。みんないらっしゃい」
迎えてくれたのは、人の良さそうなおじいちゃん税理士、田所先生だ。
だが、その隣には、見慣れない青年が立っていた。
すらりとした長身に、完璧なサイジングのネイビースーツ。
ボタンダウンシャツの首元から覗く男性らしい喉仏が、不思議な色気を放っている。
ゆるいパーマがかかった黒髪は自然に整えられ、柔らかく光を反射し、その下のくっきり二重のアーモンド型の瞳が、静かにこちらを見つめていた。
杉浦とは全く違うタイプの、知性と甘さが同居した、完成された美しさ。
未華子は、思わず息を呑んだ。
「ああ、紹介が遅れたね。新しく入った、佐竹くんだ。先日、横浜市の税理士の会合で知り合ってね、話してみたら、まあ優秀で。ちょうど、新しい事務所を探していると言うもんだから、うちにどうかなって、私から誘ったんだよ」
佐竹 幸人(さたけ ゆきひと)。
彼が、一歩前に出て、完璧な角度でお辞儀をした。
その一連の所作には、一切の無駄がない。
「初めまして。佐竹と申します。田所先生のお人柄と豊富なご経験に感銘を受け、こちらでお世話になることになりました。今後、皆様の担当をさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
その声は、低く、落ち着いていて、耳に心地よかった。
(……か、顔整いだぁ……)
未華子は、なぜか自分の顔が熱くなるのを感じ、慌てて会釈を返した。
*
それからしばらく、佐竹は頻繁に九十九課に出入りするようになった。
ある日の昼下がり。
経理書類の確認を終えた佐竹が、ふと時計を見ながら言った。
「あ、もうこんな時間だ。もしよろしければ、皆さんでランチでもどうですか? 近くに、美味しいパスタの店を見つけたんです」
そのスマートな誘いに、断る理由などなかった。
伊勢佐木モールの、少しお洒落なイタリアンレストラン。
「いやぁ、しかし佐竹殿の仕事ぶりは完璧ですな! ボクのガジェット購入費も、見事に経費として計上してくださるとは!」
「はは、あれは九十九さんのプレゼン資料が見事だったからですよ。『事務所の防犯能力及び情報収集能力の向上に必要な設備投資』。これぞ完璧なロジック! …でしたよ」
「でしょー!」
仕事中の、完璧に計算されたような敬語とは打って変わって。
オフになった瞬間に見せる、少しだけ崩れた親しみやすい言葉遣いと、柔らかな表情。
オンとオフの鮮やかなギャップが、彼の魅力を、より一層深いものにしていた。
「杉浦さんは、普段お昼はどうしてるんですか?」
「僕? あー……面倒な時は、コンビニとか、その辺の中華屋とかかな」
「わかります、僕もコンビニ飯になりがちで。でも、たまにはこういうのもいいですよね」
「……うん、まあ……そだね」
誰とでも壁を作らずに話せる佐竹のコミュニケーション能力に、杉浦ですら、いつの間にか心を許しているようだった。
「未華子さんは、辛いものとか、大丈夫です?」
「え? あ、はい、好きですけど」
「よかった。この店のアラビアータがうまいらしいんです。もしよかったら、また今度一緒にどうです? ……あ、もちろん、九十九さんたちも一緒に、ですよ(笑)」
どこまでも爽やかで、下心を感じさせない笑顔に、未華子は「はい」と頷くことしかできなかった。
食事を終え、店を出る。
肌寒い12月の夜風が、薄手のコートを着た未華子の身体を撫でた。
「……さむっ」
小さく呟いたその一言を、彼は聞き逃さなかった。
「……これ、使ってください」
佐竹は、自分が巻いていた上質なカシミアのマフラーを、するりと解くと、それを未華子の首に、優しく巻いてくれたのだ。
「えっ、でも!」
「僕は、帰りは車ですから。…それに、風邪ひくと大変だし」
スマートで優しい気遣い。
マフラーから、ふわりと香る、彼の上品な香水の匂い。
(……うわ、やばい。……これは、やばいかも……)
未華子の心臓が、大きく跳ねた。
杉浦とは全く違う種類の、完成された大人の男の余裕。
抗いがたい魅力に、彼女の心の天秤がほんの少しだけ、ぐらり、と揺れたのを自覚せざるを得なかった。
事務所へと戻る、昼下がりの道。
九十九と杉浦が、少し前を、楽しそうに歩いている。
「いやーしかし! あの、ペペロンチーノの、ガーリックの塩梅! まさに、黄金比でしたな!」
「だよねー。今度、また、みんなで行こっか」
平和な背中を見ながら、未華子と佐竹もゆっくりと歩いていた。
首に巻かれた彼のマフラーが、まだ温かい。
「……それにしても」
未華子が、切り出す。
「佐竹さんって、本当に何でもできるんですね。仕事もできるし、お洒落なお店も知ってるし……」
(……顔も良いし、と言い掛けて辞めた)
「……そんなことないですよ」
彼が、少しだけ照れくさそうに笑う。
次の角を曲がれば、事務所のあるビルが見えてくる。
その角に差し掛かった、まさに、その時だった。
佐竹は、何も疑うことなく、事務所とは全く逆の方向へと、その長い足を踏み出そうとした。
「え、ちょ、佐竹さん!」
未華子が慌てて、その腕を掴む。
「そっちじゃないです! 事務所こっち!」
「―――わ、すみません!」
彼は慌てて足を止め、その勢いで、彼の身体と未華子の身体が、こつん、と軽くぶつかった。
「……ああ、いや…。…まだ、この辺りの道にあまり慣れてなくて……」
見え透いた言い訳。
完璧だったはずの彼の表情が、ほんの少しだけ狼狽えているのを、未華子は見逃さなかった。
彼女の中に、悪戯心が芽生える。
そして、ニヤリと笑いながら言ったのだ。
「……もしかして」
「……?」
「佐竹さんて、…………方向音痴ですか?」
直球すぎる一言に、彼の完璧な顔が、サッと、赤くなるのが見て取れた。
「ち、違いますって!」
「あはは! 図星だ! …うそ、あんなに完璧人間なのに! 意外と可愛いとこ、あるんですね〜!」
「……………うるさいですって!」
初めて見る、彼の子供のような拗ねた顔。
そのギャップに、未華子の胸が、またしても大きく鳴った。
オフの時の彼は、仕事中の完璧な姿が嘘のように、気さくで、よく笑い、そして、少しだけおっちょこちょいな、普通の好青年だった。
―――この時の未華子は、そう信じて疑わなかった。
*
そんなある週末。
佐竹の提案で、みんなで星空観察ツアーへ行くことになった。
メンバーは、九十九、杉浦、未華子、佐竹の四人に加え、なぜか話を聞きつけた海藤親子(雅治、美希子、准)も参加することになり、総勢七名の大所帯となった。
昼間は、男たちで釣りを楽しみ、未華子は美希子と温泉に浸かって、少しだけ大人な恋バナに花を咲かせた。
全員で囲んだ賑やかなBBQのあと、夜の帳が下りるのを待ってガイド付きのナイトツアーへと繰り出す。
頭上に瞬く無数の光に、誰もが子供のように歓声を上げた。
宿泊先のコテージへ帰還して、ひと息ついた頃。
未華子はふらりと独り、湖畔へと降り立った。
夜風は心地よく冷たい。
仰いだ空には、こぼれ落ちそうなほどの星々。
都会の喧騒など遠い国の出来事のように思えるほど、静かで、完璧な夜だった。
「――綺麗ですね」
不意に、すぐ隣から声がして、心臓が跳ねた。
いつの間にか、佐竹が隣に立っていた。
彼の手には、温かいココアが入ったマグカップが二つ。
湯気が、冷たい夜気に溶けて、白い軌跡を描いている。
「冷えるかと思って。どうぞ」
「……ありがとうございます」
差し出されたマグカップを受け取ると、指先からじんわりと温もりが伝わってきた。
二人、無言で星空を見上げる。
聞こえるのは、風が木々の葉を揺らす音と、遠くで聞こえる、仲間たちのかすかな笑い声だけ。
「オリオン座、わかりますか?」
佐竹が、そっと夜空を指さす。
「あの三つ星が目印です。冬のダイヤモンドっていう、一等星を結んだ形も今ならよく見える」
静かで落ち着いた声。
博識な彼らしい、何気ない会話のはずなのに。
なぜか、その一言一言が、未華子の心の一番柔らかい場所に、染み込んでいくような気がした。
彼の横顔が、月明かりに照らされて、昼間とは違う、少し憂いを帯びた、知らない顔に見えた。
その美しさに、未華子は思わず目を逸らしてしまう。
(……まずいな)
心臓が、勝手に早鐘を打っている。
この静寂も、星空も、ココアの香りも、そして、隣に立つ、この男の存在も。
全てが完璧すぎる。
まるで、誰かが描いた、完璧な舞台装置のようだ、と、場違いなことを考えてしまった。
その、ロマンチックな空気に後押しされてか。
未華子の口から、ずっと気になっていた言葉が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「…………あの」
「はい?」
「……佐竹さんって、……その……彼女、いないんですか?」
唐突な問いに、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに面白そうに笑った。
「いませんよ。……今度のクリスマスも、一人です」
「えー! 嘘だ! こんなに完璧なのに!?」
「はは。…ありがとうございます」
少しだけ和んだ空気。
甘いココアの香り。
その時だった。
彼が、ふと、星空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
その声は、いつもの自信に満ちた響きではなく、少しだけ、独り言のようだった。
「……でも」
「え?」
「……………好きな人は、います」
静かで、しかし、確信に満ちた一言。
未華子の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
聞きたくなかった。でも、聞きたい。
その矛盾した感情の渦の中で、彼女は、ただ黙って、彼の次の言葉を待っていた。
「……僕の良い面、というか……その、表面的なスペックだけを見て、寄ってくる人間は、これまでもたくさんいたんです」
彼は、ゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように語り始めた。
「スマートだとか、仕事ができるとか、学歴とか。そういうところは、よく褒められるんですよね」
「…………」
「……でも、僕の情けない部分も、心の底から楽しそうに笑ってくれたのは……」
彼は、そこで一度、言葉を切り、初めて、真っ直ぐに、未華子の瞳を見据えた。
「……あなたが、初めてだった」
その瞳の熱に、未華子は、もう、息をすることもできない。
「……一目惚れ、に近いのかもしれません。…人生で初めての、ね」
「……………え……………」
(もしかして……)
(それって…………)
「―――未華子さん」
低く、甘く、そして、どこまでも真摯な声が、彼女の名前を呼んだ。
「……好きです。僕と、付き合ってもらえませんか」
静かな湖畔に、彼の声だけが響く。
未華子は、言葉に詰まった。
彼の誠実で、真っ直ぐな告白。
その重みを、感じないわけではなかった。
嬉しくない、と言えば、もちろん、嘘になる。
――だが、それでも。
自分の心の中には、もう、あの、どうしようもなく不器用で、目が離せない男の姿が、住み着いてしまっている。
「……………ありがとうございます」
未華子は、まず、深く深く頭を下げた。
「お気持ちは、本当に嬉しいです。……すごく、光栄に思います」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、一切の迷いなく、彼のことを見つめていた。
「―――でも、ごめんなさい」
それが、未華子が出せる、精一杯の誠実な答えだった。
「私……他に、好きな人がいるんです。だから、佐竹さんの気持ちには、応えられません」
きっぱりと告げると、未華子はマグカップを彼に返し、「先に戻ってますね」と、コテージへ続く小道へ踵を返した。
その時、不意に腕を強く掴まれた。
「……!」
振り返ると、そこには、少しだけ悲しそうに、でも、諦めてはいない強い光を宿した瞳で、こちらを見つめる佐竹がいた。
「……わかりました。でも、一つだけ覚えておいてください」
彼は、掴んだ腕をそっと離すと、未華子の耳元で、囁くように言った。
「俺は、諦めませんから」
そして、何事もなかったかのように、完璧な笑顔に戻ると、
「……おやすみなさい、未華子さん」
と告げ、先にコテージの方へと歩いていった。
残された未華子は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。
掴まれた腕に残る、彼の熱が、いつまでも消えないような気がした。
*
――佐竹による未華子への夜空の下での告白は、木陰から一部始終を見ていた目撃者(九十九)によって、瞬く間に広がった。
異人町に帰ってきてから数日後のこと。
准の誠稜高校入試が迫る中、九十九課で行われている未華子の“特訓”(家庭教師)もまた、文字通り「正念場」に差し掛かっていた。
そんな折、いつものように佐竹が事務所を訪れる。
その姿を認めるやいなや、准はなぜか彼に対し、剥き出しのライバル心をぶつけていく。
「おい、インテリ兄ちゃん! 抜け駆けは禁止だかんな!」
「……え?」
「こないだの、星空ツアーのとき、未華子さんに告ったんだろ! 順番守れよな!……まず一番は杉浦の兄貴で、二番が趙さん、三番が俺なんだから! 俺に喧嘩で勝たねえと、その順位は抜けねえからな!」
その、中学生らしい意味不明な理屈に、佐竹はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
クリスマスには、九十九課でささやかなパーティーを開いた。
もちろん、そこにも佐竹の姿はあった。
年越しも、結局みんなで近所の神社へ初詣に行った。
完璧なルックスで、スマートで、誰にでも優しい佐竹。
そんな彼の隣で、楽しそうに笑う未華子の姿を見るたびに、杉浦の胸には、チリリとした、黒い何かが燻り始めていた。
それは、彼が初めて自覚する、醜い「嫉妬」という感情だった。
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