第5話:浪速の狂犬、愛の試練
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第五幕:最高のボディガード
横浜に戻り、数日が経った。
悪夢のような大阪での出来事が、嘘のように遠くに感じられる。
九十九課には、いつもの日常が戻ってきていた。
杉浦が淹れる、少し薄いコーヒーの匂い。
九十九が時折叫ぶ、意味不明なITの専門用語。
その全てが、今の未華子にとっては、かけがえのない宝物だった。
その夜、事件の打ち上げと、杉浦の(勝手な)退職の撤回祝いを兼ねて、三人はサバイバーのカウンターに並んでいた。
「いやー、しかし! 本当に肝が冷えましたぞ、杉浦氏! 置き手紙一つでいなくなるとは、どういう了見ですか!」
九十九が、説教とも愚痴ともつかない調子で、ビールジョッキを呷る。
「……全くだよね。本当に……無事でよかった」
隣で、未華子が心の底から安堵したように、ぽつりと呟いた。
その二人の真っ直ぐな言葉に、杉浦はただバツが悪そうに頭を下げることしかできなかった。
「……本当に、ごめん」
消え入りそうな謝罪の言葉に、九十九はわざとらしく「ふん!」とそっぽを向き、未華子は、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「まあ、もういいよ。おかげで、思いがけず大阪旅行もできたしね」
「……え?」
「だから今日は、ぜぇーんぶ杉浦くんのおごりってことで、チャラにしてあげる!」
その、いつもと変わらない、少しだけ意地悪な笑顔に、杉浦は呆れたように、でも、どうしようもなく嬉しそうに小さく吹き出した。
「……はいはい。わかったわかった」
そんな三人のやり取りを、グラスを磨きながら静かに聞いていたマスターが、不意に口を開いた。
「聞いたぞ、未華子ちゃん。あんた、とんでもない大物になったらしいじゃないか」
「え?」
その、どこか面白がるような口ぶりに、三人が一斉にマスターの方を向く。
「この異人町はおろか、神室町でも噂になってるぜ。横浜九十九課にいる女は、あの『嶋野の狂犬』真島吾朗の『愛人』だ、ってな」
「ぶはっ!!」
杉浦が、飲んでいたハイボールを盛大に吹き出した。
「あ、愛人!? なんでマスターがその話を!?」
未華子の顔が、カッと赤くなる。
「マスター、それ、ただのデマだよ! 未華子ちゃんはそんなんじゃ……!」
杉浦が必死で否定する横で、九十九は真剣な顔で顎に手を当てていた。
「ふーむ。その噂、ボクのデータベースにもいくつかヒットしていますな。伝播速度は、通常のゴシップ情報の約3.8倍。凄まじい拡散力ですぞ……!」
「分析してる場合!?」
そんな三人の狼狽ぶりを見て、マスターは静かに、しかし、その傷のある顔に深い笑みを浮かべた。
「……あの真島が、ねぇ」
彼は、遠い目をして呟く。
その言葉に、場の空気が変わった。
マスターは、あの真島の過去を、それも深い部分まで知っている。
その事実に、三人は息を呑んだ。
「まあ、噂の出所が、当の真島建設の連中らしいからな。面白がって、自分たちで流してやがるんだろう」
マスターは、未華子に向き直ると、その目を真っ直ぐに見据えた。
「未華子ちゃん。あんた、あの男によっぽど気に入られたらしいな。女として、じゃねえ。……一人の人間として、だ」
「……」
「あいつは、そういう男だ。一度認めちまった相手には、どこまでも甘い。たとえそれが、自分の首を絞めることになったとしてもな」
真島が、自分にどんな覚悟をさせたのか。
杉浦の脳裏に、診療所での、あの重い言葉が蘇る。
マスターは、新しいグラスにウイスキーを注ぎながら、静かに言った。
「だがな、未華子ちゃん。その『愛人』って噂は、今、この街であんたが持てる最高のボディガードだぜ」
「え……?」
「その看板を背負ってる女性に、本気で手を出そうなんて思う馬鹿は、この日本中どこを探してもいやしねえ。……真島は、あんたに、とんでもねえお守りを渡してくれたってわけだ」
真島が最後に言った「いつでも、愛人だと名乗っていい」という言葉の、本当の意味。
それは、彼の不器用で、そして、も大きな優しさだった。
未華子の瞳に、じわりと涙が滲んだ。
「……そっか。……そういう、ことだったんですね」
しんみりした空気を吹き飛ばすように、九十九が明るい声を上げた。
「つまり、未華子氏は、伝説級のレア装備『真島の加護』を手に入れたということですな! これで、ウチの事務所の防衛力も、格段にアップですぞ!」
いつも通りの九十九節に、未華子と杉浦は、顔を見合わせて思わず吹き出した。
サバイバーのカウンターに、久しぶりに、三人の温かい笑い声が響く。
横浜の長い夜は、まだ始まったばかり。
だが、今の彼らには、どんな闇も乗り越えていけるという、確かな絆があった。
*
杉浦は、カウンター隣で笑う未華子の横顔を見つめながら、ふと、自分のジャケットのポケットに、手を入れた。
そこにある、一つの、硬い感触。
あの日、一ノ瀬から、奪い取った、姉の最後の声が記録されたUSBメモリ。
告発の証拠のために、八神にはコピーを渡してあった。
でも、この、オリジナルだけは、まだどうすることもできずにいたのだ。
(……姉貴……)
(……僕は、まだ、前に、進めてなんかいなかったんだね)
彼は、その小さな遺物を、ポケットの中で、強く強く握りしめた。
そして、自分のグラスに残っていたハイボールを、一気に呷した。
決意の味だった。
(……あの人に、笑われないようにしないとな)
命がけで自分たちを守り、諭してくれた、伝説の男。
そして、自分のために全てを捨てようとした、愛しい女性。
二人への誓いを、彼は改めて、強く強く胸に刻んだ。
サバイバーから自宅アパートへの、帰り道。
誰もいない、夜の浜北公園。
杉浦は一人、ベンチに座り、月明かりの下、例のUSBメモリを取り出した。
――事件が解決したあとも、一度もその音声は聞いていない。
聞こうと思えば、いつでも聞けた。
でも、彼は、あえて、そうしなかった。
杉浦は、その小さな筐体を、両手の親指で、バキリと音を立てて二つに折った。
もう、迷いはなかった。
彼は、そのデータの残骸を、近くのゴミ箱へと静かに投げ入れると、一度だけ、空を見上げた。
「……さよなら、絵美。僕、ちゃんと幸せになるからね」
その呟きは、誰にも聞こえない。
だが、その少しだけ、軽くなった背中を。
冷たい秋の夜風と、遠い月の光だけが、静かに見守っていた。
第五話:終
横浜に戻り、数日が経った。
悪夢のような大阪での出来事が、嘘のように遠くに感じられる。
九十九課には、いつもの日常が戻ってきていた。
杉浦が淹れる、少し薄いコーヒーの匂い。
九十九が時折叫ぶ、意味不明なITの専門用語。
その全てが、今の未華子にとっては、かけがえのない宝物だった。
その夜、事件の打ち上げと、杉浦の(勝手な)退職の撤回祝いを兼ねて、三人はサバイバーのカウンターに並んでいた。
「いやー、しかし! 本当に肝が冷えましたぞ、杉浦氏! 置き手紙一つでいなくなるとは、どういう了見ですか!」
九十九が、説教とも愚痴ともつかない調子で、ビールジョッキを呷る。
「……全くだよね。本当に……無事でよかった」
隣で、未華子が心の底から安堵したように、ぽつりと呟いた。
その二人の真っ直ぐな言葉に、杉浦はただバツが悪そうに頭を下げることしかできなかった。
「……本当に、ごめん」
消え入りそうな謝罪の言葉に、九十九はわざとらしく「ふん!」とそっぽを向き、未華子は、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「まあ、もういいよ。おかげで、思いがけず大阪旅行もできたしね」
「……え?」
「だから今日は、ぜぇーんぶ杉浦くんのおごりってことで、チャラにしてあげる!」
その、いつもと変わらない、少しだけ意地悪な笑顔に、杉浦は呆れたように、でも、どうしようもなく嬉しそうに小さく吹き出した。
「……はいはい。わかったわかった」
そんな三人のやり取りを、グラスを磨きながら静かに聞いていたマスターが、不意に口を開いた。
「聞いたぞ、未華子ちゃん。あんた、とんでもない大物になったらしいじゃないか」
「え?」
その、どこか面白がるような口ぶりに、三人が一斉にマスターの方を向く。
「この異人町はおろか、神室町でも噂になってるぜ。横浜九十九課にいる女は、あの『嶋野の狂犬』真島吾朗の『愛人』だ、ってな」
「ぶはっ!!」
杉浦が、飲んでいたハイボールを盛大に吹き出した。
「あ、愛人!? なんでマスターがその話を!?」
未華子の顔が、カッと赤くなる。
「マスター、それ、ただのデマだよ! 未華子ちゃんはそんなんじゃ……!」
杉浦が必死で否定する横で、九十九は真剣な顔で顎に手を当てていた。
「ふーむ。その噂、ボクのデータベースにもいくつかヒットしていますな。伝播速度は、通常のゴシップ情報の約3.8倍。凄まじい拡散力ですぞ……!」
「分析してる場合!?」
そんな三人の狼狽ぶりを見て、マスターは静かに、しかし、その傷のある顔に深い笑みを浮かべた。
「……あの真島が、ねぇ」
彼は、遠い目をして呟く。
その言葉に、場の空気が変わった。
マスターは、あの真島の過去を、それも深い部分まで知っている。
その事実に、三人は息を呑んだ。
「まあ、噂の出所が、当の真島建設の連中らしいからな。面白がって、自分たちで流してやがるんだろう」
マスターは、未華子に向き直ると、その目を真っ直ぐに見据えた。
「未華子ちゃん。あんた、あの男によっぽど気に入られたらしいな。女として、じゃねえ。……一人の人間として、だ」
「……」
「あいつは、そういう男だ。一度認めちまった相手には、どこまでも甘い。たとえそれが、自分の首を絞めることになったとしてもな」
真島が、自分にどんな覚悟をさせたのか。
杉浦の脳裏に、診療所での、あの重い言葉が蘇る。
マスターは、新しいグラスにウイスキーを注ぎながら、静かに言った。
「だがな、未華子ちゃん。その『愛人』って噂は、今、この街であんたが持てる最高のボディガードだぜ」
「え……?」
「その看板を背負ってる女性に、本気で手を出そうなんて思う馬鹿は、この日本中どこを探してもいやしねえ。……真島は、あんたに、とんでもねえお守りを渡してくれたってわけだ」
真島が最後に言った「いつでも、愛人だと名乗っていい」という言葉の、本当の意味。
それは、彼の不器用で、そして、も大きな優しさだった。
未華子の瞳に、じわりと涙が滲んだ。
「……そっか。……そういう、ことだったんですね」
しんみりした空気を吹き飛ばすように、九十九が明るい声を上げた。
「つまり、未華子氏は、伝説級のレア装備『真島の加護』を手に入れたということですな! これで、ウチの事務所の防衛力も、格段にアップですぞ!」
いつも通りの九十九節に、未華子と杉浦は、顔を見合わせて思わず吹き出した。
サバイバーのカウンターに、久しぶりに、三人の温かい笑い声が響く。
横浜の長い夜は、まだ始まったばかり。
だが、今の彼らには、どんな闇も乗り越えていけるという、確かな絆があった。
*
杉浦は、カウンター隣で笑う未華子の横顔を見つめながら、ふと、自分のジャケットのポケットに、手を入れた。
そこにある、一つの、硬い感触。
あの日、一ノ瀬から、奪い取った、姉の最後の声が記録されたUSBメモリ。
告発の証拠のために、八神にはコピーを渡してあった。
でも、この、オリジナルだけは、まだどうすることもできずにいたのだ。
(……姉貴……)
(……僕は、まだ、前に、進めてなんかいなかったんだね)
彼は、その小さな遺物を、ポケットの中で、強く強く握りしめた。
そして、自分のグラスに残っていたハイボールを、一気に呷した。
決意の味だった。
(……あの人に、笑われないようにしないとな)
命がけで自分たちを守り、諭してくれた、伝説の男。
そして、自分のために全てを捨てようとした、愛しい女性。
二人への誓いを、彼は改めて、強く強く胸に刻んだ。
サバイバーから自宅アパートへの、帰り道。
誰もいない、夜の浜北公園。
杉浦は一人、ベンチに座り、月明かりの下、例のUSBメモリを取り出した。
――事件が解決したあとも、一度もその音声は聞いていない。
聞こうと思えば、いつでも聞けた。
でも、彼は、あえて、そうしなかった。
杉浦は、その小さな筐体を、両手の親指で、バキリと音を立てて二つに折った。
もう、迷いはなかった。
彼は、そのデータの残骸を、近くのゴミ箱へと静かに投げ入れると、一度だけ、空を見上げた。
「……さよなら、絵美。僕、ちゃんと幸せになるからね」
その呟きは、誰にも聞こえない。
だが、その少しだけ、軽くなった背中を。
冷たい秋の夜風と、遠い月の光だけが、静かに見守っていた。
第五話:終
