第5話:浪速の狂犬、愛の試練
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第四幕:陽だまりの約束
◎一日後[場所:蒼天堀のとある隠れ家]
意識が、ゆっくりと浮上していく。
消毒液の匂い。
手のひらに触れる、温かい感触。
重い瞼を、こじ開けると。
最初に、目に飛び込んできたのは、涙でぐしゃぐしゃになった、愛しい人の顔だった。
「……………未華子、ちゃ、ん…………?」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
その瞬間。
彼女の大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「……よかった……! 目が覚めたんだね……! よかった……!」
「うおおおおおおおん! 杉浦氏ぃぃぃ〜〜〜〜!」
隣からは、九十九の滝のような号泣。
杉浦が目を覚ましたのは、真島が手配したであろう、闇診療所の一室だった。
「……ほんまに。アホやで」
部屋の隅。
壁に寄りかかっていた真島が、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
だが、その眼帯の奥の一つの瞳は、どこまでも優しかった。
部屋のテレビからは、聞き慣れた、ニュースキャスターの声が流れている。
『―――昨日、厚生労働省の一ノ瀬亮容疑者が、機密情報漏洩の疑いで逮捕されました。押収されたUSBメモリからは、3年前の「アドデック9」事件に関する、未公開の音声データも見つかっており…』
八神と海藤は、掴んだ証拠を手に一足先に東京へ戻り、告発へと動いていた。
全ては終わったのだ。
杉浦は、安堵と脱力感で、再び意識が遠のいていくのを感じていた。
だが、その自分の手を、強く強く握りしめてくれている、彼女の温かい感触だけが。
確かに、ここが、現実なのだと教えてくれていた。
*
数日後。
横浜へ帰る、前日の夜。
未華子は、一人で真島の元を訪れた。
“約束”を果たしに来たのだ。
重厚な社長室のドアをノックすると「開いとるで」と、中から声がした。
真島は、巨大なデスクで一人、書類に目を通していた。
その姿は、狂犬ではなく、冷徹な経営者の顔だった。
未華子の姿を認めると、彼はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。
「……真島さん。大変お世話になりました。それで、約束の件ですが……」
覚悟を決めて、切り出した。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
真島は、何も言わずに立ち上がると、無言で部屋の奥を指さした。
「……ちょっと、中で待っとってや」
そう言うと、彼は未華子に背を向け、廊下へと出て、誰かに電話をかけ始めたようだった。
一人、社長室に残された未華子。
部屋の中には、応接セットと、いわゆる社長用の大きな執務デスク。
そしてそのデスクの背後に、薄暗い小部屋があるのが見えた。
ちらりと覗いてみると、セミダブルサイズのシンプルなベッドが置かれた仮眠室で、ガラス張りのシャワールームも取り付けられていた。
(……きっと、ここで待っていろ、ということなんだ)
ゴクリ、と唾を飲む。
先にシャワーでも浴びるべきなのだろうか。
それとも、ただ、ここで待っていればいいのか。
「元」とはいえ、伝説のヤクザの愛人になるとは、一体どういうことなのか……。
想像もつかない未来への恐怖と、それでも杉浦くんが助かったという安堵が、ぐちゃぐちゃに心の中で混ざり合う。
震える手で、ぎゅっとシャツの裾を握りしめた。
――数分後。
ガチャリ、とドアが開き、真島が戻ってきた。
彼は、直立不動で待つ未華子の目の前まで歩いてくると、その眼帯の奥の瞳で、じっと、彼女の心の底を見つめた。
「……怖ないんか」
その静かな問いかけに、未華子の身体がびくりと震える。
「……怖いです」
正直に答えた。
「でも、杉浦くんが助かるなら。彼が、生きて、笑ってくれるなら……私は、なんだってできます」
震えながらも、一切の揺らぎない瞳を見て、真島は、ふぅ、と長い息を吐いた。
そして、子供に言い聞かせるように、その大きな手が、ポン、と未華子の頭に置かれた。
「アホやな、あんたは」
「……え?」
「好きな男のためや言うて、なけなしの金全部突っ込んで、体まで売ろうとするアホがおるか。……そないなやり方じゃ、人は守れへん。本当に大事なもんを守りたいんやったらな、まず、あんた自身が幸せにならなあかんのや」
それは、伝説の極道が語るとは思えないほど、温かくて、優しい言葉だった。
「自分を安売りしたら、あかん。あんたには、あんたの価値がある。それを一番わかってやらなあかんのは、他の誰でもない、あんた自身やで」
堪えていた涙が、未華子の頬を伝った。
「ほな、行くで」
真島は、「約束の相手」が来たとでも言うように、顎でドアをしゃくった。
「……?」
「ワシは、愛人には事足りとる。それに、“素人”の世話になる趣味はないねん。……ええか、貸し借りはナシや。ワシがやりたいから、やっただけのこと」
「……ただ、これだけは覚えとき」
「―――男ちゅうもんはな、女の涙より、笑顔のために戦うもんなんや」
*
真島警備が入る雑居ビルの外に出ると、歩道の向こう側に、杉浦が心配そうな、しかし、どこか覚悟を決めたような目で立っていた。
真島が、電話をかけた相手は彼だったのだ。
未華子が呆然と、二人の顔を交互に見つめていると、真島は最後にもう一度、彼女の頭を、ぽん、と撫でた。
そして、ニヤリ、とその口の端を三日月のように歪めて、こう付け加えたのだ。
「―――ああ、せや」
「……?」
「……また、もし今後、何かヤバいことになったら、いつでも言うたらええで」
「『あたしは、真島吾朗の愛人や』ってな」
あまりに物騒すぎる、でも心強いお守りの言葉。
「……あんたの、その、しょうもない命くらいならなんぼでも守ったるわ」
彼は、杉浦の方を見ると、その眼帯の奥の瞳で、真っ直ぐに杉浦の目を射抜く。
(……あとは、任せたで)
杉浦も、その言葉のない「命令」を真正面から受け止め、強く、一度だけ頷き返した。
真島は、満足そうに口の端を少しだけ上げると、踵を返し、一人、会社の中へと消えていった。
その、大きくて、少しだけ寂しそうな背中を見送りながら。
未華子は、ただ、きょとんとした顔で、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
(……今の本気? それとも、冗談?)
スケールが大きすぎる、その「餞別」に、全く頭が追いついていない。
そんな、彼女の様子に気づいた杉浦が、そっと、隣に並び立った。
彼は、その震える肩に優しく手を置くと、心配そうに顔を覗き込んだ。
「……どうしたの?」
「…え? いや、えと…」と、きょとんとしたままの彼女に、彼は少しだけ困ったように、でもどこまでも優しく笑いかけた。
「……まあ、いいや。……帰ろっか?」
その穏やかな声で、未華子はようやく我に返ると、小さく頷いた。
*
滞在中の隠れ家(診療所)まで、二人で、夜の蒼天堀を歩いて帰る。
繁華街を抜けると、さっきまでの喧騒が、嘘のように静かになる。
川面に、ネオンの光が揺れている。
その美しい光景を見ながら、未華子は、ぽつり、と呟いた。
「……真島さんって、本当に不思議な人だね」
「うん。……僕にとっては、師匠みたいな人だよ」
杉浦はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
そのおでこには、まだ、大きな絆創膏が貼られ、頬にも痛々しい痣の痕が残っている。
その傷跡を見ていたら、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「……あのさ」
未華子が、切り出す。
「……杉浦くんのつらい過去に、勝手に踏み込んじゃって、本当にごめんね」
その謝罪の言葉に。
彼は、驚いたように足を止めた。
そして、未華子の方へと向き直ると、これまで見たことのないほど真剣な目で、未華子のことを見つめた。
「…………ううん。謝らなきゃいけないのは、僕の方だよ」
「え……?」
「僕は……自分のことしか考えてなかった。……姉貴のことばっかりで。…未華子ちゃんと九十九くんが、どんな思いで、大阪まで追いかけてきてくれたのかも。…真島さんに、あんな無茶な交渉までしてくれたことも」
彼は、真島から全てを聞いたようだった。
その声は、後悔で震えている。
「……本当に、ごめん」
「……とんでもない十字架を、背負わせようとしてた」
その痛々しい告白に、彼女は慌てて首を横に振った。
「そんなことない! 私が勝手に、申し出たことなんだから!」
「…………」
「……それに、私こそ。……杉浦くんの気持ち、何もわかってあげられてなかった。…一人で抱え込ませちゃって、ごめんね」
「未華子ちゃん……」
二人はしばらく、無言で歩き続けた。
川面を渡る夜風が、少しだけ冷たい。
「……でもさ」
未華子が、言う。
「……一つだけ、わかったことがある」
「?」
「……杉浦くんは、一人でどこまでも突っ走っちゃう、ただの、わんぱくなガキんちょだってこと」
未華子の、少しだけ意地悪な一言に。
彼の目が、大きく見開かれた。
未華子は、歩みを止め、杉浦の目を見て続けた。
「だから、もう、一人でどこかに行ったりしないで。……行くなら、私も、一緒に連れてってよ」
「杉浦くんの背中は、私が、守ってあげるからさ」
その男前な(?)プロポーズ(?)の言葉に、杉浦は完全に、固まった後。
耐えきれなくなったように、ぷっ、と、吹き出した。
「……なに、それ」
「何よー」
「……格好よすぎでしょ、未華子ちゃん」
久しぶりに見る、杉浦の心からの笑顔につられて、未華子も笑ってしまった。
――ああ、そうだ。
私たちは、きっと、これでいいのだ。
傷だらけで、不器用で、どうしようもない二人。
でも、だからこそ、互いの背中を預け合える。
二人で一つ。
それがきっと、私たちの一番しっくりくる関係性。
夜風に吹かれながら、また、ゆっくりと歩き始める。
もう、さっきまでの、気まずい空気はどこにもなかった。
ただ、隣を歩く、彼の温かい体温だけが。
確かにここにある現実なのだと、教えてくれていた。
◎杉浦回想(数日前)[場所:診療所での一夜]
目を覚ました後、真島が一人で病室を訪れた。
ベッドに横たわる杉浦のそばに座ると、彼は静かに、しかし、有無を言わさぬ迫力で言った。
「……『全てを精算してきた』やて? 偉そうに言うてたけど、大嘘やったやないか」
真島は、未華子がどんな覚悟で自分に会いに来たかを、淡々と、しかし、その一言一句に重みを込めて語った。
彼女が差し出した数百万円が入った封筒のこと。
自分の体を売ってでも、お前を助けたいと、あの小さな体で言い切ったこと。
「あの子はな、お前のために、自分の人生の全部をワシに差し出そうとしとったんやで」
その言葉が、杉浦の胸に焼印のように突き刺さる。
自分がしたことの、本当の意味を思い知らされた。
自分は、ただ死のうとしていただけじゃない。
彼女に、生涯消えることのない、地獄のような十字架を背負わせようとしていたのだ。
「守るっちゅうんは、ただ命を張ることやない。そいつの未来ごと、背負う覚悟のことや」
真島の瞳の奥に、深い悲しみと後悔の色が揺らめいた。
「……ええか、杉浦。女にそこまでさせたんや。お前はこれから、死ぬ気であの子を守れ。自分の命に代えてでも、幸せにしたれ」
「もし、あの子を泣かせるようなことがあったら……次は、ワシがお前を殺したる」
それは、伝説の男が、若き日の自分に言い聞かせるような、魂からの、そして何よりも温かい「命令」だった。
杉浦は、声もなく、ただ嗚咽を漏らし続けた。
そして、自分の心に生涯消えることのない誓いを立てた。
―――もう二度と、この手を離さない、と。
◎一日後[場所:蒼天堀のとある隠れ家]
意識が、ゆっくりと浮上していく。
消毒液の匂い。
手のひらに触れる、温かい感触。
重い瞼を、こじ開けると。
最初に、目に飛び込んできたのは、涙でぐしゃぐしゃになった、愛しい人の顔だった。
「……………未華子、ちゃ、ん…………?」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
その瞬間。
彼女の大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「……よかった……! 目が覚めたんだね……! よかった……!」
「うおおおおおおおん! 杉浦氏ぃぃぃ〜〜〜〜!」
隣からは、九十九の滝のような号泣。
杉浦が目を覚ましたのは、真島が手配したであろう、闇診療所の一室だった。
「……ほんまに。アホやで」
部屋の隅。
壁に寄りかかっていた真島が、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
だが、その眼帯の奥の一つの瞳は、どこまでも優しかった。
部屋のテレビからは、聞き慣れた、ニュースキャスターの声が流れている。
『―――昨日、厚生労働省の一ノ瀬亮容疑者が、機密情報漏洩の疑いで逮捕されました。押収されたUSBメモリからは、3年前の「アドデック9」事件に関する、未公開の音声データも見つかっており…』
八神と海藤は、掴んだ証拠を手に一足先に東京へ戻り、告発へと動いていた。
全ては終わったのだ。
杉浦は、安堵と脱力感で、再び意識が遠のいていくのを感じていた。
だが、その自分の手を、強く強く握りしめてくれている、彼女の温かい感触だけが。
確かに、ここが、現実なのだと教えてくれていた。
*
数日後。
横浜へ帰る、前日の夜。
未華子は、一人で真島の元を訪れた。
“約束”を果たしに来たのだ。
重厚な社長室のドアをノックすると「開いとるで」と、中から声がした。
真島は、巨大なデスクで一人、書類に目を通していた。
その姿は、狂犬ではなく、冷徹な経営者の顔だった。
未華子の姿を認めると、彼はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。
「……真島さん。大変お世話になりました。それで、約束の件ですが……」
覚悟を決めて、切り出した。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
真島は、何も言わずに立ち上がると、無言で部屋の奥を指さした。
「……ちょっと、中で待っとってや」
そう言うと、彼は未華子に背を向け、廊下へと出て、誰かに電話をかけ始めたようだった。
一人、社長室に残された未華子。
部屋の中には、応接セットと、いわゆる社長用の大きな執務デスク。
そしてそのデスクの背後に、薄暗い小部屋があるのが見えた。
ちらりと覗いてみると、セミダブルサイズのシンプルなベッドが置かれた仮眠室で、ガラス張りのシャワールームも取り付けられていた。
(……きっと、ここで待っていろ、ということなんだ)
ゴクリ、と唾を飲む。
先にシャワーでも浴びるべきなのだろうか。
それとも、ただ、ここで待っていればいいのか。
「元」とはいえ、伝説のヤクザの愛人になるとは、一体どういうことなのか……。
想像もつかない未来への恐怖と、それでも杉浦くんが助かったという安堵が、ぐちゃぐちゃに心の中で混ざり合う。
震える手で、ぎゅっとシャツの裾を握りしめた。
――数分後。
ガチャリ、とドアが開き、真島が戻ってきた。
彼は、直立不動で待つ未華子の目の前まで歩いてくると、その眼帯の奥の瞳で、じっと、彼女の心の底を見つめた。
「……怖ないんか」
その静かな問いかけに、未華子の身体がびくりと震える。
「……怖いです」
正直に答えた。
「でも、杉浦くんが助かるなら。彼が、生きて、笑ってくれるなら……私は、なんだってできます」
震えながらも、一切の揺らぎない瞳を見て、真島は、ふぅ、と長い息を吐いた。
そして、子供に言い聞かせるように、その大きな手が、ポン、と未華子の頭に置かれた。
「アホやな、あんたは」
「……え?」
「好きな男のためや言うて、なけなしの金全部突っ込んで、体まで売ろうとするアホがおるか。……そないなやり方じゃ、人は守れへん。本当に大事なもんを守りたいんやったらな、まず、あんた自身が幸せにならなあかんのや」
それは、伝説の極道が語るとは思えないほど、温かくて、優しい言葉だった。
「自分を安売りしたら、あかん。あんたには、あんたの価値がある。それを一番わかってやらなあかんのは、他の誰でもない、あんた自身やで」
堪えていた涙が、未華子の頬を伝った。
「ほな、行くで」
真島は、「約束の相手」が来たとでも言うように、顎でドアをしゃくった。
「……?」
「ワシは、愛人には事足りとる。それに、“素人”の世話になる趣味はないねん。……ええか、貸し借りはナシや。ワシがやりたいから、やっただけのこと」
「……ただ、これだけは覚えとき」
「―――男ちゅうもんはな、女の涙より、笑顔のために戦うもんなんや」
*
真島警備が入る雑居ビルの外に出ると、歩道の向こう側に、杉浦が心配そうな、しかし、どこか覚悟を決めたような目で立っていた。
真島が、電話をかけた相手は彼だったのだ。
未華子が呆然と、二人の顔を交互に見つめていると、真島は最後にもう一度、彼女の頭を、ぽん、と撫でた。
そして、ニヤリ、とその口の端を三日月のように歪めて、こう付け加えたのだ。
「―――ああ、せや」
「……?」
「……また、もし今後、何かヤバいことになったら、いつでも言うたらええで」
「『あたしは、真島吾朗の愛人や』ってな」
あまりに物騒すぎる、でも心強いお守りの言葉。
「……あんたの、その、しょうもない命くらいならなんぼでも守ったるわ」
彼は、杉浦の方を見ると、その眼帯の奥の瞳で、真っ直ぐに杉浦の目を射抜く。
(……あとは、任せたで)
杉浦も、その言葉のない「命令」を真正面から受け止め、強く、一度だけ頷き返した。
真島は、満足そうに口の端を少しだけ上げると、踵を返し、一人、会社の中へと消えていった。
その、大きくて、少しだけ寂しそうな背中を見送りながら。
未華子は、ただ、きょとんとした顔で、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
(……今の本気? それとも、冗談?)
スケールが大きすぎる、その「餞別」に、全く頭が追いついていない。
そんな、彼女の様子に気づいた杉浦が、そっと、隣に並び立った。
彼は、その震える肩に優しく手を置くと、心配そうに顔を覗き込んだ。
「……どうしたの?」
「…え? いや、えと…」と、きょとんとしたままの彼女に、彼は少しだけ困ったように、でもどこまでも優しく笑いかけた。
「……まあ、いいや。……帰ろっか?」
その穏やかな声で、未華子はようやく我に返ると、小さく頷いた。
*
滞在中の隠れ家(診療所)まで、二人で、夜の蒼天堀を歩いて帰る。
繁華街を抜けると、さっきまでの喧騒が、嘘のように静かになる。
川面に、ネオンの光が揺れている。
その美しい光景を見ながら、未華子は、ぽつり、と呟いた。
「……真島さんって、本当に不思議な人だね」
「うん。……僕にとっては、師匠みたいな人だよ」
杉浦はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
そのおでこには、まだ、大きな絆創膏が貼られ、頬にも痛々しい痣の痕が残っている。
その傷跡を見ていたら、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「……あのさ」
未華子が、切り出す。
「……杉浦くんのつらい過去に、勝手に踏み込んじゃって、本当にごめんね」
その謝罪の言葉に。
彼は、驚いたように足を止めた。
そして、未華子の方へと向き直ると、これまで見たことのないほど真剣な目で、未華子のことを見つめた。
「…………ううん。謝らなきゃいけないのは、僕の方だよ」
「え……?」
「僕は……自分のことしか考えてなかった。……姉貴のことばっかりで。…未華子ちゃんと九十九くんが、どんな思いで、大阪まで追いかけてきてくれたのかも。…真島さんに、あんな無茶な交渉までしてくれたことも」
彼は、真島から全てを聞いたようだった。
その声は、後悔で震えている。
「……本当に、ごめん」
「……とんでもない十字架を、背負わせようとしてた」
その痛々しい告白に、彼女は慌てて首を横に振った。
「そんなことない! 私が勝手に、申し出たことなんだから!」
「…………」
「……それに、私こそ。……杉浦くんの気持ち、何もわかってあげられてなかった。…一人で抱え込ませちゃって、ごめんね」
「未華子ちゃん……」
二人はしばらく、無言で歩き続けた。
川面を渡る夜風が、少しだけ冷たい。
「……でもさ」
未華子が、言う。
「……一つだけ、わかったことがある」
「?」
「……杉浦くんは、一人でどこまでも突っ走っちゃう、ただの、わんぱくなガキんちょだってこと」
未華子の、少しだけ意地悪な一言に。
彼の目が、大きく見開かれた。
未華子は、歩みを止め、杉浦の目を見て続けた。
「だから、もう、一人でどこかに行ったりしないで。……行くなら、私も、一緒に連れてってよ」
「杉浦くんの背中は、私が、守ってあげるからさ」
その男前な(?)プロポーズ(?)の言葉に、杉浦は完全に、固まった後。
耐えきれなくなったように、ぷっ、と、吹き出した。
「……なに、それ」
「何よー」
「……格好よすぎでしょ、未華子ちゃん」
久しぶりに見る、杉浦の心からの笑顔につられて、未華子も笑ってしまった。
――ああ、そうだ。
私たちは、きっと、これでいいのだ。
傷だらけで、不器用で、どうしようもない二人。
でも、だからこそ、互いの背中を預け合える。
二人で一つ。
それがきっと、私たちの一番しっくりくる関係性。
夜風に吹かれながら、また、ゆっくりと歩き始める。
もう、さっきまでの、気まずい空気はどこにもなかった。
ただ、隣を歩く、彼の温かい体温だけが。
確かにここにある現実なのだと、教えてくれていた。
◎杉浦回想(数日前)[場所:診療所での一夜]
目を覚ました後、真島が一人で病室を訪れた。
ベッドに横たわる杉浦のそばに座ると、彼は静かに、しかし、有無を言わさぬ迫力で言った。
「……『全てを精算してきた』やて? 偉そうに言うてたけど、大嘘やったやないか」
真島は、未華子がどんな覚悟で自分に会いに来たかを、淡々と、しかし、その一言一句に重みを込めて語った。
彼女が差し出した数百万円が入った封筒のこと。
自分の体を売ってでも、お前を助けたいと、あの小さな体で言い切ったこと。
「あの子はな、お前のために、自分の人生の全部をワシに差し出そうとしとったんやで」
その言葉が、杉浦の胸に焼印のように突き刺さる。
自分がしたことの、本当の意味を思い知らされた。
自分は、ただ死のうとしていただけじゃない。
彼女に、生涯消えることのない、地獄のような十字架を背負わせようとしていたのだ。
「守るっちゅうんは、ただ命を張ることやない。そいつの未来ごと、背負う覚悟のことや」
真島の瞳の奥に、深い悲しみと後悔の色が揺らめいた。
「……ええか、杉浦。女にそこまでさせたんや。お前はこれから、死ぬ気であの子を守れ。自分の命に代えてでも、幸せにしたれ」
「もし、あの子を泣かせるようなことがあったら……次は、ワシがお前を殺したる」
それは、伝説の男が、若き日の自分に言い聞かせるような、魂からの、そして何よりも温かい「命令」だった。
杉浦は、声もなく、ただ嗚咽を漏らし続けた。
そして、自分の心に生涯消えることのない誓いを立てた。
―――もう二度と、この手を離さない、と。
