第5話:浪速の狂犬、愛の試練
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◎場面転換:八神たちがホテルに乗り込む、約24時間前【杉浦SIDE】
杉浦は一人、その廃墟の王城へと足を踏み入れていた。
手紙やメールでのやり取りで記されていた通り、最上階の一番奥の部屋。
そのドアの前で、一度だけ、深く息を吸い込む。
――姉の死の真相。
その言葉の、甘美な響き。
罠だとわかっていながら、ここに来てしまった自分の愚かさ。
全てを飲み込み、彼はそのドアをノックした。
「―――入れ」
中から聞こえてきたのは、予想だにしない、若く、涼やかな声だった。
部屋の中央。
豪華な革張りのソファに、一人の、エリート風の男が、腰掛けていた。
一ノ瀬 亮 。
厚生労働省の元・事務次官だった男の、一人息子。
彼の顔には、人の良さそうな、しかし、どこか全てを見下しているような、歪んだ笑みが浮かんでいる。
「……よく来てくれたね、寺澤文也くん」
部屋の四隅には、銃を手にした屈強な男たち。
逃げ場はない。
杉浦は覚悟を決め、その男の目を見据えた。
「……あんたが、手紙を?」
「ああ。…君に、素晴らしい『プレゼント』をあげようと思ってね」
一ノ瀬はそう言うと、テーブルの上に置かれたノートPCのキーを、一つ、叩いた。
PCから音声が流れ出す。
ノイズ混じりの、劣悪な音質。
だが、その奥から聞こえてきた、か細い、女の悲鳴。
そして、苦しげな喘ぎ声。
最後に、途切れ途切れに、紡ぎ出された、最後の言葉。
『―――…ふみや………助け………て…………』
「―――っ!」
杉浦の、全身の血が逆流するような感覚。
忘れるはずがない。
間違いなく、姉、寺澤絵美の声だった。
その、生々しい断末魔。
杉浦の膝から、力が抜けていく。
平静を保てない。
呼吸が浅くなる。
その無防備な彼の姿を、一ノ瀬は心底楽しむように眺めていた。
「……どうだい? 素晴らしいプレゼントだろう?」
彼は、USBメモリを取り出し、テーブルの上でちらつかせる。
「ここには、君のお姉さんの最後の数分間の音声が、全て入っている。…あの、人殺しのマッドサイエンティスト(生野洋司)が彼女に何を言い、彼女が最後に何を残したか。…その全てがね」
「……………っ、それを、よこせ……!」
杉浦が、獣のように低い声で呻く。
「ああ、もちろん。…渡してあげるとも。…ただし、取引だ」
一ノ瀬は、ゆっくりと、その悪魔の条件を口にした。
このデータを持って、永久に、この国から消えろ、と。
そうすれば、八神隆之も、これ以上この事件を嗅ぎ回ることはなくなるだろう、と。
「……断ると、言ったら?」
「……もちろん。…君はここで死ぬ。…そして、このデータは海の底だ。…お前の姉の最後の声は、永遠に闇の中、というわけだ」
その卑劣な選択肢。
杉浦の中で、何かが切れた。
「…………ふざけるな!!!!!」
次の瞬間。
杉浦の身体は地を蹴り、一ノ瀬の喉元へと飛びかかっていた。
だがその動きは、無情にも二人の屈強な男によって阻まれる。
羽交い締めにされ、身動きが取れない。
その腹部に、鈍い衝撃。
「ぐっ……!」
銃床で、何度も何度も、殴りつけられる。
意識が遠のいていく。
(……ごめん、姉貴……)
(……ごめん、未華子ちゃん……)
薄れゆく意識の中で。
彼はただ、二人の女性の顔を思い浮かべ、そして静かに、闇の中へと沈んでいった。
◎現在[場所:廃ホテル最上階スイートルーム]
凄まじい轟音と共に、ドアが内側へと弾け飛ぶ。
三人は、光の中へと突入した。
そこに広がっていたのは―――地獄だった。
部屋の中央の椅子に、手足を無残に縛り付けられた杉浦。
その顔は、見るも無惨に殴りつけられ、腫れ上がり、口の端からは、血がだらりと垂れている。
頭部からの出血もひどい。
意識は、ほとんどないように見えた。
虫の息だ。
その痛々しい姿に、未華子の全身から、サッと血の気が引いていくのがわかった。
「―――ようこそ、八神隆之」
部屋の奥。
ソファに腰掛けていた一ノ瀬亮が、まるで旧知の友人を迎えるかのように、楽しげに笑った。
「……待っていたよ。…ようやく、最後の役者が揃った、というわけだ」
その涼やかな顔。
八神の瞳の奥に、深く、冷たい、怒りの炎が燃え上がった。
「…………一ノ瀬、か」
「お久しぶりです、八神先生。…その節は、親父が大変お世話になりました」
その、白々しい挨拶。
「……杉浦に何をした」
海藤が、地を這うような低い声で唸る。
「何、って。…少しだけ、彼と『交渉』をしていただけですよ」
一ノ瀬は肩をすくめると、テーブルの上のUSBメモリをつまみ上げた。
「八神さん」
未華子が、震える声で尋ねる。
「……一体、これは……?」
「……こいつは、一ノ瀬元・事務次官の息子だ」
八神が吐き捨てるように言った。
「……俺たちが追っていた、『アドデック9』の闇市場への横流し事件。そのブローカーがこいつだ」
「アドデック9」事件後、先端創薬センターは解体された。
しかし、当時研究されていた膨大な量の「治験データ」や、開発途中の「危険な薬剤」の一部が、正式な手続きを経ずに闇へと流れている、という疑惑を八神は突き止めていた。
その「負の遺産」を、海外のマフィアやテロ組織に高値で売りさばこうとしている人間。
そのブローカーこそが、かつての父親の権力を利用し、今もなお厚労省の内部情報を不正に入手できる立場にいる、一ノ瀬亮だったのだ。
「ご明察」
一ノ瀬が拍手する。
「…そしてこれは、その『商品』の一つ、というわけだ」
彼がUSBメモリをちらつかせる。
「……中身はなんだ」
八神の鋭い問い。
「……おっと。それは、まだ言えないな。…何せこの商品の『最初の交渉権』は、そこの彼にあるのでね」
一ノ瀬が、顎で杉浦をしゃくった。
「俺は、彼に提案したんですよ。『寺澤絵美の最後の声が入ったこのデータを、君にあげよう。…その代わり、君は永遠に姿を消せ』とね」
その、卑劣な取引の内容に、未華子は息を呑んだ。
「……目的はなんだ」
「決まっているでしょう」
一ノ瀬の顔から笑みが消えた。
その瞳には、底なしの憎悪が渦巻いている。
「―――復讐だよ、八神隆之」
「あんたのせいで、俺の親父の人生は終わった。…俺の輝かしい、キャリアも、だ」
「だから、あんたからも奪ってやろうと思ったんだよ。…あんたが最も信頼し、弟のように可愛がっている、その『相棒』を、な」
「……………っ」
「こいつ(杉浦)に、姉の『復讐』という甘い餌を与え、あんたたちから引き離し、永遠に苦しませてやる。……最高の復讐だとは、思わないか?」
歪みきった動機の独白に、八神は何も言わず、ただ静かな怒りを拳に込めるだけ。
一ノ瀬は、満足そうに立ち上がった。
「―――さて。…役者は揃った。…始めようか諸君」
「―――最後の、舞台の、幕開けだ」
一ノ瀬の、その言葉を合図に。
部屋の四隅に控えていた黒服の男たちが、一斉に銃口をこちらへと向けた。
戦いの火蓋は、切って落とされた。
圧倒的な、数の不利。
八神の舞うような円舞と、海藤の熊のような咆哮が、狭い部屋に轟く。
二人の超人的な戦闘能力は、屈強な黒服たちを、次々となぎ倒していく。
だが、敵は容赦なく、銃弾を浴びせてくる。
遮蔽物の多い部屋の中、思うように間合いを詰めることができない。
戦況は膠着していた。
(……今しか、ない!)
銃弾が飛び交う、その地獄絵図の中。
未華子は、意を決して走り出した。
彼女の狙いは、ただ一点。
椅子に拘束されたままの、杉浦の元へ。
「おい、みーちゃん、危ねえ!」
海藤の叫び声が、聞こえる。
だが、もう止まれない。
一人の男が、彼女の行く手を塞ぐ。
未華子は躊躇しなかった。
ポケットから取り出した特殊警棒を、男の鳩尾に叩き込み、怯んだ隙に、スタンガンをその首筋に押し当てる!
「ぎゃっ!」
白目を剥き、崩れ落ちる男。
その脇をすり抜け、未華子は、無我夢中で杉浦の元へと走った。
だが、その無謀な行動が、逆に敵の注意を引きつけてしまった。
一人の男が、ニヤリと、人の悪い笑みを浮かべ、その銃口を未華子の背中に向けた――。
「「危ないっ!」」
八神と海藤の絶叫が、スローモーションのように響く。
もう、間に合わない。
―――バン!!!!
乾いた銃声。
だが、未華子の身体を、衝撃は襲わなかった。
その銃弾は、彼女に当たることはなかったのだ。
銃声の主は、全く別の方向からだったからだ。
――部屋の入り口。
いつの間にか、そこに立っていた、一つの、長い影。
その影が放った一発の銃弾が、未華子を狙った男の、銃を持つその腕を、正確に貫いていたのだ。
その男の姿を、認めた瞬間。
その場の誰もが、息を呑んだ。
蛇柄のジャケット。
眼帯の奥で妖しく光る、一つの瞳。
真島吾朗だった。
彼は、もうこの「禁断の谷」からは、去ったはずだった。
「……………はてさて」
彼は、ドスを煌めかせながら、獣のようにしなやかに、部屋の中へと足を踏み入れる。
その口元には、三日月のような、狂気の笑みが浮かんでいた。
「……桐生チャンのダチに、随分と派手な、お出迎えやないか」
耳をつんざくような怒号が飛び交う戦場に、楽しげな、しかし背筋が粟立つような関西弁が響き渡る。
伝説の男、真島吾朗の参戦。
その場の空気が一変した。
ねっとりと肌にまとわりつくような濃密な殺気が、黒服たちの思考と運動神経を瞬時に凍り付かせる。
コンマ数秒の硬直。
百戦錬磨の八神と海藤が、その隙を見逃すはずがなかった。
二人が弾かれたように飛び出すのと同時に、真島もまた、自身のステージへと踊り出る。
白刃がきらめく音が、風切り音よりも早く鼓膜を叩いた。
襲い来る黒服たちの動きなど、まるでスローモーションかのように、真島はしなやかな体を独楽のように回転させる。
彼が通った軌跡には、銀色の残像だけが美しく焼き付いていた。
抵抗する暇など、誰にも与えられない。
鬼炎のドスが閃くたび、布が裂ける乾いた音と、腱が断ち切られる不快な感触だけが空間を支配していく。
喉笛を食い破ることはしない。心臓を貫くこともしない。
ただ、刃の切っ先は正確無比に、人間が立っていられるための「機能」だけを削ぎ落としていく。
悲鳴を上げる間もなく、黒服たちが糸の切れた操り人形のように次々と崩れ落ちていく様は、凄惨でありながら、息を呑むほどに一方的で、残酷なまでに鮮やかだった。
戦いの趨勢は、一瞬で決した。
最後に残った一ノ瀬の前に、八神と真島が、静かに立ちはだかる。
その絶望的な光景に。
エリート官僚の歪んだ復讐劇は、呆気なく、その幕を下ろしたのだった。
杉浦は一人、その廃墟の王城へと足を踏み入れていた。
手紙やメールでのやり取りで記されていた通り、最上階の一番奥の部屋。
そのドアの前で、一度だけ、深く息を吸い込む。
――姉の死の真相。
その言葉の、甘美な響き。
罠だとわかっていながら、ここに来てしまった自分の愚かさ。
全てを飲み込み、彼はそのドアをノックした。
「―――入れ」
中から聞こえてきたのは、予想だにしない、若く、涼やかな声だった。
部屋の中央。
豪華な革張りのソファに、一人の、エリート風の男が、腰掛けていた。
厚生労働省の元・事務次官だった男の、一人息子。
彼の顔には、人の良さそうな、しかし、どこか全てを見下しているような、歪んだ笑みが浮かんでいる。
「……よく来てくれたね、寺澤文也くん」
部屋の四隅には、銃を手にした屈強な男たち。
逃げ場はない。
杉浦は覚悟を決め、その男の目を見据えた。
「……あんたが、手紙を?」
「ああ。…君に、素晴らしい『プレゼント』をあげようと思ってね」
一ノ瀬はそう言うと、テーブルの上に置かれたノートPCのキーを、一つ、叩いた。
PCから音声が流れ出す。
ノイズ混じりの、劣悪な音質。
だが、その奥から聞こえてきた、か細い、女の悲鳴。
そして、苦しげな喘ぎ声。
最後に、途切れ途切れに、紡ぎ出された、最後の言葉。
『―――…ふみや………助け………て…………』
「―――っ!」
杉浦の、全身の血が逆流するような感覚。
忘れるはずがない。
間違いなく、姉、寺澤絵美の声だった。
その、生々しい断末魔。
杉浦の膝から、力が抜けていく。
平静を保てない。
呼吸が浅くなる。
その無防備な彼の姿を、一ノ瀬は心底楽しむように眺めていた。
「……どうだい? 素晴らしいプレゼントだろう?」
彼は、USBメモリを取り出し、テーブルの上でちらつかせる。
「ここには、君のお姉さんの最後の数分間の音声が、全て入っている。…あの、人殺しのマッドサイエンティスト(生野洋司)が彼女に何を言い、彼女が最後に何を残したか。…その全てがね」
「……………っ、それを、よこせ……!」
杉浦が、獣のように低い声で呻く。
「ああ、もちろん。…渡してあげるとも。…ただし、取引だ」
一ノ瀬は、ゆっくりと、その悪魔の条件を口にした。
このデータを持って、永久に、この国から消えろ、と。
そうすれば、八神隆之も、これ以上この事件を嗅ぎ回ることはなくなるだろう、と。
「……断ると、言ったら?」
「……もちろん。…君はここで死ぬ。…そして、このデータは海の底だ。…お前の姉の最後の声は、永遠に闇の中、というわけだ」
その卑劣な選択肢。
杉浦の中で、何かが切れた。
「…………ふざけるな!!!!!」
次の瞬間。
杉浦の身体は地を蹴り、一ノ瀬の喉元へと飛びかかっていた。
だがその動きは、無情にも二人の屈強な男によって阻まれる。
羽交い締めにされ、身動きが取れない。
その腹部に、鈍い衝撃。
「ぐっ……!」
銃床で、何度も何度も、殴りつけられる。
意識が遠のいていく。
(……ごめん、姉貴……)
(……ごめん、未華子ちゃん……)
薄れゆく意識の中で。
彼はただ、二人の女性の顔を思い浮かべ、そして静かに、闇の中へと沈んでいった。
◎現在[場所:廃ホテル最上階スイートルーム]
凄まじい轟音と共に、ドアが内側へと弾け飛ぶ。
三人は、光の中へと突入した。
そこに広がっていたのは―――地獄だった。
部屋の中央の椅子に、手足を無残に縛り付けられた杉浦。
その顔は、見るも無惨に殴りつけられ、腫れ上がり、口の端からは、血がだらりと垂れている。
頭部からの出血もひどい。
意識は、ほとんどないように見えた。
虫の息だ。
その痛々しい姿に、未華子の全身から、サッと血の気が引いていくのがわかった。
「―――ようこそ、八神隆之」
部屋の奥。
ソファに腰掛けていた一ノ瀬亮が、まるで旧知の友人を迎えるかのように、楽しげに笑った。
「……待っていたよ。…ようやく、最後の役者が揃った、というわけだ」
その涼やかな顔。
八神の瞳の奥に、深く、冷たい、怒りの炎が燃え上がった。
「…………一ノ瀬、か」
「お久しぶりです、八神先生。…その節は、親父が大変お世話になりました」
その、白々しい挨拶。
「……杉浦に何をした」
海藤が、地を這うような低い声で唸る。
「何、って。…少しだけ、彼と『交渉』をしていただけですよ」
一ノ瀬は肩をすくめると、テーブルの上のUSBメモリをつまみ上げた。
「八神さん」
未華子が、震える声で尋ねる。
「……一体、これは……?」
「……こいつは、一ノ瀬元・事務次官の息子だ」
八神が吐き捨てるように言った。
「……俺たちが追っていた、『アドデック9』の闇市場への横流し事件。そのブローカーがこいつだ」
「アドデック9」事件後、先端創薬センターは解体された。
しかし、当時研究されていた膨大な量の「治験データ」や、開発途中の「危険な薬剤」の一部が、正式な手続きを経ずに闇へと流れている、という疑惑を八神は突き止めていた。
その「負の遺産」を、海外のマフィアやテロ組織に高値で売りさばこうとしている人間。
そのブローカーこそが、かつての父親の権力を利用し、今もなお厚労省の内部情報を不正に入手できる立場にいる、一ノ瀬亮だったのだ。
「ご明察」
一ノ瀬が拍手する。
「…そしてこれは、その『商品』の一つ、というわけだ」
彼がUSBメモリをちらつかせる。
「……中身はなんだ」
八神の鋭い問い。
「……おっと。それは、まだ言えないな。…何せこの商品の『最初の交渉権』は、そこの彼にあるのでね」
一ノ瀬が、顎で杉浦をしゃくった。
「俺は、彼に提案したんですよ。『寺澤絵美の最後の声が入ったこのデータを、君にあげよう。…その代わり、君は永遠に姿を消せ』とね」
その、卑劣な取引の内容に、未華子は息を呑んだ。
「……目的はなんだ」
「決まっているでしょう」
一ノ瀬の顔から笑みが消えた。
その瞳には、底なしの憎悪が渦巻いている。
「―――復讐だよ、八神隆之」
「あんたのせいで、俺の親父の人生は終わった。…俺の輝かしい、キャリアも、だ」
「だから、あんたからも奪ってやろうと思ったんだよ。…あんたが最も信頼し、弟のように可愛がっている、その『相棒』を、な」
「……………っ」
「こいつ(杉浦)に、姉の『復讐』という甘い餌を与え、あんたたちから引き離し、永遠に苦しませてやる。……最高の復讐だとは、思わないか?」
歪みきった動機の独白に、八神は何も言わず、ただ静かな怒りを拳に込めるだけ。
一ノ瀬は、満足そうに立ち上がった。
「―――さて。…役者は揃った。…始めようか諸君」
「―――最後の、舞台の、幕開けだ」
一ノ瀬の、その言葉を合図に。
部屋の四隅に控えていた黒服の男たちが、一斉に銃口をこちらへと向けた。
戦いの火蓋は、切って落とされた。
圧倒的な、数の不利。
八神の舞うような円舞と、海藤の熊のような咆哮が、狭い部屋に轟く。
二人の超人的な戦闘能力は、屈強な黒服たちを、次々となぎ倒していく。
だが、敵は容赦なく、銃弾を浴びせてくる。
遮蔽物の多い部屋の中、思うように間合いを詰めることができない。
戦況は膠着していた。
(……今しか、ない!)
銃弾が飛び交う、その地獄絵図の中。
未華子は、意を決して走り出した。
彼女の狙いは、ただ一点。
椅子に拘束されたままの、杉浦の元へ。
「おい、みーちゃん、危ねえ!」
海藤の叫び声が、聞こえる。
だが、もう止まれない。
一人の男が、彼女の行く手を塞ぐ。
未華子は躊躇しなかった。
ポケットから取り出した特殊警棒を、男の鳩尾に叩き込み、怯んだ隙に、スタンガンをその首筋に押し当てる!
「ぎゃっ!」
白目を剥き、崩れ落ちる男。
その脇をすり抜け、未華子は、無我夢中で杉浦の元へと走った。
だが、その無謀な行動が、逆に敵の注意を引きつけてしまった。
一人の男が、ニヤリと、人の悪い笑みを浮かべ、その銃口を未華子の背中に向けた――。
「「危ないっ!」」
八神と海藤の絶叫が、スローモーションのように響く。
もう、間に合わない。
―――バン!!!!
乾いた銃声。
だが、未華子の身体を、衝撃は襲わなかった。
その銃弾は、彼女に当たることはなかったのだ。
銃声の主は、全く別の方向からだったからだ。
――部屋の入り口。
いつの間にか、そこに立っていた、一つの、長い影。
その影が放った一発の銃弾が、未華子を狙った男の、銃を持つその腕を、正確に貫いていたのだ。
その男の姿を、認めた瞬間。
その場の誰もが、息を呑んだ。
蛇柄のジャケット。
眼帯の奥で妖しく光る、一つの瞳。
真島吾朗だった。
彼は、もうこの「禁断の谷」からは、去ったはずだった。
「……………はてさて」
彼は、ドスを煌めかせながら、獣のようにしなやかに、部屋の中へと足を踏み入れる。
その口元には、三日月のような、狂気の笑みが浮かんでいた。
「……桐生チャンのダチに、随分と派手な、お出迎えやないか」
耳をつんざくような怒号が飛び交う戦場に、楽しげな、しかし背筋が粟立つような関西弁が響き渡る。
伝説の男、真島吾朗の参戦。
その場の空気が一変した。
ねっとりと肌にまとわりつくような濃密な殺気が、黒服たちの思考と運動神経を瞬時に凍り付かせる。
コンマ数秒の硬直。
百戦錬磨の八神と海藤が、その隙を見逃すはずがなかった。
二人が弾かれたように飛び出すのと同時に、真島もまた、自身のステージへと踊り出る。
白刃がきらめく音が、風切り音よりも早く鼓膜を叩いた。
襲い来る黒服たちの動きなど、まるでスローモーションかのように、真島はしなやかな体を独楽のように回転させる。
彼が通った軌跡には、銀色の残像だけが美しく焼き付いていた。
抵抗する暇など、誰にも与えられない。
鬼炎のドスが閃くたび、布が裂ける乾いた音と、腱が断ち切られる不快な感触だけが空間を支配していく。
喉笛を食い破ることはしない。心臓を貫くこともしない。
ただ、刃の切っ先は正確無比に、人間が立っていられるための「機能」だけを削ぎ落としていく。
悲鳴を上げる間もなく、黒服たちが糸の切れた操り人形のように次々と崩れ落ちていく様は、凄惨でありながら、息を呑むほどに一方的で、残酷なまでに鮮やかだった。
戦いの趨勢は、一瞬で決した。
最後に残った一ノ瀬の前に、八神と真島が、静かに立ちはだかる。
その絶望的な光景に。
エリート官僚の歪んだ復讐劇は、呆気なく、その幕を下ろしたのだった。
