第5話:浪速の狂犬、愛の試練
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第一幕:置き去りの写真
2021年秋。
週明けの月曜日は、いつもと同じように始まるはずだった。
未華子が淹れたコーヒーの香りが、がらんとした事務所に漂う。
デスクでは、九十九がいつものように複数のモニターを睨みつけ、指を高速で動かしている。
ただ一つ、いつもと違ったのは、事務所のソファにあの男の姿がないことだった。
「……杉浦くん、遅いね。寝坊かな」
時計は、もう午前11時になろうというところだ。
週末に、体調を崩したといった連絡も特になかった。
まあ、彼のことだから、夜更かしでもして、今頃まだベッドの中にいるのだろうか。
未華子は、そう軽く考えていた。
そんな穏やかな空気を切り裂いたのは、事務所の郵便受けに届いていた一通の白い封筒だった。
「……ん? これは……」
九十九が開封し、便箋に目を通した瞬間、その指の動きが、ぴたりと止まった。
「……九十九氏? どうしたの?」
返事がない。
未華子が訝しげにデスクを覗き込むと、九十九は、見たこともないような硬い表情で、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、いつものハイテンションな雰囲気は完全に消え失せていた。
「……杉浦氏より、退職届です」
―――え?
何を、言ってるの?
未華子は、九十九の手から便箋をひったくるように受け取った。
そこに並んでいたのは、間違いなく、杉浦の少し癖のある綺麗な文字だった。
『九十九くん 未華子ちゃんへ 一身上の都合により、退職いたします。急にごめんなさい。他にやりたいこと、好きな人ができたんだ。その人と一緒に、新しい環境で頑張ります』
――好きな人、が、できた。
その一文が、未華子の心臓を、冷たい手で鷲掴みにするように締め付けた。
頭が真っ白になる。
呼吸が浅くなる。
嘘だ。
何かの、悪い冗談だ。
だって、彼は先週の金曜日まで、いつもと同じように、ここで……。
「……何か、裏があるはずです」
絞り出すような九十九の声に、未華子はハッと顔を上げた。
「杉浦氏が、こんな……こんな紙切れ一枚で、我々の元を去るはずがない! 何か、とんでもない厄介事を、また一人で抱え込んでいるに違いありませんぞ!」
その声は怒りに震えていた。
相棒への、そして何もできなかった自分自身への、どうしようもない怒りに。
二人は、杉浦の住むアパートへと急いだ。
鍵はまだ解約されておらず、部屋は、まるでついさっきまで人がいたかのような生活感を残していた。
だが、クローゼットは空白が目立ち、最低限の身の回り品だけが消えている。
計画的な失踪。
「手がかりは……」
部屋を探す未華子の目に、ゴミ箱の中に無造作に捨てられた、一枚の写真が飛び込んできた。
――先日三人で撮った、横浜九十九課の集合写真。
楽しそうに笑う、九十九と自分。
そして、少し照れくさそうに、でも確かに笑っている杉浦。
なんで、こんな大切なものを――
彼の決意の固さを物語るその写真に、未華子は唇を強く噛み締めた。
「未華子氏、こちらを!」
九十九が、残された杉浦のPCを起動し、凄まじい速さでキーボードを叩いていた。
「検索履歴にアクセスしますぞ! ……ありました! ここ数日、彼が繰り返し検索している地名……静岡県湊上 市!」
九十九はすぐにその場で、八神探偵事務所にテレビ電話をかけた。
「八神氏! 杉浦氏が突然『事務所を辞める』と手紙だけを残して、連絡がつかなくなってしまったんです。静岡の湊上市に、何か心当たりはないでしょうか?」
画面の向こうで、八神が腕を組む。
その隣で、海藤がハッとした顔で口を開いた。
『……湊上市って言やあ。多分、大久保の野郎じゃねえか? なぁ、ター坊』
『……ああ。そうだな』
――大久保新平。
杉浦の姉・寺澤絵美を殺害したとして、一度は死刑判決を受けた男。
その名は、八神探偵事務所や横浜九十九課と親密な人間なら、誰もが知っていた。
未華子は、改めて八神たちから事件の詳細を聞き、その根の深さに息を呑む。
『杉浦の奴、何か一人で抱え込んでるな。恐らく、絵美ちゃん絡みだ。……俺たちが今追ってる、厚労省絡みの案件ともどこかで繋がってるのかもしれない』
八神の鋭い言葉が、事態の深刻さを物語っていた。
◎場面転換:失踪の数週間前【杉浦SIDE】
『お前の姉、寺澤絵美の死の真相を知りたくはないか』
差出人不明のその手紙が届いたのは、二週間前の冷たい雨が降る夜だった。
公共料金の請求書やポスティングのチラシに混ざって、郵便受けの底に落ちていた、何の変哲もない白い封筒。
それを開けた瞬間、杉浦の時間は、あの絶望の日に引き戻された。
蘇る悪夢。
八神への行き場のない憎しみ。
そして、何もできなかった自分の、どうしようもない無力感。
一度は蓋をしたはずの過去が、泥水のように溢れ出し、彼の心を蝕んでいく。
(これは……罠だ……)
頭では、わかっている。
こんな胡散臭い手紙、まともに取り合うべきじゃない。
行けば、殺されるかもしれない。
この手紙には、死の匂いが染み付いている。
だが、心の奥底で無視できない声が叫んでいた。
『真相』を知りたい、と。
もし、まだ自分の知らない何かがあるのなら。
姉の無念を、本当に晴らすことができるのなら――。
数日間、彼は地獄を味わった。
事務所に行けば、未華子の屈託のない笑顔がある。
九十九の、信頼に満ちた眼差しがある。
この、ようやく手に入れた温かい居場所を失いたくない。
二人を危険な渦に巻き込むわけには、絶対にいかない。
決断は金曜日の夜だった。
「お疲れ!」と手を振る未華子の笑顔が、やけに眩しくて胸が張り裂けそうになった。
これが、彼女と交わす最後の言葉になるかもしれない。
自分の部屋に戻り、震える手で一枚の便箋に向かった。
『一身上の都合により、退職いたします』。
一文字書くたびに、心が軋む音がする。
『急にごめんなさい』。
ごめん。
本当に、ごめん。
『他にやりたいことができたんだ』。
嘘だ。
僕がやりたいのは、みんなと、ここで……。
そして彼は、一番残酷な嘘を書き記した。
『……好きな人もできたんだ』
これで、彼女は諦めてくれるだろうか。
僕のことなんてすぐに忘れて、幸せになってくれるだろうか。
―――そう願う一方で、忘れないでほしい、と叫ぶ卑怯な自分がいる。
その矛盾に、涙がこぼれ落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえた。
夜明け前、事務所の郵便受けに、そっと退職届を滑り込ませた。
まるで、自分の未来を、過去に置いていくような感覚だった。
失踪の前々日、土曜の朝一番の電車で、静岡県湊上市へと向かう。
そこには再審無罪になり釈放された後、ささやかな幸せを掴んだ男、大久保新平が暮らしている。
これが、最後の別れになるかもしれない。
のどかな田園風景が広がる田舎町の一角に、大久保の家はあった。
「……久しぶりだね、文也くん」
畑仕事の途中だったのだろう。
こんがりと日に焼けた大久保が、泥のついた手で頭を掻きながら穏やかに笑った。
彼は、理解ある女性と結婚し、ここで静かに土と共に生きている。
「うん。……元気そうでよかった」
縁側に座り、他愛のない話をした。
野菜の育て方、近所の人のこと、そして、彼がどれだけ今の妻を愛しているか。
その穏やかな日常の話が、これから死地へ向かう杉浦の胸に、温かく、そして痛いほど突き刺さる。
「……これから、どこかへ行くのか?」
大久保が、ふと、杉浦の目の奥の覚悟を読み取ったように尋ねた。
「……うん。ちょっと、やり残したことがあってね」
「そうか。……気をつけてな。絵美も、きっと、君の幸せを一番に願ってるはずだから」
その言葉に、杉浦は何も答えられなかった。
静岡県湊上市に隣接しているのが、杉浦や絵美の故郷である三津浜 市。
その、海が見える丘に、絵美の墓はある。
潮風に吹かれながら、墓石を磨き、新しい花を供える。
「姉貴……ごめん。僕、まだ前に進めそうにないや」
心の中で何度も謝った。
そして、杉浦は、最後の覚悟を決めた。
これから向かうのは大阪。
手紙の主が待つ、約束の場所へ。
たとえ、そこが地獄の入り口だったとしても。
◎現在[場所:九十九課事務所]
八神たちとのビデオ通話を終え、九十九課の事務所に戻った九十九と未華子。
静岡へ向かう準備を急いでいると、事務所の扉が静かに開いた。
ふらり、と現れたのは、趙天佑だった。
「よう。……なんか変な空気だね、ここ」
彼は、事務所の重苦しい雰囲気と、未華子の切羽詰まった表情を敏感に感じ取り、いつもの軽薄な笑みを消した。
九十九から事情を聞くと、趙は「ああ、やっぱりか……」と、何かを納得したように小さく息を吐いた。
「どういうことですか、趙さん!?」
未華子が食い下がる。
「いや……杉浦くん、この前の夜、ウチに一人で来たんだよ。その時の顔が、どうにも気になっててね」
◎趙回想(数日前)[場所:佑天飯店]
閉店間際の佑天飯店。
客はもう誰もいない。
カウンターを片付けていると、カラン、と寂しげなドアベルの音と共に、杉浦が一人で入ってきた。
「よ、趙さん。まだ大丈夫?」
「ん、いいよ。腹でも減った?」
チャーハンと餃子を、杉浦は黙々と口に運んでいた。
趙も、特に話しかけることはしない。
ただ、いつもと何かが違うことだけは、嫌でもわかった。
まるで、最後の晩餐でも味わうかのような、そんな顔をしていたからだ。
食事が終わっても、杉浦は帰ろうとしなかった。
カウンターの隅で、ぼんやりと手酌で紹興酒を呷っている。
その横顔は、何か重い覚悟を決めた男の顔だった。
趙は、そんな人間を、これまで嫌というほど見てきた。
「……趙さんはさ」
不意に、杉浦が口を開いた。
「もう、結婚とか、しないんだよね?」
唐突な、恋バナとも言えないような問い。
趙は、天井のシミを見つめながら、遠い目をした。
「……ああ。しないねぇ。もう二度と、大事な女を、俺のせいで不幸にはしたくないからさっ」
十年前に、腕の中で冷たくなっていった婚約者の感触。
あの絶望は、今も趙の魂に焼き付いている。
未華子のことも、そうだ。
自分と関わってしまったせいで、さんざん怖い思いをさせてしまった。
だから決めている。
未華子のことは、この先、自分が死ぬまで、近くて遠いこの距離から見守り続けるのだ、と。
それは、趙が自分自身に課した、生涯をかけた贖罪だった。
その覚悟を聞いた杉浦は、ほんの少しだけ泣きそうな、それでいて安堵したような奇妙な顔で笑った。
まるで、自分のいない未来を趙に託すかのように。
「そっか。……じゃあ、安心だね」
その一言に、趙は全てを察した。
こいつは、どこかへ行く気だ。
それも、生きては帰れないかもしれない場所へ。
そして、その覚悟の根っこには、未華子という女がいる。
止めなければ。
そう思った。
だが、言葉が出てこない。
同じような覚悟を、自分もかつてしたことがあるからだ。
男が、愛する女のために、全てを捨てて死地に赴こうとする時。
どんな言葉も、無力だと知っていた。
「……未華子ちゃんのこと、よろしくね」
最後にそう言い残し、杉浦は店を出ていった。
その後ろ姿は、不思議なほど晴れやかに見えた。
◎現在[場所:九十九課事務所]
趙は、杉浦との会話の全てを、二人に話したわけではなかった。
未華子のことを頼む、と言われたこと。
彼の、死を覚悟した目。
そんなことを話せば、彼女がどれだけ傷つくか、わかっていたからだ。
それは、杉浦との、言葉にはしない男同士の約束のような気がした。
「……なんつーか、全部やり終えたみたいな、そんな顔だったね」
「手紙に『好きな人ができた』って……書いてあったんです」
不安げに震える声で言う未華子に、趙は、妹を見るような優しい目で、そして、自分に言い聞かせるように静かに言った。
「……みーちゃんに心配かけたくなかったのかもね。杉浦くんなりの、不器用な優しさなんじゃないかな」
その言葉が、未華子の胸に温かく、そしてどうしようもなく切なく突き刺さった。
(……馬鹿みたい。杉浦くんの、そういうところが……)
未華子は、唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
2021年秋。
週明けの月曜日は、いつもと同じように始まるはずだった。
未華子が淹れたコーヒーの香りが、がらんとした事務所に漂う。
デスクでは、九十九がいつものように複数のモニターを睨みつけ、指を高速で動かしている。
ただ一つ、いつもと違ったのは、事務所のソファにあの男の姿がないことだった。
「……杉浦くん、遅いね。寝坊かな」
時計は、もう午前11時になろうというところだ。
週末に、体調を崩したといった連絡も特になかった。
まあ、彼のことだから、夜更かしでもして、今頃まだベッドの中にいるのだろうか。
未華子は、そう軽く考えていた。
そんな穏やかな空気を切り裂いたのは、事務所の郵便受けに届いていた一通の白い封筒だった。
「……ん? これは……」
九十九が開封し、便箋に目を通した瞬間、その指の動きが、ぴたりと止まった。
「……九十九氏? どうしたの?」
返事がない。
未華子が訝しげにデスクを覗き込むと、九十九は、見たこともないような硬い表情で、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、いつものハイテンションな雰囲気は完全に消え失せていた。
「……杉浦氏より、退職届です」
―――え?
何を、言ってるの?
未華子は、九十九の手から便箋をひったくるように受け取った。
そこに並んでいたのは、間違いなく、杉浦の少し癖のある綺麗な文字だった。
『九十九くん 未華子ちゃんへ 一身上の都合により、退職いたします。急にごめんなさい。他にやりたいこと、好きな人ができたんだ。その人と一緒に、新しい環境で頑張ります』
――好きな人、が、できた。
その一文が、未華子の心臓を、冷たい手で鷲掴みにするように締め付けた。
頭が真っ白になる。
呼吸が浅くなる。
嘘だ。
何かの、悪い冗談だ。
だって、彼は先週の金曜日まで、いつもと同じように、ここで……。
「……何か、裏があるはずです」
絞り出すような九十九の声に、未華子はハッと顔を上げた。
「杉浦氏が、こんな……こんな紙切れ一枚で、我々の元を去るはずがない! 何か、とんでもない厄介事を、また一人で抱え込んでいるに違いありませんぞ!」
その声は怒りに震えていた。
相棒への、そして何もできなかった自分自身への、どうしようもない怒りに。
二人は、杉浦の住むアパートへと急いだ。
鍵はまだ解約されておらず、部屋は、まるでついさっきまで人がいたかのような生活感を残していた。
だが、クローゼットは空白が目立ち、最低限の身の回り品だけが消えている。
計画的な失踪。
「手がかりは……」
部屋を探す未華子の目に、ゴミ箱の中に無造作に捨てられた、一枚の写真が飛び込んできた。
――先日三人で撮った、横浜九十九課の集合写真。
楽しそうに笑う、九十九と自分。
そして、少し照れくさそうに、でも確かに笑っている杉浦。
なんで、こんな大切なものを――
彼の決意の固さを物語るその写真に、未華子は唇を強く噛み締めた。
「未華子氏、こちらを!」
九十九が、残された杉浦のPCを起動し、凄まじい速さでキーボードを叩いていた。
「検索履歴にアクセスしますぞ! ……ありました! ここ数日、彼が繰り返し検索している地名……静岡県
九十九はすぐにその場で、八神探偵事務所にテレビ電話をかけた。
「八神氏! 杉浦氏が突然『事務所を辞める』と手紙だけを残して、連絡がつかなくなってしまったんです。静岡の湊上市に、何か心当たりはないでしょうか?」
画面の向こうで、八神が腕を組む。
その隣で、海藤がハッとした顔で口を開いた。
『……湊上市って言やあ。多分、大久保の野郎じゃねえか? なぁ、ター坊』
『……ああ。そうだな』
――大久保新平。
杉浦の姉・寺澤絵美を殺害したとして、一度は死刑判決を受けた男。
その名は、八神探偵事務所や横浜九十九課と親密な人間なら、誰もが知っていた。
未華子は、改めて八神たちから事件の詳細を聞き、その根の深さに息を呑む。
『杉浦の奴、何か一人で抱え込んでるな。恐らく、絵美ちゃん絡みだ。……俺たちが今追ってる、厚労省絡みの案件ともどこかで繋がってるのかもしれない』
八神の鋭い言葉が、事態の深刻さを物語っていた。
◎場面転換:失踪の数週間前【杉浦SIDE】
『お前の姉、寺澤絵美の死の真相を知りたくはないか』
差出人不明のその手紙が届いたのは、二週間前の冷たい雨が降る夜だった。
公共料金の請求書やポスティングのチラシに混ざって、郵便受けの底に落ちていた、何の変哲もない白い封筒。
それを開けた瞬間、杉浦の時間は、あの絶望の日に引き戻された。
蘇る悪夢。
八神への行き場のない憎しみ。
そして、何もできなかった自分の、どうしようもない無力感。
一度は蓋をしたはずの過去が、泥水のように溢れ出し、彼の心を蝕んでいく。
(これは……罠だ……)
頭では、わかっている。
こんな胡散臭い手紙、まともに取り合うべきじゃない。
行けば、殺されるかもしれない。
この手紙には、死の匂いが染み付いている。
だが、心の奥底で無視できない声が叫んでいた。
『真相』を知りたい、と。
もし、まだ自分の知らない何かがあるのなら。
姉の無念を、本当に晴らすことができるのなら――。
数日間、彼は地獄を味わった。
事務所に行けば、未華子の屈託のない笑顔がある。
九十九の、信頼に満ちた眼差しがある。
この、ようやく手に入れた温かい居場所を失いたくない。
二人を危険な渦に巻き込むわけには、絶対にいかない。
決断は金曜日の夜だった。
「お疲れ!」と手を振る未華子の笑顔が、やけに眩しくて胸が張り裂けそうになった。
これが、彼女と交わす最後の言葉になるかもしれない。
自分の部屋に戻り、震える手で一枚の便箋に向かった。
『一身上の都合により、退職いたします』。
一文字書くたびに、心が軋む音がする。
『急にごめんなさい』。
ごめん。
本当に、ごめん。
『他にやりたいことができたんだ』。
嘘だ。
僕がやりたいのは、みんなと、ここで……。
そして彼は、一番残酷な嘘を書き記した。
『……好きな人もできたんだ』
これで、彼女は諦めてくれるだろうか。
僕のことなんてすぐに忘れて、幸せになってくれるだろうか。
―――そう願う一方で、忘れないでほしい、と叫ぶ卑怯な自分がいる。
その矛盾に、涙がこぼれ落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえた。
夜明け前、事務所の郵便受けに、そっと退職届を滑り込ませた。
まるで、自分の未来を、過去に置いていくような感覚だった。
失踪の前々日、土曜の朝一番の電車で、静岡県湊上市へと向かう。
そこには再審無罪になり釈放された後、ささやかな幸せを掴んだ男、大久保新平が暮らしている。
これが、最後の別れになるかもしれない。
のどかな田園風景が広がる田舎町の一角に、大久保の家はあった。
「……久しぶりだね、文也くん」
畑仕事の途中だったのだろう。
こんがりと日に焼けた大久保が、泥のついた手で頭を掻きながら穏やかに笑った。
彼は、理解ある女性と結婚し、ここで静かに土と共に生きている。
「うん。……元気そうでよかった」
縁側に座り、他愛のない話をした。
野菜の育て方、近所の人のこと、そして、彼がどれだけ今の妻を愛しているか。
その穏やかな日常の話が、これから死地へ向かう杉浦の胸に、温かく、そして痛いほど突き刺さる。
「……これから、どこかへ行くのか?」
大久保が、ふと、杉浦の目の奥の覚悟を読み取ったように尋ねた。
「……うん。ちょっと、やり残したことがあってね」
「そうか。……気をつけてな。絵美も、きっと、君の幸せを一番に願ってるはずだから」
その言葉に、杉浦は何も答えられなかった。
静岡県湊上市に隣接しているのが、杉浦や絵美の故郷である
その、海が見える丘に、絵美の墓はある。
潮風に吹かれながら、墓石を磨き、新しい花を供える。
「姉貴……ごめん。僕、まだ前に進めそうにないや」
心の中で何度も謝った。
そして、杉浦は、最後の覚悟を決めた。
これから向かうのは大阪。
手紙の主が待つ、約束の場所へ。
たとえ、そこが地獄の入り口だったとしても。
◎現在[場所:九十九課事務所]
八神たちとのビデオ通話を終え、九十九課の事務所に戻った九十九と未華子。
静岡へ向かう準備を急いでいると、事務所の扉が静かに開いた。
ふらり、と現れたのは、趙天佑だった。
「よう。……なんか変な空気だね、ここ」
彼は、事務所の重苦しい雰囲気と、未華子の切羽詰まった表情を敏感に感じ取り、いつもの軽薄な笑みを消した。
九十九から事情を聞くと、趙は「ああ、やっぱりか……」と、何かを納得したように小さく息を吐いた。
「どういうことですか、趙さん!?」
未華子が食い下がる。
「いや……杉浦くん、この前の夜、ウチに一人で来たんだよ。その時の顔が、どうにも気になっててね」
◎趙回想(数日前)[場所:佑天飯店]
閉店間際の佑天飯店。
客はもう誰もいない。
カウンターを片付けていると、カラン、と寂しげなドアベルの音と共に、杉浦が一人で入ってきた。
「よ、趙さん。まだ大丈夫?」
「ん、いいよ。腹でも減った?」
チャーハンと餃子を、杉浦は黙々と口に運んでいた。
趙も、特に話しかけることはしない。
ただ、いつもと何かが違うことだけは、嫌でもわかった。
まるで、最後の晩餐でも味わうかのような、そんな顔をしていたからだ。
食事が終わっても、杉浦は帰ろうとしなかった。
カウンターの隅で、ぼんやりと手酌で紹興酒を呷っている。
その横顔は、何か重い覚悟を決めた男の顔だった。
趙は、そんな人間を、これまで嫌というほど見てきた。
「……趙さんはさ」
不意に、杉浦が口を開いた。
「もう、結婚とか、しないんだよね?」
唐突な、恋バナとも言えないような問い。
趙は、天井のシミを見つめながら、遠い目をした。
「……ああ。しないねぇ。もう二度と、大事な女を、俺のせいで不幸にはしたくないからさっ」
十年前に、腕の中で冷たくなっていった婚約者の感触。
あの絶望は、今も趙の魂に焼き付いている。
未華子のことも、そうだ。
自分と関わってしまったせいで、さんざん怖い思いをさせてしまった。
だから決めている。
未華子のことは、この先、自分が死ぬまで、近くて遠いこの距離から見守り続けるのだ、と。
それは、趙が自分自身に課した、生涯をかけた贖罪だった。
その覚悟を聞いた杉浦は、ほんの少しだけ泣きそうな、それでいて安堵したような奇妙な顔で笑った。
まるで、自分のいない未来を趙に託すかのように。
「そっか。……じゃあ、安心だね」
その一言に、趙は全てを察した。
こいつは、どこかへ行く気だ。
それも、生きては帰れないかもしれない場所へ。
そして、その覚悟の根っこには、未華子という女がいる。
止めなければ。
そう思った。
だが、言葉が出てこない。
同じような覚悟を、自分もかつてしたことがあるからだ。
男が、愛する女のために、全てを捨てて死地に赴こうとする時。
どんな言葉も、無力だと知っていた。
「……未華子ちゃんのこと、よろしくね」
最後にそう言い残し、杉浦は店を出ていった。
その後ろ姿は、不思議なほど晴れやかに見えた。
◎現在[場所:九十九課事務所]
趙は、杉浦との会話の全てを、二人に話したわけではなかった。
未華子のことを頼む、と言われたこと。
彼の、死を覚悟した目。
そんなことを話せば、彼女がどれだけ傷つくか、わかっていたからだ。
それは、杉浦との、言葉にはしない男同士の約束のような気がした。
「……なんつーか、全部やり終えたみたいな、そんな顔だったね」
「手紙に『好きな人ができた』って……書いてあったんです」
不安げに震える声で言う未華子に、趙は、妹を見るような優しい目で、そして、自分に言い聞かせるように静かに言った。
「……みーちゃんに心配かけたくなかったのかもね。杉浦くんなりの、不器用な優しさなんじゃないかな」
その言葉が、未華子の胸に温かく、そしてどうしようもなく切なく突き刺さった。
(……馬鹿みたい。杉浦くんの、そういうところが……)
未華子は、唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
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