第4話:王の戯れ、龍の目覚め
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その夜は、何事もなかったかのように過ぎていった。
階下に転がっていたスーツケースを拾うと、迎えに来てくれた母親の車に乗り込み、久しぶりの実家へ。
横浜での爆発事件のこと。
怪我をして入院していたこと。
そして、転職した新しい職場(九十九課)のこと。
電話では伝えきれなかった、この数ヶ月の激動の日々を話して聞かせた。
父も母も、もちろん心配そうな顔はしていたが、思ったよりも元気そうな娘の顔を見て、最後には安心したように笑ってくれた。
翌朝。
未華子は少しだけ迷った末に、昨日もらった名刺に書かれていた携帯番号宛に、ショートメッセージを送ることにした。
『昨晩、三凪駅でお世話になりました、橘未華子と申します。改めて、昨日はありがとうございました』
そこまで打って、指が止まる。
(……でも、お詫びって言ってもどこで会えば…)
彼の、あの完璧なスーツ姿が脳裏をよぎる。
高級ホテルのラウンジのような場所しか、似合わないような男。
しかし、そんな店はこの田舎町にはひとつもない。
(……訛りは全然無かったけど、名前的には韓国系か中国系の人だよね……?)
(……わからん! もう、こうなったら)
(……ええいままよ!)
彼女は、意を決して、こう、続けた。
『もしよろしければなのですが、私の実家の近くに好きな台湾料理屋がありまして。『味仙』という小さなお店なんですが……。お詫びだなんてそんな大袈裟なことではなく、もしお時間があれば、一緒にお食事でもいかがでしょうか』
送信ボタンを押した直後。
強烈な自己嫌悪が、彼女を襲った。
(……やばい、私、何やってるんだろ…!)
(あんなお金持ちそうな社長さんを、場末のTHE・大衆食堂みたいな場所に誘うなんて…! 絶対引かれた…! 恥ずかしい…!)
だが、その後悔は、すぐに驚きへと変わった。
送信してから一分も経たないうちに、スマホが短く震えたのだ。
『ご連絡ありがとうございます。嬉しいです。ぜひ、ご一緒させてください』
丁寧で、温かい返信。
『もちろん、昨夜のお詫びですので。私にご馳走させてくださいね』
スマートで、紳士的な一文。
こうして、その日の夜、二人は再会を果たすことになったのである。
*
『味仙』は彼女の実家から、歩いて5分ほどの場所にあった。
蛍光灯が煌々と光る、だだっ広い店内。
天井は無駄に高い。
テーブル席、ボックス席、そして奥には座敷席。
合わせて30席はあろうか。
平日の夜だが、店内は地元の家族連れや、部活帰りの腹を空かせた高校生たちで、程よく賑わっている。
未華子は、約束の19時の10分前に店に着くと、窓際のボックス席に腰を下ろし彼の到着を待っていた。
そして、19時ちょうど。
「―――お待たせしました」
その低い声に、顔を上げる。
そこに立っていたのは李だった。
昨日の完璧なスリーピーススーツとは、少しだけ雰囲気が違う。
上品なネイビーのカジュアルなジャケット姿。
だが、その中に着たシンプルな白Tシャツが、逆に彼の鍛え上げられた肉体のラインを強調しているようにも見えた。
身長180センチは優に超えているであろう。
スラリと長い手足も良く映える、その完璧なスタイリング。
隠しきれない色気。
こんな田舎町にはまず存在しない、レベルがケタ違いの男。
その圧倒的な存在感を前にして。
未華子の雌としての本能が、けたたましく警報を鳴らした。
(カッコいいとか、顔が良いとか、そういうレベルの話で片付く問題じゃない)
(―――この男は、危険だっっっっ…!!!!)
彼女は、背筋に冷たいものが走るのを感じながら、咄嗟に自分の中のスイッチを「仕事(記者)モード」へと切り替えることで、平静を保った。
「いえ、私も今来たところですので」
完璧な笑顔を作る。
お互いに、改めて昨日の礼と詫びを言い合う。
「……すみません、こんな全然お洒落でもなんでもない、お店に呼び出してしまって…」
未華子のその言葉に、李は少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに人の良い笑みを浮かべた。
「いえ。こういう、地元の方が愛するお店、好きですよ」
李は麻婆豆腐定食を、未華子は好物のエビマヨ定食を注文する。
その夜、未華子は、完全に仕事モードだった。
李の仕事の話(台湾と日本の半導体貿易に関する非常に専門的な話だった)を、興味深そうに聞き出し、大袈裟に相槌を打った。
そんな取材のような会話が一段落つき、沈黙を埋めるような流れで、李は尋ねてきた。
「―――橘さんは、このお店よく来られるんですか?」
彼のその問いに、未華子は、少しだけ素の顔に戻って答えた。
「はい。…すごく好きなお店なんです。地元の友達と会う時もだいたいここですし。…今、実家で同居している兄夫婦と甥っ子たちとも、よく来ますよ。安くて美味しいので」
彼女は少しだけ、自嘲気味に付け加えた。
「……まあ、この辺り、ファミレスもカフェも、ほとんどないですからね」
その無防備で少しだけ寂しそうな笑顔を、この男が、どんな瞳で見つめていたのか。
彼女は、まだ、気づいていなかった。
その夜、未華子は、自分が一体何を食べて何を話したのか、ほとんど覚えていない。
いつもは、あれほど美味しいと感じるエビマヨも、どこか粘土を噛んでいるように味がしなかった。
ただ、目の前の完璧すぎる男に対して、ボロが出ないように、という緊張感だけが彼女の全身を支配していた。
食事が終わる頃。
李はおもむろに、ジャケットの内ポケットから、一つの分厚い白い封筒を取り出した。
そして、それをテーブルの上に滑らせる。
中には、おそらく10万円は下らないであろう札束が入っているのが、透けて見えた。
「……これは、スーツケースの弁償代と、昨日のお詫びです。…どうか、受け取ってください」
スマートすぎる申し出だったが、未華子は即座に、そしてきっぱりと首を横に振った。
「いえ、いただけません」
「……ですが」
「スーツケースも少し傷がついただけですし、中身は何も壊れていませんでしたから。…それに」
彼女は、心の声を隠すように少しだけ早口になった。
「ほぼ初対面の男性から、こんな大金をいただくわけには、いきませんので!」
真っ当で、頑なな拒絶に、李は少しだけ困ったような、しかし、どこか面白そうな顔で彼女を見つめていたが、やがて観念したようにその封筒を引っ込めた。
「……わかりました。…ですが、せめて、今夜のお会計だけは私に持たせてください。…それくらいは許していただけますね?」
その完璧な落としどころに、未華子は「…それじゃあ、お言葉に甘えて……。恐れ入ります」とぺこっと頭を下げた。
店の外に出ると、ひんやりとした秋の夜風が、火照った頬に心地よかった。
「―――今日は、本当に、ごちそうさまでした。…そして、ありがとうございました」
未華子は最後に、もう一度、深く深く頭を下げた。
これで終わりだ。
不思議で、少しだけ危険な香りのする男との、二度とないであろう邂逅。
そう思うと、どこかほっとしたような、スッキリした気分だった。
*
―――はずだった。
翌日の昼。
昨夜、全く味がしなかった、あの絶品エビマヨへのリベンジを果たすべく。
未華子は一人で、再び「味仙」の暖簾をくぐっていた。
広いボックス席に一人座り、運ばれてきた熱々のエビマヨを一口。
「……ん〜! やっぱ、うまい……!!!!」
昨日とは大違いだ。
一人きりの気楽なランチ。
ニコニコしながら、料理を堪能していたその時だった。
店の奥の厨房の方から、見慣れない、しかし、あまりに見覚えのある長身の影が現れた。
昨日、別れたばかりの李だった。
「えっ!? り、李さん!? なんで、ここに!?」
驚きに、箸を落としそうになる未華子。
李は、少しだけ申し訳なさそうな、しかし、どこか楽しそうな顔で言った。
「……あ、橘さん、こんにちは。…すみません、驚かせてしまいましたね。…実は、この『味仙』もうちの関連会社でして。…今日は少し、こちらの様子を見に」
衝撃の事実。
そして彼は、厨房の方をその長い指で指し示した。
そこで、店の大将に怒鳴られながら、必死の形相で中華鍋を振っているのは。
一昨日、三凪駅で、彼に弾き飛ばされていたあの黒いジャージの男だった。
コックコートが全くもって似合っていない。
「うちの出来の悪い従業員を、ここで一人前の料理人に叩き直してもらおうかと思いましてね」
そう言って、涼しい顔で笑う李。
その日から約一週間。
彼女が実家に滞在している間。
なんだかんだ気になってしまい、彼女はほぼ毎日「味仙」へ通ってしまった。
そして驚いたことに李もまた、まるで約束したかのように毎日のように店に現れたのだ。
最初はまだ警戒していた。
仕事モードも抜けない。
しかし、何度も顔を合わせ他愛のない会話を交わすうちに。
未華子の心の鎧も、少しずつ溶かされていった。
彼の博識さ、落ち着いた物腰、そして、時折見せる少年のような無邪気な笑顔。
彼女は次第に、心地よさを感じ始めていた。
「李さんは、生まれは、日本なんですか?」
ある日、彼女がそう尋ねると、彼は少しだけ遠い目をして答えた。
「ええ。…母が日本人ですので。…父は……まあ、色々な国の血が混じっています」
彼はそれ以上多くを語らなかった。
だが、そのミステリアスな雰囲気が、かえって彼女の好奇心をくすぐった。
逆に、彼女は自分のことをよく話した。
ずっと、都会に憧れていたこと。
だから、大学も横浜国立大学を選び、ジャーナリズムを専攻したこと。
夢だった新聞記者として、地元・A県の新聞社に就職したけれど。
理想と現実のギャップに苦しみ、心も身体も壊してしまったこと。
「私は何もできない、社会の役に立たない、ダメ人間なんだ、って本気で思ってたんです」
そんな絶望の中で訪れた新宿・神室町。
そこで、今の職場の仲間たちと運命的に出会ったこと。
そして今、再びこの大好きな横浜の街で働くことができているその幸せを。
彼女は夢中で語った。
「特に、事務所がある伊勢佐木異人町っていう街が本当に面白くて」
彼女の瞳がキラキラと輝き始める。
「いろんな国の人たちが、それぞれの文化を大切にしながら助け合って生きてるんです。…もちろん綺麗事だけじゃないんだろうけど。…でも、私そういうごちゃごちゃした、人間臭い街がすごく好きで」
彼女は、ソンヒという韓国人のパワフルで美しいお姉さんのことや。
趙という、いつも飄々としているけれど、誰よりも街のことを考えている中華屋のマスターのことなどを尊敬の念を込めて話した。
「マフィアの(元)ボスである」という、裏社会の言葉は使わずに。
ただ一人の人間として、彼らがどれだけ魅力的であるかを。
李は相槌を打ちながら、楽しそうに、そしてどこか愛おしそうに、彼女のその話を聞いていた。
夢中で語り終えた後。
未華子はふと我に返り、顔を真っ赤にした。
「―――す、すみません! 私の話ばっかり語っちゃって…!」
その照れくさそうな謝罪に。
李はこれまで見せたことのないような、穏やかで、そしてどこまでも優しい笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと、こう言ったのだ。
「いいえ。……聞けてよかったです」
「え……?」
「……面白い街ですね。…あなたのような美しい
ストレートで、そして、どうしようもなく甘い言葉に、未華子の心臓が大きく跳ねた。
「も、もう! やだなー李さん!」
彼女は照れ隠しに、わざと明るい声を出した。
「お世辞うますぎますって! 美しい、なんて生まれて初めて言われたんですけど!」
未華子の必死のはぐらかしに、李は何も言わずに、ただ面白そうに笑っているだけだった。
全てをお見通しだという瞳。
彼女は、その顔をまともに見ることができなかった。
そんな、不思議で、少しだけ甘い日々が過ぎ。
あっという間に、一週間の滞在は終わりを告げようとしていた。
横浜へ戻る日の前日。
未華子は、最後にもう一度だけ「味仙」の暖簾をくぐった。
そこに、彼の姿は、もうなかった。
