第4話:王の戯れ、龍の目覚め
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第一幕:銀色の名刺
2021年、秋。
横浜の空は、泣きたくなるほど、青く澄み渡っていた。
ほんの数時間前まで、未華子が、この街を永遠に去るつもりだったことが、嘘のようだった。
神内駅前での劇的な再会。
生きていた趙。
必死で彼女を探し出してくれた杉浦。
その、二つの大きすぎる愛情を前に、「異人町から去る」という彼女の決意はいとも容易く崩れ去っていた。
一行は九十九課の事務所へと戻り、誰からともなく互いの無事を確かめ合った。
もちろん、彼女が九十九課を辞める、などという話はもう誰も口にはしなかった。
ここが、彼女の帰るべき場所なのだと、その場の誰もが再確認したからだ。
――だが、問題が一つだけ残っていた。
実家の母親だ。
事件に巻き込まれ入院した、ということはすでに伝えてあった。
そして、心配させまいと「もう大丈夫だけど、一旦落ち着きたいからそっち(地元)に帰るね」と、言ってしまっていたのだ。
今さら、「やっぱり帰らない」とは言い出しにくい。
「―――というわけで」
未華子が、少しだけ気まずそうに皆に告げた。
「一応、新幹線のチケットも取っちゃったし。……一週間だけ、予定通り地元に帰ることにしようと思う」
その彼女の言葉に、九十九が、うんうんと大きく頷いた。
「それがいいですぞ! 故郷でゆっくりと、心と身体を休めてくるべきです!」
「何かあったらすぐに連絡してね。……本当に、すぐにだよ?」
杉浦が、心の底から心配そうな顔で彼女の瞳を覗き込む。
「わかってるって。ありがと」
彼女は精一杯の笑顔で応えた。
そして、数時間後。
横浜の喧騒を背中に感じながら。
未華子は新横浜駅のホームに立っていた。
背中を押してくれた、仲間たちの温かい言葉を胸に抱きながら。
彼女は、博多行きの「のぞみ」に飛び乗った。
*
新横浜から岡山まで、約三時間。
車窓から見える流れる景色が、目まぐるしく変わっていく。
岡山駅で、在来線の特急「うみかぜ」へと乗り換え、さらに西へ。
瀬戸内の穏やかな海を横目に、列車は走り続ける。
約四時間半の、長い長い旅路の果て。
彼女が、生まれ故郷の駅「
空は、もうすっかり夜の闇に包まれていた。
改札を抜ける。
数年前に、駅構内の小さなキオスクも姿を消したさみしい駅。
部活帰りであろう高校生たちが、楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。
その平和な光景に、ここ数週間の出来事がまるで別の世界の夢だったかのように感じられた。
迎えに来てくれている母親は、いつものように、南口の駐車場にいるはずだ。
未華子は重いスーツケースを、よいしょ、と持ち上げ、下りの階段へと足を踏み出した、まさに、その時だった。
右手の改札の方から、バタバタと複数の慌ただしい足音が聞こえてくる。
視界の隅で、男たちがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「―――待て!」
鋭い男の声が、静かな駅の構内に響き渡る。
(え…? 私?)
未華子が反射的に、そちらへと視線を向けた瞬間。
黒いジャージを着た目つきの悪い男が、一直線に、自分に向かって突進してくるのが見えた。
身体が恐怖で固まる。
(ぶつかる!)
だが、その背後、ほんの数メートル後ろに、スーツ姿の長身の男の姿も見えた。
先ほどの「待て!」という声は、彼だったようだ。
未華子が、衝撃に備え、目を固く瞑ったその刹那。
こちらに突進してきたはずの黒いジャージの男は、彼女にぶつかることなく、まるで透明な壁にでも激突したかのように、全く別の方向へと、くの字に折れ曲がり弾き飛ばされていた。
一体、何が起きたのか。
理解が、追いつかない。
驚きのあまり、体勢を崩した未華子の身体が、ぐらり、と、階段の方へと傾いだ。
「危ない」
静かで、低い声。
転げ落ちる、と思ったその瞬間。
いつの間にか、すぐそばに立っていた、あのスーツ姿の男の力強い腕が、彼女の身体を、ぐい、と強く引き寄せ、支えていた。
彼女の手から離れたスーツケースだけが、ガタン、ガタン、と虚しい音を立てながら、階段を、一人で転げ落ちていく。
驚いて顔を上げると、そこには、息を呑むほど、精悍な顔立ちの男が立っていた。
上質なスーツを完璧に着こなし、知的ながら、どこか危険な雰囲気を纏っている。
そのシャツの隙間からは、黒いインクのタトゥーが、覗いていた。
「……大丈夫ですか?」
その声は、低く、落ち着いていて、不思議な色気があった。
「あ、ああありがとうございます……すす、すみません」
その男は未華子を支えたまま、そばでうめき声を上げて転がっている、黒いジャージの男へと、一度、冷たい視線を送った。
そして、再び未華子へと向き直ると、深く、頭を下げた。
「うちの従業員が申し訳ありません。……少し、仕事のことで注意をしたら、自暴自棄になってしまいまして。…あなたを巻き込み、怪我をさせてしまうところでした」
隙のない、完璧な説明。
「……いい、いえ……。だ、大丈夫です、私は」
未華子は、そう答えるのが、精一杯だった。
整いすぎた顔立ち。
上質なスーツの着こなし。
そして、その彼から微かに香る、今まで嗅いだことのないような、甘く、官能的な香水の匂い。
その全てに、未華子は完全に心を奪われかけていた。
男は、スーツの内ポケットから銀色の名刺ケースを取り出すと、その中から一枚、未華子へと差し出した。
『
そこには、そう、記されていた。
「私は、
そして、彼は静かにこう続けた。
「……つきましては後日、改めて正式にお詫びをさせていただけないでしょうか」
「え、あ、いえ! 本当に、大丈夫ですので!」
未華子が、慌てて首を横に振る。
すると彼は、階段の下で無残な姿で横たわっている、彼女のスーツケースを、その長い指で指し示した。
「……ですが、あなたの大切なお荷物も傷つけてしまいました。…もちろん、弁償もさせていただきます」
紳士的で、断る隙を一切与えない申し出。
彼は、伸びている「従業員」の腕を掴むと、軽々とその肩に担ぎ上げた。
そして最後に、未華子の瞳を、真っ直ぐに見つめると、こう、言ったのだ。
「―――ご連絡、お待ちしています」
有無を言わさぬ一言と、微かな笑みを残して。
彼は、夜の改札の向こうへと、静かに消えていった。
1/7ページ
