第3話:波止場の鎮魂歌、再会の約束
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鉄爪の不器用な優しさは、確かに温かかった。
だが、その温かさこそが、逆に彼女の決意を、より強固なものへと変えてしまった。
(……そうなんだよな。…この街の人たちは、みんな優しすぎる)
趙も鉄爪も、そして、九十九課のみんなも。
だからこそ、これ以上この街にいてはいけないのだ。
自分の存在が、彼らの優しさに甘え、そして、いずれまた取り返しのつかない悲劇を生んでしまう。
趙天佑という一つの大きな存在を奪ってしまった、この罪はもう消えない。
次に失うのは、一体誰なのか。
杉浦くん? もしくは、九十九氏…?
その恐怖が、彼女の心を完全に支配していた。
決意は変わらない。
杉浦たちには、退院日をわざと一日遅らせて伝えた。
*
そして、本当の退院日。
彼女は、午前中のうちに、一人で静かに手続きを終えた。
一度、がらんとした自宅マンションに戻り、最低限の荷物だけをスーツケースに詰める。
そして、最後にもう一度だけ、この愛してしまった街の景色を目に焼き付けておこうと、外に出た。
夕暮れの浜北公園。
杉浦と九十九と三人で、他愛のない話をしたあのベンチ。
九十九課の事務所が入る古びたビル。
その窓の明かりを見上げるだけで、胸が張り裂けそうになる。
――この街に来て、たった数ヶ月。
なのに、もうこんなにも思い出ができてしまった。
楽しかった記憶。
くだらないことで大笑いした記憶。
そして、命がけで、戦った記憶。
その全てが、今は鋭いガラスの破片となって、彼女の心を切り裂いていく。
ぽろり、ぽろり、と、涙がアスファルトに落ちて、小さな染みを作った。
神内駅へ向かう、雑踏の中。
もう、決して振り返らない、と決めていた。
その彼女の腕を、後ろから強い力が掴んだ。
「……どこ行くの」
息を切らし、必死の形相でそこに立っていたのは、杉浦だった。
どうして、ここに。
その問いは、声にはならなかった。
もう二度と、会うつもりなどなかったその顔。
自分の腕を強く掴む、大きくて硬い手のひらの感触。
その全てが、どうしようもなく、愛おしくて。
未華子の心臓が、きゅう、と痛いくらいに締め付けられた。
数秒の逡巡。
だが、彼女は、はっと我に返るとその腕を振り払った。
彼の真っ直ぐな瞳を、もう、見ることができない。
うつむいたまま、彼女は震える声で言葉を紡いだ。
「……もう、決めたの」
「…………」
「私、地元に帰るよ」
「……もう、この街にはいられない。…私がいなくなれば、誰も、迷惑を、かけずに済むから」
「迷惑だなんて、誰も思ってないよ!」
杉浦の悲痛な声が、響く。
「そんなことない!」
未華子は、顔を上げて叫んだ。
「趙さんは……私のせいで……!」
涙ながらに叫ぶ未華子に、杉浦は悲しそうに首を振った。
そして、静かに告げる。
「迷惑なんかじゃないって、本人が言ってたよ?」
――え?
杉浦の視線の先。
雑踏の中、路駐されていた一台の黒塗りの車の影から、ゆっくりと現れる二つの人影。
その一つの姿を認めた瞬間、未華子の時間が止まった。
車椅子に深く身を沈め、その隣には、ハン・ジュンギが静かに控えている。
顔色は青白く、見るからに痩せてはいるが、その瞳の奥に宿る飄々とした光は、間違いなく。
「―――趙、さん……?」
震える声でその名を呼ぶと、男は少しだけ気まずそうに、そして、どうしようもなく優しく笑った。
「よぉ。…心配、かけちゃったみたいだね」
あの日以来、初めて聞くその声。
彼は、生きていた。
あの爆発の寸前。
撃たれて意識を失っていた趙を、ソンヒとジュンギが間一髪で救出していたのだ。
だが、負った傷はあまりに深く、彼は一週間もの間、コミジュルのアジトで生死の境を彷徨っていた。
そして、つい数時間前。
目を覚ました彼は、自分のことより先に未華子の安否を問い、ジュンギに車椅子を押させ、九十九課まで駆けつけてきたのだ、と。
その姿を見て、未華子が入院している病院に連絡を入れた九十九。
しかし……未華子はもう病院にはいなかった。
「何ですと!?…もう、退院された!?」と、叫ぶ九十九。
「退院は明日のはずなのに」と、混乱する杉浦。
二人は必死だった。
九十九は、ハッキング能力の全てを駆使し、街中の防犯カメラの映像と、彼女のスマホの微弱な電波を追い。
杉浦は、ただがむしゃらに、彼女が行きそうな全ての場所を走り回っていたのだ。
「―――で?」
趙が、いつもの飄々とした口調で切り出した。
「こんなでっかい荷物持って、どっか夜逃げでもするつもりだったのぉ?」
いつも通りの、からかうような一言。
その言葉に、未華子はもう堪えきれずに、首を横に振ることしかできなかった。
失ったはずの光が、今、確かに目の前にあった。
再会の約束など、何一つなかった。
それでも、運命は再び彼らを、この同じ場所に引き戻したのだ。
横浜の空は、泣きたくなるほど、青く澄み渡っていた。
第三話・終
だが、その温かさこそが、逆に彼女の決意を、より強固なものへと変えてしまった。
(……そうなんだよな。…この街の人たちは、みんな優しすぎる)
趙も鉄爪も、そして、九十九課のみんなも。
だからこそ、これ以上この街にいてはいけないのだ。
自分の存在が、彼らの優しさに甘え、そして、いずれまた取り返しのつかない悲劇を生んでしまう。
趙天佑という一つの大きな存在を奪ってしまった、この罪はもう消えない。
次に失うのは、一体誰なのか。
杉浦くん? もしくは、九十九氏…?
その恐怖が、彼女の心を完全に支配していた。
決意は変わらない。
杉浦たちには、退院日をわざと一日遅らせて伝えた。
*
そして、本当の退院日。
彼女は、午前中のうちに、一人で静かに手続きを終えた。
一度、がらんとした自宅マンションに戻り、最低限の荷物だけをスーツケースに詰める。
そして、最後にもう一度だけ、この愛してしまった街の景色を目に焼き付けておこうと、外に出た。
夕暮れの浜北公園。
杉浦と九十九と三人で、他愛のない話をしたあのベンチ。
九十九課の事務所が入る古びたビル。
その窓の明かりを見上げるだけで、胸が張り裂けそうになる。
――この街に来て、たった数ヶ月。
なのに、もうこんなにも思い出ができてしまった。
楽しかった記憶。
くだらないことで大笑いした記憶。
そして、命がけで、戦った記憶。
その全てが、今は鋭いガラスの破片となって、彼女の心を切り裂いていく。
ぽろり、ぽろり、と、涙がアスファルトに落ちて、小さな染みを作った。
神内駅へ向かう、雑踏の中。
もう、決して振り返らない、と決めていた。
その彼女の腕を、後ろから強い力が掴んだ。
「……どこ行くの」
息を切らし、必死の形相でそこに立っていたのは、杉浦だった。
どうして、ここに。
その問いは、声にはならなかった。
もう二度と、会うつもりなどなかったその顔。
自分の腕を強く掴む、大きくて硬い手のひらの感触。
その全てが、どうしようもなく、愛おしくて。
未華子の心臓が、きゅう、と痛いくらいに締め付けられた。
数秒の逡巡。
だが、彼女は、はっと我に返るとその腕を振り払った。
彼の真っ直ぐな瞳を、もう、見ることができない。
うつむいたまま、彼女は震える声で言葉を紡いだ。
「……もう、決めたの」
「…………」
「私、地元に帰るよ」
「……もう、この街にはいられない。…私がいなくなれば、誰も、迷惑を、かけずに済むから」
「迷惑だなんて、誰も思ってないよ!」
杉浦の悲痛な声が、響く。
「そんなことない!」
未華子は、顔を上げて叫んだ。
「趙さんは……私のせいで……!」
涙ながらに叫ぶ未華子に、杉浦は悲しそうに首を振った。
そして、静かに告げる。
「迷惑なんかじゃないって、本人が言ってたよ?」
――え?
杉浦の視線の先。
雑踏の中、路駐されていた一台の黒塗りの車の影から、ゆっくりと現れる二つの人影。
その一つの姿を認めた瞬間、未華子の時間が止まった。
車椅子に深く身を沈め、その隣には、ハン・ジュンギが静かに控えている。
顔色は青白く、見るからに痩せてはいるが、その瞳の奥に宿る飄々とした光は、間違いなく。
「―――趙、さん……?」
震える声でその名を呼ぶと、男は少しだけ気まずそうに、そして、どうしようもなく優しく笑った。
「よぉ。…心配、かけちゃったみたいだね」
あの日以来、初めて聞くその声。
彼は、生きていた。
あの爆発の寸前。
撃たれて意識を失っていた趙を、ソンヒとジュンギが間一髪で救出していたのだ。
だが、負った傷はあまりに深く、彼は一週間もの間、コミジュルのアジトで生死の境を彷徨っていた。
そして、つい数時間前。
目を覚ました彼は、自分のことより先に未華子の安否を問い、ジュンギに車椅子を押させ、九十九課まで駆けつけてきたのだ、と。
その姿を見て、未華子が入院している病院に連絡を入れた九十九。
しかし……未華子はもう病院にはいなかった。
「何ですと!?…もう、退院された!?」と、叫ぶ九十九。
「退院は明日のはずなのに」と、混乱する杉浦。
二人は必死だった。
九十九は、ハッキング能力の全てを駆使し、街中の防犯カメラの映像と、彼女のスマホの微弱な電波を追い。
杉浦は、ただがむしゃらに、彼女が行きそうな全ての場所を走り回っていたのだ。
「―――で?」
趙が、いつもの飄々とした口調で切り出した。
「こんなでっかい荷物持って、どっか夜逃げでもするつもりだったのぉ?」
いつも通りの、からかうような一言。
その言葉に、未華子はもう堪えきれずに、首を横に振ることしかできなかった。
失ったはずの光が、今、確かに目の前にあった。
再会の約束など、何一つなかった。
それでも、運命は再び彼らを、この同じ場所に引き戻したのだ。
横浜の空は、泣きたくなるほど、青く澄み渡っていた。
第三話・終
