第3話:波止場の鎮魂歌、再会の約束
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
次に、未華子の意識が、はっきりと戻ってきたのは。
消毒液と、自分の髪が微かに焦げた匂いが充満する、白い天井の病院の一室だった。
記憶は、炎に包まれた倉庫の前で途切れている。
趙の名前を泣き叫び、過呼吸を起こしたまま、駆けつけた救急隊員に押さえつけられるようにストレッチャーに乗せられた、あの瞬間で。
病院に着いてから、腕の火傷や足首の捻挫の処置を受け、精神安定のための点滴を打たれるうちに深い眠りに落ちてしまっていたのだ。
あの地獄のような光景の中で吸い込んだ黒い煙で、喉がひりひりと痛む。
爆風で飛んできた火の粉を浴びたのか、腕には小さな火傷の痕があり、針で刺されているかのような痛みを主張している。
そして、吹き飛ばされた時に捻ってしまった足首には、冷たい湿布が貼られていた。
ぼんやりと天井を見つめていると、ガチャリ、と病室のドアが開いた。
「……みーちゃん、気がついたか」
そこに立っていたのは、腕に包帯を巻いた海藤と、少しだけ顔に擦り傷を作った杉浦。
そして、心配そうな顔をした九十九だった。
「……よかった…」
杉浦の心の底からの安堵の声に、未華子は、何も言うことができなかった。
その後、未華子、杉浦、海藤の三人は、駆けつけた刑事たちから厳しい事情聴取を受けた。
知っていること、見たこと、その全てを洗いざらい話した。
だが、一番重要な、趙の行方だけは誰にもわからなかった。
未華子は身体の怪我よりも、精神的なショックが大きいと判断され、大事をとって一週間ほど入院することになった。
杉浦と九十九は、毎日、律儀に見舞いに来てくれた。
他愛のない話で、彼女を元気づけようとしてくれているのが痛いほど伝わってくる。
病室のテレビでは、連日、あの事件のニュースが流れていた。
NPO法人代表の近藤と真奈美は、現場から逃走しようとしたところを逮捕された。
警察は、二人が寄付金を巡る何らかのトラブルに巻き込まれた可能性も視野に、捜査を進めている、と、アナウンサーが告げていた。
倉庫からは、黒焦げの死体が複数体発見されたが、損傷が激しく身元はまだ判明していない、と。
――身元不明の死体。
その中に、もしかしたら、あの人がいるのかもしれない。
最悪の可能性が、鉛のように未華子の心にのしかかる。
趙天佑はあの日以来、完全に行方がわからなくなっていた。
自分の軽率な行動が、あの人を死なせてしまったのかもしれない。
――あの人は、自分を庇って……。
夜になると、その罪悪感は、より鮮明な輪郭を持って彼女を苛んだ。
目を閉じれば、浮かんでくるのは、あの倉庫での最後の光景。
銃声。
自分の前に、立ちはだかる、彼の大きな背中。
腹部から飛び散った、赤い鮮血。
『いやー……。間に合って、よかったよ。……出前の、配達より、焦ったよ?』
命がけのその状況でさえ冗談めかして見せた、彼の飄々とした声が、耳の奥で何度も何度も反響する。
なぜ一人で、危険な場所へ向かってしまったのか。
後悔してもしきれない「もしも」が、彼女の心を鉛のように押し潰していく。
もう、あの優しい笑顔も、掴みどころのない軽口も、二度と聞くことはできないのかもしれない。
そう思うと、胸が張り裂けそうで、息がうまくできなかった。
自分は、周りの人間を不幸にするだけの存在なのだ。
もう、誰とも、深く関わってはいけない。
そんな、暗く、冷たい思考の沼に、彼女の心はゆっくりと沈んでいった。
*
そんなある日、病室のドアが、静かにノックされた。
「……はい」
気のない返事をすると、そこに立っていたのは、あまりに意外な人物だった。
顔に大きな十字傷。異様な威圧感を放つ、その男。
――横浜流氓の、殺し屋集団「白面」の鉄爪。
九十九課と流氓のいざこざの中で、何度か顔を合わせたことはある。
杉浦とは妙にウマが合うのか、話しているのを見かけたこともある。
だが、未華子自身が、彼ときちんと言葉を交わしたことは一度もなかった。
横浜流氓の、絶対的な「暴力」の象徴が、今、自分の病室にいる。
未華子の心臓が、どきり、と大きく跳ねた。
だが、それは恐怖ではなかった。
「覚悟」だった。
(……そうか。…ケジメを、つけに来たんだ)
趙の忠臣である、この男が、ここにいる意味。
それは、自分たちのボスに取り返しのつかない大怪我を負わせ、あまつさえ行方不明にさせた。
全ての元凶である、自分への「報復」。
命を取られるのかもしれない。
あるいは、一生消えない傷を負わされるのかもしれない。
未華子は静かに息を吐き、その運命を受け入れる覚悟を決めた。
「……何の用ですか?」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
警戒心を通り越し、まな板の上の鯉のような諦めの気持ちさえあった。
鉄爪は、そんな未華子のただならぬ雰囲気を意にも介さず、「屋上へ」と目で促す。
~
冷たい秋の風が吹く、病院の屋上。
金網の向こうに広がる横浜の街並みを、二人は無言で見下ろしていた。
やがて、先に口を開いたのは鉄爪だった。
彼は、未華子の覚悟の据わったその横顔を、ちらり、と見ると、ふっ、と面白そうに笑ったのだ。
「……おい、姉ちゃん」
「…………」
「もしかして、俺が、あんたの
「…え?」
図星だった。
その全てを見透かしたような言葉に、未華子の肩の力が抜けていく。
「……俺は、元総帥は、生きていると、信じている」
確信に満ちた言葉に、未華子は、ハッとして顔を上げた。
「あの人は、そう簡単に死ぬようなタマじゃねぇ。…そして」
彼は一度、言葉を切ると、真っ直ぐに、未華子を見据えた。
「その、元総帥が、命をかけて守ろうとしたお人だ。あんたが気を病む必要はねぇ」
「…………!」
「もし、この件であんたを責める奴がいるなら。そいつが、身内だろうとこの俺が許さねえ」
それは、慰めではない。
殺し屋として生きる男の、絶対的な忠誠心から来る、誓いだった。
鉄爪は、それだけ言うと、もう興味はない、とばかりに、屋上の出口へと向かった。
しかし、その鉄の扉に手をかける寸前。
彼は、一度だけ足を止めると、こちらを振り返らずに、ぽつり、と、こう付け加えたのだ。
「……元総帥が戻ってきた時。…あんたがそんなションボリした顔してたら、俺があの方に怒られちまうからよ」
「……だから、ちゃんとメシ食って、とっとと元気になりやがれ。…いいな?」
どこまでもぶっきらぼうで、しかし、どうしようもなく温かい命令。
未華子は、その大きくて傷だらけの背中が扉の向こうに消えていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
そして、堪えていた涙が一筋だけ、その頬を伝っていったのを、冷たい秋風だけが知っていた。
