第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
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数時間後。
未華子は、コミジュルの拠点地下にある、清潔な医療設備が整った一室で目を覚ました。
身体のあちこちが痛むが、それ以上に心が深く傷ついていた。
ぼんやりと天井を見つめる彼女のそばに、ソンヒが静かに椅子を引いて座る。
彼女は、無理に、言葉をかけようとはしなかった。
ただ静かに、一人の男の過去を、語り始めた。
――横浜流氓の前総帥の、一人息子として生を受けた、趙天佑。
彼は、その出自とは裏腹に、生まれながらの王ではなかった。
勉学も運動も、そして悪知恵も、ずば抜けて優秀。
誰もが彼を次期総帥と目していたが、当の本人はその座に全く興味を示さなかった。
だが、運命は、彼を放ってはおかなかった。
父親の突然の死。
そして、その跡目とシマを狙う敵対組織との抗争の激化。
彼は望まぬままに、流されるようにして、その血塗られた玉座へと登り詰めることになった。
2009年、彼が、まだ26歳の若さだった頃のこと。
その、総帥就任式の直前。
組織の未来を揺るがす、大規模なクーデターが勃発した。
――その日、彼は全てを失った。
彼には、雨燕 という名の婚約者がいた。
彼女は、中国本土を牛耳る、巨大マフィアの有力者の一人娘。
趙が10代の頃、父に連れられて一度だけ故郷の土を踏んだ時に、出会った運命の女性だった。
趙が、生涯でただ一人、本気で愛した女性。
――そして、その愛する女が、その日、彼の目の前で。
反乱分子の裏切り者の刃によって、美しい首が刎ねられるのを、見ることになったのだ。
――復讐心に駆られた彼が、その夜何をしたか。
一晩で関係者全員を、この世から消し去った。
だが、その日を境に彼は変わった。
どれだけ裏切られても、どんなに憎んでも、彼は二度と、同胞の命をその手で奪うことはしなかった。
――ソンヒは静かに、言葉を続けた。
「総帥になってから、そしてその座を降りてからも……あの男の隣に女の影なんて、10年以上一度もなかった。そんな趙が、初めて私に頭を下げて頼んできたんだ。『命に代えても守ってほしい人がいる』って。それが、あなただった」
未華子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
あの冷たい拒絶は、自分を危険から遠ざけるための、不器用で、悲しい嘘だったのだ。
*
その頃、病室の外の廊下では、二人の男がソファに並んで座っていた。
趙は、自嘲するように杉浦に同じ昔話を語っていた。
すべてを話し終えた趙の顔を見た杉浦は、彼はこのまま未華子の前から完全に姿を消すつもりであることを、敏感に感じ取った。
「……ふざけないでよ」
杉浦は、吐き捨てるように言った。
「会わずに消えるなんて、ずるいよ。そんなことしたら、あんたは彼女の中で永遠にかっこいいヒーローになっちゃうじゃんか。そんなの……フェアじゃない」
その言葉は、ライバルとしての宣戦布告であり、一人の男としての、奇妙な友情の始まりでもあった。
*
コミジュルの病室で横になっている未華子のスマートフォンの画面が光り、着信を告げた。
『杉浦 文也』。
その名前に、未華子の心臓が小さく跳ねる。
でも、出ることはできなかった。
自分はもう、汚れてしまった。
彼に、どんな顔をして会えばいいかのか、どんなことを話せば良いのか、何もわからなかった。
無視を続けて数日後。
また、画面が光る。
今度は、メッセージアプリのビデオ通話の着信だった。
震える指で、思わず通話ボタンに触れてしまう。
画面に映ったのは、九十九課のオフィスにいる、少し困ったような顔をした杉浦だった。
『……あ、やっと出た』
「ご、ごめんなさい……」
『ううん、別に。……体調、どう?』
「……うん、大丈夫」
気まずい沈黙が流れる。
事件のこと、身体のこと、彼は何も聞いてこない。
ただ、カメラの向こうで少し照れたように頭を掻くと、未華子を元気づけるように、努めて明るい声で話し始めた。
『今日さ、九十九くんがまた新しいドローン買ってきたんだけど、起動させたらいきなり窓ガラスに激突しちゃってさ。……本気で泣きそうになってたよ。かわいそうにね』
「……ふふっ」
思わず、小さな笑いが漏れた。
その光景が目に浮かぶようだ。
『あと、この前言ってた猫カフェなんだけど。割引券があるからさ。退院したら一緒に行かない? ……あ、もちろん、九十九くんも一緒に、だけど』
杉浦は必死だった。
他愛のない話で、何でもない日常の風景で、未華子をこの薄暗い病室から少しでも連れ出そうとしていた。
その不器用な優しさが、痛いほど伝わってくる。
「ありがとね。杉浦くん……」
笑おうとしたのに、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
『あ、ちょ、未華子ちゃん!?』
画面の向こうで、杉浦が本気で慌てている。
でも、その声が、今は何よりも温かかった。
「ごめん……ごめんなさい……っ」
『……謝んないでよ。そんで、泣きたい時は、我慢しないで泣きなよ』
杉浦の声は、静かで、でも、どこまでも優しかった。
『大丈夫だよ。ちゃんと寝て、ちゃんと飯食って。……僕たち、みんな、ここで待ってるから』
その言葉が、凍りついていた未華子の心を、少しずつ、少しずつ溶かしていく。
この安定したビデオ通話の回線は、九十九が「未華子氏が寂しくないように!」と、コミジュルの鉄壁のセキュリティに穴を開け、無理やり構築したものだ。
この一件をきっかけに、九十九課とコミジュルとの間には、奇妙で、しかし確かな協力関係のパイプが築かれていくことになる。
横浜の裏社会で起きた一つの事件は、多くのものを壊し、多くのものを傷つけた。
だが、それは同時に、新たな絆と、それぞれの胸に宿る、決して消えることのない想いの存在を確かに浮かび上がらせていた。
第二話・終
未華子は、コミジュルの拠点地下にある、清潔な医療設備が整った一室で目を覚ました。
身体のあちこちが痛むが、それ以上に心が深く傷ついていた。
ぼんやりと天井を見つめる彼女のそばに、ソンヒが静かに椅子を引いて座る。
彼女は、無理に、言葉をかけようとはしなかった。
ただ静かに、一人の男の過去を、語り始めた。
――横浜流氓の前総帥の、一人息子として生を受けた、趙天佑。
彼は、その出自とは裏腹に、生まれながらの王ではなかった。
勉学も運動も、そして悪知恵も、ずば抜けて優秀。
誰もが彼を次期総帥と目していたが、当の本人はその座に全く興味を示さなかった。
だが、運命は、彼を放ってはおかなかった。
父親の突然の死。
そして、その跡目とシマを狙う敵対組織との抗争の激化。
彼は望まぬままに、流されるようにして、その血塗られた玉座へと登り詰めることになった。
2009年、彼が、まだ26歳の若さだった頃のこと。
その、総帥就任式の直前。
組織の未来を揺るがす、大規模なクーデターが勃発した。
――その日、彼は全てを失った。
彼には、
彼女は、中国本土を牛耳る、巨大マフィアの有力者の一人娘。
趙が10代の頃、父に連れられて一度だけ故郷の土を踏んだ時に、出会った運命の女性だった。
趙が、生涯でただ一人、本気で愛した女性。
――そして、その愛する女が、その日、彼の目の前で。
反乱分子の裏切り者の刃によって、美しい首が刎ねられるのを、見ることになったのだ。
――復讐心に駆られた彼が、その夜何をしたか。
一晩で関係者全員を、この世から消し去った。
だが、その日を境に彼は変わった。
どれだけ裏切られても、どんなに憎んでも、彼は二度と、同胞の命をその手で奪うことはしなかった。
――ソンヒは静かに、言葉を続けた。
「総帥になってから、そしてその座を降りてからも……あの男の隣に女の影なんて、10年以上一度もなかった。そんな趙が、初めて私に頭を下げて頼んできたんだ。『命に代えても守ってほしい人がいる』って。それが、あなただった」
未華子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
あの冷たい拒絶は、自分を危険から遠ざけるための、不器用で、悲しい嘘だったのだ。
*
その頃、病室の外の廊下では、二人の男がソファに並んで座っていた。
趙は、自嘲するように杉浦に同じ昔話を語っていた。
すべてを話し終えた趙の顔を見た杉浦は、彼はこのまま未華子の前から完全に姿を消すつもりであることを、敏感に感じ取った。
「……ふざけないでよ」
杉浦は、吐き捨てるように言った。
「会わずに消えるなんて、ずるいよ。そんなことしたら、あんたは彼女の中で永遠にかっこいいヒーローになっちゃうじゃんか。そんなの……フェアじゃない」
その言葉は、ライバルとしての宣戦布告であり、一人の男としての、奇妙な友情の始まりでもあった。
*
コミジュルの病室で横になっている未華子のスマートフォンの画面が光り、着信を告げた。
『杉浦 文也』。
その名前に、未華子の心臓が小さく跳ねる。
でも、出ることはできなかった。
自分はもう、汚れてしまった。
彼に、どんな顔をして会えばいいかのか、どんなことを話せば良いのか、何もわからなかった。
無視を続けて数日後。
また、画面が光る。
今度は、メッセージアプリのビデオ通話の着信だった。
震える指で、思わず通話ボタンに触れてしまう。
画面に映ったのは、九十九課のオフィスにいる、少し困ったような顔をした杉浦だった。
『……あ、やっと出た』
「ご、ごめんなさい……」
『ううん、別に。……体調、どう?』
「……うん、大丈夫」
気まずい沈黙が流れる。
事件のこと、身体のこと、彼は何も聞いてこない。
ただ、カメラの向こうで少し照れたように頭を掻くと、未華子を元気づけるように、努めて明るい声で話し始めた。
『今日さ、九十九くんがまた新しいドローン買ってきたんだけど、起動させたらいきなり窓ガラスに激突しちゃってさ。……本気で泣きそうになってたよ。かわいそうにね』
「……ふふっ」
思わず、小さな笑いが漏れた。
その光景が目に浮かぶようだ。
『あと、この前言ってた猫カフェなんだけど。割引券があるからさ。退院したら一緒に行かない? ……あ、もちろん、九十九くんも一緒に、だけど』
杉浦は必死だった。
他愛のない話で、何でもない日常の風景で、未華子をこの薄暗い病室から少しでも連れ出そうとしていた。
その不器用な優しさが、痛いほど伝わってくる。
「ありがとね。杉浦くん……」
笑おうとしたのに、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
『あ、ちょ、未華子ちゃん!?』
画面の向こうで、杉浦が本気で慌てている。
でも、その声が、今は何よりも温かかった。
「ごめん……ごめんなさい……っ」
『……謝んないでよ。そんで、泣きたい時は、我慢しないで泣きなよ』
杉浦の声は、静かで、でも、どこまでも優しかった。
『大丈夫だよ。ちゃんと寝て、ちゃんと飯食って。……僕たち、みんな、ここで待ってるから』
その言葉が、凍りついていた未華子の心を、少しずつ、少しずつ溶かしていく。
この安定したビデオ通話の回線は、九十九が「未華子氏が寂しくないように!」と、コミジュルの鉄壁のセキュリティに穴を開け、無理やり構築したものだ。
この一件をきっかけに、九十九課とコミジュルとの間には、奇妙で、しかし確かな協力関係のパイプが築かれていくことになる。
横浜の裏社会で起きた一つの事件は、多くのものを壊し、多くのものを傷つけた。
だが、それは同時に、新たな絆と、それぞれの胸に宿る、決して消えることのない想いの存在を確かに浮かび上がらせていた。
第二話・終
