第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
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数日後。
未華子の足は、自然と飯店小路へと向かっていた。
どうしても、趙に、もう一度だけちゃんとお礼が言いたかった。
手には紙袋。
中には、彼女の地元・A県の銘菓である、上品な甘さの月餅と、小さなキーホルダーが入っていた。
以前、趙が会話の流れで、ぽろりと「盆栽が趣味だ」とこぼしていたのを覚えていたのだ。
何日間か店に通ったが、趙とは会えない日が続いた。
時間をずらしてみようと思い、この日は、閉店間際に訪ねてみた。
いつもの、気さくなおばちゃんに「趙さん、まだ戻られてませんか?」と尋ねると、「あら、未華子ちゃん。今日はもうすぐ帰ってくると思うよ。中で待ってなさいな」と、温かく迎え入れてくれた。
カウンター席に座り、出された温かいお茶を一口飲む。
ふぅ、と、強張っていた心が、少しだけ解きほぐされていくような気がした。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
カラン、と、店の扉が開く、涼やかな音がして、待ち人が姿を現した。
「よぉ、おばちゃん、ただいま……って、あれ?」
未華子の姿を認めると、趙は、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに、いつもの飄々とした笑顔に戻る。
だが、その笑顔が、心なしか、普段よりも少しだけ疲れていて、その双眸が、夜の闇よりも鋭く尖っているように、未華子には感じられた。
「どしたの、こんな時間に。腹でも減った?」
「あ、いえ、あの……この間のお礼が、どうしても言いたくて」
未華子がはにかみながら紙袋を差し出すと、趙は少し困ったように眉を下げた。
「……奥、来なよ。もう、店も閉めちゃうし」
通されたのは、店の奥にある小さな事務所だった。
雑然としているが、生活感が滲む空間。
趙はソファにどかりと腰を下ろすと、慣れた手つきで煙草に火をつけた。
紫煙が、部屋の裸電球の光に溶けていく。
その、どこか気だるげな仕草と、急に訪れた静寂に、未華子の心臓が小さく音を立てる。
――いつもの店主の顔とは違う。
本能が、これから起きることを予感していた。
「……で、用件は?」
「あ、はい。これ、つまらないものですけど……」
差し出された紙袋を、趙は受け取ろうとしない。
ただ、じっと未華子の顔を見つめている。
その目に、いつものような親しみやすさはなく、底の知れない暗い色が揺らめいていた。
「俺さ、一応、元、総帥なんだよね」
唐突な言葉だった。
「……え?」
「だから、あんたみたいなカタギの姉ちゃんに、そうやすやすと店まで会いに来られると……正直、迷惑なんだよね」
――時間が、止まった。
頭が真っ白になる。
迷惑?
今、この人はそう言ったのか?
心臓が氷水に浸されたように冷たくなり、指先から血の気が引いていくのがわかった。
笑顔を浮かべようとしても、顔の筋肉がこわばって、ひきつることしかできない。
「……ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……ただ、助けていただいたので、感謝の気持ちを伝えたくて……」
声が震える。しどろもどろになる未華子の言葉を、趙は遮った。
「あんたがどういうつもりかは、どうでもいいんだよ。問題は、俺の周りの連中が、あんたをどう見るか、ってこと」
彼の声は、静かだが、刃物のように鋭く未華子の心を切り裂く。
「これ以上、俺に関わると面倒なことになる。あんたのためでもあるんだ。わかるだろ?」
わからない。わかりたくない。
でも、彼の言っていることは、きっと真実なのだ。この人は、自分のいる世界とは違う、危険な世界の住人なのだと、改めて突きつけられる。
未華子は、唇を強く噛み締め、俯いた。
差し出しかけた紙袋を、そっと膝の上に戻す。その小さな動きを、趙は見逃さなかった。
「だからさ、もう二度とここには来ないでくれる? 俺と知り合いだってことも、誰にも言うな。……わかった?」
最後の言葉は、有無を言わさぬ命令だった。
返事もできず、ただ小さく頷くことしかできない。
手にした紙袋の持ち手が、汗でじっとりと湿る。
追い出されるように事務所を出て、店の裏口から外に出ると、タイミング悪く、空から冷たい大粒の雨が降り始めた。
まるで、未華子の心を映したかのように。
一歩、また一歩と、鉛のように重い足を引きずる。
(迷惑……だったんだ)
感謝を伝えたかった。
ただ、それだけだったのに。
彼の優しさに触れて、少しだけ浮かれていた自分を、今すぐ殴りつけてやりたい。
あの人は、住む世界が違う。
わかっていたはずなのに。
雨粒が、頬を伝う。
それが雨なのか、涙なのか、もうわからなかった。
込み上げてくる嗚咽を必死にこらえ、震える手で持っていた紙袋を、近くのゴミ捨て場に叩きつけた。
ガサリ、と虚しい音がして、ささやかな想いがゴミの山に吸い込まれていく。
さようなら、私の淡い期待。
もう、振り返らない。二度と、ここへは来ない。
未華子は、降りしきる雨に打たれながら、夜の雑踏の中を走った。
濡れたアスファルトに反射するネオンが滲んで、ぐにゃぐにゃに歪んで見える。
行き交う人々の傘が、まるで自分を拒絶する壁のようだった。
――誰もいなくなったゴミ捨て場で、一つの影が動いた。
趙だ。
彼は、雨に濡れてぐっしょりと重くなった紙袋を、静かに拾い上げた。
中から出てきたのは、少し形の崩れた月餅と、小さな盆栽のキーホルダー。
それをじっと見つめる彼の顔に、先ほどの冷酷さはなく、深い後悔と苦悩の色だけが浮かんでいた。
(……これで、いいんだ)
自分に言い聞かせるように、彼はその小さなキーホルダーを、強く、強く握りしめた。雨は、まるで何かを洗い流すかのように、横浜の街に激しく降り続いていた。
