第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
そんな日常が揺らいだのは、横浜九十九課に一件の依頼が舞い込んだことからだった。
ストーカー被害に悩む女性の保護。
九十九の調査で、犯人は異人町を拠点に活動する中華系マフィア「横浜流氓」の末端構成員だと判明した。
警告のため、杉浦と未華子で男の元へ向かうと、案の定、男は逆上する。
一触即発の空気が路地裏に張り詰める。
杉浦が未華子を庇うように一歩前に出た、その時。
「どーもー。ウチの若いのが何か迷惑かけちゃったみたいで、ごめんね?」
ひょこっと顔を出したのは、出前でも届けに来たかのような気軽さで現れた、趙天佑だった。
その圧倒的な存在感に、九十九課のオフィスでPCモニターを監視していた九十九が、インカム越しに叫んだ。
『げっ!? なんでここに横浜流氓の元総帥、趙天佑がいるんですかぁ!?』
その言葉に、未華子は息を呑んだ。
目の前の気のいい中華屋のマスターが、この街を牛耳るマフィアの、元トップ――。
逆上していた構成員は、趙の姿を認めた瞬間、顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちそうになった。
「も、も、元総帥……! なんで、ここに……!」
「ん? いやー、近くのお得意さんに、出前届けた帰り。…で?」
趙はにこやかな笑顔のまま、その目を、すぅ、と細めた。
「…お前らさ。…俺の大事な『常連さん』に、なんか用?」
静かで、しかし、地獄の底から響いてくるような低い声。
『常連さん』という、たった一言に込められた、絶対的な庇護の意志。
構成員たちは腰を抜かし、ガクガクと震えながら、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去っていった。
趙は、そんな彼らの情けない後ろ姿を見届けると、くるりと、未華子の方へと向き直り、いつもの飄々とした笑顔で、こう言ったのだ。
「…やれやれ。…最近の若いのは、なっちゃいないねぇ。…じゃ、俺、店戻るから。…また、バンバンジー、食べにおいでよ」
――鮮やかすぎる幕引き。
未華子は、ただ呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。
*
だが、事件は思わぬ方向へ転がる。
その夜、面子を完全に潰された形となった流氓の構成員たちは、ヤケ酒を煽りながら荒れていた。
趙に、直接歯向かうことなど、天地がひっくり返ってもできない。
あの男の恐ろしさを、彼らは骨の髄まで知っている。
しかし、このままでは、ただの笑い者だ。
「―――こうなったら、あの女だ!」
構成員の一人が、叫んだ。
「趙の旦那の『お気に入り』の、あの女さえ、俺たちのものにしちまえば! 旦那の顔に泥を塗ったことになる! …いや、むしろ、あの女を手土産に、『俺たちを見くびらないでくだせぇ』って、誠意を見せることになるかもしれねえ!」
短絡的で歪んだ、マフィアの論理。
酔いと屈辱に頭が麻痺した彼らは、その破滅的な計画を実行に移すことを、決めてしまった。
*
その夜、九十九課の事務所からの帰り道。
すっかり日も落ち、伊勢佐木異人町のネオンが、雨上がりのアスファルトをまだらに照らしていた。
イヤホンで、お気に入りの洋楽を聴きながら、自宅へと急ぐ、彼女の背後から。
音もなく、一台の黒いバンが忍び寄っていたことに、彼女は全く気づいていなかった。
大通りから、一本外れた、薄暗い路地に入った、その瞬間。
突然後ろから、口を強く塞がれた。薬品のような、甘い匂いのする布。
「―――んむぐっ!?」
抵抗しようにも、身体に力が入らない。意識が急速に遠のいていく。
最後に、彼女の目に映ったのは、数日前の、チンピラたちの下卑た笑みだった。
次に、気がついた時。
彼女は、埃とカビの臭いが充満する、薄暗い空間にいた。
地下の倉庫だろうか。
コンクリートの冷たい床に、乱暴に転がされ、手足は、荒縄で、手首が赤く腫れ上がるほど、きつく縛り上げられていた。
抵抗しようとしても、男たちの力には到底敵わない。
「へへっ、いい身体してんじゃねえか」
肌を撫でるように品定めする下卑た視線が、身も心も凍らせていく。
じわじわと嬲られる、恐怖。
ここから、生きては出られないかもしれない。
圧倒的な絶望が、未華子の思考を完全に支配しかけた、その時だった。
重い鉄の扉が、凄まじい轟音と共に、外側から蹴破られた。
逆光の中に、浮かび上がる、一つの人影。
その影は、ゆっくりとこちらに近づきながら、心底うんざりしたような、それでいて、どこまでも深い罪悪感を滲ませた声で、こう言ったのだ。
「……すまないね、うちの馬鹿どもが。……やれやれ。…教育を間違えたらしいな」
現れたのは、趙だった。
彼はたった一人で、しかし、圧倒的な暴力で、瞬く間にチンピラたちを沈黙させていく。
数日前に見せた、ただの「凄み」とは違う。
無駄な動きを一切排した、純粋な殺意の塊だった。
未華子の縄を、懐から取り出した小さなナイフで切りながら。
彼は、血の気の引いた彼女の顔を覗き込んだ。
「……怪我は? …どこか、痛むとこはない?」
心配の滲む声に、未華子が小さく首を横に振るのを確認すると、彼は外の騒がしさに気づく。
「…お、お仲間のお迎えが、来たみたいだね」。
そう言い残すと趙は、杉浦たちが駆けつけるのと入れ替わるように、闇へと姿を消した。
「未華子ちゃん! 大丈夫!?」
血相を変えて飛び込んできた杉浦が、その場でへたり込んでいる未華子に駆け寄り、その肩を強く掴んだ。
彼の琥珀色の瞳は、これまでに見たことがないほど、恐怖と安堵と、どうしようもない怒りで揺らめいていた。
「……うん。大丈夫。怪我もしてないよ」
未華子は、そう答えるのが、精一杯だった。
「本当か!? どこか、触られたりしてないか!?」
「立てそうか?」
後から追ってきた海藤と東も、心配そうに彼女を覗き込む。
その温かい優しさが、身に沁みる。
なのに。
未華子の目は、杉浦のその真剣な顔ではなく、趙が消えていった、倉庫の深い闇の奥を探していた。
胸が、ドキドキとうるさい。
それは、恐怖のせいだけではなかった。
『……怪我は? どこか、痛むとこはない?』
あの飄々とした男が、一瞬だけ見せた、真剣で優しい瞳。
そして、圧倒的な力で、自分を守ってくれた、その大きな背中。
その残像が、まぶたの裏に、焼き付いて離れない。
――杉浦は、気づいていた。
彼女の瞳が、自分を見ていないことに。
必死で探し回って、ようやく見つけ出した。
この腕の中にいる彼女の心が、今、ここにはないことを。
未華子の肩を掴んでいた手の力が、ほんの少しだけ弱まった。
胸の奥に、冷たい隙間風が吹くような、切ない感覚。
彼は、その正体に気づかないフリをして、無理やり明るい声を作った。
「……と、とにかく、ここから、出よう。…立てる?」
*
結局、その夜は大事を取って、神室町から駆けつけてくれた海藤と東も一緒に、横浜九十九課に泊まることになった。
皆が寝静まった頃を見計らって、九十九課の仮眠室へと、毛布を届けに来た東が、まだ眠れずにいた未華子の隣に、そっと腰を下ろした。
杉浦が、どれだけ未華子のことを心配していたか。
未華子が攫われた、という報せを受けた、杉浦の狼狽えっぷりは尋常ではなかった。
九十九のハッキングを待つことすらできず、ただがむしゃらに、異人町の路地裏を、一つ一つ走り回っていた。
その顔は、血の気が引いて、まるで死人のようだった、と。
東は、そんな彼の姿を思い出しながら、静かに、そして、未華子にだけ聞こえる声で言った。
「…みーちゃん。杉浦の気持ちも、少しは考えてやれよ。あいつ、みーちゃんが攫われたって聞いてから、ずっと、ああだったんだぜ」
兄貴分としての、不器用で優しい忠告。
未華子はただ、下唇をぎゅっと、噛み締めることしかできなかった。
