第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
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幕間:青い果実、兄貴の背中
2021年、夏。
未華子が横浜九十九課で働き始めて、数ヶ月が経った頃。
この日、未華子は神室町にいた。
九十九課の経営は順調そのもので、時折こうして神室町の八神探偵事務所に、お裾分けと称して仕事を回しに行くのが恒例になっていた。
事務所が入るビルに入ろうとした、その時だった。
「おい、姉ちゃん、ちょっとツラ貸せや」
どこからともなく現れたヤンキー風の男たちに、道を塞がれる。
またこのパターンか、と未華子がうんざりしたため息をついた、その瞬間。
「――おっさんら、ダッセェな。女一人に多勢に無勢かよ」
凛とした、若く、しかし強い意志を宿した声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、赤い髪が印象的な、まだ中学生くらいの少年だった。
彼は怯むことなくヤンキーたちを睨みつけると、見事な体術で、あっという間に彼らを伸してしまった。
「大丈夫だった? 姉ちゃん」
ぶっきらぼうだが、真っ直ぐな瞳。
その顔立ち、そして啖呵の切り方に、よく知る誰かの面影を感じる。
少年が八神探偵事務所のビルに入っていくのを見て、未華子も慌てて後を追った。
「おう、准! おかえり!」
事務所の中から聞こえてきたのは、海藤の声だった。
そして、ソファでくつろいでいた女性――美希子が、「えー? もしかしてまたケンカしてきたの?」少年を見て呆れたように笑う。
准は未華子の方を振り返ると「え? 姉ちゃん、うちの事務所に用あるの?」と不思議そうに尋ねてくる。
未華子は簡単な自己紹介を行い、そして海藤と美希子に今しがた起こったことを説明したところ、海藤は豪快に笑った。
「いやーみーちゃん、そりゃすまねぇな! ウチの准が世話になったみてぇで!」
そこで、全てが繋がった。
海藤の結婚相手である美希子に、連れ子がいるという話は聞いていた。
つまり、この少年が美希子の実の息子であり、海藤にとっては義理の息子である、あの「准くん」なのだ、と。
こうして、未華子と海藤准の、少し変わった関係が始まった。
*
伊勢佐木異人町からほど近い、私立の誠稜高校を目指しているという准のため、未華子は家庭教師を買って出た。
ある日の夕方、九十九課のオフィスで勉強を教えていると、准が不意に参考書から顔を上げた。
「ねぇ、未華子さんって彼氏いんの?」
「え?」
唐突な質問に未華子は言葉に詰まる。
「い、いないけど……。なんで?」
「じゃあ、好きな人は?」
グイグイと踏み込んでくる准の瞳は、好奇心で輝いている。
その真っ直ぐさに、未華子は思わず苦笑した。
(好きな人、か……)
脳裏に浮かぶのは、いつもぶっきらぼうで、でも誰よりも優しい、あの人の顔。
「……いるよ」
「え、マジで!? どんなやつ!?」
「えーっとね……」
未華子は、少し考える素振りを見せた後、ゆっくりと確かめるように言葉を紡いだ。
「……強くて優しい人、かな。ただ強いだけじゃなくて……ちゃんと人の痛みがわかる人」
その答えが、准の心に深く刻まれたことを、未華子はまだ知らなかった。
勉強を終え、ペンを置いた准が、意を決したように未華子を見つめる。
「俺、誠稜高校に合格したら……未華子さんに告白するから」
「……えぇ?」
「だから、それまで彼氏、作んなよな!」
その青すぎる、宣戦布告(告白)。
未華子は、ただ、微笑ましく思うだけだった。
*
だが、その日を境に、准の、九十九課への訪問頻度は明らかに増えていった。
そしてその度、准は見てしまうのだ。
ある時は、買い出しから戻ってきた杉浦に未華子が「お疲れ様」と、タオルと冷たいお茶を差し出す光景を。
ある時は、ソファでうたた寝をしてしまった杉浦に、未華子がそっとブランケットをかけてあげる、優しい手つきを。
そしてある時は、二人並んでソファに座り、楽しそうにスマホの画面を覗き込んでいる、恋人にしか見えない親密な距離感を。
(……なんでだよ)
准の若い心は、嫉妬と疑問でぐちゃぐちゃになっていた。
未華子が好きな「強くて、優しい人」。
その称号に一番遠い場所にいるはずの男が、なぜ、いつも彼女の隣にいるのか。
――准の目から見た、杉浦文也という男。
それは、「ただ顔が良いだけの生意気そうな男」だった。
未華子に「掃除するからどいて! ほら!手伝って!」と注意されると、「えー。充分キレイじゃんー」とぶつぶつと文句を言う。
結局は、未華子に甘やかされて、へらへらと笑顔を浮かべているだけ。
男らしさなんて皆無。
自分の方がよっぽど喧嘩も強いし、度胸だってある。
(なんで、未華子さんは、あんなヘナチョコのこと…!)
(俺の方が、よっぽど「強く」て「優しい」のに!)
その若く、青い勘違い。
彼は、まだ知らない。
杉浦のそのしなやかな身体に、どれほどの闘争の記憶が刻まれているのかを。
そして、その気だるげな瞳の奥に、どれほどの覚悟と優しさが眠っているのかを。
准は、湧いて出る苛立ちを、どこにぶつければいいのかわからなかった。
そして、その行き場のないエネルギーが、彼を夜の街の喧騒の中へと向かわせてしまう。
「強さ」を証明するためだけの、無意味な暴力の連鎖へと。
未華子の理想である「強くて、優しい人」になるため、彼は街の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになってしまった。
――そんなある夜、事件は起きた。
▼
肌にまとわりつくような、湿った夏の夜風。
伊勢佐木異人町の路地裏には、昼間の熱気がまだ澱のように溜まっていた。
九十九課での家庭教師を終えた未華子を、准が「途中まで送る」と言って聞かなかった。
最初は断っていた未華子も、その真っ直ぐな瞳に根負けし、二人で夜の異人町を歩いていた。
「……そんで? この前の模試の結果はどうだったの?」
「うっ……まあまあ、かな」
視線を逸らす仕草に、年相応のあどけなさが覗く。
弟のようで、時折、男の顔を見せる不思議な少年。
未華子は口元を緩ませ、准の歩幅に合わせてアスファルトを踏みしめた。
その穏やかな空気を、金属バットがアスファルトを擦る、不快な音が切り裂いた。
路地裏から次々と現れるヘルメットを被った集団。
その数は、ざっと十数人。
先日、准が叩きのめした不良グループの残党たちだった。
「よう、准。テメェ、ガキのくせにデートか? それとも……ママ活か?」
リーダー格と思しき男が、ヘルメット越しにくぐもった声を出し、下卑た視線で未華子を舐め回した。
「てめぇら……!」
准は、咄嗟に未華子を背中にかばい、臨戦態勢をとろうとした。
しかし逆に「准くん、下がって!」と、未華子は准の肩を掴み、強引に自分の後ろへと押しやった。
未華子は、震える膝を叱咤しながら、男たちの前に立ちはだかる。
「あら、おねーさん。威勢がいいねえ」
「未成年相手に、何するつもり?……警察を呼びま――」
言葉は、鈍い衝撃音と共に途切れた。
ガッ、と頬骨に走る、火花のような激痛。
視界が白く飛び、世界がスローモーションで傾いでいく。
「――っ……あ、ぐ……」
アスファルトに無様に倒れ込んだ未華子の口の中に、鉄の味と、じゃりついた砂の感触が広がる。
遅れてやってきた強烈な熱さと痛みに、涙が勝手に滲んだ。
男の一人が、躊躇なく未華子の顔を殴ったのだ。
「未華子さんッ!!」
准の悲鳴のような叫び。
這いつくばる未華子の髪を、男が乱暴に鷲掴みにし、強引に顔を上げさせる。
「おいおい、説教かよオバサン。調子に乗ってんじゃねえぞ」
「やめろッ!!」
准が弾かれたように飛びかかるが、別の男が振り下ろした鉄パイプが、准の脇腹を打ち据えた。
「ぐっ……!」
苦悶の声を上げ、膝をつく准。
それでも彼は、未華子へ伸びる手を止めようとしない。
だが、今の彼には、圧倒的な暴力の前で彼女を守る術がなかった。
無力感が、腹部の痛みよりも深く、少年のプライドを抉っていく。
(クソッ……俺が、ガキだから……!)
視界の端で、未華子の白い頬が赤黒く腫れ上がり、唇の端から鮮血が流れているのが見えた。
「くそっ……!」
焦りと無力感に、准の歯が、ギリ、と音を立てた。
(誰か…!)
その時、彼の頭に浮かんだのは。
“親父”(海藤)の、あの頼りになる大きな背中でもなければ。
“シャルルのオッサン”(東)の、鋭い眼差しでもない
いつも、事務所のソファでだらしなく寝転がっている、あのヘラヘラした優男の顔だった。
自分でも、なぜ、今あの男の顔が脳裏を掠めたのか分からない。
腹立たしくて、気に食わなくて。
でも、どこか、未華子の隣にいるのが当たり前のような顔をしている、あの男。
『…みーちゃんのこと、しっかり頼むぜ』
親父が、いつかあの男に言っていた言葉。
『杉浦は、口は生意気だが、根は優しい奴なんだ』
東が、自分にだけこっそり教えてくれた秘密。
(……信じて、いいのか…?)
迷いは、吐く息と共に夜風に消えた。
今の准には、プライドを天秤にかける余裕などない。
頼れる「力ある大人」は、彼しかいなかった。
ポケットからスマートフォンを滑り出させると、震える指で通話ボタンを押す。
『もしもし、准? どうし――』
「杉浦さんっ! 助けてくれ! 未華子さんが……!」
九十九課のソファで気だるげに寝転がっていた杉浦の纏う空気が、一変した。
受話器越しにも伝わる、凍えるような沈黙。
『場所は!?』
「浜北公園の裏路地だ! ヤツら、未華子さんを……!」
『わかった! いいか准、絶対に前に出るな! 未華子ちゃんから離れるな! なんでもいい、時間を稼げ! すぐに行く!』
電話の向こうから響いたのは、いつも彼とは違う、冷静な怒りを宿した声音。
それが、恐怖で千切れそうになっていた准の心を、ギリギリのところで繋ぎとめた。
数分が、数時間にも感じられる。
未華子の荒い息遣いと、アスファルトに滴る血の音が、准の耳にこびりついて離れない。
「チッ、往生際のわりぃガキどもだ」
リーダー格の男が、ついに痺れを切らした。
鈍く光る金属バットが、無慈悲に振り上げられる。
狙いは、うずくまる未華子の頭部。
「やめろぉぉぉっ!!」
准の絶叫も虚しく、死の凶器が風を切った――その時だった。
「――はい、そこまで」
夜の湿った空気を裂き、一つの影が舞い降りる。
音もなく着地したその影は、着地の勢いをそのまま回し蹴りに変え、男のバットを見事に弾き飛ばす。
「……遅くなってごめん、未華子ちゃん。准、よく持ちこたえたね」
「杉浦……さん……!」
未華子の、血と砂利で赤黒く汚れた頬を見た瞬間、杉浦の瞳から一切の感情が消え失せた。
「――あとは、僕に任せて」
杉浦が動いたのは、瞬きの間だった。
夜風を切り裂く、カポエラの予測不能な軌道。
しなやかな脚が、ある男の顎を砕き、返す刀で別の男のみぞおちを深く抉る。
ヘルメット集団は、自分たちが何をされたのか理解する間もなく、次々と暗いアスファルトに沈んでいった。
人間離れした動き。
美しくすらある暴力。
准は息をするのも忘れ、その光景に見入っていた。
(これが……本気……)
自分も戦わなければ、と拳を握るが、身体が動かない。
レベルが違いすぎた。
「准!」
杉浦の声が、硬直していた准の身体を揺さぶる。
杉浦は、男の腕を捻じ上げながら、准を見据えた。
「熱くなるな! 相手の動きをよく見ろ! 准がやるべきは、一人で全員倒すことじゃない。僕に繋ぐことだ!」
その檄に、准の全身に熱い血が巡った。
そうだ、自分は一人じゃない。守られているだけじゃない。
准は、最後の力を脚に込める。
未華子の背後から襲い掛かろうとした残党の一人に、全身全霊のタックルを叩き込んだ。
その隙を、杉浦が見逃すはずがなかった。
流れるような動きで男の背後を取ると、的確な手刀が首筋に吸い込まれる。男は糸が切れたように崩れ落ちた。
静寂が戻った路地裏で、准はぜえぜえと肩で息をしていた。
「准くん! 杉浦くん!」
未華子が、よろめきながら二人に駆け寄る。
「二人とも、ありがとう……! 本当にありがとう……!」
その声は、安堵と恐怖で震えていた。
杉浦は未華子の身体を支えると、未華子の唇の端から滲む鮮血を、親指の腹で優しく拭いながら「…痛かったよね、大丈夫?」と尋ねる。
「……う、うん。全然、私は大丈夫」と、少し照れたように答える未華子。
「ごめん、未華子さん……。杉浦さんも…。俺のせいで……」
准が、消え入りそうな声で謝る。
そんな彼の頭を、杉浦の大きな手が、ガシガシと少し乱暴に撫でた。
「謝まんないでいいよ。よくやったよくやった。……でも、わかったでしょ?」
杉浦は、真っ直ぐに准の目を見て言った。
「大切な人を守るっていうのは、ただ喧嘩が強いだけじゃダメなんだよ。時には、こうして誰かに頭を下げる強さも必要ってこと」
その言葉は、かつて八神に復讐を誓い、一人で全てを抱え込んでいた自分自身にも、言い聞かせているようだった。
*
――後日。
あの夜の出来事を経て、准は改めて一人で横浜九十九課を訪れていた。
そして、ソファに座る杉浦の前に立つと、もう迷いのない目で深々と頭を下げた。
「……俺に、本当の強さを教えてください! 兄貴!」
その真剣な眼差しに、杉浦は少しだけ困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「……わかった。じゃあまずは走り込みからだね。僕に弟子入りするってんなら、手加減はしないから」
こうして、准は杉浦のことを「兄貴」と慕うようになり、二人の間には奇妙で、しかし確かな師弟関係が結ばれた。
夏の終わりの気配の中、伊勢佐木異人町にまた一つ、新しい絆が生まれようとしていた。
<了>
2021年、夏。
未華子が横浜九十九課で働き始めて、数ヶ月が経った頃。
この日、未華子は神室町にいた。
九十九課の経営は順調そのもので、時折こうして神室町の八神探偵事務所に、お裾分けと称して仕事を回しに行くのが恒例になっていた。
事務所が入るビルに入ろうとした、その時だった。
「おい、姉ちゃん、ちょっとツラ貸せや」
どこからともなく現れたヤンキー風の男たちに、道を塞がれる。
またこのパターンか、と未華子がうんざりしたため息をついた、その瞬間。
「――おっさんら、ダッセェな。女一人に多勢に無勢かよ」
凛とした、若く、しかし強い意志を宿した声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、赤い髪が印象的な、まだ中学生くらいの少年だった。
彼は怯むことなくヤンキーたちを睨みつけると、見事な体術で、あっという間に彼らを伸してしまった。
「大丈夫だった? 姉ちゃん」
ぶっきらぼうだが、真っ直ぐな瞳。
その顔立ち、そして啖呵の切り方に、よく知る誰かの面影を感じる。
少年が八神探偵事務所のビルに入っていくのを見て、未華子も慌てて後を追った。
「おう、准! おかえり!」
事務所の中から聞こえてきたのは、海藤の声だった。
そして、ソファでくつろいでいた女性――美希子が、「えー? もしかしてまたケンカしてきたの?」少年を見て呆れたように笑う。
准は未華子の方を振り返ると「え? 姉ちゃん、うちの事務所に用あるの?」と不思議そうに尋ねてくる。
未華子は簡単な自己紹介を行い、そして海藤と美希子に今しがた起こったことを説明したところ、海藤は豪快に笑った。
「いやーみーちゃん、そりゃすまねぇな! ウチの准が世話になったみてぇで!」
そこで、全てが繋がった。
海藤の結婚相手である美希子に、連れ子がいるという話は聞いていた。
つまり、この少年が美希子の実の息子であり、海藤にとっては義理の息子である、あの「准くん」なのだ、と。
こうして、未華子と海藤准の、少し変わった関係が始まった。
*
伊勢佐木異人町からほど近い、私立の誠稜高校を目指しているという准のため、未華子は家庭教師を買って出た。
ある日の夕方、九十九課のオフィスで勉強を教えていると、准が不意に参考書から顔を上げた。
「ねぇ、未華子さんって彼氏いんの?」
「え?」
唐突な質問に未華子は言葉に詰まる。
「い、いないけど……。なんで?」
「じゃあ、好きな人は?」
グイグイと踏み込んでくる准の瞳は、好奇心で輝いている。
その真っ直ぐさに、未華子は思わず苦笑した。
(好きな人、か……)
脳裏に浮かぶのは、いつもぶっきらぼうで、でも誰よりも優しい、あの人の顔。
「……いるよ」
「え、マジで!? どんなやつ!?」
「えーっとね……」
未華子は、少し考える素振りを見せた後、ゆっくりと確かめるように言葉を紡いだ。
「……強くて優しい人、かな。ただ強いだけじゃなくて……ちゃんと人の痛みがわかる人」
その答えが、准の心に深く刻まれたことを、未華子はまだ知らなかった。
勉強を終え、ペンを置いた准が、意を決したように未華子を見つめる。
「俺、誠稜高校に合格したら……未華子さんに告白するから」
「……えぇ?」
「だから、それまで彼氏、作んなよな!」
その青すぎる、宣戦布告(告白)。
未華子は、ただ、微笑ましく思うだけだった。
*
だが、その日を境に、准の、九十九課への訪問頻度は明らかに増えていった。
そしてその度、准は見てしまうのだ。
ある時は、買い出しから戻ってきた杉浦に未華子が「お疲れ様」と、タオルと冷たいお茶を差し出す光景を。
ある時は、ソファでうたた寝をしてしまった杉浦に、未華子がそっとブランケットをかけてあげる、優しい手つきを。
そしてある時は、二人並んでソファに座り、楽しそうにスマホの画面を覗き込んでいる、恋人にしか見えない親密な距離感を。
(……なんでだよ)
准の若い心は、嫉妬と疑問でぐちゃぐちゃになっていた。
未華子が好きな「強くて、優しい人」。
その称号に一番遠い場所にいるはずの男が、なぜ、いつも彼女の隣にいるのか。
――准の目から見た、杉浦文也という男。
それは、「ただ顔が良いだけの生意気そうな男」だった。
未華子に「掃除するからどいて! ほら!手伝って!」と注意されると、「えー。充分キレイじゃんー」とぶつぶつと文句を言う。
結局は、未華子に甘やかされて、へらへらと笑顔を浮かべているだけ。
男らしさなんて皆無。
自分の方がよっぽど喧嘩も強いし、度胸だってある。
(なんで、未華子さんは、あんなヘナチョコのこと…!)
(俺の方が、よっぽど「強く」て「優しい」のに!)
その若く、青い勘違い。
彼は、まだ知らない。
杉浦のそのしなやかな身体に、どれほどの闘争の記憶が刻まれているのかを。
そして、その気だるげな瞳の奥に、どれほどの覚悟と優しさが眠っているのかを。
准は、湧いて出る苛立ちを、どこにぶつければいいのかわからなかった。
そして、その行き場のないエネルギーが、彼を夜の街の喧騒の中へと向かわせてしまう。
「強さ」を証明するためだけの、無意味な暴力の連鎖へと。
未華子の理想である「強くて、優しい人」になるため、彼は街の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになってしまった。
――そんなある夜、事件は起きた。
▼
肌にまとわりつくような、湿った夏の夜風。
伊勢佐木異人町の路地裏には、昼間の熱気がまだ澱のように溜まっていた。
九十九課での家庭教師を終えた未華子を、准が「途中まで送る」と言って聞かなかった。
最初は断っていた未華子も、その真っ直ぐな瞳に根負けし、二人で夜の異人町を歩いていた。
「……そんで? この前の模試の結果はどうだったの?」
「うっ……まあまあ、かな」
視線を逸らす仕草に、年相応のあどけなさが覗く。
弟のようで、時折、男の顔を見せる不思議な少年。
未華子は口元を緩ませ、准の歩幅に合わせてアスファルトを踏みしめた。
その穏やかな空気を、金属バットがアスファルトを擦る、不快な音が切り裂いた。
路地裏から次々と現れるヘルメットを被った集団。
その数は、ざっと十数人。
先日、准が叩きのめした不良グループの残党たちだった。
「よう、准。テメェ、ガキのくせにデートか? それとも……ママ活か?」
リーダー格と思しき男が、ヘルメット越しにくぐもった声を出し、下卑た視線で未華子を舐め回した。
「てめぇら……!」
准は、咄嗟に未華子を背中にかばい、臨戦態勢をとろうとした。
しかし逆に「准くん、下がって!」と、未華子は准の肩を掴み、強引に自分の後ろへと押しやった。
未華子は、震える膝を叱咤しながら、男たちの前に立ちはだかる。
「あら、おねーさん。威勢がいいねえ」
「未成年相手に、何するつもり?……警察を呼びま――」
言葉は、鈍い衝撃音と共に途切れた。
ガッ、と頬骨に走る、火花のような激痛。
視界が白く飛び、世界がスローモーションで傾いでいく。
「――っ……あ、ぐ……」
アスファルトに無様に倒れ込んだ未華子の口の中に、鉄の味と、じゃりついた砂の感触が広がる。
遅れてやってきた強烈な熱さと痛みに、涙が勝手に滲んだ。
男の一人が、躊躇なく未華子の顔を殴ったのだ。
「未華子さんッ!!」
准の悲鳴のような叫び。
這いつくばる未華子の髪を、男が乱暴に鷲掴みにし、強引に顔を上げさせる。
「おいおい、説教かよオバサン。調子に乗ってんじゃねえぞ」
「やめろッ!!」
准が弾かれたように飛びかかるが、別の男が振り下ろした鉄パイプが、准の脇腹を打ち据えた。
「ぐっ……!」
苦悶の声を上げ、膝をつく准。
それでも彼は、未華子へ伸びる手を止めようとしない。
だが、今の彼には、圧倒的な暴力の前で彼女を守る術がなかった。
無力感が、腹部の痛みよりも深く、少年のプライドを抉っていく。
(クソッ……俺が、ガキだから……!)
視界の端で、未華子の白い頬が赤黒く腫れ上がり、唇の端から鮮血が流れているのが見えた。
「くそっ……!」
焦りと無力感に、准の歯が、ギリ、と音を立てた。
(誰か…!)
その時、彼の頭に浮かんだのは。
“親父”(海藤)の、あの頼りになる大きな背中でもなければ。
“シャルルのオッサン”(東)の、鋭い眼差しでもない
いつも、事務所のソファでだらしなく寝転がっている、あのヘラヘラした優男の顔だった。
自分でも、なぜ、今あの男の顔が脳裏を掠めたのか分からない。
腹立たしくて、気に食わなくて。
でも、どこか、未華子の隣にいるのが当たり前のような顔をしている、あの男。
『…みーちゃんのこと、しっかり頼むぜ』
親父が、いつかあの男に言っていた言葉。
『杉浦は、口は生意気だが、根は優しい奴なんだ』
東が、自分にだけこっそり教えてくれた秘密。
(……信じて、いいのか…?)
迷いは、吐く息と共に夜風に消えた。
今の准には、プライドを天秤にかける余裕などない。
頼れる「力ある大人」は、彼しかいなかった。
ポケットからスマートフォンを滑り出させると、震える指で通話ボタンを押す。
『もしもし、准? どうし――』
「杉浦さんっ! 助けてくれ! 未華子さんが……!」
九十九課のソファで気だるげに寝転がっていた杉浦の纏う空気が、一変した。
受話器越しにも伝わる、凍えるような沈黙。
『場所は!?』
「浜北公園の裏路地だ! ヤツら、未華子さんを……!」
『わかった! いいか准、絶対に前に出るな! 未華子ちゃんから離れるな! なんでもいい、時間を稼げ! すぐに行く!』
電話の向こうから響いたのは、いつも彼とは違う、冷静な怒りを宿した声音。
それが、恐怖で千切れそうになっていた准の心を、ギリギリのところで繋ぎとめた。
数分が、数時間にも感じられる。
未華子の荒い息遣いと、アスファルトに滴る血の音が、准の耳にこびりついて離れない。
「チッ、往生際のわりぃガキどもだ」
リーダー格の男が、ついに痺れを切らした。
鈍く光る金属バットが、無慈悲に振り上げられる。
狙いは、うずくまる未華子の頭部。
「やめろぉぉぉっ!!」
准の絶叫も虚しく、死の凶器が風を切った――その時だった。
「――はい、そこまで」
夜の湿った空気を裂き、一つの影が舞い降りる。
音もなく着地したその影は、着地の勢いをそのまま回し蹴りに変え、男のバットを見事に弾き飛ばす。
「……遅くなってごめん、未華子ちゃん。准、よく持ちこたえたね」
「杉浦……さん……!」
未華子の、血と砂利で赤黒く汚れた頬を見た瞬間、杉浦の瞳から一切の感情が消え失せた。
「――あとは、僕に任せて」
杉浦が動いたのは、瞬きの間だった。
夜風を切り裂く、カポエラの予測不能な軌道。
しなやかな脚が、ある男の顎を砕き、返す刀で別の男のみぞおちを深く抉る。
ヘルメット集団は、自分たちが何をされたのか理解する間もなく、次々と暗いアスファルトに沈んでいった。
人間離れした動き。
美しくすらある暴力。
准は息をするのも忘れ、その光景に見入っていた。
(これが……本気……)
自分も戦わなければ、と拳を握るが、身体が動かない。
レベルが違いすぎた。
「准!」
杉浦の声が、硬直していた准の身体を揺さぶる。
杉浦は、男の腕を捻じ上げながら、准を見据えた。
「熱くなるな! 相手の動きをよく見ろ! 准がやるべきは、一人で全員倒すことじゃない。僕に繋ぐことだ!」
その檄に、准の全身に熱い血が巡った。
そうだ、自分は一人じゃない。守られているだけじゃない。
准は、最後の力を脚に込める。
未華子の背後から襲い掛かろうとした残党の一人に、全身全霊のタックルを叩き込んだ。
その隙を、杉浦が見逃すはずがなかった。
流れるような動きで男の背後を取ると、的確な手刀が首筋に吸い込まれる。男は糸が切れたように崩れ落ちた。
静寂が戻った路地裏で、准はぜえぜえと肩で息をしていた。
「准くん! 杉浦くん!」
未華子が、よろめきながら二人に駆け寄る。
「二人とも、ありがとう……! 本当にありがとう……!」
その声は、安堵と恐怖で震えていた。
杉浦は未華子の身体を支えると、未華子の唇の端から滲む鮮血を、親指の腹で優しく拭いながら「…痛かったよね、大丈夫?」と尋ねる。
「……う、うん。全然、私は大丈夫」と、少し照れたように答える未華子。
「ごめん、未華子さん……。杉浦さんも…。俺のせいで……」
准が、消え入りそうな声で謝る。
そんな彼の頭を、杉浦の大きな手が、ガシガシと少し乱暴に撫でた。
「謝まんないでいいよ。よくやったよくやった。……でも、わかったでしょ?」
杉浦は、真っ直ぐに准の目を見て言った。
「大切な人を守るっていうのは、ただ喧嘩が強いだけじゃダメなんだよ。時には、こうして誰かに頭を下げる強さも必要ってこと」
その言葉は、かつて八神に復讐を誓い、一人で全てを抱え込んでいた自分自身にも、言い聞かせているようだった。
*
――後日。
あの夜の出来事を経て、准は改めて一人で横浜九十九課を訪れていた。
そして、ソファに座る杉浦の前に立つと、もう迷いのない目で深々と頭を下げた。
「……俺に、本当の強さを教えてください! 兄貴!」
その真剣な眼差しに、杉浦は少しだけ困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「……わかった。じゃあまずは走り込みからだね。僕に弟子入りするってんなら、手加減はしないから」
こうして、准は杉浦のことを「兄貴」と慕うようになり、二人の間には奇妙で、しかし確かな師弟関係が結ばれた。
夏の終わりの気配の中、伊勢佐木異人町にまた一つ、新しい絆が生まれようとしていた。
<了>
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