第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
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[場所:サバイバー]
重苦しい空気の中、サバイバーのカウンターに置かれた、一台のスマートフォン。
それは、数分前、曹から趙の元へと直接送りつけられてきた、挑戦状だった。
そこに映っていたのは、もう、いつもの気丈な彼女の面影はどこにもなかった。
目は虚ろで焦点が合わず、乱れた髪は、汗と涙で、その青白い頬に張り付いている。
無理やり着せられたであろう、身体のラインがあらわになる、薄汚れたキャミソール姿。
そのか細い肩は小さく震えていた。
そして、そのか細い唇から、途切れ途切れの声が、紡ぎ出される。
『……趙、さん……聞こえ、ますか……? ごめんなさい、私……あなたの言うこと、聞かなくて……。でも、ソンヒさんたちは、悪くないから……どうか、助けてあげて……』
映像は、そこで無慈悲に途切れた。
カウンターに座る趙は、無言。
その横顔からは、一切の感情が読み取れない。
ただ、グラスを握りしめるその指の関節が、白くなっているだけ。
その隣には、報せを受け、この場に駆けつけた杉浦もいた。
彼はわなわなと震える拳を、カウンターに、強く、強く、押し付け、スクリーンを睨みつけている。
その瞳の奥では、静かな、しかし、これまでで最も深く、そして、冷たい怒りの炎が燃え上がっていた。
身体や顔に痛々しい傷を負ったソンヒは、血が滲む唇を、さらに強く噛み締め、静かに頭を下げた。
「……すまない、趙。守り切れなかった」
その時、静寂を破ったのは、杉浦の怒りに震える声だった。
彼は、今にも掴みかからんばかりの勢いで趙を睨みつける。
「……あんたのせいだ。あんたがこの子を巻き込んだんだろ!マフィアの元トップ様にとっちゃ、カタギの女一人がどうなろうと、大した問題じゃないのかもしれないな!でもなぁ!」
杉浦の瞳に、悔しさと怒りが入り混じった炎が燃え上がる。
「こっちは……本気なんだよ! 僕は、あんたのことを絶対に許さないからな」
その剥き出しの敵意を、趙は静かに受け止めていた。
そして、初めて杉浦の目を真っ直ぐに見据えた。
これまでの軽薄な雰囲気は微塵もなく、そこには裏社会を生きてきた男の、底知れない覚悟が宿っていた。
「……ああ、そうだよな」
ぽつりと呟かれた言葉に、誰もが耳を疑う。
「こっちだって……本気なんだよ」
その一言は、杉浦への返答でありながら、彼自身の心に突き立てた誓いでもあった。
一人の女性を巡り、交わるはずのなかった二人の男の視線が、初めて同じ場所――絶望の淵にいる彼女を救い出すという、ただ一点で交錯した。
伊勢佐木異人町の長い夜は、まだ始まったばかりだった。
――張り詰めた、サバイバーの空気を切り裂いたのは、趙のスマホのけたたましい、着信音だった。
ディスプレイには、「九十九誠一」の文字。
趙は、スピーカーモードでその電話に出た。
『趙殿! 杉浦氏も、そこに、いますかな!?』
電話の向こう側から聞こえてきたのは、いつになく切羽詰まった九十九の声だった。
「……ああ、いるぜ」
『見つけましたぞ! 奴らの、アジトを!』
九十九のハッキング能力は、まさに神業だった。
あの短い映像データに残された、僅かなノイズ。
窓の外に一瞬だけ映り込んだ、ネオンサインの反射光。
そして、曹が使っていたスマホの微弱な電波の痕跡。
その全ての断片的な情報を、彼は数分で繋ぎ合わせ、一つの「座標」を特定したのだ。
『伊勢佐木異人町、七丁目の、廃ビル! ……間違いない! 未華子氏は、そこにいますぞ!』
*
敵のアジトである廃ビルに、二つの影が躍り込む。
一人は、
もう一人は、元総帥の貫禄と、野生の獣のような獰猛さで、力強く敵を薙ぎ倒していく趙天佑。
口を利くこともなく、視線を交わすこともない。
だが、二人の動きは奇妙なまでに連携が取れていた。
杉浦が作った隙を趙が突き、趙が打ち漏らした敵を杉浦が狩る。
互いの憎しみと怒り、そして「未華子を助ける」というただ一つの目的が、彼らを即席の、しかし最強のコンビネーションへと昇華させていた。
次々と立ちはだかる敵をなぎ倒し、最上階の監禁部屋へ辿り着く。
鉄の扉を蹴破った先に広がる光景に、杉浦は息を呑んだ。
薄汚れたベッドの上、衣服は乱れ、意識も朦朧としたまま拘束されている未華子の姿。
その痛々しい姿に、杉浦の怒りが沸点を超える。
「未華子ちゃんっ!」
駆け寄ろうとする杉浦の肩を、しかし、後から追いついたソンヒの細い腕が強く掴んだ。
「待ちなさい」
「離して! 未華子ちゃんが!」
「こういうのは、女の仕事よ」
ソンヒは、それ以上何も言わなかった。
だが、その言葉には、男である杉浦には踏み込ませないという断固たる意志と、同じ女として未華子の尊厳を守ろうとする、深い優しさが込められていた。
ソンヒは静かに未華子に駆け寄ると、自身のジャケットでその身体を包み込み、ジュンギと共に慎重に運び出していく。
ソンヒたちが未華子を保護したのち、廃ビルの最上階に残されたのは、杉浦と趙、そして全ての元凶である、反・趙派のリーダー格・曹だった。
埃と血の匂いが混じり合い、シン、と張り詰めた静寂が支配する。
曹は、自分の非道な行いが趙にどれほどの怒りを与えたかを悟り、勝利を確信したように、歪んだ笑みを浮かべた。
「どうだ、趙。テメェの大事なもんは、いつだっていとも簡単に壊れるんだよ! あの女の顔、見たか? もうまともじゃいられねぇぞ!」
その下卑た言葉は、引き金だった。
趙の中で、十数年間、固く閉ざしていた記憶の扉が、凄まじい音を立てて破壊される。
―――血の匂い。金切り声。
―――そして、目の前でゆっくりと崩れ落ちていく、愛した女の姿。
「………くっ………」
趙の口から、意味をなさない声が漏れる。
目の前にいるのは曹ではない。
あの時、婚約者の命を奪った男たちの幻影だ。
彼の瞳から光が消え、理性が焼き切れ、底なしの殺意だけを宿した獣の目に変わる。
落ちていた銃を、まるで身体の一部であるかのように滑らかに拾い上げる。
その銃口が、寸分の狂いもなく曹の眉間に突きつけられた。
「趙さん、やめろっ!!」
杉浦の叫びは、復讐の悪夢に囚われた男の耳には届かない。
趙の指が、ゆっくりと、しかし確実に、引き金へと沈んでいく。
言葉では、もう間に合わない。
杉浦は、考えるより先に地を蹴っていた。
趙の圧倒的な殺気に全身が粟立つ。
恐怖で足が竦みそうになるのを、奥歯を噛み締めてねじ伏せる。
そして、銃を持つその腕に、全体重をかけて飛びついた。
「ぐっ……離せぇっ!!」
振りほどこうとする趙の力は、凄まじかった。
それはもはや人間の力ではなく、怒りと憎しみに支配された獣のそれだ。
骨が軋むほどの力で締め上げられながらも、杉浦は決してその腕を離さない。
「離さない……! あんた、自分が今どんな顔してるかわかってんのかよ!」
組み合ったまま、杉浦は耳元で叫んだ。
「マフィアのルールなんて、僕は知らない! けど、わかるでしょ!? そいつを殺したって、何も戻ってこない! 傷ついた未華子ちゃんは、絶対に喜ばないんだよ!!」
―――未華子。
その名前が、憎悪の濁流に囚われた趙の意識に、鋭い楔となって打ち込まれた。
目の前の憎い男の顔が、ぐにゃりと歪む。
婚約者の最期の顔と、先ほどスクリーンで見た、傷だらけの未華子の顔が、二重写しになって脳裏をよぎった。
――違う。
今、自分が守るべきだったのは、この
なのに、自分はまた、同じ過ちを――。
「未華子ちゃんは、あんたが自分のために人殺しになったなんて知ったら、きっと自分を責める! 彼女を、これ以上苦しめてどうすんだよ!」
杉浦の魂の叫びが、ついに趙の心の奥底に届いた。
引き金にかかっていた指の力が、ふ、と緩む。だが、銃口は下がらない。
獣の獰猛さが消え、氷のように冷徹な元総帥の顔に戻った趙は、銃口をゆっくりと下げ、曹の右の太ももに狙いを定めた。
そして、乾いた銃声が一発、廃ビルに響き渡った。
「ぐあああああああっ!!」
脚を押さえて床を転げまわる曹を、趙は虫けらでも見るような冷たい目で見下ろした。
杉浦はその光景に、息を呑む。
趙は、静かに、しかし腹の底から響くような声で告げた。
「……今すぐ消えろ」
「二度と、この伊勢佐木異人町の土を踏むな」
「次に俺の前にその汚ねぇ面を見せたら……その時は、てめぇの脳天に鉛玉をぶち込んでやる」
恐怖に引きつった顔で、曹は手下の肩を借りながら、這うようにして逃げていく。
その姿が見えなくなった後、趙は手にした銃を床に落とした。
カラン、という虚しい音が、やけに大きく響いた。
そして、まるで全身の力が抜けたかのように、その場にゆっくりと膝から崩れ落ちた。
