第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
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幕間:秋風と肉まん
未華子がコミジュルの医療施設を退院し、横浜九十九課に復帰して、数週間が経った。
季節は夏から秋へと移ろい、事務所の窓から差し込む西日も、どこか柔らかさを帯びている。
おかげさまで事務所はそれなりに繁盛しており、今日も浮気調査の依頼やネットでの誹謗中傷に関する相談などがひっきりなしに舞い込んでいた。
『ターゲット、路地裏に入りましたぞ! 杉浦氏、追跡を!』
PCモニターに囲まれた九十九が、ヘッドセットに向かって的確な指示を飛ばす。
未華子は、別の依頼で集めた証拠写真を整理しながら、その声に耳を澄ませていた。
杉浦は今、街のどこかでターゲットを追っている。
彼の無事を祈る気持ちと、自分がここにいて役に立てているという実感が、複雑に心を交差する。
あの凄惨な事件で負った心の傷は、まだ完全には癒えていない。
時折、悪夢にうなされる夜もある。
けれど、この目まぐるしい日常に身を置くことが、何よりの薬になっていた。
数時間後、調査を終えた杉浦が事務所に戻ってきた。
「はい、これ証拠写真。バッチリ撮ってきたよ」
USBメモリを無造作にデスクに置く彼に、未華子はお茶を差し出した。
「お疲れ、杉浦くん。大変だったでしょ」
「ん、まあね。サンキュ」
お茶を受け取る指先が、ほんの少しだけ触れる。
たったそれだけのことで、胸の奥がじんわりと温かくなる。この温もりが、今の自分を支えてくれている。
プルルルル、と事務所の電話が鳴った。
「はい、こちら横浜九十九課」
未華子が電話を取ると、それは若い女性からの、行方がわからなくなったペットの猫を探してほしいという依頼だった。
話を聞くうちに、どうやら元交際相手とのトラブルも絡んでいるらしい。
「わかりました。詳しいお話を伺いますので……」
電話を切り、ふぅ、と一息つく。
「猫探し? 面白そうだね」
いつの間にか、杉浦がソファから起き上がり、話を聞いていた。
「少し込み入ってるみたい。でも、なんとかしてあげたいな」
「わかった。じゃあ、僕は先に聞き込みに行ってくるよ」
そう言ってジャケットを羽織る杉浦に、未華子は立ち上がって告げた。
「私も行く」
その言葉に、杉浦は一瞬、ためらうような顔を見せた。
彼が、自分を過剰なほど心配してくれているのは知っている。でも――。
「大丈夫。私も九十九課の一員だから。それに、依頼主は女性だし、私がいた方が安心するでしょ」
その、少し無理をしているかもしれないけれど、凛とした瞳を見て、杉浦は小さく息を吐くと、少しだけ困ったように、でも優しく笑った。
「……わかった。じゃあ、行こっか」
二人で並んで、伊勢佐木異人町の雑踏を歩く。
秋の乾いた風が心地よかった。
「そういえば、杉浦くん。あの猫カフェの券、まだ期限大丈夫かな」
入院中に、ビデオ通話で彼が誘ってくれた場所だ。
その言葉に、杉浦は一瞬、ハッとした顔をした。
「あ……ごめん、すっかり忘れてた。どうだろ……」
彼はポケットからスマホを取り出すと、少し慌てたように操作し始める。
「……あ、あった。大丈夫、まだ期限あるみたい。……よかった」
ホッと胸をなでおろすその姿に、彼が本当に一緒に行きたいと思ってくれていることが伝わってきて、未華子の胸が温かくなる。
「じゃあ、今度の休みにでも、三人で行こっか」
「うん。……そうだね」
杉浦は、少し照れたように視線を逸らしながら、嬉しそうに頷いた。
聞き込みの途中、佑天飯店の前を通りかかる。
店の前では、趙が気持ちよさそうに伸びをしながら、看板を磨いていた。
目が合うと、彼はいつもの飄々とした笑顔で、ひらひらと手を振る。
「よぉ、二人してデートかい? 探偵業も大変だねぇ」
「ち、違いますって、趙さん!」
「デートじゃないよ、仕事だってば」
慌てて同時に否定する未華子と杉浦を見て、趙は楽しそうに笑う。
その時、未華子の目は、彼のズボンのポケットからぶら下がっている、あるものが目に入った。
あの、小さな盆栽のキーホルダー。
趙が、何も言わずに自分を見守ってくれている。
その事実が、じんわりと胸の奥を温かくした。
「みーちゃん。ちゃんとメシ、食ってんの?」
趙が、ふと真顔になって尋ねる。
「はい、もちろんです。もう食べ過ぎってぐらい、食べてます!」
精一杯の笑顔で答える未華子に、趙は満足そうに頷いた。
夕暮れ時。
聞き込みを終え事務所に戻ると、九十九が「お疲れ様ですぞ!」と、湯気の立つ肉まんを差し出してくれた。
三人でソファに並び、熱々の肉まんを頬張る。
「うん、おいしいおいしい。九十九くん、ナイス」
隣で黙々と肉まんを食べる杉浦の横顔を、じっと見つめる。
(……この人の隣にいると、安心するな)
その視線に気づいた杉浦が、「なに?」と怪訝そうにこちらを向いた。
「ううん、なんでもない。肉まん食べる杉浦くん、犬みたいでかわいいな~って」
「……もう。からかわないでよ」
そう言って、また前を向いてしまう彼の耳が、夕日のせいではない赤色に染まっていることに、未華子だけが気づいていた。
穏やかな秋の一日が、ゆっくりと暮れていく。
だが、この街では、闇が深くなるほど、新たな事件の芽が顔を出すことを、彼らはまだ知らなかった。
<了>
未華子がコミジュルの医療施設を退院し、横浜九十九課に復帰して、数週間が経った。
季節は夏から秋へと移ろい、事務所の窓から差し込む西日も、どこか柔らかさを帯びている。
おかげさまで事務所はそれなりに繁盛しており、今日も浮気調査の依頼やネットでの誹謗中傷に関する相談などがひっきりなしに舞い込んでいた。
『ターゲット、路地裏に入りましたぞ! 杉浦氏、追跡を!』
PCモニターに囲まれた九十九が、ヘッドセットに向かって的確な指示を飛ばす。
未華子は、別の依頼で集めた証拠写真を整理しながら、その声に耳を澄ませていた。
杉浦は今、街のどこかでターゲットを追っている。
彼の無事を祈る気持ちと、自分がここにいて役に立てているという実感が、複雑に心を交差する。
あの凄惨な事件で負った心の傷は、まだ完全には癒えていない。
時折、悪夢にうなされる夜もある。
けれど、この目まぐるしい日常に身を置くことが、何よりの薬になっていた。
数時間後、調査を終えた杉浦が事務所に戻ってきた。
「はい、これ証拠写真。バッチリ撮ってきたよ」
USBメモリを無造作にデスクに置く彼に、未華子はお茶を差し出した。
「お疲れ、杉浦くん。大変だったでしょ」
「ん、まあね。サンキュ」
お茶を受け取る指先が、ほんの少しだけ触れる。
たったそれだけのことで、胸の奥がじんわりと温かくなる。この温もりが、今の自分を支えてくれている。
プルルルル、と事務所の電話が鳴った。
「はい、こちら横浜九十九課」
未華子が電話を取ると、それは若い女性からの、行方がわからなくなったペットの猫を探してほしいという依頼だった。
話を聞くうちに、どうやら元交際相手とのトラブルも絡んでいるらしい。
「わかりました。詳しいお話を伺いますので……」
電話を切り、ふぅ、と一息つく。
「猫探し? 面白そうだね」
いつの間にか、杉浦がソファから起き上がり、話を聞いていた。
「少し込み入ってるみたい。でも、なんとかしてあげたいな」
「わかった。じゃあ、僕は先に聞き込みに行ってくるよ」
そう言ってジャケットを羽織る杉浦に、未華子は立ち上がって告げた。
「私も行く」
その言葉に、杉浦は一瞬、ためらうような顔を見せた。
彼が、自分を過剰なほど心配してくれているのは知っている。でも――。
「大丈夫。私も九十九課の一員だから。それに、依頼主は女性だし、私がいた方が安心するでしょ」
その、少し無理をしているかもしれないけれど、凛とした瞳を見て、杉浦は小さく息を吐くと、少しだけ困ったように、でも優しく笑った。
「……わかった。じゃあ、行こっか」
二人で並んで、伊勢佐木異人町の雑踏を歩く。
秋の乾いた風が心地よかった。
「そういえば、杉浦くん。あの猫カフェの券、まだ期限大丈夫かな」
入院中に、ビデオ通話で彼が誘ってくれた場所だ。
その言葉に、杉浦は一瞬、ハッとした顔をした。
「あ……ごめん、すっかり忘れてた。どうだろ……」
彼はポケットからスマホを取り出すと、少し慌てたように操作し始める。
「……あ、あった。大丈夫、まだ期限あるみたい。……よかった」
ホッと胸をなでおろすその姿に、彼が本当に一緒に行きたいと思ってくれていることが伝わってきて、未華子の胸が温かくなる。
「じゃあ、今度の休みにでも、三人で行こっか」
「うん。……そうだね」
杉浦は、少し照れたように視線を逸らしながら、嬉しそうに頷いた。
聞き込みの途中、佑天飯店の前を通りかかる。
店の前では、趙が気持ちよさそうに伸びをしながら、看板を磨いていた。
目が合うと、彼はいつもの飄々とした笑顔で、ひらひらと手を振る。
「よぉ、二人してデートかい? 探偵業も大変だねぇ」
「ち、違いますって、趙さん!」
「デートじゃないよ、仕事だってば」
慌てて同時に否定する未華子と杉浦を見て、趙は楽しそうに笑う。
その時、未華子の目は、彼のズボンのポケットからぶら下がっている、あるものが目に入った。
あの、小さな盆栽のキーホルダー。
趙が、何も言わずに自分を見守ってくれている。
その事実が、じんわりと胸の奥を温かくした。
「みーちゃん。ちゃんとメシ、食ってんの?」
趙が、ふと真顔になって尋ねる。
「はい、もちろんです。もう食べ過ぎってぐらい、食べてます!」
精一杯の笑顔で答える未華子に、趙は満足そうに頷いた。
夕暮れ時。
聞き込みを終え事務所に戻ると、九十九が「お疲れ様ですぞ!」と、湯気の立つ肉まんを差し出してくれた。
三人でソファに並び、熱々の肉まんを頬張る。
「うん、おいしいおいしい。九十九くん、ナイス」
隣で黙々と肉まんを食べる杉浦の横顔を、じっと見つめる。
(……この人の隣にいると、安心するな)
その視線に気づいた杉浦が、「なに?」と怪訝そうにこちらを向いた。
「ううん、なんでもない。肉まん食べる杉浦くん、犬みたいでかわいいな~って」
「……もう。からかわないでよ」
そう言って、また前を向いてしまう彼の耳が、夕日のせいではない赤色に染まっていることに、未華子だけが気づいていた。
穏やかな秋の一日が、ゆっくりと暮れていく。
だが、この街では、闇が深くなるほど、新たな事件の芽が顔を出すことを、彼らはまだ知らなかった。
<了>
