第2話:陽だまりの影、路地裏の牙
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
2021年、夏。
横浜九十九課の一員となって数ヶ月。
伊勢佐木異人町の雑然とした空気に、未華子はすっかり馴染んでいた。
元新聞記者のスキルを活かして調査報告書をまとめる手際は、九十九に「さすが未華子氏! 一生ついていきますぞ!」と言わしめるほどだ。
カタカタとキーボードを打つ指をふと止め、未華子は部屋の隅に目をやった。
ソファでスマホをいじっている杉浦がいる。
一見、気だるげに時間をつぶしているようにしか見えないが、彼が時折、こちらに視線を向けていることにも、本当は気づいていた。
その度に心臓が小さく跳ねるのを悟られないように、PCモニターに向き直る。
転職の面接に落ち続け、自暴自棄になっていたあの日。
神室町の屋上で、自分を庇ってくれた広い背中。
悪戯っぽく笑った、不器用な笑顔。
――あの日からずっと、未華子の心には彼がいる。
30歳を目前に、こんなにも誰かに焦がれる日がまた来るとは思わなかった。
この想いを、この心地よい日常を、壊したくない。だから、この気持ちはまだ、胸の奥にそっとしまっておくだけーー
▼
そんなある日の夜。
以前、大学時代の友人から紹介されてLINEを交換した、「広告系の仕事をやっている」とかいう男から連絡が来た。
飲みに誘われて、2人で野毛で飲むことになった。
仕事の話。趣味の話。恋愛遍歴の話。
それなりに会話に花が咲き、酒も進んだ頃、男がにやついた顔で言ってくる。
「この後、もう一軒どう?」
下心が見え透いていたが、ここで無下に断るのも角が立つ。
「いいですよ」と頷いた未華子は、馴染みの店の名を挙げた。
「じゃあ、私が最近よく行ってるお店でもいいですか? 伊勢佐木異人町なんですけど」
こうして二人が向かったのは、伊勢佐木異人町のスナック「サバイバー」だった。
重い扉を開けると、顔に大きな傷を持つ無口なマスターが、静かに会釈で迎えてくれる。
「いつものでいいかい?」
「お願いします」
マスターとの阿吽の呼吸に、連れの男が少し驚いた顔をした。
*
カウンターに、男と横並びに座った未華子。
この日のサバイバーは普段よりかなり賑やかで、酔っ払った客数人が、ノリノリでカラオケに興じている。
マスターも、いつものようにカウンターの中でじっと見守っているわけにはいかず、酩酊した客に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
静かなサバイバーももちろん好きだが、未華子はこのカオスな空間も嫌いではなかった。
「――すみません。ちょっと、お手洗いに」
未華子が、トイレに行くために席を立つ。
そして数分後、カウンター席に戻ってきた、まさにその時だった。
バーカウンターに寄りかかっていた別の客が、ふらりと体勢を崩し、未華子のグラスを床に落として割った。
「おぉっとっと~ごめんねぇ、おねぇさん」
派手な柄シャツの上に革ジャンを羽織った、妙に人馴れした笑みを浮かべる男だった。
「い、いえ!お怪我はなかったですか?」
未華子と店員がグラスを片付けるのを、広告関係の男はぼーっと眺めるだけ。
飲み会はそこで白々しくもお開きとなり、誘ってきたその男とは、それきり連絡が途絶えた。
*
後日、その男が週刊誌の紙面を飾っているのを見て、未華子は全身の血の気が引くのを感じた。
デートドラッグを使った連続レイプ事件の容疑者として、顔写真付きで報じられていたのだ。
あの夜、自分が何をされようとしていたのか。
そして、グラスを「偶然」割ってくれたあの男に、実は救われていたのだという事実に思い至り、背筋が凍る。
いてもたってもいられずサバイバーを訪ねた未華子に、マスターは静かに教えてくれた。
「ああ、あの人は趙さん。中華街の近くで『佑天飯店』って中華料理屋のマスターをやってるよ」
感謝を伝えたい一心で、未華子は、その足で、教えられた場所へと向かった。
*
「夜中は一人で通らないほうが良い」と杉浦たちに言われている、飯店小路の一角に、その店はあった。
張り紙やシールが、乱雑に剥がされた跡が残る、赤いドア。
確かに、看板には「佑天飯店」と書かれてあるが……。
「……マジ?」
外からは、本当に中華料理屋なのかどうかも判別がつかない、
店の前に立ち、一度だけ、深呼吸をする。
そして、意を決して、その重い扉を開けた。
「―――いらっしゃい」
カウンターの内側から聞こえてきたのは、あの、飄々とした声だった。
趙はまるで、彼女が来るのがわかっていたかのように、グラスを拭きながら、ニヤリと、笑みを浮かべていた。
「……あ、あの、先日は、本当にありがとうございました」
未華子が、深く頭を下げると、彼はきょとんとした顔で、小首を傾げた。
「ん? 何のこと~?」
「とぼけないでください! あのとき一緒にいた男、捕まったんです。グラスにドラッグを入れて女性に乱暴するっていう、常習犯だったらしくて。…趙さんが、あの時、グラスを割ってくれなかったら、私、どうなっていたか……」
彼女の必死の訴えに、彼は、ただ、肩をすくめて、こう言ったのだ。
「さあ? なんのことかな〜? 俺は、ただ酔っ払ってよろけちゃって、ドジで、グラスを割っちゃっただけだよ😉」
見え透いた嘘。
そして、その、全てをお見通しだという、悪戯っぽいウインク。
未華子は、この掴みどころのない不思議な男に、もう一度、深く、頭を下げることしか、できなかった。
*
それから彼女の足は、自然と佑天飯店へと向かうようになった。
毎回、趙と、長々と、おしゃべりをするわけではない。
むしろ、厨房で忙しそうに鍋を振るう彼の背中を眺めながら、カウンター席で一人、食事をするのが、彼女の、密かな楽しみになっていた。
店員の、気さくなおばちゃんとも、すっかり顔なじみになり「あら、未華子ちゃん、今日は、早いのね」なんて、声をかけられる日常。
鶏肉が好きな彼女のお気に入りは、決まって、バンバンジーとよだれ鶏。
横浜に来て初めてできた、心から落ち着ける「居場所」。
それが、この佑天飯店だった。
横浜九十九課の一員となって数ヶ月。
伊勢佐木異人町の雑然とした空気に、未華子はすっかり馴染んでいた。
元新聞記者のスキルを活かして調査報告書をまとめる手際は、九十九に「さすが未華子氏! 一生ついていきますぞ!」と言わしめるほどだ。
カタカタとキーボードを打つ指をふと止め、未華子は部屋の隅に目をやった。
ソファでスマホをいじっている杉浦がいる。
一見、気だるげに時間をつぶしているようにしか見えないが、彼が時折、こちらに視線を向けていることにも、本当は気づいていた。
その度に心臓が小さく跳ねるのを悟られないように、PCモニターに向き直る。
転職の面接に落ち続け、自暴自棄になっていたあの日。
神室町の屋上で、自分を庇ってくれた広い背中。
悪戯っぽく笑った、不器用な笑顔。
――あの日からずっと、未華子の心には彼がいる。
30歳を目前に、こんなにも誰かに焦がれる日がまた来るとは思わなかった。
この想いを、この心地よい日常を、壊したくない。だから、この気持ちはまだ、胸の奥にそっとしまっておくだけーー
▼
そんなある日の夜。
以前、大学時代の友人から紹介されてLINEを交換した、「広告系の仕事をやっている」とかいう男から連絡が来た。
飲みに誘われて、2人で野毛で飲むことになった。
仕事の話。趣味の話。恋愛遍歴の話。
それなりに会話に花が咲き、酒も進んだ頃、男がにやついた顔で言ってくる。
「この後、もう一軒どう?」
下心が見え透いていたが、ここで無下に断るのも角が立つ。
「いいですよ」と頷いた未華子は、馴染みの店の名を挙げた。
「じゃあ、私が最近よく行ってるお店でもいいですか? 伊勢佐木異人町なんですけど」
こうして二人が向かったのは、伊勢佐木異人町のスナック「サバイバー」だった。
重い扉を開けると、顔に大きな傷を持つ無口なマスターが、静かに会釈で迎えてくれる。
「いつものでいいかい?」
「お願いします」
マスターとの阿吽の呼吸に、連れの男が少し驚いた顔をした。
*
カウンターに、男と横並びに座った未華子。
この日のサバイバーは普段よりかなり賑やかで、酔っ払った客数人が、ノリノリでカラオケに興じている。
マスターも、いつものようにカウンターの中でじっと見守っているわけにはいかず、酩酊した客に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
静かなサバイバーももちろん好きだが、未華子はこのカオスな空間も嫌いではなかった。
「――すみません。ちょっと、お手洗いに」
未華子が、トイレに行くために席を立つ。
そして数分後、カウンター席に戻ってきた、まさにその時だった。
バーカウンターに寄りかかっていた別の客が、ふらりと体勢を崩し、未華子のグラスを床に落として割った。
「おぉっとっと~ごめんねぇ、おねぇさん」
派手な柄シャツの上に革ジャンを羽織った、妙に人馴れした笑みを浮かべる男だった。
「い、いえ!お怪我はなかったですか?」
未華子と店員がグラスを片付けるのを、広告関係の男はぼーっと眺めるだけ。
飲み会はそこで白々しくもお開きとなり、誘ってきたその男とは、それきり連絡が途絶えた。
*
後日、その男が週刊誌の紙面を飾っているのを見て、未華子は全身の血の気が引くのを感じた。
デートドラッグを使った連続レイプ事件の容疑者として、顔写真付きで報じられていたのだ。
あの夜、自分が何をされようとしていたのか。
そして、グラスを「偶然」割ってくれたあの男に、実は救われていたのだという事実に思い至り、背筋が凍る。
いてもたってもいられずサバイバーを訪ねた未華子に、マスターは静かに教えてくれた。
「ああ、あの人は趙さん。中華街の近くで『佑天飯店』って中華料理屋のマスターをやってるよ」
感謝を伝えたい一心で、未華子は、その足で、教えられた場所へと向かった。
*
「夜中は一人で通らないほうが良い」と杉浦たちに言われている、飯店小路の一角に、その店はあった。
張り紙やシールが、乱雑に剥がされた跡が残る、赤いドア。
確かに、看板には「佑天飯店」と書かれてあるが……。
「……マジ?」
外からは、本当に中華料理屋なのかどうかも判別がつかない、
店の前に立ち、一度だけ、深呼吸をする。
そして、意を決して、その重い扉を開けた。
「―――いらっしゃい」
カウンターの内側から聞こえてきたのは、あの、飄々とした声だった。
趙はまるで、彼女が来るのがわかっていたかのように、グラスを拭きながら、ニヤリと、笑みを浮かべていた。
「……あ、あの、先日は、本当にありがとうございました」
未華子が、深く頭を下げると、彼はきょとんとした顔で、小首を傾げた。
「ん? 何のこと~?」
「とぼけないでください! あのとき一緒にいた男、捕まったんです。グラスにドラッグを入れて女性に乱暴するっていう、常習犯だったらしくて。…趙さんが、あの時、グラスを割ってくれなかったら、私、どうなっていたか……」
彼女の必死の訴えに、彼は、ただ、肩をすくめて、こう言ったのだ。
「さあ? なんのことかな〜? 俺は、ただ酔っ払ってよろけちゃって、ドジで、グラスを割っちゃっただけだよ😉」
見え透いた嘘。
そして、その、全てをお見通しだという、悪戯っぽいウインク。
未華子は、この掴みどころのない不思議な男に、もう一度、深く、頭を下げることしか、できなかった。
*
それから彼女の足は、自然と佑天飯店へと向かうようになった。
毎回、趙と、長々と、おしゃべりをするわけではない。
むしろ、厨房で忙しそうに鍋を振るう彼の背中を眺めながら、カウンター席で一人、食事をするのが、彼女の、密かな楽しみになっていた。
店員の、気さくなおばちゃんとも、すっかり顔なじみになり「あら、未華子ちゃん、今日は、早いのね」なんて、声をかけられる日常。
鶏肉が好きな彼女のお気に入りは、決まって、バンバンジーとよだれ鶏。
横浜に来て初めてできた、心から落ち着ける「居場所」。
それが、この佑天飯店だった。
1/11ページ
