第10話:女神の罪、愛の弾丸
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スピンオフ:君のいない世界なんて【杉浦SIDE】
土岐に廃ホテルに拉致されて襲われた後、君は何事もなかったかのように笑っていた。
それが、逆に怖かった。
君の、その強がりな笑顔の下で、心が少しずつ壊れていっているんじゃないか、と。
でも、僕には何もできなかった。
気の利いた言葉もスマートな慰めも、僕にはできなくて。
ただ、君のそばにいて、君を守ることしかできない。
そう思っていた。
――あの日、九十九くんが君の誕生日の話をした時。
僕の頭は、別のことでいっぱいだった。
君をどうやったら守りきれるのか。
そればかり考えていた。
だから、言ってしまったんだ。
「幼稚じゃない?」なんて、最低な言葉を。
君を傷つけるつもりなんてなかった。
ただ、怖かったんだ。
君が、この血生臭い裏社会と関わりが深くなっていくのが。
パーティーなんて浮かれた場所で、君の身に何かあったら、と。
そんなこと言えるはずもなくて。
売り言葉に買い言葉。
君を泣きそうな顔にさせてしまった。
最悪だった。
一人で神室町へ向かう君の後ろ姿が、やけに小さく見えた。
嫌な予感がずっと胸にこびりついていた。
*
―――そして、その予感は最悪の形で的中した。
事務所のドアが蹴破られ、なだれ込んできた屈強な男たち。
神津組の連中だった。
多勢に無勢。
九十九くんを庇い、佐竹くんと背中合わせで戦った。
でも、ダメだった。
頭を強く殴られて。
…次に意識が戻った時。
僕らは陰鬱な第七倉庫に転がされていた。
冷たいコンクリートの感触。
錆びた鉄の匂い。
そして、隣で血の海に沈んでいる佐竹くんの動かない姿。
絶望だった。
その地獄に、君は現れた。
真島さんと二人で。
(……なんで来たんだよ)
声にならなかった。
(逃げてくれ。…頼むから逃げてくれ…!)
なのに、君は僕らの前に立ちはだかった。
まるで、僕らを守るかのように。
そして、土岐の下劣な笑みが、脳裏に焼き付いて離れない。
『―――俺の愛人になれ』
頭の中で、何かが切れた音がした。
殺してやる。
こいつだけは、絶対に殺してやる。
そう思った。
でも、君は違った。
僕たちの誰よりも強く、そして気高かった。
君が、自分のこめかみに銃口を突きつけた、あの瞬間。
世界から音が消えた。
(やめろ)
声にならなかった。
(やめてくれ)
あの最低な言葉が、君との最後の会話になるのか?
冗談じゃない。
(―――ごめん)
(ごめん、未華子ちゃん)
君は、祈るように微笑んだ。
そして引き金を引いた。
重なるように鳴った二発の銃声。
君の白いTシャツが、真っ赤に染まっていく光景。
それからのことはあまり覚えていない。
ただ、獣のように叫びながら、鎖を引きちぎったこと。
君を抱きかかえた時の温かい血の感触だけが、今もこの手に焼き付いている。
*
コミジュルの地下。
世界から切り離されたような、無機質な白い部屋。
そこで君は眠り続けた。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、と君の命のリズムを刻む機械の音だけが、やけに大きく響いていた。
僕はただ、君の冷たくなった手を握ることしかできなかった。
時折訪れる九十九くんが「杉浦氏も少しは休まないと、倒れますぞ」と、僕の肩を揺する。
佐竹くんが「代わるから、少し寝てこい」と、僕の手から無理やり君の手を引き剥がそうとする。
でも、僕は動けなかった。
動いたらダメなような気がした。
この手を離してしまったら、君が本当にどこか遠くへ行ってしまいそうで。
自分の温かい血が、冷たいチューブを通って君の中へと流れていく。
それだけが、僕と君を繋ぐ唯一の希望だった。
僕の一部が、君の中で生きている。
だから、君はまだ死んでいない。
そう自分に何度も何度も言い聞かせた。
ソンヒさんが言った。
「お前が、しっかりしろ」と。
真島さんが言った。
「お前が後を追ったら、あの子は犬死にや」と。
わかってる。
わかってるけど。
頭では理解している。
でも、心が追いつかない。
目を閉じれば、今も、あの光景が鮮明に焼き付いている。
銃口をこめかみに突きつける、君の美しすぎる笑顔。
それは絶望ではなかった。
僕らを守るためだけの、気高い覚悟の顔だった。
僕が守らなければいけなかったのに。
また、だ。
僕が弱いから。
君をここまで追い詰めたんだ。
消えることのない罪悪感が、黒いコールタールのように、僕の呼吸を少しずつ奪っていく。
もし、君が、このまま、目を覚まさなかったら。
君のいないこの世界で、僕は、どうやって息をしていけばいい?
「……未華子ちゃん」
何度、その名前を呼んだだろうか。
その度、君の指がほんの少しだけ、ぴくり、と動いたような気がして。
僕は、その幻にすがりつくことしかできなかった。
*
一週間。
永遠と同じ長さに思えた時間が過ぎて。
そして、君は目を覚ました。
声は出なかったけれど、僕の名前を呼んでくれた。
涙が止まらなかった。
よかった。
生きていてくれて、よかった。
ただ、それだけで、僕の世界は、また色を取り戻したんだ。
君は知らないだろうけど。
君が眠っている間、僕はずっと話しかけていたんだよ。
次に目が覚めたら、一緒に行きたい場所のこと。
君の好きな食べ物のこと。
そして、いつか、ちゃんと伝えたいと思っている、僕の本当の気持ちのこと。
今はまだ言えない。
君は傷だらけで、僕もボロボロだ。
でも、いつか必ず。
君が心の底から笑えるようになった、その日に。
今度こそ、僕の本当の言葉で、君に想いを伝えるから。
だからそれまで。
もう少しだけ、僕のそばにいてください。
スピンオフ:陽だまりの棘(とげ)【未華子SIDE】
コミジュルの地下医療施設から、ようやく出られる日が来た。
一ヶ月。
長かったような、あっという間だったような不思議な時間。
「……未華子、大丈夫か?」
「……うん」
佐竹が私の荷物を持ってくれている。
九十九氏は、病院のスタッフ一人一人に深々と頭を下げて回っていた。
そして、私の一歩斜め前を、杉浦くんが歩いている。
手厚い治療のおかげで、驚異的な速さで傷口そのものも塞がった。
幸い、太い血管や神経を傷つけることもなく、懸念された後遺症も残らなかった。
――しかし、私の身体には、あの日あの瞬間をまざまざと思い出させる痕跡が確かに刻み込まれていた。
身体のすぐそばで銃が発砲した。
銃口から凄まじい勢いで噴き出した熱風のせいで、左肩の銃創の周りには、広範囲にわたって引きつれたような軽い火傷(熱傷)の痕が残っている。
さらに、鎖骨から首筋のあたりにかけて、皮膚の下に細かい火薬の粉が黒い点々と入り込んだような、いわゆる「刺青状態」になった跡も少しだけ残ってしまった。
鏡を見たときなど、ふとした時に視界に入る、火傷の痕と黒い火薬の点々。
その生々しい傷跡たちは、きっと一生、私の身体から消えることはないだろう。
リハビリを終えたばかりの身体は、自分のものじゃないみたいに重くて、言うことを聞かない。
ふらり、と、足がもつれた。
倒れる、と思った瞬間。
強い腕が、私の身体を優しく支えてくれた。
「……っと、危ない」
杉浦くんだった。
自然なフォロー。
触れた腕から伝わる、彼の温かい体温。
顔が熱くなるのを感じた。
「……ありがと」
「……ううん」
彼の手を借りて体勢を立て直した、その時。
私の目は、彼の右肩に釘付けになった。
彼が、私を支えるために伸ばした、その腕。
まくり上がったTシャツの袖口から、僅かに覗いていたのだ。
痛々しいケロイド状の傷痕が。
それは、まるで鏡を見ているかのようだった。
私と、ほとんど同じ場所に刻まれた同じ銃創。
(……ああそうか)
私たちは、同じ傷を背負ってしまったんだ。
彼が私を守るために。
そして、私が彼らを守ろうとして。
それは、二人を繋ぐ絆の証のようでいて、同時に決して結ばれてはいけない呪いの烙印のようにも思えた。
*
事務所に戻り、まだ少しだけぷるぷると震える手で、久しぶりに自分でコーヒーを淹れる。
いつもの日常。
九十九氏が嬉しそうにガジェットの話をして、佐竹が呆れたようにそれにツッコミを入れる。
その温かい光景を眺めていると、胸が締め付けられるように苦しくなった。
(……幸せだな)
心の底から、そう思う。
このどうしようもない仲間たちと、この陽だまりのような場所で、ずっとこうして生きていきたい。
笑って、泣いて、喧嘩して。
そんな当たり前の未来を願ってしまう、自分がいる。
淹れたてのコーヒーを、杉浦くんのデスクにそっと置く。
「……ありがと」
そう言って、微笑む彼の優しい笑顔。
その笑顔を見るたびに、土岐に言われた呪いのような言葉が胸に突き刺さる。
『普通の男は、あんたから、離れていく』
杉浦くんは、普通じゃない。
――でも。だからこそ。
彼のこの優しい笑顔を、私が曇らせてしまってはいけない。
彼の未来を、私なんかが縛り付けてはいけないんだ。
ふと、自分の左の鎖骨に手が伸びる。
服の下の生々しい傷痕。
この傷を見るたび、私はきっと思い出すのだろう。
あの日の銃声と血の匂い。
そして、愛する人たちを守るためなら、自分の命すら厭わない、愚かな自分自身を。
淹れたてのコーヒーを、一口すする。
美味しい。
でもその奥に、ほんの少しだけ苦い後味が残った。
(……ごめんね、杉浦くん)
心の中で、そっと呟く。
私たちは、きっと、これからも、ずっと。
この触れそうで触れないもどかしい距離のまま、生きていくのだろう。
お互いの傷を見つめ合いながら。
決して結ばれることのない、運命の螺旋の中で。
それでもいい。
今はまだ、それでいい。
ただ、君が隣で笑ってくれてさえいるのなら。
それが私の精一杯の強がりで、どうしようもない本当の愛の形なのだから。
スピンオフ:嘘つきな女神の優しい影【佐竹SIDE】
コミジュルの地下医療施設から、未華子が退院して数日が経った。
未華子は、驚くほどの速さで日常を取り戻しているように見えた。
いや、むしろ、以前よりもずっと明るくなった、とさえ言える。
事務所では、よく笑い、よく喋る。
俺や杉浦をからかう時の軽口も、前よりもずっとキレがいい。
まるで、何か重い荷物を下ろしたかのように。
飄々と、あっけらかんと、彼女はそこにいた。
だが、俺は知っている。
公安の潜入捜査官として嫌というほど見てきた。
―――壊れる寸前の人間が浮かべる、完璧な笑顔を。
その夜、俺は彼女を食事に誘った。
「たまには、美味いもんでも食い行こうぜ」
無理やり理由をつけて。
彼女が事務所で一人、無理して笑っているのをもう見ていられなかったからだ。
伊勢佐木町の路地裏にある、小さなビストロ。
ワインを一口飲んだ彼女は、楽しそうに言った。
「……んー美味しい! 九十九氏と杉浦くんにも教えてあげないとね!」
「……ああ」
「佐竹って本当にいい店知ってるよなぁ。さすがエリート様は違うなあ」
冗談めかした言葉。
完璧な笑顔。
その奥にほんの一滴だけ滲む、深い深い影。
それを見逃すほど、俺はもう鈍感じゃなかった。
俺は、ナイフとフォークを置いた。
そして、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「……なあ、未華子」
「……ん?」
「……嘘つくの上手くなったな」
その一言で。
彼女の完璧な笑顔がぴしり、と音を立てて固まった。
だが、それも一瞬。
彼女はすぐに、いつもの飄々とした笑顔を取り戻すと、小首を傾げた。
「え……? 何の話? ……私が嘘ついてるってこと?」
「ああ」
「急になに?……私がいつ、嘘ついたって言うの?」
完璧なはぐらかし。
俺は静かに続けた。
「……ずっとだよ。…コミジュルの病院で目を覚ましてから、ずっと、だ」
俺の静かな指摘に。
彼女の笑顔が、ほんの少しだけ引きつったのがわかった。
「……お前、自分自身にまで、嘘ついてんだろ」
俺は静かに続けた。
「……無理して笑うなよ。……見てて、辛い」
その言葉に。
彼女の瞳が大きく揺れた。
そして、完璧な仮面がはらりと一枚剥がれ落ちた。
彼女はふぅと長い息を吐くと、まるで他人事のようにケラケラと軽薄に笑った。
「……ばれたか」
「…………」
「……怖くはなかったんだよね。あれ」
「……え?」
「だから、銃で自分の頭撃った時。…ああ、佐竹は気失ってたから、見てないのか」
「……」
「強がりとかじゃなくて、ほんとに。『ああ、これで楽になれる』って本気で思っちゃった」
乾いた告白。
彼女は続ける。
「周りはさ『三すくみのため』だの『仲間を守るため』だの、勝手に私を女神みたいに祀り上げてくれるけどさ。……全然違うんだよね」
彼女はワイングラスを指でなぞりながら、どこか遠い目をした。
「ただの逃げだよ。考えることからも、戦うことからも。……もうなんか、ぜーんぶめんどくさくなっちゃったー、みたいな?」
軽い口調。
痛々しい強がり。
俺はもう何も言えなかった。
ただ、胸が締め付けられるように苦しかった。
俺は静かに手を上げた。
「マスター、彼女に同じものを。…ダブルで」
店主が頷き彼女の空になったグラスに、なみなみと赤いワインが注がれていく。
「……飲め」
「……え?」
「……逃げたっていいだろ」
その俺の言葉に。
彼女の目が、少しだけ見開かれた。
「……女神になんてならなくていい。……辛かったら逃げろよ。めんどくさかったら、全部投げ出せよ」
俺は静かに続けた。
「……そのお前が投げ出した全部を拾ってやるのが、俺たちの仕事なんだから」
そして俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「……でも頼むから」
「……」
「……もう二度と、死ぬことで逃げようなんて思うな」
静かだが有無を言わさぬ言葉。
それは慰めじゃない。
同情でもない。
ただ、同じ闇を見てきた人間としての不器用な命令だった。
彼女は何も言わずに、グラスを持ち上げて、こくりと一口ワインを飲んだ。
「……ありがと」
小さな、小さな、呟き。
それだけで十分だった。
*
帰り道。
二人無言で、夜の伊勢佐木異人町を歩く。
俺たちはきっと、どこか似ているのだろう。
本当の自分を隠して、嘘の仮面を被って。
そうでもしないと生きていけない、不器用な人間。
だが、今はそれでいい。
お前がまた、嘘の笑顔の仮面を被りそうになったら。
俺が、何度でもそれを剥がしてやる。
そして、お前が本当に泣きたい時は、隣で黙って酒を酌み交わしてやる。
それくらいのことしか、俺にはできないけれど。
それでもいいんだ。
お前の優しい影に寄り添う、もう一つの影として。
俺は、ここにいるのだから。
スピンオフ:湯けむりの本音と裸の誓い【佐竹SIDE】
カラン、という桶の音が、タイル張りの洗い場に響いた。
湯けむりの向こう側で、杉浦が気持ちよさそうに背中を流している。
無駄な脂肪が一切ない、しなやかな筋肉。
全身に刻まれた、無数の生々しい傷痕。
こいつが、どれだけの修羅場を潜り抜けてきたのか。
その背中が雄弁に物語っていた。
俺も、自分の身体にシャワーを浴びせる。
先日の土岐との乱闘で負った傷は、まだ薄っすらと残っていた。
公安時代も、これくらいの怪我は日常茶飯事だったが、今は少しだけ勝手が違う。
「……佐竹くん」
杉浦が、俺の肩の痣を見て言った。
「……もう大丈夫なの?」
「……ああ。大したことない」
そして、彼は自分の右肩を指さした。
数ヶ月前の冬、パーティーで未華子を庇ってできた銃創。
「……見てよ。僕のは、だいぶキレイになったんだ」
弾が入った背中側に残る小さい丸い火傷の痕も、前側に残るひきつれた弾の抜け痕も、綺麗なピンク色の勲章のようだった。
驚異的な回復力。
こいつは本当に人間なのかと、時々思う。
二人無言で熱い湯船に、肩まで浸かった。
ざあ、と、湯が溢れる音が、静かな浴場に響く。
「……ねぇ」
先に沈黙を破ったのは杉浦だった。
「……あの子、本当に大丈夫なのかな」
あの子というのが誰なのか。
聞くまでもなかった。
橘未華子。
俺が、先日二人きりで食事に行ったことを、彼は知っている。
「……何か聞いてるんでしょ」
探るような、それでいてどこか縋るような瞳。
俺は、湯けむりの向こうの天井を見上げた。
どこまで話すべきか。
彼女のあの痛々しい告白を、こいつに伝えていいものか。
いや、それは違う。
彼女の信頼を裏切ることになる。
「……ああ。少しだけな」
俺は、言葉を選びながら話した。
「……あいつは強いよ。お前が思っている以上に、ずっと、な」
「……」
「でも、その強さは、時々自分自身を傷つける。……脆い、ガラスの剣みたいなもんだ」
杉浦は何も言わずに、ただ黙って聞いていた。
俺は続ける。
「……お前はいつもあいつを守ろうとしてる。外からの敵からな。……でも本当に厄介な敵は、外にいるとは限らないんだぜ」
「……どういうことだよ」
「……あいつの一番の敵は、あいつ自身だってことだよ」
その言葉に、杉浦はハッとしたように顔を上げた。
そして、その顔に深い苦悩の色が浮かぶ。
「……じゃあ、僕は……どうすればいいんだよ」
不器用で真っ直ぐな問い。
ああ、本当にこいつは。
俺は、思わず吹き出してしまいそうになるのを必死でこらえた。
「……お前は、今まで通りでいいんだよ」
俺は静かに言った。
「ただ、一つだけ変えろ」
「……?」
「……あいつを『守る』だけじゃなく。『信じて』やれ」
その言葉の本当の意味。
それがこいつにどこまで伝わったか。
わからない。
でも、それでいい。
「……お前がどっしりと、そこにいてくれれば。……あいつは、何度でもお前のところに帰ってくるさ」
「…………」
「……まあ、その帰る場所を、俺が横から掻っ攫うって選択肢もなくはないけどな」
最後は、わざと冗談めかして笑ってやった。
杉浦は何も言わずに、ただお湯の中で自分の傷だらけの拳をじっと見つめていた。
その横顔を見て。
俺は静かに、自分の役割を再確認する。
そうだ。
俺は、このどうしようもなく不器用で愛おしい二人を一番近くで見守る、ただの観客でいい。
湯けむりの向こうで、また一つ。
男同士の、言葉にはしない静かな誓いが交わされた夜だった。
<了>
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