第10話:女神の罪、愛の弾丸
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第五幕:愛の弾丸
未華子は静かに引き金へ指を掛け、躊躇なく力を込めた。
――ズドォンッ!!
倉庫の淀んだ空気を切り裂くように、一つの巨大な破裂音が木霊した。
それは、発砲のタイミングが寸分違わず重なり合ったことで生じた、二つの銃声だった。
未華子の人差し指が引き金を絞り切る、わずかコンマ数秒前。
彼女の斜め前方に位置する倉庫の天窓の強化ガラスが、外側から粉々に撃ち抜かれていた。
外に潜んでいた趙天佑の放った一発が、未華子の右手に握られていた拳銃の銃身を、恐るべき精度で打ち据えたのだ。
薄暗い倉庫に激しい火花が散る。
右手首が脱臼したかと思うほどの凄まじい衝撃が未華子の腕を駆け抜けた。
外部から強烈な運動エネルギーを叩きつけられ、こめかみに当てていた銃口は完全にコントロールを失い、暴力的な勢いで左下方へと跳ね飛ばされた。
だが無情にもその直後、すでに限界まで引かれていたトリガーから撃鉄が落ちる。
未華子の脳天を貫くはずだった死の一撃。
大きく軌道を逸らされた45口径の灼熱の鉛玉は、物理的に激しく引っ張られた銃口の向くままに、彼女の左の肩口を深く抉るようにして通り抜けていった。
「――っ!」
声にならない悲鳴が漏れた。
熱鉄を押し当てられたかのような激痛と共に、着ていた白いTシャツが、瞬く間に真っ赤な薔薇のように鮮血で染まっていく。
急激に視界のピントがぼやけ、意識が白濁していく。
未華子の身体は糸の切れた操り人形のように力なく傾き、冷たいコンクリートの床へと崩れ落ちていった。
「未華子っっっっっっっっ!!」
杉浦の絶叫が響き渡る。
血に染まって倒れる光景を目の当たりにした瞬間、彼の内側で残っていた理性のタガが完全に吹き飛ぶ。
手首の皮膚が裂け、血が滲むのも構わず、杉浦は己を拘束していた鎖を獣のような馬鹿力で引きちぎった。
そして周囲にいる神津組の男たちに目もくれず、彼女の倒れる血溜まりへと転がるように駆け寄った。
意識を失いぐったりとした未華子の身体を、杉浦は力強く抱き起こした。
「しっかりしろ! 未華子!」
呼びかけても、返事はない。
おびただしい量の血が、とめどなく溢れ出してくる。
彼の指の隙間から、彼女の命が零れ落ちていく。
白いTシャツは、もう元の色がわからないほど真っ赤に染まりきっていた。
「嫌だ!! 嫌だ!!! いやだ……っ!」
その声は、泣き叫ぶような懇願だった。
神様。仏様。
なんでもいい。
誰でもいい。
だから、どうか、この人だけは連れて行かないでくれ。
僕から、この人を奪わないでくれ。
―――そして、二発の銃声を合図にしたかのように、突如として倉庫の全ての出入り口が外側から爆破され、完全武装した男たちが雪崩れ込んできた。
横浜流氓、コミジュル、そして、東鞘会。
三組織の精鋭たちによる、完璧な包囲網。
圧倒的な暴力の渦に呑まれ、神津組の残党たちは抵抗する間もなく次々と制圧され、拘束されていく。
ボロボロになり気を失っていた佐竹と九十九も、すぐさま安全な場所へと保護された。
だが、その激しい混乱の中、地獄絵図を作り上げた張本人である土岐勉だけは、まるで煙のように姿を眩ましていた。
ほどなくしてコミジュルの医療班が駆け寄り、血溜まりの中心で杉浦に抱きかかえられている未華子を急いでストレッチャーへと乗せた。
遠ざかっていく血塗れのストレッチャーを、杉浦はただ茫然と見つめることしかできなかった。
自分の両手が、彼女の温かい血で真っ赤に染まっていることにすら気づかずに。
◎数時間後[場所:コミジュル地下・医療施設]
数時間後。
コミジュル地下の医療施設は、野戦病院さながらの重苦しい喧騒と緊張感に包まれていた。
搬送された者たちのうち、瀕死の重傷を負っている未華子の救命措置が最優先で行われている。
ひどい暴行を受け意識を失ったままだった佐竹と九十九も、すでに別室へ運び込まれて治療を受けており、そのまま絶対安静となっていた。
赤いランプが煌々と灯り続ける手術室の前。
血生臭い無機質な廊下には、杉浦ただ一人がぽつりと立ち尽くしていた。
土岐たちからの一方的な暴力によって、彼の顔は見るも無惨に腫れ上がり、切れた唇には血の塊がこびりついている。
息をするだけでも脇腹が軋み、彼自身、今すぐにでもベッドに倒れ込むべき重症患者のはずだった。
だが彼はずっと冷たい壁にもたれかかったまま、手術室の扉から一度も視線を外していなかった。
「……血液が足りません!」
「輸血パックの在庫は!」
「もう、ありません! このままでは……!」
手術室の中から漏れ聞こえた、緊迫した絶望の声。
その途端、壁にもたれていた影がゆらりと身を起こした。
引き摺るような足取りで扉へと近づいた杉浦を見て、近くにいた医療スタッフが慌てて振り返る。
「……僕の、血を、使って」
低く、ひび割れた声。
スタッフは顔色を変えた。
「ば、馬鹿なことを言うな! 君も重傷なんだぞ! そんな状態で大量の血を抜いたら……!」
「―――うるさい」
杉浦の声は、不気味なほどに静まり返っていた。
いつもの気だるげな青年でも、未華子の前で感情を剥き出しにする不器用な男でもない。
彼の琥珀色の瞳は、ただ底知れない暗い熱だけを湛え、完全に据わっていた。
愛する人を失うかもしれない恐怖でパニックになっているのではない。
迫り来る「死」という絶対的な理不尽を、自らの命と引き換えにしてでも力尽くで捻じ伏せようとする、常軌を逸した執着。
「僕が死んでも、あの子だけは絶対に死なせるな」
杉浦はただ真っ直ぐに医療スタッフを射抜き、無表情のまま告げた。
「……血液型は同じだから。……早く、抜け」
命を差し出すことに微塵もためらいのない、静かな狂気。
背筋が凍るようなその冷徹な意志を前にして、プロであるはずの医療スタッフは小さく息を呑み、ただ黙って頷くことしかできなかった。
◎一週間後[場所:コミジュル地下・医療施設、未華子の病室]
――光。
白い光。
ここはどこだろう。
天国かな。
それとも、まだ、地獄の続きだろうか。
意識がゆっくりと浮上していく。
身体が鉛のように重い。
特に左の肩のあたりが、焼けるように熱くて痛い。
(……ああ、そっか)
(……私、撃ったんだ)
自分の最期を思い出す。
でも、不思議と恐怖はなかった。
ただ、ぼんやりと霧の中にいるような感覚。
喉がカラカラに渇いて、声が出ない。
身体中に、たくさんの管が繋がっているのがわかる。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、と無機質な電子音がどこかで鳴っている。
その時、右手に温かい感触があることに気づいた。
誰かが、私の手を握っている。
力強く、でも、優しく。
ずっと、ずっと、こうしていてくれたような、そんな温もり。
(……だれ……?)
重い瞼を、なんとかこじ開ける。
視界がぼやけて、よく見えない。
ただ、そこに、茶色い髪の誰かが私の手を握ったまま、ベッドに突っ伏して眠っているのがわかった。
「……ん……」
私がほんの少しだけ、指を動かしたその時。
その人は、ハッと、弾かれたように顔を上げた。
「……!」
潤んだ瞳。
憔悴しきった顔。
ああ、そうだ。
この人は。
私が、一番、会いたかった―――。
「……すぎうら、くん……?」
声にならなかった。
ただ、唇がそう動いただけ。
だが、彼には伝わったようだった。
彼の瞳から、みるみるうちに涙が溢れていく。
「……よかった……。……本当に、よかった……っ」
子供のような泣きじゃくる姿に。
私の瞳からも、一筋涙がこぼれ落ちた。
その時、病室のドアが開かれ、白衣を着た鋭い目つき人たちが数人、足音も立てずになだれ込んできた。
「……意識が戻ったぞ!」
確かな安堵が滲む声に、部屋の空気が一変する。
「バイタルチェック!」
「総帥に知らせろ!」
杉浦くんは名残惜しそうに、でも邪魔にならないように、そっと私の手を離すと、彼らに場所を譲るように病室の外へと出ていった。
様々な検査と、処置が行われる中。
私のぼんやりとした意識は、まだ夢と現実の狭間を彷徨っていた。
ただ、右手に残るあの温もりだけが。
私がまだ生きているのだという、唯一の確かな証だった。
*
数時間に及ぶ精密な検査と処置が終わった。
身体中に繋がれていた管も呼吸器も外され、未華子は、まだ朧げながらも自分の意思で言葉を発することができるようになっていた。
そこに、九十九課の仲間たちが駆け込んできた。
「未華子氏! ご無事で……! 本当にご無事で……!」
九十九のその顔にはまだ青黒い痛々しい痣があり、腕は包帯で吊られている。
「……未華子。……本当に馬鹿野郎」
佐竹も口元を切り、額には大きなガーゼが貼られている。
それでも、その声は心の底から安堵していた。
そして、最後に杉浦。
彼の左腕も白い包帯が巻かれ、顔にも無数の細かい傷が残っていたが、その琥珀色の瞳はこれまで見たことのないほど優しく未華子を見つめていた。
「…………よかった」
そのたった一言。
その全てが温かくて、胸がいっぱいになった。
その感動的な再会に浸る間もなく、病室のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのはいつもと変わらない完璧な美貌と冷たいオーラを纏ったソンヒだった。
後ろにはハン・ジュンギが影のように控えている。
「……悪いが少し外してくれ」
その有無を言わさぬ一言に、男たちは顔を見合わせ、黙って病室を出ていった。
ソンヒはベッドの脇の椅子に静かに腰を下ろすと、まず医者がまとめたカルテに目を通した。
そしてその氷のような瞳をゆっくりと未華子に向けた。
「……気分はどうだ。どこか痛むか?」
「……左の肩が。まだ、ズキズキします」
固定された左肩に視線を落としながら、未華子は正直に答えた。
「……そうか」
短い沈黙。
「……あの、土岐は……」
未華子がおそるおそる尋ねると、ソンヒはそれを冷たく遮った。
「……お前が知る必要のないことだ」
そして次の瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
「……さてと」
その声は静かだった。
だがその静けさの奥に、燃え盛るマグマのような激しい怒りが渦巻いているのを未華子は感じ取った。
「……説明してもらおうか。あの愚かで無謀で、身勝手極まりない行動について」
「……それは……」
「お前が引き金を引けば全てが丸く収まるとでも思ったか? お前一人が犠牲になれば仲間が救われるとでも?」
言葉が鋭い刃となって未華子の胸に突き刺さる。
「……まだ目を覚ましたばかりです。総帥……」
後ろに控えていたジュンギが見かねて口を挟む。
だがソンヒは彼の方を振り返りもせずに一喝した。
「うるさい」
彼女の瞳はもう未華子から逸らされない。
「お前はわかっていない。……何もわかっていないんだ、未華子」
その声がほんの少しだけ震えていたことに、未華子は気づいた。
「……お前のその自己満足の自己犠牲が。残された人間をどれだけ苦しめるか。……お前はそれを何もわかっていない……!」
ーーああ、そうだ。
ーーこの人は怒っている。
ーーでもその怒りは私の愚かさだけじゃない。
ーー私のことを心の底から心配してくれている、その愛の裏返しなんだ。
その鉄の仮面のような完璧な美貌が、ぐにゃりと歪む。
そして、その美しい瞳から、堪えきれない一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
未華子は、ソンヒが泣いている姿を初めて見た。
「……っ」
ソンヒは忌々しげにその涙を指で乱暴に拭うと、すっと立ち上がった。
そして涙を見られたことが恥ずかしいとでも言うように、未華子に背を向けた。
「……とにかく今はゆっくり休め。……いいな」
そう言い残し彼女はハイヒールの音も高く、颯爽と病室を後にしていく。
一人残されたジュンギが深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません。……総帥はあなたが目を覚ますまで、ずっと、ここであなたの手を握って……」
その言葉に未華子はもう何も言えなかった。
ただ温かくてどうしようもなく切ない涙が頬を伝うだけだった。
◎数時間後[場所:コミジュル地下の医療施設、未華子の病室]
数時間後。
病室には、四人の九十九課のいつもの顔が揃っていた。
未華子の目の前には、病院食とは思えない本格的な中華粥が湯気を立てている。
趙からの差し入れだった。
「未華子氏! 記念すべき、覚醒後初のお食事ですな!」
その日の夜から早速、流動食を自分の手で食べる練習が始まったのだ。
左肩はまだ動かせない。
右手だけでれんげを握りしめ、お粥を掬おうとする。
だが、まだ思うように力が入らない。
れんげはぷるぷると震え、粥がぽたり、とベッドの上にこぼれ落ちた。
「あ……」
その瞬間だった。
「「「―――ボクが!(俺が!)(僕が!)」」」
三人の男たちの声が綺麗にハモった。
「未華子氏!ここは、やはり所長であるこのボクに!」
九十九が一番に名乗りを上げる。
「何言ってんだ九十九。…お前の不器用な手つきじゃ、逆に未華子の服を汚すのがオチだろ。…ここは、俺が」
佐竹が冷静に九十九を制す。
「二人ともどいて! …こういうのは、一番若い僕がやるのが筋でしょ!」
杉浦も、なぜかムキになって割って入ってくる。
三人の騎士による、仁義なき「あーん」の権利争奪戦。
そのくだらなくて愛おしい光景に。
未華子は堪えきれずに、ぷっと吹き出してしまった。
そしてその穏やかな笑い声が、ようやくこの部屋に本当の日常を連れてきたのだった。
食事が終わると、九十九と佐竹はそれぞれの治療と溜まった仕事のために病室を後にした。
残されたのは、杉浦と二人きり。
その少しだけ気まずい沈黙を破ったのは、またしても突然の来訪者だった。
「……なんや、ええ雰囲気になっとるとこ、邪魔したかな」
そこに立っていたのは、真島吾朗だった。
彼は杉浦に顎でくい、と合図を送る。
「……ちょっと二人で話があんねん。席外しぃや」
二人きりになった病室。
真島は、ベッドの脇の椅子にどかりと腰を下ろした。
「……飯食えとるなら、まあ大丈夫そうやな」
いつもと変わらない飄々とした口ぶりに、未華子は胸が締め付けられる思いだった。
「……真島さん。ごめんなさい。私のせいで危険な目に……」
その謝罪の言葉を彼は静かに遮った。
「……ちゃうな」
たった一言。
その低い声に、未華子は、ハッとして顔を上げた。
「……あんたが、ほんまに謝らなあかんのは、そんなどうでもええことやない」
彼は静かに、天井を見つめた。
そして、まるで地獄の風景でも語るかのように話し始めた。
「……教えたろか。もしあんたが、あのままほんまに死んどったら。この横浜が今頃どうなっとったか」
その隻眼の瞳は、一切笑っていなかった。
「まず、異人町は終わりや。土岐の暴走は、東鞘会の看板を完全に地に落とした。『異人三』の連中の怒りは、当然十朱に向かう。十朱も、趙も、そしてソンヒも、それぞれの『スジ』を通すために引くわけにはいかん。…お前の死をきっかけに、この街は本物の火の海になっとったやろうな」
「……そんな……」
「そうなったらどうなるか。……王ちゅうんはな、最後の最後にゃ、自分の腹を切ってケジメをつける生き物なんや」
その重い言葉に、未華子は何も言えなかった。
そして真島は、とどめを刺した。
「……ほんで、あんたの一番大事な『居場所』や。九十九課はもうない。残されたメガネくんとインテリくんは、復讐の鬼になる。……ほんで杉浦や。…あいつは、確実にあんたの後を追っとった。ワシにはわかる」
その言葉が、未華子の心の一番柔らかい場所を抉った。
「……あいつな、あんたに血ぃ分けたんやで」
「……え……?」
「自分もボコボコにされて、いつ死んでもおかしない状態やった。…それでも、あいつは迷わんかった。お前の命を繋ぐために、自分の命を差し出したんや」
「……あんたが命を捨てても、誰も幸せになんかならへんのや。……言うたやろ前に。もう忘れたんか」
蒼天堀でのあの夜。
自分の体を売ってでも杉浦を助けたいと懇願した未華子に。
彼が静かに言い聞かせてくれた、あの言葉が脳裏をよぎる。
『本当に大事なもんを守りたいんやったらな、まず、あんた自身が幸せにならなあかんのや』
真島は立ち上がると、未華子の頭を大きな手で少しだけ乱暴に、しかしどこまでも優しく撫でた。
「……あんたの中にはな、杉浦の血が流れとる。…あんたが知らんところで、たくさんの人間の想いが繋いだその命や。…もっと大切にしたれ」
その一言で。
未華子の涙腺は、完全に決壊した。
彼女は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
自分がどれだけ愚かで、そしてどれだけ愛されているのか。
温かくてどうしようもなく重い真実に。
