第10話:女神の罪、愛の弾丸
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第四幕:絶望の選択
真島が手配したのは、同じフロアの隣り合うシングルルームだった。
だが、九十九課を飛び出してからの怒濤の顛末、そして東城会のレジェンド二人が襲撃されるという異常事態に、未華子の神経は完全にささくれ立っていた。
静まり返った部屋にひとり残される不安に足がすくみ、彼女は今、真島の部屋のソファへ身を寄せるようにして座っている。
「……そもそも、お前さんは今日なんでひとりで神室町におったんや」
真島はグラスを傾けながら、何気ないトーンで問いかけてきた。
「え……。それは、その、ちょっと気分転換というか……」
未華子が言葉を濁し、視線を泳がせたその瞬間、鋭い隻眼が彼女の動揺を正確に撃ち抜いた。
「……なんや。杉浦となんかあったか」
ズバリと言い当てられ、未華子は息を呑んだ。
杉浦にとって真島は、師匠とも呼べる存在だ。
弟子の不器用な性格も、その周囲で揺れる彼女の機微も、この狂犬の眼を欺くことはできなかった。
言い訳の言葉を探そうとした、その時だった。
未華子のスマートフォンの画面が不気味に光った。
時刻は深夜0時を回っていた。
表示された名前は「九十九」。
(あ、九十九氏……心配してかけてくれたのかな)
未華子が視線で伺うと、真島は「気にせんと出えや」と言わんばかりに顎をしゃくってみせた。
「すみません」と小さく頭を下げる。
張り詰めていた緊張が少しだけ和らぎ、未華子はどこかホッとした気持ちで通話ボタンをタップした。
だが、聞こえてきたのは、思いもよらない、まったく別の男のくぐもった声だった。
『―――久しぶりだな、女神サマ』
土岐の声だった。
ねっとりとしたその響きが鼓膜に触れた瞬間、未華子の全身から血の気が引き、指先が凍りつく。
「……な、何の、用」
「まあ、そう急ぐなよ。まずは、面白いもんを見せてやる」
電話口から聞こえる土岐の嗤い声と共に、通話画面の上にポンと短い動画ファイルが送りつけられてきた。
言いようのない胸騒ぎに急かされ、震える指で再生ボタンをタップした未華子は、そこに映し出された凄惨な光景に息を止め、絶望に両目を見開いた。
薄暗いコンクリートの床に、おびただしい血だまりができている。
そこにうつ伏せで倒れているのは、破れたジャケットの背中からかろうじて判別できる、佐竹だった。ピクリとも動かない。
さらにカメラが横へスライドすると、顔を見るに堪えないほど腫れ上がらせた九十九が、壊れた眼鏡をかけられたまま太い縄で無残に縛り上げられている。
そして最後に映ったのは――複数の男たちに羽交い締めにされ、なすすべもなく腹部に重い蹴りを何度も叩き込まれている、杉浦の姿だった。
「……嘘」
喉の奥から、乾いた掠れ声が辛うじて零れ落ちた。
スマホを持つ手が止めどなく小刻みに震え出す。
『横浜埠頭の第七倉庫だ。……ああ、それと、隣の元ヤクザも連れてこい』
一方的な宣告と共に、電話はぷつりと切れた。
隣のベッドでその一部始終を静かに聞いていた真島は、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、もう笑っていなかった。
「……行くで、姉ちゃん」
*
ぽつりと落とされた低い声に従うように、未華子は虚ろな足取りで部屋を後にした。
神室町からタクシーに飛び乗り、深夜の高速道路を横浜へと急ぐ。
車内は重苦しい沈黙に支配されていた。
未華子は、窓の外を流れる無機質なオレンジ色の街灯をただ見つめていたが、その網膜の裏には先ほどの動画の映像が焼き付いて離れなかった。
(私のせいだ)
胃袋が雑巾のようにねじり上げられる感覚だった。
隣に座る真島は、腕を組んだままシートに深く身を沈め、目を閉じて一切の身動きをしていない。
だが、彼の身体から発せられる尋常ではない重圧感が、これから向かう場所が血の匂いに満ちた「戦場」であることを物語っていた。
*
タクシーを降りると、人気のない深夜の横浜埠頭は不気味なほどに静まり返っていた。
湿った海風が吹き抜け、錆びた鉄と磯の香りが鼻腔を突く。
立ち並ぶ無数のコンテナの隙間を抜けて指定された『第七倉庫』へと歩を進めるにつれ、周囲の空気がじっとりと張り詰めていくのを感じた。
街灯の光すら届かない巨大な倉庫群のシルエットは、まるで彼らを飲み込もうと口を開けて待つ巨大な獣のように見えた。
未華子の足が、恐怖で微かにすくむ。
だが、その背中を真島が黙って無言の圧力で押した。
少しだけ開いた重い鉄の扉を押し開け、中に足を踏み入れた瞬間――張り詰めていた空気の正体が明確な形を持って立ちはだかった。
薄暗い照明が照らし出す倉庫の中には、不気味なまでに統率の取れたスーツ姿の男たちが、十数人も等間隔で壁際に並んでいたのだ。
いずれもその手に金属バットや鉄パイプ、あるいは抜き身の刃物を下げている神津組の構成員たちだった。
そして、その殺気立つ男たちの中心、ポツンと置かれたパイプ椅子に、土岐がまるで自らを玉座の王であるかのようにふんぞり返っていた。
「……ようこそ、お二人さん。待ちくたびれたぜ」
蛇のように執拗に這い回るその視線を浴びて、未華子の視界は自然と土岐の足元――倉庫の床へと向いた。
動画で見た以上の惨状が、そこにはあった。
床にはまだ真新しい生々しい血がいくつもの染みを作っている。
一番手前に倒れていたのは、佐竹だった。
スマートだった面影は消え失せ、上質なジャケットは破れて泥と血にまみれていた。
うつ伏せのまま、文字通り指一本、ピクリとも動かない。
呼吸をしているかどうかも判別できないほどの危険な状態だ。
そこから少し離れた太い鉄骨に、九十九が縄で厳重に縛りつけられていた。
顔は鬱血して腫れ上がり、割れたレンズの眼鏡がずり落ちている。
普段は口うるさいほど饒舌な彼が、完全に戦意を喪失したまま、わずかな胸の上下だけで辛うじて生きていることを示していた。
そして――。
数人の男たちに無理やり床に跪かされていたのが、杉浦だった。
顔中傷だらけで口の端からはツーッと赤い血が伝い落ち、息も絶え絶えになっている。
だが、杉浦だけはまだ明確に意識があった。
足音に気づき、重い頭を無理やり上げて入り口へと顔を向ける。
未華子と真島の姿を視界に捉えた瞬間、彼の琥珀色の瞳が激しく揺れ動いた。
「来るな」と、声にならない声で叫んだように見えた。
それでも助けに来てしまった未華子を見て、彼は血の滲んだ唇を噛み切りそうなほどに強く噛み締め、悔しさに顔を激しく歪めた。
彼らの見る影もない痛々しい姿に、未華子の目の前がグラリと眩みそうになった。
土岐が、楽しげな薄笑いを深める。
ここでの彼の狙いはただ一つ。
この巨大な東鞘会を自らの手で乗っ取ること。
そしてそのためには、憎き現会長である十朱が唯一執着を見せている「弱点」――未華子という存在を手に入れ、完全なる人質とすることが彼には必要だった。
「真島さんよぉ」
土岐が、余裕たっぷりにパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。
「伝説の極道サマが、俺の指名通りに素直についてくるとはねぇ。だが、あまり粋がらねえ方が身のためだぜ?」
彼が顎でしゃくると、部下たちが倒れた三人の頭へ同時に鉄パイプを振り上げた。
「あんたが、うちの若い衆を一人殴るたび。そこの三人の内、誰か一人の頭蓋骨を木っ端微塵に叩き割ってやる」
倉庫の冷たい空気が、完全に凍りついた。
それは、「狂犬」として裏社会に名を轟かせる男の暴力を、仲間の命という鎖で完璧に縛り付ける、最悪にして最も効果的な悪魔の宣告だった。
あの真島が、足裏を床に縫い止められたかのように動けない。
ドスに手を掛けることもなく、ギリッと鋭い犬歯を噛み鳴らす彼に対し、土岐は嘲笑うように小さく指を振った。
その合図の隙を突くように、背後の暗がりから数人の神津組の男たちが無言で躍り出ると、無抵抗の真島の身体を背後から有無を言わさず地面に組み伏せ、取り押さえた。
広い倉庫の中央で、未華子は完全に孤立した。
屈強で殺気立った男たちに取り囲まれ、全身の震えを止めることができない。
土岐は、絶望の淵に立たされている未華子を眺めて口角を吊り上げる。
そして、彼女を底なしの闇へと突き落とす、究極の二択を提示した。
「……こいつらを助けたきゃ、俺の愛人になれ」
毒を孕んだねっとりとした甘い声が、どんな鋭い刃物よりも残酷に未華子の心を切り裂いた。
「……嫌か? なら、それもいい」
男たちが殺気立つ中、土岐だけが心底楽しそうに喉を鳴らした。
「お前が俺の女になってこの場を収めるか。それとも、目の前で大事な男たちが一人、また一人とミンチになっていくのを、ただ指をくわえて見ているか。……どっちがご希望だ、女神サマ?」
吐き気を催すほど下劣な選択肢を前に、未華子の視界がぐにゃりと歪む。
自分が土岐に身体を差し出せば、皆の命は助かるかもしれない。
一瞬だけ、その選択肢が脳裏を掠めた。自分ひとりの尊厳を犠牲にすれば済むことなのだと。
だが、その考えはすぐに覆された。
杉浦や佐竹が、九十九や真島が、大人しく自分を見捨てて生き延びるはずがない。
ボロボロになった身体を引きずってでも、汚された自分を助け出すために必ず無茶をして、今度こそ命を落としてしまうだろう。
(……ああ、まただ)
結局、どんな選択をしたって行き着く先は同じだ。
私という存在そのものが、皆の最大の弱点となり、危険に巻き込み、深く傷つけている。
いつか見たような破滅の光景が、デジャブのように頭を巡った。
コンクリートに出来た血の海に沈み、ピクリとも動かない佐竹。
激しく腫れ上がった顔で、か細い呼吸を繰り返す九十九。
傷だらけの顔を絶望と悔しさに歪ませる杉浦。
そして、無残に縄で縛られ、屈辱に身を震わせる真島の大きな背中。
(……ごめんなさい。みんな。ごめん。ごめん)
心の中で、何度も謝った。
杉浦くん。あなたの不器用な優しさが大好きだった。
九十九氏。あなたの太陽みたいな明るさに、何度も救われた。
佐竹。あなたのスマートな強さに、本当は少しだけ憧れてた。
真島さん。あなたの懐の深さが、どれだけ心強かったか。
(みんな、大好きだよ)
胸の内で、愛しい人たちへ静かに別れを告げる。
この理不尽な不幸の連鎖を完全に断ち切る方法は、ただ一つしかない。
すべての元凶である『橘未華子』という存在を、ここから物理的に消し去ることだ。
その時、倉庫の外から微かに異質な音が耳に届いた。
何台もの車のタイヤが乱暴に砂利を踏みしめる音と、大人数の男たちが無言で展開していく衣擦れの気配。
間違いなく、趙やソンヒ、そして十朱の部隊がこの第七倉庫を完全に包囲し始めているのだ。
だが、彼らがこのまま突入すれば、窮地に立たされた土岐は躊躇なく見せしめとして人質の命を奪うだろう。
タイムリミットが来た。
もう迷っている猶予は、どこにも残されていなかった。
倉庫の外に漂う不穏な気配に、土岐がふと左腕の腕時計へ視線を落とした。
―――その、ほんの一瞬の隙。
未華子は真横に立っていた組員の腰のホルスターに手を伸ばし、吸い込まれるような自然な動作で一丁の拳銃を抜き取っていた。
どうすべきかを思考した結果ではない。
ただ、危機を終わらせるために身体の奥底の本能が勝手に動いていた。
「あ?」
不意を突かれた組員が、凶器を取り返そうと獰猛な顔で手を伸ばしてくる。
未華子は間髪入れずに銃口を男へと突きつけ、カチャリと鋭い音を立てて撃鉄を起こした。
実弾が装填された重い銃になど、これまでの人生で一度も触れたことはない。
それでも、指先は躊躇うことなく死のトリガーに掛かっていた。
見よう見まねで、小刻みに震える両手で銃をしっかりと構えたまま、未華子はゆっくりと倉庫の壁際まで後ずさっていく。
対する神津組の男たちは、両手を軽く挙げて見せた。
だが、彼らの目に恐怖の色はない。
むしろ「素人が撃った弾なんて当たるわけがない」「カタギの女が、百戦錬磨のヤクザ相手に反撃などできるはずがない」と見下すような空気がその場を支配していた。
いつ隙を突いて飛びかかり、その細い腕をへし折ってやろうかと、薄気味悪い視線が全身にまとわりついてくる。
しかし、男たちの目論見はすぐに崩れ去ることになる。
未華子の目的は、彼らに対する『反撃』などではなかったからだ。
男たちへ向けていた銃を、ゆっくりと右手だけに持ち替える。
そのまま、黒く冷酷な銃口をぐるりと反転させ――未華子は真っ直ぐに、自らのこめかみへと押し当てた。
ひんやりとした金属の感触が、体温と、生への執着を急速に奪い去っていく。
「……あんたの、思い通りにはさせない」
掠れた、けれど芯のある声が静かな倉庫に響いた。
予想外の凶行を前に、王のようにふんぞり返っていた土岐の顔色が一瞬にして変わる。
「……何!?」
「別にもう、何回か、死んでるような、命だし」
死への恐怖など欠片もない、悲壮な覚悟。
それなのに、血の気を失った彼女の口元には、息を呑むほどに美しい微笑みが浮かんでいた。
「やめろっ……」
杉浦が悲痛な声を張り上げる。
「やめろやああああああっ!」
床に押さえつけられた真島も、魂を引き裂かれるような絶叫を轟かせた。
だが、もう、誰の声も、彼女の耳には届かない。
未華子の網膜に最後に映し出されたのは、目前の悪党たちではなく、愛してやまない九十九課の、あの温かく平和な日常の風景だけだった。
杉浦くんが淹れてくれた、少し薄いコーヒーの味。
九十九氏のくだらないジョークに、皆で笑い転げたあの日の午後。
口が悪くても、本当は心の底から頼りにしていた、佐竹の広い背中。
(……ああ、私、本当に幸せだったな)
『もうあんたは、普通の恋愛なんざできねえよ』
土岐が吐き捨てた呪いの言葉が、静かに脳裏をよぎる。
(……そうだね。……もう、できないのかもしれない)
(でも、いいの。……だって)
(私が死んでも。……あの人たちの中に、私の記憶のカケラが、少しでも残ってくれるなら)
(……それだけで、もう、十分すぎるから)
(……みんな、幸せになってね)
それは彼女が心の中で最後に手向けた、純粋で絶対的な祈りだった。
「銃を下ろせ!」
完全に狼狽し、血相を変えた土岐が命じる。
しかし、その怒声すらも今の未華子には無意味なノイズでしかなかった。
静かに瞼を閉じ、未華子は全ての愛おしい記憶に別れを告げるように、引き金に掛けた指に力を込めたーー。
真島が手配したのは、同じフロアの隣り合うシングルルームだった。
だが、九十九課を飛び出してからの怒濤の顛末、そして東城会のレジェンド二人が襲撃されるという異常事態に、未華子の神経は完全にささくれ立っていた。
静まり返った部屋にひとり残される不安に足がすくみ、彼女は今、真島の部屋のソファへ身を寄せるようにして座っている。
「……そもそも、お前さんは今日なんでひとりで神室町におったんや」
真島はグラスを傾けながら、何気ないトーンで問いかけてきた。
「え……。それは、その、ちょっと気分転換というか……」
未華子が言葉を濁し、視線を泳がせたその瞬間、鋭い隻眼が彼女の動揺を正確に撃ち抜いた。
「……なんや。杉浦となんかあったか」
ズバリと言い当てられ、未華子は息を呑んだ。
杉浦にとって真島は、師匠とも呼べる存在だ。
弟子の不器用な性格も、その周囲で揺れる彼女の機微も、この狂犬の眼を欺くことはできなかった。
言い訳の言葉を探そうとした、その時だった。
未華子のスマートフォンの画面が不気味に光った。
時刻は深夜0時を回っていた。
表示された名前は「九十九」。
(あ、九十九氏……心配してかけてくれたのかな)
未華子が視線で伺うと、真島は「気にせんと出えや」と言わんばかりに顎をしゃくってみせた。
「すみません」と小さく頭を下げる。
張り詰めていた緊張が少しだけ和らぎ、未華子はどこかホッとした気持ちで通話ボタンをタップした。
だが、聞こえてきたのは、思いもよらない、まったく別の男のくぐもった声だった。
『―――久しぶりだな、女神サマ』
土岐の声だった。
ねっとりとしたその響きが鼓膜に触れた瞬間、未華子の全身から血の気が引き、指先が凍りつく。
「……な、何の、用」
「まあ、そう急ぐなよ。まずは、面白いもんを見せてやる」
電話口から聞こえる土岐の嗤い声と共に、通話画面の上にポンと短い動画ファイルが送りつけられてきた。
言いようのない胸騒ぎに急かされ、震える指で再生ボタンをタップした未華子は、そこに映し出された凄惨な光景に息を止め、絶望に両目を見開いた。
薄暗いコンクリートの床に、おびただしい血だまりができている。
そこにうつ伏せで倒れているのは、破れたジャケットの背中からかろうじて判別できる、佐竹だった。ピクリとも動かない。
さらにカメラが横へスライドすると、顔を見るに堪えないほど腫れ上がらせた九十九が、壊れた眼鏡をかけられたまま太い縄で無残に縛り上げられている。
そして最後に映ったのは――複数の男たちに羽交い締めにされ、なすすべもなく腹部に重い蹴りを何度も叩き込まれている、杉浦の姿だった。
「……嘘」
喉の奥から、乾いた掠れ声が辛うじて零れ落ちた。
スマホを持つ手が止めどなく小刻みに震え出す。
『横浜埠頭の第七倉庫だ。……ああ、それと、隣の元ヤクザも連れてこい』
一方的な宣告と共に、電話はぷつりと切れた。
隣のベッドでその一部始終を静かに聞いていた真島は、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、もう笑っていなかった。
「……行くで、姉ちゃん」
*
ぽつりと落とされた低い声に従うように、未華子は虚ろな足取りで部屋を後にした。
神室町からタクシーに飛び乗り、深夜の高速道路を横浜へと急ぐ。
車内は重苦しい沈黙に支配されていた。
未華子は、窓の外を流れる無機質なオレンジ色の街灯をただ見つめていたが、その網膜の裏には先ほどの動画の映像が焼き付いて離れなかった。
(私のせいだ)
胃袋が雑巾のようにねじり上げられる感覚だった。
隣に座る真島は、腕を組んだままシートに深く身を沈め、目を閉じて一切の身動きをしていない。
だが、彼の身体から発せられる尋常ではない重圧感が、これから向かう場所が血の匂いに満ちた「戦場」であることを物語っていた。
*
タクシーを降りると、人気のない深夜の横浜埠頭は不気味なほどに静まり返っていた。
湿った海風が吹き抜け、錆びた鉄と磯の香りが鼻腔を突く。
立ち並ぶ無数のコンテナの隙間を抜けて指定された『第七倉庫』へと歩を進めるにつれ、周囲の空気がじっとりと張り詰めていくのを感じた。
街灯の光すら届かない巨大な倉庫群のシルエットは、まるで彼らを飲み込もうと口を開けて待つ巨大な獣のように見えた。
未華子の足が、恐怖で微かにすくむ。
だが、その背中を真島が黙って無言の圧力で押した。
少しだけ開いた重い鉄の扉を押し開け、中に足を踏み入れた瞬間――張り詰めていた空気の正体が明確な形を持って立ちはだかった。
薄暗い照明が照らし出す倉庫の中には、不気味なまでに統率の取れたスーツ姿の男たちが、十数人も等間隔で壁際に並んでいたのだ。
いずれもその手に金属バットや鉄パイプ、あるいは抜き身の刃物を下げている神津組の構成員たちだった。
そして、その殺気立つ男たちの中心、ポツンと置かれたパイプ椅子に、土岐がまるで自らを玉座の王であるかのようにふんぞり返っていた。
「……ようこそ、お二人さん。待ちくたびれたぜ」
蛇のように執拗に這い回るその視線を浴びて、未華子の視界は自然と土岐の足元――倉庫の床へと向いた。
動画で見た以上の惨状が、そこにはあった。
床にはまだ真新しい生々しい血がいくつもの染みを作っている。
一番手前に倒れていたのは、佐竹だった。
スマートだった面影は消え失せ、上質なジャケットは破れて泥と血にまみれていた。
うつ伏せのまま、文字通り指一本、ピクリとも動かない。
呼吸をしているかどうかも判別できないほどの危険な状態だ。
そこから少し離れた太い鉄骨に、九十九が縄で厳重に縛りつけられていた。
顔は鬱血して腫れ上がり、割れたレンズの眼鏡がずり落ちている。
普段は口うるさいほど饒舌な彼が、完全に戦意を喪失したまま、わずかな胸の上下だけで辛うじて生きていることを示していた。
そして――。
数人の男たちに無理やり床に跪かされていたのが、杉浦だった。
顔中傷だらけで口の端からはツーッと赤い血が伝い落ち、息も絶え絶えになっている。
だが、杉浦だけはまだ明確に意識があった。
足音に気づき、重い頭を無理やり上げて入り口へと顔を向ける。
未華子と真島の姿を視界に捉えた瞬間、彼の琥珀色の瞳が激しく揺れ動いた。
「来るな」と、声にならない声で叫んだように見えた。
それでも助けに来てしまった未華子を見て、彼は血の滲んだ唇を噛み切りそうなほどに強く噛み締め、悔しさに顔を激しく歪めた。
彼らの見る影もない痛々しい姿に、未華子の目の前がグラリと眩みそうになった。
土岐が、楽しげな薄笑いを深める。
ここでの彼の狙いはただ一つ。
この巨大な東鞘会を自らの手で乗っ取ること。
そしてそのためには、憎き現会長である十朱が唯一執着を見せている「弱点」――未華子という存在を手に入れ、完全なる人質とすることが彼には必要だった。
「真島さんよぉ」
土岐が、余裕たっぷりにパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。
「伝説の極道サマが、俺の指名通りに素直についてくるとはねぇ。だが、あまり粋がらねえ方が身のためだぜ?」
彼が顎でしゃくると、部下たちが倒れた三人の頭へ同時に鉄パイプを振り上げた。
「あんたが、うちの若い衆を一人殴るたび。そこの三人の内、誰か一人の頭蓋骨を木っ端微塵に叩き割ってやる」
倉庫の冷たい空気が、完全に凍りついた。
それは、「狂犬」として裏社会に名を轟かせる男の暴力を、仲間の命という鎖で完璧に縛り付ける、最悪にして最も効果的な悪魔の宣告だった。
あの真島が、足裏を床に縫い止められたかのように動けない。
ドスに手を掛けることもなく、ギリッと鋭い犬歯を噛み鳴らす彼に対し、土岐は嘲笑うように小さく指を振った。
その合図の隙を突くように、背後の暗がりから数人の神津組の男たちが無言で躍り出ると、無抵抗の真島の身体を背後から有無を言わさず地面に組み伏せ、取り押さえた。
広い倉庫の中央で、未華子は完全に孤立した。
屈強で殺気立った男たちに取り囲まれ、全身の震えを止めることができない。
土岐は、絶望の淵に立たされている未華子を眺めて口角を吊り上げる。
そして、彼女を底なしの闇へと突き落とす、究極の二択を提示した。
「……こいつらを助けたきゃ、俺の愛人になれ」
毒を孕んだねっとりとした甘い声が、どんな鋭い刃物よりも残酷に未華子の心を切り裂いた。
「……嫌か? なら、それもいい」
男たちが殺気立つ中、土岐だけが心底楽しそうに喉を鳴らした。
「お前が俺の女になってこの場を収めるか。それとも、目の前で大事な男たちが一人、また一人とミンチになっていくのを、ただ指をくわえて見ているか。……どっちがご希望だ、女神サマ?」
吐き気を催すほど下劣な選択肢を前に、未華子の視界がぐにゃりと歪む。
自分が土岐に身体を差し出せば、皆の命は助かるかもしれない。
一瞬だけ、その選択肢が脳裏を掠めた。自分ひとりの尊厳を犠牲にすれば済むことなのだと。
だが、その考えはすぐに覆された。
杉浦や佐竹が、九十九や真島が、大人しく自分を見捨てて生き延びるはずがない。
ボロボロになった身体を引きずってでも、汚された自分を助け出すために必ず無茶をして、今度こそ命を落としてしまうだろう。
(……ああ、まただ)
結局、どんな選択をしたって行き着く先は同じだ。
私という存在そのものが、皆の最大の弱点となり、危険に巻き込み、深く傷つけている。
いつか見たような破滅の光景が、デジャブのように頭を巡った。
コンクリートに出来た血の海に沈み、ピクリとも動かない佐竹。
激しく腫れ上がった顔で、か細い呼吸を繰り返す九十九。
傷だらけの顔を絶望と悔しさに歪ませる杉浦。
そして、無残に縄で縛られ、屈辱に身を震わせる真島の大きな背中。
(……ごめんなさい。みんな。ごめん。ごめん)
心の中で、何度も謝った。
杉浦くん。あなたの不器用な優しさが大好きだった。
九十九氏。あなたの太陽みたいな明るさに、何度も救われた。
佐竹。あなたのスマートな強さに、本当は少しだけ憧れてた。
真島さん。あなたの懐の深さが、どれだけ心強かったか。
(みんな、大好きだよ)
胸の内で、愛しい人たちへ静かに別れを告げる。
この理不尽な不幸の連鎖を完全に断ち切る方法は、ただ一つしかない。
すべての元凶である『橘未華子』という存在を、ここから物理的に消し去ることだ。
その時、倉庫の外から微かに異質な音が耳に届いた。
何台もの車のタイヤが乱暴に砂利を踏みしめる音と、大人数の男たちが無言で展開していく衣擦れの気配。
間違いなく、趙やソンヒ、そして十朱の部隊がこの第七倉庫を完全に包囲し始めているのだ。
だが、彼らがこのまま突入すれば、窮地に立たされた土岐は躊躇なく見せしめとして人質の命を奪うだろう。
タイムリミットが来た。
もう迷っている猶予は、どこにも残されていなかった。
倉庫の外に漂う不穏な気配に、土岐がふと左腕の腕時計へ視線を落とした。
―――その、ほんの一瞬の隙。
未華子は真横に立っていた組員の腰のホルスターに手を伸ばし、吸い込まれるような自然な動作で一丁の拳銃を抜き取っていた。
どうすべきかを思考した結果ではない。
ただ、危機を終わらせるために身体の奥底の本能が勝手に動いていた。
「あ?」
不意を突かれた組員が、凶器を取り返そうと獰猛な顔で手を伸ばしてくる。
未華子は間髪入れずに銃口を男へと突きつけ、カチャリと鋭い音を立てて撃鉄を起こした。
実弾が装填された重い銃になど、これまでの人生で一度も触れたことはない。
それでも、指先は躊躇うことなく死のトリガーに掛かっていた。
見よう見まねで、小刻みに震える両手で銃をしっかりと構えたまま、未華子はゆっくりと倉庫の壁際まで後ずさっていく。
対する神津組の男たちは、両手を軽く挙げて見せた。
だが、彼らの目に恐怖の色はない。
むしろ「素人が撃った弾なんて当たるわけがない」「カタギの女が、百戦錬磨のヤクザ相手に反撃などできるはずがない」と見下すような空気がその場を支配していた。
いつ隙を突いて飛びかかり、その細い腕をへし折ってやろうかと、薄気味悪い視線が全身にまとわりついてくる。
しかし、男たちの目論見はすぐに崩れ去ることになる。
未華子の目的は、彼らに対する『反撃』などではなかったからだ。
男たちへ向けていた銃を、ゆっくりと右手だけに持ち替える。
そのまま、黒く冷酷な銃口をぐるりと反転させ――未華子は真っ直ぐに、自らのこめかみへと押し当てた。
ひんやりとした金属の感触が、体温と、生への執着を急速に奪い去っていく。
「……あんたの、思い通りにはさせない」
掠れた、けれど芯のある声が静かな倉庫に響いた。
予想外の凶行を前に、王のようにふんぞり返っていた土岐の顔色が一瞬にして変わる。
「……何!?」
「別にもう、何回か、死んでるような、命だし」
死への恐怖など欠片もない、悲壮な覚悟。
それなのに、血の気を失った彼女の口元には、息を呑むほどに美しい微笑みが浮かんでいた。
「やめろっ……」
杉浦が悲痛な声を張り上げる。
「やめろやああああああっ!」
床に押さえつけられた真島も、魂を引き裂かれるような絶叫を轟かせた。
だが、もう、誰の声も、彼女の耳には届かない。
未華子の網膜に最後に映し出されたのは、目前の悪党たちではなく、愛してやまない九十九課の、あの温かく平和な日常の風景だけだった。
杉浦くんが淹れてくれた、少し薄いコーヒーの味。
九十九氏のくだらないジョークに、皆で笑い転げたあの日の午後。
口が悪くても、本当は心の底から頼りにしていた、佐竹の広い背中。
(……ああ、私、本当に幸せだったな)
『もうあんたは、普通の恋愛なんざできねえよ』
土岐が吐き捨てた呪いの言葉が、静かに脳裏をよぎる。
(……そうだね。……もう、できないのかもしれない)
(でも、いいの。……だって)
(私が死んでも。……あの人たちの中に、私の記憶のカケラが、少しでも残ってくれるなら)
(……それだけで、もう、十分すぎるから)
(……みんな、幸せになってね)
それは彼女が心の中で最後に手向けた、純粋で絶対的な祈りだった。
「銃を下ろせ!」
完全に狼狽し、血相を変えた土岐が命じる。
しかし、その怒声すらも今の未華子には無意味なノイズでしかなかった。
静かに瞼を閉じ、未華子は全ての愛おしい記憶に別れを告げるように、引き金に掛けた指に力を込めたーー。
