第10話:女神の罪、愛の弾丸
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第三幕:砕けた硝子
数日後の夕方。
九十九課のオフィスは、穏やかな空気に包まれていた。
その平和を壊したのは、九十九の何気ない一言だった。
「そういえば、来週はいよいよ未華子氏の誕生日ですな! そろそろパーティーの計画を立てねば!」
――29歳まで、あと一週間。
その言葉に、佐竹は「いいなそれ」と楽しそうに微笑み、九十九は「ケーキはボクにお任せくださいですぞ!」と、早速スマホで高級パティスリーのサイトを開き始めた。
その温かい空気に、未華子の心も自然と弾む。
最高の仲間たち。
そう思った。
―――ソファに座る、あの男の言葉を聞くまでは。
その日、杉浦は朝からずっと様子がおかしかった。
難しい顔でスマホの画面を睨みつけ、誰が話しかけても上の空。
おそらく、また何か厄介な調査案件で一人行き詰まっているのだろう。
「……別にいいんじゃない、そういうの」
素っ気ない一言が、未華子の浮かれた心に冷水を浴びせた。
「え?」
「いやだから。…もういい歳なんだし。……幼稚じゃない? 誕生日祝うとか」
―――しん。
事務所の空気が凍りついた。
悪気がないのはわかってる。
ただ、虫の居所が悪くて、言葉が足りないだけ。
頭ではそう理解しようとしているのに。
心が勝手に、一番最悪な形で彼の言葉を解釈してしまう。
土岐に脳内に直接植え付けられた毒の棘がちくり、と痛んだ。
『普通の男は、お前のそんな過去を知ったら、ドン引きして逃げていくのがオチだ』
(……ああ、やっぱり、そうなんだ)
(……私みたいな訳ありの女と関わるのは、もう面倒なのかな)
(……誕生日を祝うような、そんな普通の幸せを求めることすら、もう許されないのかな)
ぐるぐると、黒い思考の渦が、未華子を飲み込んでいく。
「……デリカシーなさすぎでしょ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
その声に杉浦はハッとして、我に返ったように顔を上げた。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて……!」
「……もういい」
売り言葉に、買い言葉。
佐竹が慌てて「おい二人とも…」と間に入ろうとするが、もう遅い。
未華子はスマホと財布を手に取ると、事務所を飛び出した。
もう、この場所にいたくなかった。
*
ムシャクシャした気持ちを抱えたまま。
未華子は、電車に乗り一人で神室町へと向かった。
あてもなく、ネオン街の雑踏を歩いていると、聞き覚えのあるチャラチャラした声に呼び止められた。
「あ、姉さん! こんな所で奇遇っすね!」
元・真島組のケンジだった。
「よっケンジ。元気だった?」
「まあぼちぼちっすよ! それより姉さん一人なんて珍しいっすね? …ってか、なんか元気なくないすか? よかったら一杯飲んでってくださいよ」
お節介な、でもどこか憎めない優しさに、つい心を許してしまう。
彼が働くバーのカウンターで、未華子は彼のどうでもいい武勇伝(という名の失敗談)を聞かされていた。
「で、そのキャバ嬢にぃ『あんたのそういう中身のないとこがマジで無理』ってガチギレされて! 俺なんも悪くないっすよね?!」
くだらない。本当にくだらない話。
でも、その底抜けのくだらなさが、さっきまで彼女の心を支配していた黒いもやもやを、少しだけ晴らしてくれるような気がした。
その時だった。
「なんや、騒がしいのお」
店の奥のVIPルームから現れたのは、信じられない顔ぶれだった。
ーー真島吾朗。
そしてその隣には、初対面であるはずの未華子の全身の肌を瞬時にあわ立たせるほどの、圧倒的な静寂を纏った男が立っていた。
――元・東城会六代目会長、堂島大吾。
「……君が、兄さんが言っていた横浜の……」
堂島は、未華子を値踏みするように静かに見つめた。
その瞳は、すべてを見透かすような冷徹さを宿しながらも、どこか深い憂いを湛えているようにも見えた。
「……堂島だ。話は聞いている」
それは、他者との馴れ合いを一切許さない、絶対的な王者の風格だった。
ひょんなことから、未華子は、東城会の伝説の男たちとテーブルを囲むことになった。
堂島は多くを語らなかった。
だが、一つ一つの質問は鋭く、本質を突いていた。
未華子は、九十九課の仕事のこと、そしてうみねこタワーでの爆破(未遂)事件のことなどを、かいつまんで話して聞かせた。
特に、真島の神業のようなハッキングがなければ、自分も杉浦も今ここにはいなかったという事実を。
それを聞いた真島は、心底どうでもよさそうに「ああ、そんなこともあったのぉ」と、鼻で笑うだけだった。
そして、堂島は不意に鋭い視線を未華子へと向けた。
「……もう一つ、聞いている」
「え……?」
「君が、この男の『愛人』だという噂のことだ」
一切のオブラートを脱ぎ捨てた問い。
未華子は、飲んでいたカクテルを噴き出しそうになった。
「ぶっ!? ち、違います! あれは、その、なんていうか、真島さんの優しさというか! 『お守り』的なやつで! 断じて、そういう関係では!」
必死で否定する未華子。
その狼狽えっぷりを見て、真島は楽しそうにゲラゲラと笑っている。
堂島は、そんな二人をただ静かに見つめていたが、やがてその口元にほんの少しだけ笑みが浮かんだのを。
未華子は見逃さなかった。
*
店を出て、真島が行きつけだというバーへと向かおうと、夜の神室町を歩いていた、
その時だった。
路地の闇の中から、金属バットや鉄パイプを持った十数人の若者たちが、まるで這い出てくるゴキブリのように湧き出てきた。
その風体は従来のヤクザではなく、東城会解散後の空白地帯で跋扈する、タガの外れた半グレの群れだった。
「……よう堂島ァ!」
リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべる。
「解散した元極道が、今更この街になにしに帰ってきたんだ、あぁ? 堅気の雑魚がよぉ!」
かつての伝説の首を獲り、地下世界で一気にのし上がろうとする、新興勢力ゆえの無謀な野心。
「姉ちゃんは下がっとれ!」
真島の目が、瞬時に狂犬のそれに変わる。
その手には、いつの間にかドスが握られていた。
堂島もまた、静かにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。
本来であれば、この程度の有象無象二人の敵ではない。
だが、決定的な誤算が二つあった。
一つは、多勢に無勢の闇の中から、さらに執拗な増援が現れ続けたこと。
そしてもう一つは、彼らの狙いが初手から二人の無双を封じるための「未華子の拉致」に絞られていたことだ。
「チッ、数が多い上に、姉ちゃんを狙っとるな……!」
戦場に紛れ込んだカタギの女を庇うという致命的な足枷が、二人の踏み込みをコンマ数秒鈍らせる。
その隙を敵は見逃さなかった。
一人が懐から引き抜いた催涙スプレーを、堂島の視界へ向けて容赦なく噴射する。
激痛に一瞬だけ判断を奪われた堂島。
その無防備な肩を、別の方角から振り下ろされた鉄パイプが不意に捉えた。
「ぐっ……!」
鈍い打撃音。
よろめく、彼の白いYシャツにじわり、と赤い染みが広がっていく。
(まずい!)
狭い路地裏で肉壁に囲まれれば、いくら二人が強くともジリ貧になる。
突破口を開くなら今しかない。
「こっちです!」
未華子は、咄嗟に動いていた。
堂島の腕を掴むと、見覚えのある店のネオンサインへと走り込んだ。
ゲームセンター「シャルル」。
店のドアを蹴破るように転がり込む。
「東さんっ! ごめんなさい! 緊急事態!」
カウンターで、暇そうにスマホをいじっていた東が、何事かと顔を上げる。
「みーちゃん大丈夫か!? ……ってか、あんたたちは……」
彼の視線が、未華子の後ろに立つ二人の男を捉えた、その瞬間。
東の顔からサッと、血の気が引いた。
「…………し、嶋野の狂犬……真島吾朗に……!? ……そ、そして……………ろ、六代目…………!?」
「松金組」は東城会の末端組織だったとはいえ、ヤクザだった男。
その二つの顔を知らないはずがない。
彼はその場に直立不動になると、声にならない声で「お、お疲れ様です……!」と、深々と頭を下げた。
怪我をした堂島は、東が手配した闇診療所へ。
一方で、襲撃犯の仲間がまだ神室町の各所で目を光らせている可能性は極めて高かった。
深夜の街を未華子ひとりで歩かせるのはあまりに危険であり、状況が落ち着く朝までは身を潜めておく必要があった。
「今日のところは、俺の隠れ家に潜んどけ」
そう告げた真島に連れられ、未華子は彼が東京滞在中の拠点として極秘に押さえていた、会員制のホテルへと身を寄せることになった。
真島と同じホテルの、隣り合う部屋に。
この、伝説の男との奇妙な一夜が、彼女の運命を、再び大きく動かすことになるとは。
この時の彼女は、まだ知る由もなかった。
数日後の夕方。
九十九課のオフィスは、穏やかな空気に包まれていた。
その平和を壊したのは、九十九の何気ない一言だった。
「そういえば、来週はいよいよ未華子氏の誕生日ですな! そろそろパーティーの計画を立てねば!」
――29歳まで、あと一週間。
その言葉に、佐竹は「いいなそれ」と楽しそうに微笑み、九十九は「ケーキはボクにお任せくださいですぞ!」と、早速スマホで高級パティスリーのサイトを開き始めた。
その温かい空気に、未華子の心も自然と弾む。
最高の仲間たち。
そう思った。
―――ソファに座る、あの男の言葉を聞くまでは。
その日、杉浦は朝からずっと様子がおかしかった。
難しい顔でスマホの画面を睨みつけ、誰が話しかけても上の空。
おそらく、また何か厄介な調査案件で一人行き詰まっているのだろう。
「……別にいいんじゃない、そういうの」
素っ気ない一言が、未華子の浮かれた心に冷水を浴びせた。
「え?」
「いやだから。…もういい歳なんだし。……幼稚じゃない? 誕生日祝うとか」
―――しん。
事務所の空気が凍りついた。
悪気がないのはわかってる。
ただ、虫の居所が悪くて、言葉が足りないだけ。
頭ではそう理解しようとしているのに。
心が勝手に、一番最悪な形で彼の言葉を解釈してしまう。
土岐に脳内に直接植え付けられた毒の棘がちくり、と痛んだ。
『普通の男は、お前のそんな過去を知ったら、ドン引きして逃げていくのがオチだ』
(……ああ、やっぱり、そうなんだ)
(……私みたいな訳ありの女と関わるのは、もう面倒なのかな)
(……誕生日を祝うような、そんな普通の幸せを求めることすら、もう許されないのかな)
ぐるぐると、黒い思考の渦が、未華子を飲み込んでいく。
「……デリカシーなさすぎでしょ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
その声に杉浦はハッとして、我に返ったように顔を上げた。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて……!」
「……もういい」
売り言葉に、買い言葉。
佐竹が慌てて「おい二人とも…」と間に入ろうとするが、もう遅い。
未華子はスマホと財布を手に取ると、事務所を飛び出した。
もう、この場所にいたくなかった。
*
ムシャクシャした気持ちを抱えたまま。
未華子は、電車に乗り一人で神室町へと向かった。
あてもなく、ネオン街の雑踏を歩いていると、聞き覚えのあるチャラチャラした声に呼び止められた。
「あ、姉さん! こんな所で奇遇っすね!」
元・真島組のケンジだった。
「よっケンジ。元気だった?」
「まあぼちぼちっすよ! それより姉さん一人なんて珍しいっすね? …ってか、なんか元気なくないすか? よかったら一杯飲んでってくださいよ」
お節介な、でもどこか憎めない優しさに、つい心を許してしまう。
彼が働くバーのカウンターで、未華子は彼のどうでもいい武勇伝(という名の失敗談)を聞かされていた。
「で、そのキャバ嬢にぃ『あんたのそういう中身のないとこがマジで無理』ってガチギレされて! 俺なんも悪くないっすよね?!」
くだらない。本当にくだらない話。
でも、その底抜けのくだらなさが、さっきまで彼女の心を支配していた黒いもやもやを、少しだけ晴らしてくれるような気がした。
その時だった。
「なんや、騒がしいのお」
店の奥のVIPルームから現れたのは、信じられない顔ぶれだった。
ーー真島吾朗。
そしてその隣には、初対面であるはずの未華子の全身の肌を瞬時にあわ立たせるほどの、圧倒的な静寂を纏った男が立っていた。
――元・東城会六代目会長、堂島大吾。
「……君が、兄さんが言っていた横浜の……」
堂島は、未華子を値踏みするように静かに見つめた。
その瞳は、すべてを見透かすような冷徹さを宿しながらも、どこか深い憂いを湛えているようにも見えた。
「……堂島だ。話は聞いている」
それは、他者との馴れ合いを一切許さない、絶対的な王者の風格だった。
ひょんなことから、未華子は、東城会の伝説の男たちとテーブルを囲むことになった。
堂島は多くを語らなかった。
だが、一つ一つの質問は鋭く、本質を突いていた。
未華子は、九十九課の仕事のこと、そしてうみねこタワーでの爆破(未遂)事件のことなどを、かいつまんで話して聞かせた。
特に、真島の神業のようなハッキングがなければ、自分も杉浦も今ここにはいなかったという事実を。
それを聞いた真島は、心底どうでもよさそうに「ああ、そんなこともあったのぉ」と、鼻で笑うだけだった。
そして、堂島は不意に鋭い視線を未華子へと向けた。
「……もう一つ、聞いている」
「え……?」
「君が、この男の『愛人』だという噂のことだ」
一切のオブラートを脱ぎ捨てた問い。
未華子は、飲んでいたカクテルを噴き出しそうになった。
「ぶっ!? ち、違います! あれは、その、なんていうか、真島さんの優しさというか! 『お守り』的なやつで! 断じて、そういう関係では!」
必死で否定する未華子。
その狼狽えっぷりを見て、真島は楽しそうにゲラゲラと笑っている。
堂島は、そんな二人をただ静かに見つめていたが、やがてその口元にほんの少しだけ笑みが浮かんだのを。
未華子は見逃さなかった。
*
店を出て、真島が行きつけだというバーへと向かおうと、夜の神室町を歩いていた、
その時だった。
路地の闇の中から、金属バットや鉄パイプを持った十数人の若者たちが、まるで這い出てくるゴキブリのように湧き出てきた。
その風体は従来のヤクザではなく、東城会解散後の空白地帯で跋扈する、タガの外れた半グレの群れだった。
「……よう堂島ァ!」
リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべる。
「解散した元極道が、今更この街になにしに帰ってきたんだ、あぁ? 堅気の雑魚がよぉ!」
かつての伝説の首を獲り、地下世界で一気にのし上がろうとする、新興勢力ゆえの無謀な野心。
「姉ちゃんは下がっとれ!」
真島の目が、瞬時に狂犬のそれに変わる。
その手には、いつの間にかドスが握られていた。
堂島もまた、静かにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。
本来であれば、この程度の有象無象二人の敵ではない。
だが、決定的な誤算が二つあった。
一つは、多勢に無勢の闇の中から、さらに執拗な増援が現れ続けたこと。
そしてもう一つは、彼らの狙いが初手から二人の無双を封じるための「未華子の拉致」に絞られていたことだ。
「チッ、数が多い上に、姉ちゃんを狙っとるな……!」
戦場に紛れ込んだカタギの女を庇うという致命的な足枷が、二人の踏み込みをコンマ数秒鈍らせる。
その隙を敵は見逃さなかった。
一人が懐から引き抜いた催涙スプレーを、堂島の視界へ向けて容赦なく噴射する。
激痛に一瞬だけ判断を奪われた堂島。
その無防備な肩を、別の方角から振り下ろされた鉄パイプが不意に捉えた。
「ぐっ……!」
鈍い打撃音。
よろめく、彼の白いYシャツにじわり、と赤い染みが広がっていく。
(まずい!)
狭い路地裏で肉壁に囲まれれば、いくら二人が強くともジリ貧になる。
突破口を開くなら今しかない。
「こっちです!」
未華子は、咄嗟に動いていた。
堂島の腕を掴むと、見覚えのある店のネオンサインへと走り込んだ。
ゲームセンター「シャルル」。
店のドアを蹴破るように転がり込む。
「東さんっ! ごめんなさい! 緊急事態!」
カウンターで、暇そうにスマホをいじっていた東が、何事かと顔を上げる。
「みーちゃん大丈夫か!? ……ってか、あんたたちは……」
彼の視線が、未華子の後ろに立つ二人の男を捉えた、その瞬間。
東の顔からサッと、血の気が引いた。
「…………し、嶋野の狂犬……真島吾朗に……!? ……そ、そして……………ろ、六代目…………!?」
「松金組」は東城会の末端組織だったとはいえ、ヤクザだった男。
その二つの顔を知らないはずがない。
彼はその場に直立不動になると、声にならない声で「お、お疲れ様です……!」と、深々と頭を下げた。
怪我をした堂島は、東が手配した闇診療所へ。
一方で、襲撃犯の仲間がまだ神室町の各所で目を光らせている可能性は極めて高かった。
深夜の街を未華子ひとりで歩かせるのはあまりに危険であり、状況が落ち着く朝までは身を潜めておく必要があった。
「今日のところは、俺の隠れ家に潜んどけ」
そう告げた真島に連れられ、未華子は彼が東京滞在中の拠点として極秘に押さえていた、会員制のホテルへと身を寄せることになった。
真島と同じホテルの、隣り合う部屋に。
この、伝説の男との奇妙な一夜が、彼女の運命を、再び大きく動かすことになるとは。
この時の彼女は、まだ知る由もなかった。
