第10話:女神の罪、愛の弾丸
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第一部:星龍会の粋人
2022年7月。
伊勢佐木異人町の湿った夜風が、肌にまとわりつく季節。
その夜、未華子は、学生時代のサークルの同期たちと、野毛で少し羽目を外していた。
「いやーマジで、未華子が新聞社辞めて、こんな治安悪い街の探偵事務所で働いてるなんて未だに信じらんないんだけど!」
「もし、俺の結婚相手が浮気したら調査頼むわ! 友人料金で!」
懐かしい顔ぶれとの他愛のない会話に、彼女の表情も自然と緩む。
二次会の店として未華子が提案したのは、佐竹が「最近見つけた安くて美味い店」だと教えてくれた、小さな居酒屋だった。
――だが、その店は地獄への入り口だった。
会計の段になって提示されたのは、「一人5万円」という法外な金額。
「払えねえだと? なめてんのかコラァ!」
店の奥から現れたのは、刺青を覗かせたガラの悪い男たち。
完全なるぼったくり。そして暴力。
同期の男子が胸ぐらを掴まれ、テーブルの上のグラスが床に滑り落ちて割れ、女子が悲鳴を上げる。
万事休す。
そう誰もが思った、その瞬間だった。
「―――そこまでだ」
店のドアを蹴破るようにして現れたのは、九十九課の仲間たちと、見慣れないスーツ姿の男たちだった。
その中心に立つのは、両手に黒革の手袋をはめ、メガネをかけたオールバックの冷たい瞳の男。
横浜星龍会 会長、高部 守(たかべ まもる)。
「……てめぇら……。…俺の顔に、どれだけ泥塗ってくれれば気が済むんだ、ああ?」
そう。全ては仕組まれていたのだ。
星龍会の末端組員が会の許可なく行っていた、ぼったくり行為の現場と証拠を押さえるため。
高部と、ソンヒを通じて高部から直々の依頼を受けた九十九課が、合同で仕掛けたおとり捜査。
そして、その最も危険な「おとり」として、未華子が利用されていたのだった。
~
「……すまなかった。あんたを危険な目に遭わせるつもりはなかったんだが」
後日。星龍会の事務所で、高部は静かに頭を下げた。
古き良き極道の「筋」を通す姿勢に、未華子は嫌悪感よりも、むしろ奇妙な好感を抱いていた。
こうして彼女は、伊勢佐木異人町を形作る「異人三」のトップたち、そしてこの街の運命を握る男たちと、否応なしに深く懇意になっていく。
横浜流氓の精神的支柱であり、今なお圧倒的な影響力を誇る元総帥・趙天佑。
蜘蛛の巣のごとき情報網で異人町の闇を見通す、コミジュル総帥・ソンヒ。
一本気な侠気で異人町の秩序を支える、横浜星龍会会長・高部守。
そして、その「異人三」すべてを圧倒的な権力によって事実上の傘下に置き、自らは「劉詩荃」の名で横浜流氓の現総帥として君臨する、関東最大のヤクザ組織・東鞘会七代目会長、十朱雅――。
その事実が、裏社会における彼女の「知名度」を、皮肉にも決定的なものにしてしまったことを。
この時の未華子は、まだ知る由もなかった。
第二幕:悪魔の囁き
その日、事務所からの帰り道。
未華子は、一人の黒いスーツ姿の男に声をかけられた。
「星龍会の者です。会長が、あなたに急ぎの話があると」
その言葉を、彼女は疑うことすらなかった。
数日前のおとり捜査の件もあり、高部からの接触はあり得ることだと。
だが、差し向けられた黒塗りの車がたどり着いたのは、星龍会の事務所ではなかった。
連れてこられたのは、山の手の丘の上に建つ、廃墟と化した古いホテル。
薄暗い、スイートルームの扉が開く。
そこに、高部の姿はなかった。
代わりに、豪奢なソファにふんぞり返るように座っていたのは、見知らぬ、そして隠しようのない危険な色気を放つ一人の男だった。
「……ようこそ、女神サマ」
ねっとりとした声が、カビ臭い室内の空気を揺らす。
男はゆっくりと立ち上がると、彼女の元へと歩み寄ってきた。
よく見ると、その顔には見覚えがあった。
十朱雅の傍らに控える最高幹部たち――その中でも、ひときわ蛇のように冷たい光を瞳に宿らせた男。
東鞘会の若頭であり、直系・神津組の組長、土岐 勉(とき つとむ)。
逃げる隙はなかった。
次の瞬間に、未華子は土岐に腕を掴まれたかと思うと、ベッドの上へと乱暴に押し倒されていた。
男の質量が馬乗りになって圧しかかり、身動きを完全に封じ込める。
恐怖で、声も出なかった。
「……こんな地味な女が、会長のお気に入りねえ」
土岐は未華子の髪を容赦なく鷲掴みにすると、品定めするような下卑た視線で、その顔を至近距離から覗き込んだ。
そしてその手が、彼女が着ていたTシャツの裾を乱暴に掴むと、豊かな胸の上まで一気に捲し上げた。
「―――っ!」
冷たい空気が、剥き出しになった腹部と、黒いレースのブラジャーに覆われた胸の膨らみを容赦なく撫でる。
抵抗を封じられ、屈辱的な姿を晒されながらも、未華子は眼前の男を睨み据えた。
「女の趣味も、一周回るとこうなるのかねえ」
吐息が顔にかかる。
強烈な吐き気が込み上げた。
「どうだ? ヤクザに、無理やりヤラれる気分は?」
侮辱に満ちた言葉が突き刺さる。
涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死で堪えた。
ここで泣けば負けだ、と。
だが、その折れない気高い瞳が、逆に男の歪んだサディズムに狂おしい火をつけた。
「……へえ。…まだそんな目で、俺を見れんのか」
土岐は心底楽しそうに笑うと、自身のYシャツのボタンを、一つ、また一つと焦らすようにゆっくりと外し始めた。
そして、そのシャツが床に投げ捨てられる。
露わになったのは、40代後半とは思えない鍛え上げられたしなやかな肉体と。
その背から胸へと這い回る、奔流のような刺青だった。
肌を覆い尽くす荒れ狂う波。
その飛沫の中を、儚げな桜の花びらが舞い散っている。
圧倒的な暴力の象徴でありながら、どこか物悲しさを湛えた、芸術品のごとき禍々しい紋様。
その冷たい指先が、スラックスのベルトのバックルへとかかった、まさにその瞬間―――。
部屋のドアが、凄まじい音を立てて蹴破られた。
「てめぇっ!」
杉浦の怒声が響き渡る。
続いて、佐竹、九十九が室内へなだれ込んできた。
だが、その行く手を、入り口に控えていた土岐の屈強な部下たちが、肉体の壁となって遮る。
「させるかよ!」
狭いホテルの廊下で、杉浦の嵐のような蹴りと、佐竹の重い拳が火花を散らす。
その数秒の混戦を見届けると、土岐はチッ、と忌々しげに舌打ちをもらした。
外しかけていたベルトのバックルを戻し、乱れた髪を指で掻き上げる。
そして、未練を感じさせぬ手際であっさりと未華子の体から身を引いた。
「……つまんねえな」
土岐は、彼女にだけ聞こえる微かな声で、悪魔のように囁いた。
「……まあいい」
未華子は言葉もなく、ただ男を睨み返す。
「―――どうせお前はもう、"こっち側"の人間だ」
言葉の意味を掴めず、戸惑う未華子の耳元へ、さらに顔を寄せた。
その声はどこまでも甘く、そして残酷だった。
「……マフィアだのヤクザだの、散々唾つけられといて、今更、純潔ぶるんじゃねえよ」
「……っ!」
「もうあんたは、普通の恋愛なんざできねえよ。…普通の男は、お前のそんな過去を知ったら、ドン引きして逃げていくのがオチだ」
その言葉は呪いとなって、彼女の心の奥深くに、深く、突き刺さっていったのだった。
◎数日後[場所:慶錦飯店の会長室]
数日後。
未華子は、慶錦飯店の会長室にいた。
十朱雅から直々に呼び出されていたのだ。
いつもは、氷のように張り詰めているこの部屋の空気が、今日は不思議なほど穏やかだった。
窓の外では、夕日が横浜の街を茜色に染め上げている。
玉座に腰掛けた十朱の完璧な横顔も、その斜光を浴びて、どこか柔らかく見えた。
「……すまなかった。全て、俺の監督不行き届きだ」
彼は、土岐のあの暴走が、彼個人の会長への私怨によるものであると説明し、静かに頭を下げた。
真摯な謝罪だった。
静かだが、どこまでも重い響きを持った声が室内に満ちていく。
「……公安の迫田の事件の時もそうだ。…俺は、お前に借りばかりだな」
「…………」
「―――だが、もう二度と、俺たちのためにお前を犠牲にするような真似はさせない」
「お前がどんな選択をしても。それが、結果的に東鞘会の不利益になったとしても。…俺はお前を恨まないし、もし、お前を恨むような奴がいたら、俺が責任を持って裁く」
優しすぎる言葉に、未華子は驚きを隠せなかった。
あの冷徹な支配者のような男が、こんなことを言うなんて。
この時、彼女の中で、十朱雅という男に対する冷え切った評価が、ほんの少しだけ揺らいだのかもしれなかった。
「……十朱会長って……そういうことも言える人だったんですね」
生意気で率直すぎる言葉に、十朱はふ、と、初めて子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……見直したか?」
「……うーん。……まあ、ちょっとだけ」
その軽口に、彼は今度こそ、本当に楽しそうに喉の奥で小さく笑った。
「……ふっ。…何か飲むか?」
「え……?」
突然の提案に、戸惑う。
ここは一応、関東最大のヤクザ組織の中枢なのだ。
(コーヒー? 紅茶? ……それともお酒!?)
未華子が答えに窮していると、彼は玉座から立ち上がった。
そして、部屋の隅にある、重厚なバーカウンターの方へと向かう。
シェイカーを振るうのかと思いきや、彼が手に取ったのは高級そうなココアパウダーの缶と牛乳だった。
氷を入れたグラスに冷たい牛乳を注ぎ、そこに甘いココアパウダーを丁寧に溶かしていく。
手慣れた動作。
最後に、小さなマシュマロをいくつか、ちょこん、と浮かべて。
「―――ほらよ」
カウンターのスツールに座るよう、目で促される。
差し出されたのは、見るからに甘そうなアイスココアだった。
「……………なんで…………」
「……口に合うといいんだが」
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ、自身は隣でストレートのウイスキーを静かに傾けるだけ。
(……なんで、私がココア好きって知ってんのよ……)
悔しい。でも嬉しい。
その甘くて冷たい一杯は、彼の不器用で、そしてどうしようもないほどの優しさの味がした。
だが――土岐に植え付けられた毒の棘は。
まだ、心の一番深い場所に、静かに残ったままだった。
2022年7月。
伊勢佐木異人町の湿った夜風が、肌にまとわりつく季節。
その夜、未華子は、学生時代のサークルの同期たちと、野毛で少し羽目を外していた。
「いやーマジで、未華子が新聞社辞めて、こんな治安悪い街の探偵事務所で働いてるなんて未だに信じらんないんだけど!」
「もし、俺の結婚相手が浮気したら調査頼むわ! 友人料金で!」
懐かしい顔ぶれとの他愛のない会話に、彼女の表情も自然と緩む。
二次会の店として未華子が提案したのは、佐竹が「最近見つけた安くて美味い店」だと教えてくれた、小さな居酒屋だった。
――だが、その店は地獄への入り口だった。
会計の段になって提示されたのは、「一人5万円」という法外な金額。
「払えねえだと? なめてんのかコラァ!」
店の奥から現れたのは、刺青を覗かせたガラの悪い男たち。
完全なるぼったくり。そして暴力。
同期の男子が胸ぐらを掴まれ、テーブルの上のグラスが床に滑り落ちて割れ、女子が悲鳴を上げる。
万事休す。
そう誰もが思った、その瞬間だった。
「―――そこまでだ」
店のドアを蹴破るようにして現れたのは、九十九課の仲間たちと、見慣れないスーツ姿の男たちだった。
その中心に立つのは、両手に黒革の手袋をはめ、メガネをかけたオールバックの冷たい瞳の男。
横浜星龍会 会長、高部 守(たかべ まもる)。
「……てめぇら……。…俺の顔に、どれだけ泥塗ってくれれば気が済むんだ、ああ?」
そう。全ては仕組まれていたのだ。
星龍会の末端組員が会の許可なく行っていた、ぼったくり行為の現場と証拠を押さえるため。
高部と、ソンヒを通じて高部から直々の依頼を受けた九十九課が、合同で仕掛けたおとり捜査。
そして、その最も危険な「おとり」として、未華子が利用されていたのだった。
~
「……すまなかった。あんたを危険な目に遭わせるつもりはなかったんだが」
後日。星龍会の事務所で、高部は静かに頭を下げた。
古き良き極道の「筋」を通す姿勢に、未華子は嫌悪感よりも、むしろ奇妙な好感を抱いていた。
こうして彼女は、伊勢佐木異人町を形作る「異人三」のトップたち、そしてこの街の運命を握る男たちと、否応なしに深く懇意になっていく。
横浜流氓の精神的支柱であり、今なお圧倒的な影響力を誇る元総帥・趙天佑。
蜘蛛の巣のごとき情報網で異人町の闇を見通す、コミジュル総帥・ソンヒ。
一本気な侠気で異人町の秩序を支える、横浜星龍会会長・高部守。
そして、その「異人三」すべてを圧倒的な権力によって事実上の傘下に置き、自らは「劉詩荃」の名で横浜流氓の現総帥として君臨する、関東最大のヤクザ組織・東鞘会七代目会長、十朱雅――。
その事実が、裏社会における彼女の「知名度」を、皮肉にも決定的なものにしてしまったことを。
この時の未華子は、まだ知る由もなかった。
第二幕:悪魔の囁き
その日、事務所からの帰り道。
未華子は、一人の黒いスーツ姿の男に声をかけられた。
「星龍会の者です。会長が、あなたに急ぎの話があると」
その言葉を、彼女は疑うことすらなかった。
数日前のおとり捜査の件もあり、高部からの接触はあり得ることだと。
だが、差し向けられた黒塗りの車がたどり着いたのは、星龍会の事務所ではなかった。
連れてこられたのは、山の手の丘の上に建つ、廃墟と化した古いホテル。
薄暗い、スイートルームの扉が開く。
そこに、高部の姿はなかった。
代わりに、豪奢なソファにふんぞり返るように座っていたのは、見知らぬ、そして隠しようのない危険な色気を放つ一人の男だった。
「……ようこそ、女神サマ」
ねっとりとした声が、カビ臭い室内の空気を揺らす。
男はゆっくりと立ち上がると、彼女の元へと歩み寄ってきた。
よく見ると、その顔には見覚えがあった。
十朱雅の傍らに控える最高幹部たち――その中でも、ひときわ蛇のように冷たい光を瞳に宿らせた男。
東鞘会の若頭であり、直系・神津組の組長、土岐 勉(とき つとむ)。
逃げる隙はなかった。
次の瞬間に、未華子は土岐に腕を掴まれたかと思うと、ベッドの上へと乱暴に押し倒されていた。
男の質量が馬乗りになって圧しかかり、身動きを完全に封じ込める。
恐怖で、声も出なかった。
「……こんな地味な女が、会長のお気に入りねえ」
土岐は未華子の髪を容赦なく鷲掴みにすると、品定めするような下卑た視線で、その顔を至近距離から覗き込んだ。
そしてその手が、彼女が着ていたTシャツの裾を乱暴に掴むと、豊かな胸の上まで一気に捲し上げた。
「―――っ!」
冷たい空気が、剥き出しになった腹部と、黒いレースのブラジャーに覆われた胸の膨らみを容赦なく撫でる。
抵抗を封じられ、屈辱的な姿を晒されながらも、未華子は眼前の男を睨み据えた。
「女の趣味も、一周回るとこうなるのかねえ」
吐息が顔にかかる。
強烈な吐き気が込み上げた。
「どうだ? ヤクザに、無理やりヤラれる気分は?」
侮辱に満ちた言葉が突き刺さる。
涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死で堪えた。
ここで泣けば負けだ、と。
だが、その折れない気高い瞳が、逆に男の歪んだサディズムに狂おしい火をつけた。
「……へえ。…まだそんな目で、俺を見れんのか」
土岐は心底楽しそうに笑うと、自身のYシャツのボタンを、一つ、また一つと焦らすようにゆっくりと外し始めた。
そして、そのシャツが床に投げ捨てられる。
露わになったのは、40代後半とは思えない鍛え上げられたしなやかな肉体と。
その背から胸へと這い回る、奔流のような刺青だった。
肌を覆い尽くす荒れ狂う波。
その飛沫の中を、儚げな桜の花びらが舞い散っている。
圧倒的な暴力の象徴でありながら、どこか物悲しさを湛えた、芸術品のごとき禍々しい紋様。
その冷たい指先が、スラックスのベルトのバックルへとかかった、まさにその瞬間―――。
部屋のドアが、凄まじい音を立てて蹴破られた。
「てめぇっ!」
杉浦の怒声が響き渡る。
続いて、佐竹、九十九が室内へなだれ込んできた。
だが、その行く手を、入り口に控えていた土岐の屈強な部下たちが、肉体の壁となって遮る。
「させるかよ!」
狭いホテルの廊下で、杉浦の嵐のような蹴りと、佐竹の重い拳が火花を散らす。
その数秒の混戦を見届けると、土岐はチッ、と忌々しげに舌打ちをもらした。
外しかけていたベルトのバックルを戻し、乱れた髪を指で掻き上げる。
そして、未練を感じさせぬ手際であっさりと未華子の体から身を引いた。
「……つまんねえな」
土岐は、彼女にだけ聞こえる微かな声で、悪魔のように囁いた。
「……まあいい」
未華子は言葉もなく、ただ男を睨み返す。
「―――どうせお前はもう、"こっち側"の人間だ」
言葉の意味を掴めず、戸惑う未華子の耳元へ、さらに顔を寄せた。
その声はどこまでも甘く、そして残酷だった。
「……マフィアだのヤクザだの、散々唾つけられといて、今更、純潔ぶるんじゃねえよ」
「……っ!」
「もうあんたは、普通の恋愛なんざできねえよ。…普通の男は、お前のそんな過去を知ったら、ドン引きして逃げていくのがオチだ」
その言葉は呪いとなって、彼女の心の奥深くに、深く、突き刺さっていったのだった。
◎数日後[場所:慶錦飯店の会長室]
数日後。
未華子は、慶錦飯店の会長室にいた。
十朱雅から直々に呼び出されていたのだ。
いつもは、氷のように張り詰めているこの部屋の空気が、今日は不思議なほど穏やかだった。
窓の外では、夕日が横浜の街を茜色に染め上げている。
玉座に腰掛けた十朱の完璧な横顔も、その斜光を浴びて、どこか柔らかく見えた。
「……すまなかった。全て、俺の監督不行き届きだ」
彼は、土岐のあの暴走が、彼個人の会長への私怨によるものであると説明し、静かに頭を下げた。
真摯な謝罪だった。
静かだが、どこまでも重い響きを持った声が室内に満ちていく。
「……公安の迫田の事件の時もそうだ。…俺は、お前に借りばかりだな」
「…………」
「―――だが、もう二度と、俺たちのためにお前を犠牲にするような真似はさせない」
「お前がどんな選択をしても。それが、結果的に東鞘会の不利益になったとしても。…俺はお前を恨まないし、もし、お前を恨むような奴がいたら、俺が責任を持って裁く」
優しすぎる言葉に、未華子は驚きを隠せなかった。
あの冷徹な支配者のような男が、こんなことを言うなんて。
この時、彼女の中で、十朱雅という男に対する冷え切った評価が、ほんの少しだけ揺らいだのかもしれなかった。
「……十朱会長って……そういうことも言える人だったんですね」
生意気で率直すぎる言葉に、十朱はふ、と、初めて子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……見直したか?」
「……うーん。……まあ、ちょっとだけ」
その軽口に、彼は今度こそ、本当に楽しそうに喉の奥で小さく笑った。
「……ふっ。…何か飲むか?」
「え……?」
突然の提案に、戸惑う。
ここは一応、関東最大のヤクザ組織の中枢なのだ。
(コーヒー? 紅茶? ……それともお酒!?)
未華子が答えに窮していると、彼は玉座から立ち上がった。
そして、部屋の隅にある、重厚なバーカウンターの方へと向かう。
シェイカーを振るうのかと思いきや、彼が手に取ったのは高級そうなココアパウダーの缶と牛乳だった。
氷を入れたグラスに冷たい牛乳を注ぎ、そこに甘いココアパウダーを丁寧に溶かしていく。
手慣れた動作。
最後に、小さなマシュマロをいくつか、ちょこん、と浮かべて。
「―――ほらよ」
カウンターのスツールに座るよう、目で促される。
差し出されたのは、見るからに甘そうなアイスココアだった。
「……………なんで…………」
「……口に合うといいんだが」
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ、自身は隣でストレートのウイスキーを静かに傾けるだけ。
(……なんで、私がココア好きって知ってんのよ……)
悔しい。でも嬉しい。
その甘くて冷たい一杯は、彼の不器用で、そしてどうしようもないほどの優しさの味がした。
だが――土岐に植え付けられた毒の棘は。
まだ、心の一番深い場所に、静かに残ったままだった。
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