第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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スピンオフ:夜明けのコーヒー【杉浦SIDE】
次の日の朝。
僕は、誰よりも早く事務所のドアを開けた。
昨夜、佐竹くんが、彼女を送っていくのを、遠くから見ていた。
『……俺が話す。…あいつが、一人で抱え込まないように』
そう言った彼の、静かな覚悟を信じるしかなかった。
僕には、もう、何もできなかったから。
コーヒーを淹れる。
彼女がいつも使っている、あの、少しだけ酸味のある豆で。
そうでもしていないと、どうにかなってしまいそうだった。
自分の無力さが、嫌になる。
エイトを殴りつけた、この右の拳が、まだ、ジンジンと痛む。
こんなことしかできない。
僕にできるのは、結局、ただ暴力を振るうことだけだ。
ガチャリ、と、ドアが開く音がした。
そこに立っていたのは、君だった。
橘未華子。
一瞬、言葉を失う。
九十九くんが、「明日は、絶対安静ですぞ」と、連絡していたはずなのに。
「……あ。おはよう」
君は、少しだけ、掠れた声でそう言った。
目の下には、隈ができている。
どことなく、泣き腫らしたようなまぶた。
だけど、その瞳には、昨日までの壊れてしまいそうな光はなかった。
何かを振り切ったような、静かで、強い光が宿っていた。
二人きりの事務所。
気まずい沈黙。
君は、僕が淹れたコーヒーの香りに気づくと、少しだけ驚いた顔をした。
そして、僕の右の拳に視線を落とした。
指の関節が、赤く、腫れ上がっている。
「……あれ? その手、どうしたの?」
「……え?」
「……もしかして、誰か、殴った?」
図星だった。
僕は咄嗟に、その拳をポケットの中に隠した。
「……いや、別に。……トレーニングしてたら、間違えて、サンドバッグじゃないとこ、殴っちゃって」
嘘だ。
君のためだった、なんて、口が裂けても言えない。
そんなことを言えば、君はまた、自分を責めてしまうから。
僕の、その下手くそな嘘に、君は何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうに笑っただけだった。
そこに、九十九くんと佐竹くんが出勤してきた。
「おお! 未華子氏! もう、大丈夫なんですかな!?」
「未華子。…無理するなよ」
二人の心配そうな顔に、君は、悪戯っぽく笑ってみせた。
それは、僕がずっと見たかった、君の本当の笑顔だった。
「うん。……大丈夫。一人で家いると、なんか気が滅入っちゃうし。……それに…」
そして君は、こう言ったのだ。
「私、今日から、生まれ変わったから!」
そう言って君は、自分のデスクに向かうと、当たり前のようにパソコンの電源を入れた。
その、凛とした後ろ姿。
ああ、そうだ。
君は、そういう人だった。
どんなに傷ついても、どんなに打ちのめされても、必ず、自分の足でまた立ち上がろうとする。
その、どうしようもないほどの強さが、眩しくて。
胸が痛い。
僕には、君を、直接支えてあげることはできないのかもしれない。
佐竹くんみたいに優しい言葉をかけることも、九十九くんみたいに明るく励ますことも、下手くそだから。
でも、それでいい。
君が、また前を向いて歩き出すのなら。
僕に、できるのは、ただ一つ。
君が、また、理不尽な暴力に傷つけられそうになった時。
誰よりも早く、その前に立ちはだかることだけだ。
この、傷だらけの拳で。
君の明日を、守ることだけだ。
僕は、自分のマグカップに、新しくコーヒーを注いだ。
君が淹れるコーヒーには、到底敵わない。
それでも、この温かい香りがする、君の「居場所」を、守るためなら。
僕は、何度だって、道化師にでも、悪魔にでも、なってやる。
<了>
