第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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第六幕:嘘つきな女神の、たった一つの真実
その日の夜。
誰もいなくなった、がらんとした事務所で、未華子は一人、パソコンの光に照らされていた。
意味のないタイピングを、ただ繰り返す。
そうでもしていないと、心が壊れてしまいそうだったから。
ガチャリ、とドアが開く音がした。
「……未華子」
そこに立っていたのは、佐竹だった。
手には、温かいお茶が入った、マグカップを二つ持っている。
「……ほどほどにしとけよ」
彼は、それだけ言うと、未華子のデスクの前に、一つのマグカップを置いた。
いつもと変わらない何気ない優しさが、今の未華子には、刃物のように心を抉る。
「……ありがとう。でも、もう、帰るところだから」
未華子は、笑おうとした。
大丈夫だと、無理やり、笑顔の仮面を被ろうとした。
だが、その仮面は、彼の静かすぎる一言で、粉々に砕け散った。
「…………未華子」
その声には、怒りでも、呆れでもない。
ただ、どうしようもないほどの痛みがこもっていた。
「……無理をさせて……すまなかった」
「……え?」
「全部、知ってる」
佐竹は、一歩、また一歩と、未華子の元へと歩み寄る。
「エイトがお前にしたことも。お前が、……妊娠、したことも。……そして今日、病院に行っていたことも。……全部、知ってるんだよ」
時間が止まった。
隠し通せていたと思っていた、一番、醜くて、惨めで、汚らわしい、自分の秘密。
それを、彼が、知っていた。
「……そっか」
未華子の口から、乾いた、笑い声が漏れた。
「……なぁんだ。……知ってたんだ。……杉浦くんも?」
「……ああ」
「……そっか、そっかぁ……」
恥ずかしい。
惨めだ。
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ、この世界から消えてしまいたい。
「……心配かけて、ごめんね」
彼女は、笑おうとした。
まだ、最後のプライドが、彼女に強がりをさせようとしていた。
「でも、大丈夫だから。佐竹が可愛がってた後輩を、悪く言うのは失礼だけどさ。『もう顔も見たくない』って、ちゃんと一発殴ってきた。……だから、私、もう、本当に、大丈夫、だから……」
その、震える声で、必死に紡がれる嘘の言葉。
佐竹は、もう聞いていられなかった。
(……俺のせいだ)
彼の中で、ずっと燻り続けていた、罪悪感の炎が燃え上がる。
――俺が、あの事件を持ち込んだから。
――俺の甘いプロファイリングのせいで、お前を、あいつに近づけてしまったから。
――お前の、その身体も心も、俺が傷つけてしまったも同然だ。
――俺は、お前に謝る資格すらない。
彼は、未華子の腕を掴むと、無理やり、その椅子から立たせた。
そして、その震える身体を力強く、壊れ物を抱きしめるように、その胸に閉じ込めた。
「…………っ、すまない…………」
低く掠れた、優しい声は、もはや、彼女に向けられたものではなかったのかもしれない。
彼自身のやり場のない罪悪感への、悲痛な独白だった。
ああ、ダメだ。
もう、ダメだ。
「……だから、もう」
佐竹は、彼女の背中を、子供をあやすように、優しく、何度も、さすった。
その声は、祈るようだった。
「……俺にも、分けてくれ」
「……え?」
「お前のその痛みを、苦しみを、俺に、半分背負わせてくれ。…泣いてもいい。弱音を吐いてもいい。……みっともなくても、なんでもいいから。……だから、もう、一人で、戦わないでくれ」
その一言で、未華子の、最後の堰が切れた。
「う……あ……ああああああっ……!」
彼女は、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
佐竹のシャツを、ぐしゃぐしゃになるくらい、強く握りしめて。
彼の胸に、顔を埋めて。
ずっと、ずっと、一人で抱え込んでいた、痛みと、悲しみと、悔しさと、その全てを、涙として吐き出すように。
佐竹は、ただ黙って、その小さな背中を優しくさすり続けていた。
横浜の、長い長い夜が、ようやく、本当に明けようとしていた。
第九話:終
その日の夜。
誰もいなくなった、がらんとした事務所で、未華子は一人、パソコンの光に照らされていた。
意味のないタイピングを、ただ繰り返す。
そうでもしていないと、心が壊れてしまいそうだったから。
ガチャリ、とドアが開く音がした。
「……未華子」
そこに立っていたのは、佐竹だった。
手には、温かいお茶が入った、マグカップを二つ持っている。
「……ほどほどにしとけよ」
彼は、それだけ言うと、未華子のデスクの前に、一つのマグカップを置いた。
いつもと変わらない何気ない優しさが、今の未華子には、刃物のように心を抉る。
「……ありがとう。でも、もう、帰るところだから」
未華子は、笑おうとした。
大丈夫だと、無理やり、笑顔の仮面を被ろうとした。
だが、その仮面は、彼の静かすぎる一言で、粉々に砕け散った。
「…………未華子」
その声には、怒りでも、呆れでもない。
ただ、どうしようもないほどの痛みがこもっていた。
「……無理をさせて……すまなかった」
「……え?」
「全部、知ってる」
佐竹は、一歩、また一歩と、未華子の元へと歩み寄る。
「エイトがお前にしたことも。お前が、……妊娠、したことも。……そして今日、病院に行っていたことも。……全部、知ってるんだよ」
時間が止まった。
隠し通せていたと思っていた、一番、醜くて、惨めで、汚らわしい、自分の秘密。
それを、彼が、知っていた。
「……そっか」
未華子の口から、乾いた、笑い声が漏れた。
「……なぁんだ。……知ってたんだ。……杉浦くんも?」
「……ああ」
「……そっか、そっかぁ……」
恥ずかしい。
惨めだ。
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ、この世界から消えてしまいたい。
「……心配かけて、ごめんね」
彼女は、笑おうとした。
まだ、最後のプライドが、彼女に強がりをさせようとしていた。
「でも、大丈夫だから。佐竹が可愛がってた後輩を、悪く言うのは失礼だけどさ。『もう顔も見たくない』って、ちゃんと一発殴ってきた。……だから、私、もう、本当に、大丈夫、だから……」
その、震える声で、必死に紡がれる嘘の言葉。
佐竹は、もう聞いていられなかった。
(……俺のせいだ)
彼の中で、ずっと燻り続けていた、罪悪感の炎が燃え上がる。
――俺が、あの事件を持ち込んだから。
――俺の甘いプロファイリングのせいで、お前を、あいつに近づけてしまったから。
――お前の、その身体も心も、俺が傷つけてしまったも同然だ。
――俺は、お前に謝る資格すらない。
彼は、未華子の腕を掴むと、無理やり、その椅子から立たせた。
そして、その震える身体を力強く、壊れ物を抱きしめるように、その胸に閉じ込めた。
「…………っ、すまない…………」
低く掠れた、優しい声は、もはや、彼女に向けられたものではなかったのかもしれない。
彼自身のやり場のない罪悪感への、悲痛な独白だった。
ああ、ダメだ。
もう、ダメだ。
「……だから、もう」
佐竹は、彼女の背中を、子供をあやすように、優しく、何度も、さすった。
その声は、祈るようだった。
「……俺にも、分けてくれ」
「……え?」
「お前のその痛みを、苦しみを、俺に、半分背負わせてくれ。…泣いてもいい。弱音を吐いてもいい。……みっともなくても、なんでもいいから。……だから、もう、一人で、戦わないでくれ」
その一言で、未華子の、最後の堰が切れた。
「う……あ……ああああああっ……!」
彼女は、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
佐竹のシャツを、ぐしゃぐしゃになるくらい、強く握りしめて。
彼の胸に、顔を埋めて。
ずっと、ずっと、一人で抱え込んでいた、痛みと、悲しみと、悔しさと、その全てを、涙として吐き出すように。
佐竹は、ただ黙って、その小さな背中を優しくさすり続けていた。
横浜の、長い長い夜が、ようやく、本当に明けようとしていた。
第九話:終
