第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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第五幕:最も残酷な"真実"
―――事件は、終わった。
だが、未華子の中では、まだ、何も終わってはいなかった。
ふわふわと、まるで、まだ夢の中にいるような感覚。
目を閉じれば、すぐに、あの甘い声と熱い指先が、未華子の身体を支配しようとする。
『―――愛してるよ』
あの、悪魔の囁きが耳から離れない。
軟禁されていた、タワーマンションの一室。
後日、公安の現場検証に立ち会っている間も、心は上の空でまともに証言もできなかった。
九十九も、杉浦も、佐竹も、言葉にはしない。
だが、彼らは、わかっているはずだ。
あの5日間で、未華子の身に、何があったのかを。
(……汚れてしまった)
違う。
それ以上に、屈辱的だった。
あの、与えられた「快楽」を思い出してしまう自分が。
あの男の顔を、声を、指先を思い出して、身体が疼いてしまう自分が。
最低で、気持ち悪くて、到底受け入れることなどできなかった。
*
エイト事件は、唐突な結末の後、完全に公安の管轄へと移行した。
国際指名手配された「エイト」こと畠山大志は、すでに、国外へ逃亡したものと見られている。
佐竹は、未華子がいる前では、決して、エイトや「ハタケ」の名前を口にすることはなかった。
杉浦も九十九も、これまで以上に彼女を気遣い、大切に扱ってくれているのが痛いほど、伝わってくる。
そして、未華子自身も、努めて明るく、いつも通りに振る舞っていた。
一見、横浜九十九課には、事件以前の温かい日常が戻ってきているかのように見えた。
誰もが、そう信じようとしていた。
――しかし、悪夢は、終わらなかった。
事件から、1ヶ月半後。
6月中旬。
訪れるはずのものが、来ない。
最初は、事件のストレスのせいだろうと、無理やり自分に言い聞かせていた。
だが、心当たりはありすぎた。
震える手で、薬局の一番隅にあった妊娠検査薬を買う。
そして、自宅マンションの冷たいトイレの中で、現実を突きつけられる。
残酷なまでに、はっきりと浮かび上がった、陽性の二本の線。
絶望。
声も出なかった。
絶対に、絶対に、絶対に、誰にも知られてはならない。
この忌まわしい「事実」を、知られてはいけない。
杉浦くんにも、佐竹にも、九十九氏にも。
優しいあの人たちに、これ以上重荷を背負わせるわけにはいかない。
未華子は、一人で全てを終わらせることを決意した。
伊勢佐木異人町から離れた、横浜駅近くの産婦人科を匿名で予約する。
そのビルは、駅前の喧騒から少し離れた場所にあった。
受付で渡された問診票。
「現在 妊娠している もしくは 妊娠の可能性がある方へお聞きします 」
「今回の妊娠の継続を希望しますか?」
未華子は迷うことなく「いいえ」にチェックを入れる。
名前ではなく番号で呼ばれ、重い扉の向こうへ進む。
まずは内診室。
カーテンで仕切られた無機質な空間で、冷たい超音波(エコー)のプローブが現実を突きつける。
モニターに映し出された、小さな、あまりに小さな「点」。
「……現在、六週と三日ですね。心拍も確認できます」
医師の声は、今日の天気を告げる予報士のように淡々としていた。
それが今の未華子には、何よりの救いだった。
身なりを整え、仕切りの向こうの診察室へ。
デスクを挟んで向き合った医師は、白髪混じりの、どこか疲れた眼差しを向けていた。
「パートナーの方と、お話し合いはされていますか? 手術には、原則としてお相手の同意署名が必要になりますが」
未華子は、診察室の白い光の中で、まるで他人の取材メモを読み上げる記者のように、淡々と嘘を吐いた。
「……相手の連絡先は知りません。拒絶しましたが、抗えませんでした。警察に届けるつもりもありません。ただ、この事実を消したいだけです」
医師は一瞬、眼鏡の奥で探るような視線を向けたが、やがて小さく息をつき、カルテに何かを書き込んだ。
彼らにとって、これは「日常」の一コマに過ぎない。
未華子は、自分の人生を粉砕した地獄が、わずか数行の事務的な報告で処理されていく現実に、乾いた笑いが込み上げるのを抑えた。
「わかりました。事情が事情ですから、今回はご本人のサインのみで進めましょう」
医師は一通の書類を差し出した。
『同意書』。
そこには、合併症のリスクや、麻酔に関する注意事項が、整然としたフォントで並んでいる。
「当日は朝から絶飲食になります。前日の夜9時以降は、水も飲まないでください。手術自体は15分程度。麻酔で眠っている間に終わりますから」
「……はい」
5日間の監禁も、自分の中に宿ったエイトの痕跡も、数日後には「処理」され、この世から消えてなくなる。
―――だが。
彼女は、忘れていた。
この横浜という街が、蜘蛛の巣(コミジュル)のテリトリーであるということを。
彼女の不審な行動は、全て、ソンヒの耳に筒抜けだった。
産婦人科で中絶の予約をした翌日。
ソンヒからの、短い呼び出しがあった。
コミジュルのアジトの一室。
清潔だが、どこか無機質な、カウンセリングルームのような部屋に二人きり。
ソンヒは、何も言わなかった。
ただ静かに、温かいハーブティーを差し出すだけ。
エイトと公安からの、解放後。
ソンヒは、未華子の様子がおかしいことに、ずっと気づいていた。
そして、誰にも言えない、彼女の心の傷の相談相手になってくれていたのだ。
「……何があったか、もうバレてしまった、ってことですよね」
未華子がそう言うと、彼女は静かに頷いた。
「まあな。……ここは、私の庭だ」
彼女が、全てを、見抜いていることを、悟った瞬間。
未華子を、かろうじて「未華子」として奮い立たせていた、1本の糸がぷつり、と切れた。
「……ひとりで抱えるな」
ソンヒの、静かで、力強い声。
嗚咽する未華子の背中を、冷たくて、でもどこまでも優しい手が、ゆっくりと撫でている。
「……これは、お前だけの問題じゃない。…私たち、全員の問題だ」
やがて、泣き疲れた未華子が、顔を上げた時。
ソンヒは静かに、一つの質問をした。
「……お前は、どうしたい?」
「…………」
「……お前は、あの男(エイト)のことを、どう思っている? …そこに、少しでも特別な感情はあるのか?」
未華子はしばらく逡巡した後、震える声で、誰にも言えなかった本当の気持ちを吐き出した。
「……………わかりません」
「…………」
「……ストックホルム症候群みたいなものだって、頭ではわかってるんです。…でも」
彼女は、自分の二の腕を強く抱きしめるようにして、小さく笑った。
その指先は、微かに震えている。
「……あの人のことが、頭から離れないんです」
「……怖い、はずなのに。…憎い、はずなのに。…時々、思い出してしまうんです。……あの5日間のことを……」
痛々しく矛盾に満ちた告白を、ソンヒは、何も言わずに、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。
そして、ゆっくりとその冷たい指先で、未華子の頬に残る涙の跡を拭った。
「…………それが、あいつのやり口だ」
その声は静かだったが、底知れない怒りを宿していた。
「暴力と優しさ。恐怖と快感。…その両極端を交互に与えることで、相手の精神のバランスを崩壊させる。…最も古く、そして、最も卑劣な『調教』や『洗脳』の手口だ」
「…………」
「だから、お前は何も悪くない。…そう感じてしまうのは、お前の心が弱いからじゃない。…あいつがそうなるように、お前の魂を弄んだだけだ」
どこまでも真っ直ぐな、肯定の言葉。
未華子の胸のつかえが、ほんの少しだけ、取れるような気がした。
ソンヒは続ける。
その声は、同じ「女」として、そして同じ「闇」を知る者としての、深い共感が込められていた。
「……お前の意思とは関係なく、その身に宿ってしまった命。…それが、どれほどの重荷か。…その心の傷も、身体の傷も。…男には、到底、理解できないだろう」
「…………ソンヒ、さん……」
「……そして何よりも。…あの、純情な騎士(杉浦)に、この事実をどう伝えるのか。…知られたら、どう思われるのか。…それが一番怖いんだろう?」
的確に、自分の一番触れられたくない恐怖を、言い当てられる。
未華子が子供のようにこくりと頷くと、ソンヒは、ふぅ、と短く息を吐いた。
そして、まるでチェスの最後の一手を指すかのように。
静かに、そして、究極の問いを投げかけた。
「……………会いたいか? 奴(エイト)に」
「え……?」
未華子は、しばらく考え込んだ。
そして、震える声で答えた。
「……………わかり…ません」
「…………」
「……でも」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、微かな決意の光が宿っていた。
「……もし、もう一度、会うことができたなら。…もしかしたら、このぐちゃぐちゃの気持ちも吹っ切れることが、できるのかもしれません」
未華子の震える声での決意を聞いた、ソンヒは「……そうか」と短く、重く呟いた。
そして彼女は、テーブルの上に置かれていた、内線電話の受話器を静かに上げたのだ。
「……連れてきて」
その短い命令が何を意味するのか、これから何が起きるのか、未華子はまだ理解できない。
数秒の沈黙の後。
部屋の重い鉄の扉が、外側からゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは。
未華子が、この世で、今最も会いたくなくて、しかし、会わなければならないと覚悟を決めた男だった。
エイト――畠山大志。
その甘いマスクには、あの夜と全く変わらない、人懐っこい悪魔の笑みが浮かんでいる。
「…………やあ」
彼は、まるで近所のカフェで偶然再会したかのような気軽さで、片手を上げた。
「……会いたかったよ、未華子」
「……私たちは、こういうやり方でしか生き延びてこられなかった」
隣で、ソンヒが静かに頭を下げた。
「……悪く、思わないでくれ」
―――海外に逃亡したと思われていた、エイト。
その背後にいたのは、コミジュル。
否。
おそらくソンヒが、独断で彼を匿っていたのだ。
「聞いたよ」
エイトが、楽しそうに未華子に歩み寄る。
「……俺たちの子ども。…できたんだってね」
「…………っ!」
「嬉しいなぁ。…俺、本気で未華子のこと愛してるんだ。……だからさ、結婚しようよ。この子も一緒に、三人で暮らそう?」
屈託がなく、無邪気で、そして、どうしようもなく自己中心的な言葉。
愛?
結婚?
子供?
この男は、自分が一体何をしたのか、全くわかっていないのだ。
未華子の中で、ぷつり、と、最後の理性の糸が切れた。
―――パンッ!
乾いた破裂音が、静かな部屋に響き渡った。
エイトの美しい頬に、真っ赤な手形が浮かび上がる。
彼の瞳が、信じられない、というように、大きく見開かれていた。
目の前に立つ、未華子の瞳。
そこには、もう、一切の迷いも甘い夢もなかった。
ただ、燃えるような静かな怒りと、絶対的な決意だけがあった。
「……二度と」
その声は、氷のように冷たかった。
「私の、前に、その、汚い顔を、見せるな」
ソンヒに「このことは絶対に、九十九課の誰にも言わないでください」と、強く、強く念を押し。
彼女は、アジトを後にした。
その足取りには、もう一切の迷いはなかった。
吹っ切れた、というには、その傷は深すぎる。
だが、彼女は確かに、一つの「答え」を見つけたのだ。
この、どうしようもない運命を誰にも頼らず、自分一人の手で終わらせる、という、答えを。
*
数日後。
未華子は、再び、予約した産婦人科へ一人で向かった。
冷たい手術台の上。
無機質な機械音と、天井の眩しすぎるLEDライト。
麻酔で、意識が遠のいていく。
(……さようなら)
(私の、小さな過ち)
……遠くで名前を呼ばれた気がした。
目覚めた時、腹部の奥には、焼けた鉄を押し当てられたような鈍い痛みが居座っていた。
病院を出たあとも、後遺症のように、吐き気とめまいが彼女を襲う。
だが、事務所の男たちに、この「醜い痕跡」を悟られるわけにはいかない。
事務所の入るビルの前で、彼女は一度足を止め、深く息を吐いた。
手鏡を取り出し、真っ白に血の気の引いた唇に、いつもより鮮やかな色のリップを引く。
何度も頬を叩いて無理やり朱を差すと、彼女は「女神」の仮面を完璧に被り直した。
◎数時間前[場所:横浜九十九課]
未華子が、九十九課の3人には「歯医者」と偽り、人知れず産婦人科へと向かった、まさにその時。
事務所のドアベルが、軽快な音を立てた。
護衛も、取り巻きもいない。
たった一人で、そこに立っていたのは。
まるで、近所の大学生が迷い込んできたかのような、ラフなパーカー姿のエイトだった。
「へえ〜。…ここが、例の。…古いビルだけど、結構お洒落っすね、松田先輩」
場違いすぎるほど、明るい声。
ソファに座っていた杉浦が、殺気を発しながら立ち上がる。
佐竹は、椅子に座ったまま、その氷のような瞳で、侵入者を射抜いていた。
「……………何の用だ」
「いやいや、そんな怖い顔、しないでくださいよ」
エイトは、悪びれる様子もなく、事務所の中を物珍しそうに見渡した。
そして、わざとらしく、深々と頭を下げてみせる。
「いやー、この度は本当にすみませんでした。…なんというか、未華子といると、楽しくなっちゃって。…ちょっと、遊びすぎちゃいましたかね」
謝罪のフリをした、完全な煽り。
そして、「自分の女」であることを仄めかすような、呼び捨てに。
佐竹の中で、何かが切れた。
「―――てめぇ……!」
彼が、椅子を蹴り飛ばし、殴りかかろうとした、その瞬間。
エイトは、さらに巨大な爆弾を投下した。
彼は、心の底から楽しそうに、そして、無邪気に、こう言ったのだ。
「え~? なんで、そんな怒るんですか?」
「…………」
「…………」
「だって、俺と彼女の間に、赤ちゃん、できちゃったんですよ? 愛の結晶ってやつ?」
「まあでも。…今頃、彼女、一人で、中絶しに病院行ってるみたいですけどね。…可哀想に」
「あはははは! 1回、中で出しただけで、できちゃうなんて! 俺たち、相性抜群だったのかなぁ!?」
佐竹が、怒りに任せてその拳を振り上げた、その瞬間よりも早く。
それまで、ずっと壁際に影のように控えていた、一つの黒い影が動いた。
杉浦だった。
ゴッ!
鈍い肉の打撃音。
杉浦の鉄の拳が、エイトの美しい顔面を、寸分の狂いもなく、完璧に捉えていた。
吹っ飛ぶエイト。
床に転がり、口の端から、一筋、赤い血を流している。
その光景を、杉浦は完全に光が消えた虚無の瞳で、ただ、見下ろしていた。
それは、もはや、怒りではない。
底なしの絶望と、悲しみだった。
エイトは、ゆっくりとその身を起こすと、切れた唇を親指で拭った。
そして、少しだけ悲しそうに、でも、どこか満足そうに笑った。
「……ああ、そっか」
「……君も本気で、好きだったんだね。……彼女のこと」
彼は、それだけ言うと飄々と立ち上がり、事務所を後にした。
「……まあ俺は、次の仕事でしばらく日本を離れるんで。…あとは、よろしくお願いしますよ。『センパイ』がた」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていく堕天使。
残された事務所には、絶望的な沈黙だけが満ちていた。
杉浦の震える拳。
佐竹の、固く握りしめられた手。
そして、九十九の、メガネの奥のどうしようもない悲しみ。
―――その数時間後。
「ただいまー」
事務所のドアが開き、何も知らないはずの未華子が、帰ってきた。
「ごめんごめん! 歯医者、思ったより長引いちゃってさー」
いつも通りの明るい声。
「詰め物取れただけだったから、すぐ終わると思ったんだけどなー」
完璧な嘘。
完璧な笑顔。
三人の男たちは、まるで石になったかのように固まったまま、その姿を見つめていた。
彼女が一体、どこで、何をしてきたのか。
その笑顔の仮面の下で、どれほどの痛みを一人で抱えているのか。
それを、知ってしまっている残酷さ。
「……あれ? どうしたの三人とも。…なんか、暗くない?」
きょとんとした顔で、こちらを見つめる彼女。
最初に、動いたのは杉浦だった。
彼はゆっくりと立ち上がると、ぎこちない動きでキッチンへと向かった。
そして、努めて、いつもと同じ声を作ろうとしながら言った。
「……おかえり。…コーヒー淹れるけど、未華子ちゃんも、飲む?」
不器用な優しさ。
それを聞いた未華子は、一瞬だけ、躊躇うように目を伏せた。
そして、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻るとこう言ったのだ。
「……うーん、どうしよっかなー。…せっかく、歯、綺麗にしてもらったばっかりだしなー」
「……あったかいお茶でも、もらおうかな!」
本当は、麻酔の後遺症で、まだ吐き気とめまいが止まらなかった。
コーヒーのような、刺激物は飲みたくなかった。
ただ、それだけの理由。
しかし、痛々しいほど健気な嘘。
その小さな嘘の、本当の意味を。
三人の男たちは、痛いほどわかってしまっていた。
だが、彼らは何も言えない。
何も聞けない。
いつも通りに笑ってみせる、その愛しい、嘘つきな女神の姿を。
ただ、見つめていることしかできなかった。
―――事件は、終わった。
だが、未華子の中では、まだ、何も終わってはいなかった。
ふわふわと、まるで、まだ夢の中にいるような感覚。
目を閉じれば、すぐに、あの甘い声と熱い指先が、未華子の身体を支配しようとする。
『―――愛してるよ』
あの、悪魔の囁きが耳から離れない。
軟禁されていた、タワーマンションの一室。
後日、公安の現場検証に立ち会っている間も、心は上の空でまともに証言もできなかった。
九十九も、杉浦も、佐竹も、言葉にはしない。
だが、彼らは、わかっているはずだ。
あの5日間で、未華子の身に、何があったのかを。
(……汚れてしまった)
違う。
それ以上に、屈辱的だった。
あの、与えられた「快楽」を思い出してしまう自分が。
あの男の顔を、声を、指先を思い出して、身体が疼いてしまう自分が。
最低で、気持ち悪くて、到底受け入れることなどできなかった。
*
エイト事件は、唐突な結末の後、完全に公安の管轄へと移行した。
国際指名手配された「エイト」こと畠山大志は、すでに、国外へ逃亡したものと見られている。
佐竹は、未華子がいる前では、決して、エイトや「ハタケ」の名前を口にすることはなかった。
杉浦も九十九も、これまで以上に彼女を気遣い、大切に扱ってくれているのが痛いほど、伝わってくる。
そして、未華子自身も、努めて明るく、いつも通りに振る舞っていた。
一見、横浜九十九課には、事件以前の温かい日常が戻ってきているかのように見えた。
誰もが、そう信じようとしていた。
――しかし、悪夢は、終わらなかった。
事件から、1ヶ月半後。
6月中旬。
訪れるはずのものが、来ない。
最初は、事件のストレスのせいだろうと、無理やり自分に言い聞かせていた。
だが、心当たりはありすぎた。
震える手で、薬局の一番隅にあった妊娠検査薬を買う。
そして、自宅マンションの冷たいトイレの中で、現実を突きつけられる。
残酷なまでに、はっきりと浮かび上がった、陽性の二本の線。
絶望。
声も出なかった。
絶対に、絶対に、絶対に、誰にも知られてはならない。
この忌まわしい「事実」を、知られてはいけない。
杉浦くんにも、佐竹にも、九十九氏にも。
優しいあの人たちに、これ以上重荷を背負わせるわけにはいかない。
未華子は、一人で全てを終わらせることを決意した。
伊勢佐木異人町から離れた、横浜駅近くの産婦人科を匿名で予約する。
そのビルは、駅前の喧騒から少し離れた場所にあった。
受付で渡された問診票。
「現在 妊娠している もしくは 妊娠の可能性がある方へお聞きします 」
「今回の妊娠の継続を希望しますか?」
未華子は迷うことなく「いいえ」にチェックを入れる。
名前ではなく番号で呼ばれ、重い扉の向こうへ進む。
まずは内診室。
カーテンで仕切られた無機質な空間で、冷たい超音波(エコー)のプローブが現実を突きつける。
モニターに映し出された、小さな、あまりに小さな「点」。
「……現在、六週と三日ですね。心拍も確認できます」
医師の声は、今日の天気を告げる予報士のように淡々としていた。
それが今の未華子には、何よりの救いだった。
身なりを整え、仕切りの向こうの診察室へ。
デスクを挟んで向き合った医師は、白髪混じりの、どこか疲れた眼差しを向けていた。
「パートナーの方と、お話し合いはされていますか? 手術には、原則としてお相手の同意署名が必要になりますが」
未華子は、診察室の白い光の中で、まるで他人の取材メモを読み上げる記者のように、淡々と嘘を吐いた。
「……相手の連絡先は知りません。拒絶しましたが、抗えませんでした。警察に届けるつもりもありません。ただ、この事実を消したいだけです」
医師は一瞬、眼鏡の奥で探るような視線を向けたが、やがて小さく息をつき、カルテに何かを書き込んだ。
彼らにとって、これは「日常」の一コマに過ぎない。
未華子は、自分の人生を粉砕した地獄が、わずか数行の事務的な報告で処理されていく現実に、乾いた笑いが込み上げるのを抑えた。
「わかりました。事情が事情ですから、今回はご本人のサインのみで進めましょう」
医師は一通の書類を差し出した。
『同意書』。
そこには、合併症のリスクや、麻酔に関する注意事項が、整然としたフォントで並んでいる。
「当日は朝から絶飲食になります。前日の夜9時以降は、水も飲まないでください。手術自体は15分程度。麻酔で眠っている間に終わりますから」
「……はい」
5日間の監禁も、自分の中に宿ったエイトの痕跡も、数日後には「処理」され、この世から消えてなくなる。
―――だが。
彼女は、忘れていた。
この横浜という街が、蜘蛛の巣(コミジュル)のテリトリーであるということを。
彼女の不審な行動は、全て、ソンヒの耳に筒抜けだった。
産婦人科で中絶の予約をした翌日。
ソンヒからの、短い呼び出しがあった。
コミジュルのアジトの一室。
清潔だが、どこか無機質な、カウンセリングルームのような部屋に二人きり。
ソンヒは、何も言わなかった。
ただ静かに、温かいハーブティーを差し出すだけ。
エイトと公安からの、解放後。
ソンヒは、未華子の様子がおかしいことに、ずっと気づいていた。
そして、誰にも言えない、彼女の心の傷の相談相手になってくれていたのだ。
「……何があったか、もうバレてしまった、ってことですよね」
未華子がそう言うと、彼女は静かに頷いた。
「まあな。……ここは、私の庭だ」
彼女が、全てを、見抜いていることを、悟った瞬間。
未華子を、かろうじて「未華子」として奮い立たせていた、1本の糸がぷつり、と切れた。
「……ひとりで抱えるな」
ソンヒの、静かで、力強い声。
嗚咽する未華子の背中を、冷たくて、でもどこまでも優しい手が、ゆっくりと撫でている。
「……これは、お前だけの問題じゃない。…私たち、全員の問題だ」
やがて、泣き疲れた未華子が、顔を上げた時。
ソンヒは静かに、一つの質問をした。
「……お前は、どうしたい?」
「…………」
「……お前は、あの男(エイト)のことを、どう思っている? …そこに、少しでも特別な感情はあるのか?」
未華子はしばらく逡巡した後、震える声で、誰にも言えなかった本当の気持ちを吐き出した。
「……………わかりません」
「…………」
「……ストックホルム症候群みたいなものだって、頭ではわかってるんです。…でも」
彼女は、自分の二の腕を強く抱きしめるようにして、小さく笑った。
その指先は、微かに震えている。
「……あの人のことが、頭から離れないんです」
「……怖い、はずなのに。…憎い、はずなのに。…時々、思い出してしまうんです。……あの5日間のことを……」
痛々しく矛盾に満ちた告白を、ソンヒは、何も言わずに、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。
そして、ゆっくりとその冷たい指先で、未華子の頬に残る涙の跡を拭った。
「…………それが、あいつのやり口だ」
その声は静かだったが、底知れない怒りを宿していた。
「暴力と優しさ。恐怖と快感。…その両極端を交互に与えることで、相手の精神のバランスを崩壊させる。…最も古く、そして、最も卑劣な『調教』や『洗脳』の手口だ」
「…………」
「だから、お前は何も悪くない。…そう感じてしまうのは、お前の心が弱いからじゃない。…あいつがそうなるように、お前の魂を弄んだだけだ」
どこまでも真っ直ぐな、肯定の言葉。
未華子の胸のつかえが、ほんの少しだけ、取れるような気がした。
ソンヒは続ける。
その声は、同じ「女」として、そして同じ「闇」を知る者としての、深い共感が込められていた。
「……お前の意思とは関係なく、その身に宿ってしまった命。…それが、どれほどの重荷か。…その心の傷も、身体の傷も。…男には、到底、理解できないだろう」
「…………ソンヒ、さん……」
「……そして何よりも。…あの、純情な騎士(杉浦)に、この事実をどう伝えるのか。…知られたら、どう思われるのか。…それが一番怖いんだろう?」
的確に、自分の一番触れられたくない恐怖を、言い当てられる。
未華子が子供のようにこくりと頷くと、ソンヒは、ふぅ、と短く息を吐いた。
そして、まるでチェスの最後の一手を指すかのように。
静かに、そして、究極の問いを投げかけた。
「……………会いたいか? 奴(エイト)に」
「え……?」
未華子は、しばらく考え込んだ。
そして、震える声で答えた。
「……………わかり…ません」
「…………」
「……でも」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、微かな決意の光が宿っていた。
「……もし、もう一度、会うことができたなら。…もしかしたら、このぐちゃぐちゃの気持ちも吹っ切れることが、できるのかもしれません」
未華子の震える声での決意を聞いた、ソンヒは「……そうか」と短く、重く呟いた。
そして彼女は、テーブルの上に置かれていた、内線電話の受話器を静かに上げたのだ。
「……連れてきて」
その短い命令が何を意味するのか、これから何が起きるのか、未華子はまだ理解できない。
数秒の沈黙の後。
部屋の重い鉄の扉が、外側からゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは。
未華子が、この世で、今最も会いたくなくて、しかし、会わなければならないと覚悟を決めた男だった。
エイト――畠山大志。
その甘いマスクには、あの夜と全く変わらない、人懐っこい悪魔の笑みが浮かんでいる。
「…………やあ」
彼は、まるで近所のカフェで偶然再会したかのような気軽さで、片手を上げた。
「……会いたかったよ、未華子」
「……私たちは、こういうやり方でしか生き延びてこられなかった」
隣で、ソンヒが静かに頭を下げた。
「……悪く、思わないでくれ」
―――海外に逃亡したと思われていた、エイト。
その背後にいたのは、コミジュル。
否。
おそらくソンヒが、独断で彼を匿っていたのだ。
「聞いたよ」
エイトが、楽しそうに未華子に歩み寄る。
「……俺たちの子ども。…できたんだってね」
「…………っ!」
「嬉しいなぁ。…俺、本気で未華子のこと愛してるんだ。……だからさ、結婚しようよ。この子も一緒に、三人で暮らそう?」
屈託がなく、無邪気で、そして、どうしようもなく自己中心的な言葉。
愛?
結婚?
子供?
この男は、自分が一体何をしたのか、全くわかっていないのだ。
未華子の中で、ぷつり、と、最後の理性の糸が切れた。
―――パンッ!
乾いた破裂音が、静かな部屋に響き渡った。
エイトの美しい頬に、真っ赤な手形が浮かび上がる。
彼の瞳が、信じられない、というように、大きく見開かれていた。
目の前に立つ、未華子の瞳。
そこには、もう、一切の迷いも甘い夢もなかった。
ただ、燃えるような静かな怒りと、絶対的な決意だけがあった。
「……二度と」
その声は、氷のように冷たかった。
「私の、前に、その、汚い顔を、見せるな」
ソンヒに「このことは絶対に、九十九課の誰にも言わないでください」と、強く、強く念を押し。
彼女は、アジトを後にした。
その足取りには、もう一切の迷いはなかった。
吹っ切れた、というには、その傷は深すぎる。
だが、彼女は確かに、一つの「答え」を見つけたのだ。
この、どうしようもない運命を誰にも頼らず、自分一人の手で終わらせる、という、答えを。
*
数日後。
未華子は、再び、予約した産婦人科へ一人で向かった。
冷たい手術台の上。
無機質な機械音と、天井の眩しすぎるLEDライト。
麻酔で、意識が遠のいていく。
(……さようなら)
(私の、小さな過ち)
……遠くで名前を呼ばれた気がした。
目覚めた時、腹部の奥には、焼けた鉄を押し当てられたような鈍い痛みが居座っていた。
病院を出たあとも、後遺症のように、吐き気とめまいが彼女を襲う。
だが、事務所の男たちに、この「醜い痕跡」を悟られるわけにはいかない。
事務所の入るビルの前で、彼女は一度足を止め、深く息を吐いた。
手鏡を取り出し、真っ白に血の気の引いた唇に、いつもより鮮やかな色のリップを引く。
何度も頬を叩いて無理やり朱を差すと、彼女は「女神」の仮面を完璧に被り直した。
◎数時間前[場所:横浜九十九課]
未華子が、九十九課の3人には「歯医者」と偽り、人知れず産婦人科へと向かった、まさにその時。
事務所のドアベルが、軽快な音を立てた。
護衛も、取り巻きもいない。
たった一人で、そこに立っていたのは。
まるで、近所の大学生が迷い込んできたかのような、ラフなパーカー姿のエイトだった。
「へえ〜。…ここが、例の。…古いビルだけど、結構お洒落っすね、松田先輩」
場違いすぎるほど、明るい声。
ソファに座っていた杉浦が、殺気を発しながら立ち上がる。
佐竹は、椅子に座ったまま、その氷のような瞳で、侵入者を射抜いていた。
「……………何の用だ」
「いやいや、そんな怖い顔、しないでくださいよ」
エイトは、悪びれる様子もなく、事務所の中を物珍しそうに見渡した。
そして、わざとらしく、深々と頭を下げてみせる。
「いやー、この度は本当にすみませんでした。…なんというか、未華子といると、楽しくなっちゃって。…ちょっと、遊びすぎちゃいましたかね」
謝罪のフリをした、完全な煽り。
そして、「自分の女」であることを仄めかすような、呼び捨てに。
佐竹の中で、何かが切れた。
「―――てめぇ……!」
彼が、椅子を蹴り飛ばし、殴りかかろうとした、その瞬間。
エイトは、さらに巨大な爆弾を投下した。
彼は、心の底から楽しそうに、そして、無邪気に、こう言ったのだ。
「え~? なんで、そんな怒るんですか?」
「…………」
「…………」
「だって、俺と彼女の間に、赤ちゃん、できちゃったんですよ? 愛の結晶ってやつ?」
「まあでも。…今頃、彼女、一人で、中絶しに病院行ってるみたいですけどね。…可哀想に」
「あはははは! 1回、中で出しただけで、できちゃうなんて! 俺たち、相性抜群だったのかなぁ!?」
佐竹が、怒りに任せてその拳を振り上げた、その瞬間よりも早く。
それまで、ずっと壁際に影のように控えていた、一つの黒い影が動いた。
杉浦だった。
ゴッ!
鈍い肉の打撃音。
杉浦の鉄の拳が、エイトの美しい顔面を、寸分の狂いもなく、完璧に捉えていた。
吹っ飛ぶエイト。
床に転がり、口の端から、一筋、赤い血を流している。
その光景を、杉浦は完全に光が消えた虚無の瞳で、ただ、見下ろしていた。
それは、もはや、怒りではない。
底なしの絶望と、悲しみだった。
エイトは、ゆっくりとその身を起こすと、切れた唇を親指で拭った。
そして、少しだけ悲しそうに、でも、どこか満足そうに笑った。
「……ああ、そっか」
「……君も本気で、好きだったんだね。……彼女のこと」
彼は、それだけ言うと飄々と立ち上がり、事務所を後にした。
「……まあ俺は、次の仕事でしばらく日本を離れるんで。…あとは、よろしくお願いしますよ。『センパイ』がた」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていく堕天使。
残された事務所には、絶望的な沈黙だけが満ちていた。
杉浦の震える拳。
佐竹の、固く握りしめられた手。
そして、九十九の、メガネの奥のどうしようもない悲しみ。
―――その数時間後。
「ただいまー」
事務所のドアが開き、何も知らないはずの未華子が、帰ってきた。
「ごめんごめん! 歯医者、思ったより長引いちゃってさー」
いつも通りの明るい声。
「詰め物取れただけだったから、すぐ終わると思ったんだけどなー」
完璧な嘘。
完璧な笑顔。
三人の男たちは、まるで石になったかのように固まったまま、その姿を見つめていた。
彼女が一体、どこで、何をしてきたのか。
その笑顔の仮面の下で、どれほどの痛みを一人で抱えているのか。
それを、知ってしまっている残酷さ。
「……あれ? どうしたの三人とも。…なんか、暗くない?」
きょとんとした顔で、こちらを見つめる彼女。
最初に、動いたのは杉浦だった。
彼はゆっくりと立ち上がると、ぎこちない動きでキッチンへと向かった。
そして、努めて、いつもと同じ声を作ろうとしながら言った。
「……おかえり。…コーヒー淹れるけど、未華子ちゃんも、飲む?」
不器用な優しさ。
それを聞いた未華子は、一瞬だけ、躊躇うように目を伏せた。
そして、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻るとこう言ったのだ。
「……うーん、どうしよっかなー。…せっかく、歯、綺麗にしてもらったばっかりだしなー」
「……あったかいお茶でも、もらおうかな!」
本当は、麻酔の後遺症で、まだ吐き気とめまいが止まらなかった。
コーヒーのような、刺激物は飲みたくなかった。
ただ、それだけの理由。
しかし、痛々しいほど健気な嘘。
その小さな嘘の、本当の意味を。
三人の男たちは、痛いほどわかってしまっていた。
だが、彼らは何も言えない。
何も聞けない。
いつも通りに笑ってみせる、その愛しい、嘘つきな女神の姿を。
ただ、見つめていることしかできなかった。
