第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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◎場面転換[場所:横浜九十九課]
未華子が、公安の捜査官とともに冷たいエレベーターに飲み込まれて、数時間。
六本木から、伊勢佐木異人町の事務所に戻ってきても、そこに漂う空気は、あの夜の東京湾の冷たい海水のように重く澱んでいた。
「……未華子ちゃん、大丈夫かな…」
ソファに、沈み込むように座った杉浦が、ぽつりと呟いた。
その声はか細く、不安に震えている。
「怪我とかはしてなさそうだったけど……。でも、5日間も監禁されてたんだ。体だって心配だし……。…ねえ佐竹くん。…すぐ解放されるよね?」
すがるような問いに、窓の外を見つめていた佐竹は、何も答えられなかった。
『本件に関する合同捜査は、これをもって終了とする』
あの屋上で、一方的に告げられた、公安のリーダー格の男の言葉。
『対象者(エイト)の逃亡を許した今回の失態。…そして何より、君たちの"情報提供者(未華子)"が、捜査を混乱させた』
それは、暗にこう言っているのだ。
「これは、お前たちのせいだ」と。
―――そして、その不安は現実のものとなった。
翌日になっても、未華子は解放されなかった。
事務所の電話が鳴るたびに、三人の肩がびくりと跳ねる。
だが、それは、いつものどうでもいい、浮気調査の依頼ばかり。
「……どういうことだよ…」
杉浦の苛立ちが募る。
「なぜ未華子氏が、ここまで、拘束されなければならないのですかな!?」
九十九も、珍しく声を荒げた。
その二人の問いに、佐竹は重い口を開いた。
「……どうやら、連中は疑っているらしい」
「……何をだよ」
「あのVIPルームで未華子が、本物の『エイト』はフードの男、つまりハタケだと見抜いてしまったこと。…あれを『お前は、我々公安を出し抜くために、わざと泳がされていたのではないか』ってな」
「「そんな!」」
杉浦と九十九の声が、ハモった。
佐竹は、あの夜からずっと動き続けていた。
公安の古巣のあらゆるコネクションを使い、「未華子の即時解放」を訴え続けていたのだ。
だが、その度に返ってくるのは、あのリーダー格の男からの慇懃無礼な答えだけだった。
『―――心配には及ばんよ、松田』
電話の向こうから聞こえる男の声は、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
『彼女自身が「いくらでも証言する」と、非常に献身的に捜査に協力してくれているんだ。…素晴らしい市民じゃないか』
「……ふざけるな。…彼女を返せ」
『ああそれと、家に帰りたがらないのも、彼女自身の希望だ。「エイトからの報復が怖いから、しばらくは公安の施設で守ってほしい」と、そう言っている』
「…………っ!」
―――全て嘘だ。
佐竹には、わかっていた。
未華子が、そんな泣き言を言うはずがない。
これは、公安が、意図的に彼女を「隔離」し、自分たちを遠ざけようとしているのだ。
そして、その裏で、彼女に一体どんな「尋問」が行われているのか。
それを想像するだけで、腹の底が煮え繰り返るようだった。
「……どうなってんだよ、公安ってのは!」
杉浦が、壁を殴りつけた。
「未華子ちゃんは被害者だろ! なのに、なんで、あの子がそんな目に……!」
その怒りの矛先が、ゆっくりと佐竹へと向かう。
「……………あんたのせいだよ」
その低い声に、事務所の空気が再び凍りついた。
「……え、杉浦氏!?」
「だって、そうじゃんか! あんたが、こんな、厄介な事件持ち込んできさえしなければ…!」
痛い正論に、佐竹は何も言い返せず、ただ固く唇を噛み締める。
二人の間に、いつ亀裂が入ってもおかしくない、張り詰めた空気。
それを断ち切ったのは、九十九の静かだが力強い声だった。
「―――二人とも、やめなされ」
いつになく真剣な「所長」の顔つきに、二人はハッとして口を噤んだ。
九十九は、ゲーミングチェアからゆっくりと立ち上がった。
そして、こう言ったのだ。
「……仲間割れしている暇など、ありませんぞ」
彼のメガネの奥の目が、悲しそうに揺れていた。
「……今、一番、辛くて、怖い思いをしているのは誰か。…わかっているでしょう?」
当たり前で、そして、何よりも大切な一言。
杉浦は「……っ!」と息を呑み、悔しそうに顔を歪めた。
自分の苛立ちを、仲間であるはずの佐竹にぶつけてしまった、その未熟さを呪うように。
佐竹もまた、何も言わなかった。
だが、その固く握りしめられていた拳の力が、ほんの少しだけ緩んだのを、九十九は見逃さなかった。
彼もまた、自分を、責めているのだ。
「……待ちましょう」
九十九が、静かに言った。
「彼女が帰ってくるのを。…そして、帰ってきた時に『おかえり』と言えるように。…ボクたちはひたすら、ここで、ボクたちにできることをするだけです」
無力な三人の男たちの、どうしようもない決意表明だった。
事務所の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
*
―――そして、未華子が公安に連れて行かれて丸2日が経過した後。
明け方の4時。
伊勢佐木異人町の街が、まだ深い眠りと静寂に包まれている、その時刻。
九十九ビルの前に、一台の黒塗りのセダンが音もなく停まった。
そして、一人の女が力なく、その車内から降り立つ。
車は、何も言わずに、闇の中へと消えていった。
公安は何の通告も連絡もなく、ただ人知れず、彼女をそこへ「廃棄」したのだ。
慣れたはずの、事務所のドアを開ける。
そこに広がっていたのは、彼女の知っている、いつもの九十九課ではなかった。
電気は消え、九十九の膨大なモニターの青白い光だけが、部屋を不気味に照らし出している。
聞こえるのは、三人の男の不規則な寝息とPCのモーター音だけ。
いつもなら漂っているはずの、淹れたてのコーヒーの香りも、彼女が置いたルームフレグランスの優しい香りもしない。
ただ、男の汗と、エナジードリンクと、そして行き場のない焦燥感が混じり合ったむさ苦しい匂いが、その空間を支配していた。
彼女は、ゆっくりと部屋を見渡した。
デスクに突っ伏し、いびきをかいている九十九。
そのボサボサの髪は、ここ数日の彼の苦悩を物語るかのように、さらに爆発していた。
ソファには、二つの影。
座ったまま腕を組み、俯いた状態で静かに眠る佐竹。
彼はもう、自分のことを「道具」としてしか見ていない。
見捨てられたのだ。
彼の無精髭はさらに伸び、その完璧な顔に、深い疲労の色を刻んでいた。
そして、その向かい。
ソファに横たわり肘当てに足を乗せて、眠っている杉浦。
目の下には濃いクマができ、どこか、げっそりとしているように見える。
(……………)
彼女の胸に、冷たい何かが、込み上げてくる。
『……気持ちよかったか?』
『……どれくらい、喘いだんだ?』
公安の男たちの、下劣な声が耳の奥で蘇る。
もし、彼(杉浦)が、エイトと過ごしたあの5日間の夜のことを、全て知ってしまったら。
彼は、きっと、自分のことを軽蔑するだろう。
もう二度と、あの優しい笑顔を向けてはくれないだろう。
その想像が、鋭い氷の刃となって彼女の心を突き刺した。
ーーぽたり。
堪えていた涙が、一筋、床に落ちた。
そして、次の瞬間には、もう止められなかった。
声を殺そうとする。
でも、嗚咽が漏れてしまう。
彼女は、その場にうずくまると、自分の口を強く押さえた。
ずっ、と鼻をすする、小さな音。
その小さな絶望の音を。
最初に拾ったのは、狼の耳を持つ、あの男だった。
「……………」
ソファの上で、佐竹の瞼が、ぴくりと動いた。
そして、その鋭い瞳が、ゆっくりと開かれる。
暗闇に慣れたその目が、入口ドアの床の上にうずくまる、小さな震える影を捉えた、その瞬間。
彼の全身から、眠気が完全に吹き飛んだ。
「―――未華子!?」
信じられないという、響きを帯びた絶叫。
それは、九十九課の、長くて暗い夜の終わりを告げる狼煙だった。
佐竹は弾かれたように、ソファから飛び起きると、小さくうずくまっている未華子の元へと駆け寄った。
そして、その震える肩を強く抱きしめる。
「未華子!大丈夫か?! おい、未華子!」
「……っ、ぅ……!」
未華子は、公安から着させられたであろう薄いコートの袖で必死に口元を押さえ、嗚咽が漏れるのを耐えている。
その痛々しい姿に、佐竹は一瞬、言葉を失う。
「―――未華子ちゃん!?」「未華子氏!?」
デスクで突っ伏していた九十九と、ソファの反対側で眠っていた杉浦も、佐竹の声で同時に跳ね起きた。
そして、目の前の信じられない光景に、完全に固まっている。
「……大丈夫か? …どこか、痛むところはないか?」
佐竹は焦るように、必死で声を掛ける。
彼女の身体を支えながら、その冷え切った手足に、自分の体温を分け与えるように。
やがて彼は、その震える身体を、ゆっくりとソファの方へと導き、優しく座らせた。
我に返った杉浦が、慌ててキッチンへと駆け込み、震える手で温かいお茶を淹れ始める。
少しだけ落ち着きを取り戻した、彼女の青白い顔を見て。
佐竹は、意を決したように、その目の前に跪いた。
そして、これまで誰にも見せたことのない、後悔と罪悪感に満ちた顔で、深く、深く、頭を下げた。
「……………すまなかった」
その絞り出すような一言。
「……全部、俺のせいだ。…俺が、お前たちを、俺の個人的な問題に巻き込んだせいで……」
「…………」
「公安の尋問も……。…俺が、もっと早く動いていれば……」
彼の痛々しいまでの、謝罪の言葉を聞いて。
未華子は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙と、そして、一つの疑問の色が浮かんでいた。
「……なんで……?」
「……え?」
「……なんで、佐竹が謝るの…? ……あんたは、私を…………」
――見捨てたじゃん。
声にならない、心の叫び。
彼女の戸惑いと、非難の色が混じった瞳を見て、佐竹は全てを悟った。
「……………奴らから、何か聞かされたのか」
その低い問いに、未華子は、こくりと頷いた。
そして、震える声で、あの絶望の言葉を繰り返した。
「『松田から、許可は取っている』って」
「……っ!」
「『いくらでも、飽きるまで、好きに尋問して構わない』って……。…あんたが、そう言ったって……」
それを、聞いた瞬間。
佐竹は、顔を苦悩に歪め、天を仰いだ。
そして、喉の奥から絞り出すように、獣の唸り声のような言葉を吐き出した。
「……………そんなわけ、ねえだろっ…………!」
悔しさと怒りと、そして、どうしようもない無力感がぐちゃぐちゃになった、魂の叫び。
それは、どんな言い訳よりも雄弁に、彼の真実を物語っていた。
*
東の空が、少しずつ白み始めていた。
ようやく、嗚咽が収まった未華子の顔はひどかった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、目はウサギのように真っ赤に腫れ上がっている。
「……………とりあえず」
佐竹が立ち上がり、静かに言った。
「今日はもう休め。…何も考えるな」
「……左様。…ボクの方で、未華子氏のタスクは全て調整しておきますぞ」
九十九も力強く頷く。
「……うん」
未華子は、か細い声で頷くと、力なく立ち上がった。
一人で自宅マンションへと、帰ろうとした、その時だった。
「―――僕が送るよ」
ずっと、黙ってお茶を淹れ続けていた、杉浦が静かに言った。
朝の冷たい空気が、肌を刺す。
未華子のマンションまでの道中、2人の間に言葉はなかった。
マンションに到着し、オートロックを抜け、エレベーターを待つ。
その間も、未華子たちは、無言で立ち尽くしていた。
彼が、何かを言いたそうに、口を開いては閉じるのを、何度も繰り返している。
だが、結局、彼の口から出てきたのは、優しくて、そして無力な一言だった。
「……………なんかあったら、連絡、してね」
心の底からの、心配の眼差し。
未華子はもう、彼の顔を見ることができなかった。
もし、見てしまったら。
その優しさに甘えて、全てをぶちまけてしまいそうだったから。
「……………ありがと。ここで、もう大丈夫」
その一言だけを絞り出し、未華子は逃げるように、エレベーターへと乗り込んだ。
閉じていくドアの隙間から見えた、彼の悲しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
未華子が、公安の捜査官とともに冷たいエレベーターに飲み込まれて、数時間。
六本木から、伊勢佐木異人町の事務所に戻ってきても、そこに漂う空気は、あの夜の東京湾の冷たい海水のように重く澱んでいた。
「……未華子ちゃん、大丈夫かな…」
ソファに、沈み込むように座った杉浦が、ぽつりと呟いた。
その声はか細く、不安に震えている。
「怪我とかはしてなさそうだったけど……。でも、5日間も監禁されてたんだ。体だって心配だし……。…ねえ佐竹くん。…すぐ解放されるよね?」
すがるような問いに、窓の外を見つめていた佐竹は、何も答えられなかった。
『本件に関する合同捜査は、これをもって終了とする』
あの屋上で、一方的に告げられた、公安のリーダー格の男の言葉。
『対象者(エイト)の逃亡を許した今回の失態。…そして何より、君たちの"情報提供者(未華子)"が、捜査を混乱させた』
それは、暗にこう言っているのだ。
「これは、お前たちのせいだ」と。
―――そして、その不安は現実のものとなった。
翌日になっても、未華子は解放されなかった。
事務所の電話が鳴るたびに、三人の肩がびくりと跳ねる。
だが、それは、いつものどうでもいい、浮気調査の依頼ばかり。
「……どういうことだよ…」
杉浦の苛立ちが募る。
「なぜ未華子氏が、ここまで、拘束されなければならないのですかな!?」
九十九も、珍しく声を荒げた。
その二人の問いに、佐竹は重い口を開いた。
「……どうやら、連中は疑っているらしい」
「……何をだよ」
「あのVIPルームで未華子が、本物の『エイト』はフードの男、つまりハタケだと見抜いてしまったこと。…あれを『お前は、我々公安を出し抜くために、わざと泳がされていたのではないか』ってな」
「「そんな!」」
杉浦と九十九の声が、ハモった。
佐竹は、あの夜からずっと動き続けていた。
公安の古巣のあらゆるコネクションを使い、「未華子の即時解放」を訴え続けていたのだ。
だが、その度に返ってくるのは、あのリーダー格の男からの慇懃無礼な答えだけだった。
『―――心配には及ばんよ、松田』
電話の向こうから聞こえる男の声は、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
『彼女自身が「いくらでも証言する」と、非常に献身的に捜査に協力してくれているんだ。…素晴らしい市民じゃないか』
「……ふざけるな。…彼女を返せ」
『ああそれと、家に帰りたがらないのも、彼女自身の希望だ。「エイトからの報復が怖いから、しばらくは公安の施設で守ってほしい」と、そう言っている』
「…………っ!」
―――全て嘘だ。
佐竹には、わかっていた。
未華子が、そんな泣き言を言うはずがない。
これは、公安が、意図的に彼女を「隔離」し、自分たちを遠ざけようとしているのだ。
そして、その裏で、彼女に一体どんな「尋問」が行われているのか。
それを想像するだけで、腹の底が煮え繰り返るようだった。
「……どうなってんだよ、公安ってのは!」
杉浦が、壁を殴りつけた。
「未華子ちゃんは被害者だろ! なのに、なんで、あの子がそんな目に……!」
その怒りの矛先が、ゆっくりと佐竹へと向かう。
「……………あんたのせいだよ」
その低い声に、事務所の空気が再び凍りついた。
「……え、杉浦氏!?」
「だって、そうじゃんか! あんたが、こんな、厄介な事件持ち込んできさえしなければ…!」
痛い正論に、佐竹は何も言い返せず、ただ固く唇を噛み締める。
二人の間に、いつ亀裂が入ってもおかしくない、張り詰めた空気。
それを断ち切ったのは、九十九の静かだが力強い声だった。
「―――二人とも、やめなされ」
いつになく真剣な「所長」の顔つきに、二人はハッとして口を噤んだ。
九十九は、ゲーミングチェアからゆっくりと立ち上がった。
そして、こう言ったのだ。
「……仲間割れしている暇など、ありませんぞ」
彼のメガネの奥の目が、悲しそうに揺れていた。
「……今、一番、辛くて、怖い思いをしているのは誰か。…わかっているでしょう?」
当たり前で、そして、何よりも大切な一言。
杉浦は「……っ!」と息を呑み、悔しそうに顔を歪めた。
自分の苛立ちを、仲間であるはずの佐竹にぶつけてしまった、その未熟さを呪うように。
佐竹もまた、何も言わなかった。
だが、その固く握りしめられていた拳の力が、ほんの少しだけ緩んだのを、九十九は見逃さなかった。
彼もまた、自分を、責めているのだ。
「……待ちましょう」
九十九が、静かに言った。
「彼女が帰ってくるのを。…そして、帰ってきた時に『おかえり』と言えるように。…ボクたちはひたすら、ここで、ボクたちにできることをするだけです」
無力な三人の男たちの、どうしようもない決意表明だった。
事務所の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
*
―――そして、未華子が公安に連れて行かれて丸2日が経過した後。
明け方の4時。
伊勢佐木異人町の街が、まだ深い眠りと静寂に包まれている、その時刻。
九十九ビルの前に、一台の黒塗りのセダンが音もなく停まった。
そして、一人の女が力なく、その車内から降り立つ。
車は、何も言わずに、闇の中へと消えていった。
公安は何の通告も連絡もなく、ただ人知れず、彼女をそこへ「廃棄」したのだ。
慣れたはずの、事務所のドアを開ける。
そこに広がっていたのは、彼女の知っている、いつもの九十九課ではなかった。
電気は消え、九十九の膨大なモニターの青白い光だけが、部屋を不気味に照らし出している。
聞こえるのは、三人の男の不規則な寝息とPCのモーター音だけ。
いつもなら漂っているはずの、淹れたてのコーヒーの香りも、彼女が置いたルームフレグランスの優しい香りもしない。
ただ、男の汗と、エナジードリンクと、そして行き場のない焦燥感が混じり合ったむさ苦しい匂いが、その空間を支配していた。
彼女は、ゆっくりと部屋を見渡した。
デスクに突っ伏し、いびきをかいている九十九。
そのボサボサの髪は、ここ数日の彼の苦悩を物語るかのように、さらに爆発していた。
ソファには、二つの影。
座ったまま腕を組み、俯いた状態で静かに眠る佐竹。
彼はもう、自分のことを「道具」としてしか見ていない。
見捨てられたのだ。
彼の無精髭はさらに伸び、その完璧な顔に、深い疲労の色を刻んでいた。
そして、その向かい。
ソファに横たわり肘当てに足を乗せて、眠っている杉浦。
目の下には濃いクマができ、どこか、げっそりとしているように見える。
(……………)
彼女の胸に、冷たい何かが、込み上げてくる。
『……気持ちよかったか?』
『……どれくらい、喘いだんだ?』
公安の男たちの、下劣な声が耳の奥で蘇る。
もし、彼(杉浦)が、エイトと過ごしたあの5日間の夜のことを、全て知ってしまったら。
彼は、きっと、自分のことを軽蔑するだろう。
もう二度と、あの優しい笑顔を向けてはくれないだろう。
その想像が、鋭い氷の刃となって彼女の心を突き刺した。
ーーぽたり。
堪えていた涙が、一筋、床に落ちた。
そして、次の瞬間には、もう止められなかった。
声を殺そうとする。
でも、嗚咽が漏れてしまう。
彼女は、その場にうずくまると、自分の口を強く押さえた。
ずっ、と鼻をすする、小さな音。
その小さな絶望の音を。
最初に拾ったのは、狼の耳を持つ、あの男だった。
「……………」
ソファの上で、佐竹の瞼が、ぴくりと動いた。
そして、その鋭い瞳が、ゆっくりと開かれる。
暗闇に慣れたその目が、入口ドアの床の上にうずくまる、小さな震える影を捉えた、その瞬間。
彼の全身から、眠気が完全に吹き飛んだ。
「―――未華子!?」
信じられないという、響きを帯びた絶叫。
それは、九十九課の、長くて暗い夜の終わりを告げる狼煙だった。
佐竹は弾かれたように、ソファから飛び起きると、小さくうずくまっている未華子の元へと駆け寄った。
そして、その震える肩を強く抱きしめる。
「未華子!大丈夫か?! おい、未華子!」
「……っ、ぅ……!」
未華子は、公安から着させられたであろう薄いコートの袖で必死に口元を押さえ、嗚咽が漏れるのを耐えている。
その痛々しい姿に、佐竹は一瞬、言葉を失う。
「―――未華子ちゃん!?」「未華子氏!?」
デスクで突っ伏していた九十九と、ソファの反対側で眠っていた杉浦も、佐竹の声で同時に跳ね起きた。
そして、目の前の信じられない光景に、完全に固まっている。
「……大丈夫か? …どこか、痛むところはないか?」
佐竹は焦るように、必死で声を掛ける。
彼女の身体を支えながら、その冷え切った手足に、自分の体温を分け与えるように。
やがて彼は、その震える身体を、ゆっくりとソファの方へと導き、優しく座らせた。
我に返った杉浦が、慌ててキッチンへと駆け込み、震える手で温かいお茶を淹れ始める。
少しだけ落ち着きを取り戻した、彼女の青白い顔を見て。
佐竹は、意を決したように、その目の前に跪いた。
そして、これまで誰にも見せたことのない、後悔と罪悪感に満ちた顔で、深く、深く、頭を下げた。
「……………すまなかった」
その絞り出すような一言。
「……全部、俺のせいだ。…俺が、お前たちを、俺の個人的な問題に巻き込んだせいで……」
「…………」
「公安の尋問も……。…俺が、もっと早く動いていれば……」
彼の痛々しいまでの、謝罪の言葉を聞いて。
未華子は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙と、そして、一つの疑問の色が浮かんでいた。
「……なんで……?」
「……え?」
「……なんで、佐竹が謝るの…? ……あんたは、私を…………」
――見捨てたじゃん。
声にならない、心の叫び。
彼女の戸惑いと、非難の色が混じった瞳を見て、佐竹は全てを悟った。
「……………奴らから、何か聞かされたのか」
その低い問いに、未華子は、こくりと頷いた。
そして、震える声で、あの絶望の言葉を繰り返した。
「『松田から、許可は取っている』って」
「……っ!」
「『いくらでも、飽きるまで、好きに尋問して構わない』って……。…あんたが、そう言ったって……」
それを、聞いた瞬間。
佐竹は、顔を苦悩に歪め、天を仰いだ。
そして、喉の奥から絞り出すように、獣の唸り声のような言葉を吐き出した。
「……………そんなわけ、ねえだろっ…………!」
悔しさと怒りと、そして、どうしようもない無力感がぐちゃぐちゃになった、魂の叫び。
それは、どんな言い訳よりも雄弁に、彼の真実を物語っていた。
*
東の空が、少しずつ白み始めていた。
ようやく、嗚咽が収まった未華子の顔はひどかった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、目はウサギのように真っ赤に腫れ上がっている。
「……………とりあえず」
佐竹が立ち上がり、静かに言った。
「今日はもう休め。…何も考えるな」
「……左様。…ボクの方で、未華子氏のタスクは全て調整しておきますぞ」
九十九も力強く頷く。
「……うん」
未華子は、か細い声で頷くと、力なく立ち上がった。
一人で自宅マンションへと、帰ろうとした、その時だった。
「―――僕が送るよ」
ずっと、黙ってお茶を淹れ続けていた、杉浦が静かに言った。
朝の冷たい空気が、肌を刺す。
未華子のマンションまでの道中、2人の間に言葉はなかった。
マンションに到着し、オートロックを抜け、エレベーターを待つ。
その間も、未華子たちは、無言で立ち尽くしていた。
彼が、何かを言いたそうに、口を開いては閉じるのを、何度も繰り返している。
だが、結局、彼の口から出てきたのは、優しくて、そして無力な一言だった。
「……………なんかあったら、連絡、してね」
心の底からの、心配の眼差し。
未華子はもう、彼の顔を見ることができなかった。
もし、見てしまったら。
その優しさに甘えて、全てをぶちまけてしまいそうだったから。
「……………ありがと。ここで、もう大丈夫」
その一言だけを絞り出し、未華子は逃げるように、エレベーターへと乗り込んだ。
閉じていくドアの隙間から見えた、彼の悲しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
