第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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第四幕:新たな地獄
ローター音も遠ざかり、屋上には、再び氷のように冷たい静寂が戻ってくる。
その静寂を最初に破ったのは、杉浦だった。
「未華子ちゃんっ!」
彼は我に返ったように、こちらを振り返り呆然と立ち尽くす未華子の元へと駆け寄ろうとした。
だが、その行く手を、二人の屈強な公安の捜査員が、壁のように無言で塞いだ。
「―――どけよ!」
杉浦が叫ぶ。
だが、彼らは動かない。
その時、捜査員たちが静かに道を開けた。
そして、薄汚れたネグリジェ姿の未華子の、その両脇を、別の女性捜査員たちが支えるように固めた。
「……待って……!」
未華子の、か細い抵抗の声も虚しく。
彼女は、まるで重要参考人のようにエレベーターの方へと、無理やり連れて行かれてしまう。
非人道的すぎる扱いに「おい! 待て!」と、佐竹の低い怒声が飛ぶ。
だが、捜査員たちは、一切足を止めようとはしない。
「…………久しぶりだな、松田」
佐竹の目の前に、一人、ゆっくりと歩み寄ってきた男がいた。
今回の、合同捜査の公安側の現場責任者。
佐竹の、顔見知りの男だった。
「……どういうつもりだ。…彼女は被害者だぞ」
佐竹のその問いに、男はただ鼻で笑った。
「対象者は5日間、エイトと行動を共にしていた。…何を話したのか。何をされたのか。…まずは、我々がじっくりと『事情聴取』をさせてもらう。…当然の手順だろ?」
冷酷な物言いに、佐竹の中で何かが切れた。
彼は男の胸ぐらを掴み上げると、獣のような低い声で唸った。
「てめぇ……!」
だが、男は動じない。
彼は、ゆっくりと佐竹のその手を振り払うと、心底軽蔑したような目で彼を射抜く。
そして、こう言ったのだ。
「……『非人道的な扱いは許さない』ともで言いたげだな」
「……なんだと?」
「―――それは、お前自身が、これまで腐るほどやってきたやり方だろうが。…違うか? 松田仁」
佐竹は、男を掴んでいた胸ぐらの力がふっと抜ける。
公安という組織の非情さ。
冷徹さ。
それを、一番よく知る自分自身。
そして、その「正義」を信じて疑わなかった、かつての自分。
全ての過去の「罪」が今、巨大な刃となって、彼の胸に突き刺さっていた。
「行くな!」と、叫ぶ杉浦の悲痛な声。
エレベーターの無機質なドアが閉まる、その寸前。
未華子の潤んだ瞳が、確かにこちらを見つめていたのを。
佐竹は、ただ、呆然と、見送ることしかできなかった。
◎数時間後[場所:公安の取調室]
無機質なコンクリートの壁。
窓はなく、ただ、天井の白い蛍光灯だけが、部屋を冷たく照らし出している。
未華子が連れてこられたのは、警視庁でもなければ、所轄の警察署でもない。
地図上のどこにも存在しないであろう、公安の秘密の「施設」だった。
最低限の健康チェックと、シャワーを浴びさせられた後。
休む間もなく、尋問は始まった。
テーブルを挟んで、向かいに座るのは三人の男たち。
彼らの瞳には、一切の感情がない。
「―――単刀直入に、聞く」
リーダー格の男が、切り出した。
「VIPルームで、なぜ、あのフードの男がエイトだとわかった?」
「……なんとなく、としか言いようがありません」
「『なんとなく』? ふざけるな。…公安が掴んでいなかった情報を、なぜお前のような、素人の探偵くずれが見抜くことができた?」
「…………」
「なぜ、我々の指示通り、あの中年男に手紙を渡さなかった?」
「それは……」
「本当は、最初から、畠山(エイト)と通じていたんじゃないのか? 我々公安を嵌めるための、罠だった、と」
理不尽で、身に覚えのない疑い。
怒りがこみ上げてくる。
「違います!」
だが、彼らは、彼女の訴えなど聞く耳を持たない。
何時間、経っただろうか。
同じ質問が、違う角度から、何度も何度も繰り返される。
心身ともに、疲労がピークに達した頃、ようやく、彼女は独房のような小さな部屋へと戻された。
硬いベッドの上で眠ろうとする。
だが、眠れない。
目を閉じれば、エイトの、あの甘い顔がフラッシュバックする。
翌朝。
ろくな睡眠も取れないまま、尋問は再開された。
「……畠山と過ごした5日間。…その全てを、順番に話せ」
彼女は、覚悟を決めた。
もう、この男たちに何を言っても無駄だ。
ならば、事実だけを淡々と語るしかない。
あのタワーマンションで、何があったのか。
何を話したのか。
一日目の夜。
生まれたままの姿で、ただ、同じベッドで眠った、屈辱的な夜のことを。
二日目の夜。
欲望のない優しいキスで、全身を巡礼された、甘い拷問の夜のことを。
彼女は、淡々と話した。
だが、尋問官たちの興味は、明らかにそこにあった。
「ほう。……それで?」
彼らの瞳が、下卑た光を宿し始める。
「…具体的に、どこを、どう触られた?」
「…………っ!」
羞恥心で、言葉に詰まる。
こんな男たちに話したくない。
自分の身体に、何が起きたのかを。
だが、その一瞬のためらいを、彼らは見逃さなかった。
「……なんだ。言えないのか。…やはり、お前はエイトを庇っている。……あるいは」
男は、ニヤリと、醜悪な笑みを浮かべた。
「―――ただの、『堕とされた女』か」
その言葉。
それは、彼女の最後のプライドを、完全に粉々にした。
そうだ。
自分がここで黙り込めば、全てが、そういうことになってしまう。
エイトに、身も心も捧げた、ただの協力者。
そんな汚名を着せられたまま、終わるわけにはいかない。
佐竹のためにも。
彼が、命がけで守ろうとした後輩の、本当の姿を、自分が伝えなければ。
彼女は、奥歯を強く噛み締めた。
そして、顔を上げる。
その日から、彼女の、本当の地獄が始まった。
「…………三日目の夜は…………」
彼女は、震える声で、その全てを洗いざらい白状した。
シルクのスカーフでの拘束。
胸を吸われ、秘部を指で弄ばれた、その感触。
「気持ちよかったか?」
「どれくらい、喘いだんだ?」
明らかに捜査とは関係のない、性的好奇心に満ちた下劣な質問。
彼女は、ただ無表情で、それに答えるしかなかった。
心を殺す。
感情を消す。
自分は、ただ情報を吐き出すだけの機械だ、と。
そう自分に言い聞かせなければ、正気を保っていられなかった。
彼らの執拗な尋問。
その根底には、ただの情報収集だけではない、別の醜い感情が渦巻いていることに、未華子は気づき始めていた。
それは、佐竹――松田仁に対する、嫉妬と軽蔑だった。
「……松田の奴も、落ちたもんだな」
「出世コースを捨ててまで、守りたかった女が、この程度か」
彼らは、エリート街道から自ら転がり落ちた、かつての同僚への鬱積した「やっかみ」を、自分にぶつけているのだ。
もう限界だった。
「……わかりました」
未華子は、乾いた唇で言った。
「もういくらでも、協力します。……だから」
彼女は、最後の望みを託して、懇願した。
「……その前に一度だけ。…九十九課のメンバーに会わせてください」
杉浦の顔が見たい。
九十九の馬鹿げた声が聞きたい。
そして、佐竹に伝えたい。
「あんたのせいじゃない」と。
だが、そのささやかな願いは、リーダー格の男によって冷たく一蹴された。
「却下する」
そして彼は、悪魔のような嘘を囁いた。
「……松田本人から、許可は得ている」
「え……?」
「『いくらでも、飽きるまで、好きに尋問して構わない』。…そう言っていたぞ」
―――ああ、そうか。
その瞬間。
未華子の心の中で、かろうじて繋ぎ止めていた、最後の細い糸が、ぷつりと切れた。
佐竹も、もう、自分を見捨てたのだ。
自分は、公安にとっても、彼にとっても、ただの利用価値のある「道具」でしかなかったのだ。
エイトから、解放されたあの深夜から。
休むことも、眠ることも、許されないまま。
非人道的とも言える、公安の拘束と尋問は、丸々48時間以上も続いていた。
未華子の精神も肉体も、とっくに限界を迎えていた。
何よりも孤独だった。
誰も、助けに来てはくれない。
誰も、自分を必要とはしていない。
絶対的な絶望が、彼女の心の全てを塗りつぶしていった。
ローター音も遠ざかり、屋上には、再び氷のように冷たい静寂が戻ってくる。
その静寂を最初に破ったのは、杉浦だった。
「未華子ちゃんっ!」
彼は我に返ったように、こちらを振り返り呆然と立ち尽くす未華子の元へと駆け寄ろうとした。
だが、その行く手を、二人の屈強な公安の捜査員が、壁のように無言で塞いだ。
「―――どけよ!」
杉浦が叫ぶ。
だが、彼らは動かない。
その時、捜査員たちが静かに道を開けた。
そして、薄汚れたネグリジェ姿の未華子の、その両脇を、別の女性捜査員たちが支えるように固めた。
「……待って……!」
未華子の、か細い抵抗の声も虚しく。
彼女は、まるで重要参考人のようにエレベーターの方へと、無理やり連れて行かれてしまう。
非人道的すぎる扱いに「おい! 待て!」と、佐竹の低い怒声が飛ぶ。
だが、捜査員たちは、一切足を止めようとはしない。
「…………久しぶりだな、松田」
佐竹の目の前に、一人、ゆっくりと歩み寄ってきた男がいた。
今回の、合同捜査の公安側の現場責任者。
佐竹の、顔見知りの男だった。
「……どういうつもりだ。…彼女は被害者だぞ」
佐竹のその問いに、男はただ鼻で笑った。
「対象者は5日間、エイトと行動を共にしていた。…何を話したのか。何をされたのか。…まずは、我々がじっくりと『事情聴取』をさせてもらう。…当然の手順だろ?」
冷酷な物言いに、佐竹の中で何かが切れた。
彼は男の胸ぐらを掴み上げると、獣のような低い声で唸った。
「てめぇ……!」
だが、男は動じない。
彼は、ゆっくりと佐竹のその手を振り払うと、心底軽蔑したような目で彼を射抜く。
そして、こう言ったのだ。
「……『非人道的な扱いは許さない』ともで言いたげだな」
「……なんだと?」
「―――それは、お前自身が、これまで腐るほどやってきたやり方だろうが。…違うか? 松田仁」
佐竹は、男を掴んでいた胸ぐらの力がふっと抜ける。
公安という組織の非情さ。
冷徹さ。
それを、一番よく知る自分自身。
そして、その「正義」を信じて疑わなかった、かつての自分。
全ての過去の「罪」が今、巨大な刃となって、彼の胸に突き刺さっていた。
「行くな!」と、叫ぶ杉浦の悲痛な声。
エレベーターの無機質なドアが閉まる、その寸前。
未華子の潤んだ瞳が、確かにこちらを見つめていたのを。
佐竹は、ただ、呆然と、見送ることしかできなかった。
◎数時間後[場所:公安の取調室]
無機質なコンクリートの壁。
窓はなく、ただ、天井の白い蛍光灯だけが、部屋を冷たく照らし出している。
未華子が連れてこられたのは、警視庁でもなければ、所轄の警察署でもない。
地図上のどこにも存在しないであろう、公安の秘密の「施設」だった。
最低限の健康チェックと、シャワーを浴びさせられた後。
休む間もなく、尋問は始まった。
テーブルを挟んで、向かいに座るのは三人の男たち。
彼らの瞳には、一切の感情がない。
「―――単刀直入に、聞く」
リーダー格の男が、切り出した。
「VIPルームで、なぜ、あのフードの男がエイトだとわかった?」
「……なんとなく、としか言いようがありません」
「『なんとなく』? ふざけるな。…公安が掴んでいなかった情報を、なぜお前のような、素人の探偵くずれが見抜くことができた?」
「…………」
「なぜ、我々の指示通り、あの中年男に手紙を渡さなかった?」
「それは……」
「本当は、最初から、畠山(エイト)と通じていたんじゃないのか? 我々公安を嵌めるための、罠だった、と」
理不尽で、身に覚えのない疑い。
怒りがこみ上げてくる。
「違います!」
だが、彼らは、彼女の訴えなど聞く耳を持たない。
何時間、経っただろうか。
同じ質問が、違う角度から、何度も何度も繰り返される。
心身ともに、疲労がピークに達した頃、ようやく、彼女は独房のような小さな部屋へと戻された。
硬いベッドの上で眠ろうとする。
だが、眠れない。
目を閉じれば、エイトの、あの甘い顔がフラッシュバックする。
翌朝。
ろくな睡眠も取れないまま、尋問は再開された。
「……畠山と過ごした5日間。…その全てを、順番に話せ」
彼女は、覚悟を決めた。
もう、この男たちに何を言っても無駄だ。
ならば、事実だけを淡々と語るしかない。
あのタワーマンションで、何があったのか。
何を話したのか。
一日目の夜。
生まれたままの姿で、ただ、同じベッドで眠った、屈辱的な夜のことを。
二日目の夜。
欲望のない優しいキスで、全身を巡礼された、甘い拷問の夜のことを。
彼女は、淡々と話した。
だが、尋問官たちの興味は、明らかにそこにあった。
「ほう。……それで?」
彼らの瞳が、下卑た光を宿し始める。
「…具体的に、どこを、どう触られた?」
「…………っ!」
羞恥心で、言葉に詰まる。
こんな男たちに話したくない。
自分の身体に、何が起きたのかを。
だが、その一瞬のためらいを、彼らは見逃さなかった。
「……なんだ。言えないのか。…やはり、お前はエイトを庇っている。……あるいは」
男は、ニヤリと、醜悪な笑みを浮かべた。
「―――ただの、『堕とされた女』か」
その言葉。
それは、彼女の最後のプライドを、完全に粉々にした。
そうだ。
自分がここで黙り込めば、全てが、そういうことになってしまう。
エイトに、身も心も捧げた、ただの協力者。
そんな汚名を着せられたまま、終わるわけにはいかない。
佐竹のためにも。
彼が、命がけで守ろうとした後輩の、本当の姿を、自分が伝えなければ。
彼女は、奥歯を強く噛み締めた。
そして、顔を上げる。
その日から、彼女の、本当の地獄が始まった。
「…………三日目の夜は…………」
彼女は、震える声で、その全てを洗いざらい白状した。
シルクのスカーフでの拘束。
胸を吸われ、秘部を指で弄ばれた、その感触。
「気持ちよかったか?」
「どれくらい、喘いだんだ?」
明らかに捜査とは関係のない、性的好奇心に満ちた下劣な質問。
彼女は、ただ無表情で、それに答えるしかなかった。
心を殺す。
感情を消す。
自分は、ただ情報を吐き出すだけの機械だ、と。
そう自分に言い聞かせなければ、正気を保っていられなかった。
彼らの執拗な尋問。
その根底には、ただの情報収集だけではない、別の醜い感情が渦巻いていることに、未華子は気づき始めていた。
それは、佐竹――松田仁に対する、嫉妬と軽蔑だった。
「……松田の奴も、落ちたもんだな」
「出世コースを捨ててまで、守りたかった女が、この程度か」
彼らは、エリート街道から自ら転がり落ちた、かつての同僚への鬱積した「やっかみ」を、自分にぶつけているのだ。
もう限界だった。
「……わかりました」
未華子は、乾いた唇で言った。
「もういくらでも、協力します。……だから」
彼女は、最後の望みを託して、懇願した。
「……その前に一度だけ。…九十九課のメンバーに会わせてください」
杉浦の顔が見たい。
九十九の馬鹿げた声が聞きたい。
そして、佐竹に伝えたい。
「あんたのせいじゃない」と。
だが、そのささやかな願いは、リーダー格の男によって冷たく一蹴された。
「却下する」
そして彼は、悪魔のような嘘を囁いた。
「……松田本人から、許可は得ている」
「え……?」
「『いくらでも、飽きるまで、好きに尋問して構わない』。…そう言っていたぞ」
―――ああ、そうか。
その瞬間。
未華子の心の中で、かろうじて繋ぎ止めていた、最後の細い糸が、ぷつりと切れた。
佐竹も、もう、自分を見捨てたのだ。
自分は、公安にとっても、彼にとっても、ただの利用価値のある「道具」でしかなかったのだ。
エイトから、解放されたあの深夜から。
休むことも、眠ることも、許されないまま。
非人道的とも言える、公安の拘束と尋問は、丸々48時間以上も続いていた。
未華子の精神も肉体も、とっくに限界を迎えていた。
何よりも孤独だった。
誰も、助けに来てはくれない。
誰も、自分を必要とはしていない。
絶対的な絶望が、彼女の心の全てを塗りつぶしていった。
