第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第三幕:堕天使の飛翔
――全てが終わった。
燃え尽きたようにベッドに沈む未華子の横で、エイト――畠山は、静かにタバコに火をつけた。
その横顔は、満足げでありながら、どこか、深い寂しさを湛えているようにも見えた。
「……潮時だな」
彼は、ぽつりとそう呟くと、ベッドから抜け出し服を身につけ始めた。
そして、眠る未華子の額に、そっと最後の口づけを落とす。
「……じゃあね、未華子さん」
その声は、もう、未華子には届いていなかった。
◎場面転換[場所:横浜九十九課]
事務所の空気は、鉛を通り越し、もはや、毒を含んでいるかのように重かった。
未華子が、攫われてから五日。
時間は、容赦なく過ぎていく。
九十九は、ほとんど眠らずに、キーボードを叩き続けていた。
「くっ! また、ハズレか!」
九十九が、机に拳を叩きつけた。
エイトは、天才的な情報戦を仕掛けてきていた。
日本中、数十もの偽の「足跡」をばらまき、九十九と公安の捜査網を完璧に撹乱し続けていたのだ。
沖縄でカードが使われたかと思えば、次の瞬間には、北海道で監視カメラにそれらしき人物が映る。
その全てが、巧妙な「罠」。
杉浦も、ほとんど眠らずに、街を走り回っていた。
鉄爪たちと連携し、考えうる全てのアジト候補を、一つまた一つと潰していた。
だが、成果はゼロ。
そして、佐竹は、古巣の公安と連絡を取り続けながら、その全ての情報を統括しプロファイリングを続けていた。
だが、天才詐欺師の思考回路は、彼の完璧な論理をもあざ笑うかのように、その尻尾を掴ませなかった。
三人の心身は、すでに限界だった。
「―――クソがっ!」
佐竹が、壁に拳を叩きつけた。
その顔には、焦燥と無力感、そして、どうしようもない自己嫌悪が深く刻まれている。
「……………はぁ」
九十九が、大きく息を吐きながらヘッドセットを外した。
「……ダメですな。…これ以上はラチがあきません。…一度、休憩しましょう。…ボク、ピザでも頼みますぞ」
精一杯の気遣いの言葉。
ソファで、死んだ魚のような目をしていた杉浦も、それに力なく頷いた。
「……うん、そうだね。…何か、腹に入れないと…」
そののんきな二人の会話が、引き金だった。
「―――ピザ、だと?」
それまで、黙って地図を睨みつけていた、佐竹の低い声が、事務所に響いた。
その声は、怒りを通り越し、もはや殺気に満ちていた。
「……てめぇら、本気で言ってんのか? …あいつが、今、どこで、何をされてるかもわからねえって時に!」
理不尽な八つ当たり。
九十九が、慌てて弁解する。
「いや、佐竹殿! そうではなく、一度エネルギーを補給しないと、効率が…!」
「効率!? 俺の知る限り、おめえの、そのご自慢のハッキング能力とやらは、この五日間、何一つ成果を上げていねえじゃねえか! もっとちゃんと追えよ! 使えねえな!」
「なっ……!」
矛先は、次に杉浦へと向かう。
「……お前もそうだ、杉浦! お前が得意なのは、三下のチンピラ相手の喧嘩だけだな。…こういう頭脳戦では、なんっの役にも立たない、ただの脳筋馬鹿だ! …違うか!」
「……………っ!」
杉浦の中で、何かが切れる音がした。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、佐竹の目の前に立った。
その瞳は、静かで、それでいて鋼のように、硬い「覚悟」の色に染まっていた。
「……………いい加減にしろよ」
その地を這うような、低い声。
事務所の空気が、凍りつく。
「あんたが一番、辛いのはわかる。…後輩に裏切られて、そのせいで、未華子ちゃんまで巻き込まれた。…でもな」
杉浦の拳が、固く握りしめられる。
「……僕たちだって、同じなんだよ」
「……………」
「ここで仲間割れして、喜ぶのは誰だ? …エイトか? それとも、あんたかよ」
正論すぎる痛い一言に、佐竹の顔が苦悩に歪む。
だが、もう止まれない。
「―――だったら、お前に何ができる!」
佐竹の拳が振り上げられる。
「あんたこそ、口だけじゃねえか!」
杉浦も、それに応じるように拳を構えた。
二人の騎士の拳が、互いの顔面を捉えようと、激しくぶつかり合おうとした、まさに、その瞬間。
ピリリリリリ!
事務所の固定電話が、けたたましい、音を立てた。
非通知設定の着信。
九十九が慌てて、その電話に出る。
『―――もしもし? …横浜九十九課さん?』
スピーカーから聞こえてきたのは、少しだけノイズ混じりながら、聞き覚えのある、若い男の声。
『ちょっと、面白い"情報"があるんですけど。…おたくの事務所の、綺麗な女性従業員の方。…さっき、六本木のミッドタウン・タワーの屋上で似た人を見掛けましたよ。ひとりで夜景でも見てるのかなぁ?』
ふざけつつも、全てを計算し尽くしたような口調。
「―――ハタケ……!」
佐竹が、呻くようにその名を呟いた。
電話の主はエイト、本人だった。
『…まあ、迎えに行ってあげたらどうです? …彼女も、退屈してる頃でしょうから』
一方的に、それだけを告げると電話は無慈悲に切れた。
全ては、彼の描いたシナリオ通り。
彼は、自らの手で、この長すぎたゲームの幕を引こうとしていたのだ。
その瞬間。
事務所の、凍りついていた空気が爆発した。
「行くぞ!」
佐竹が、獣のような低い唸り声を上げ、ジャケットを掴む。
だが、彼がデスクの上の車のキーに、手を伸ばしたその瞬間。
横から、ひょい、とそのキーを奪い取ったのは、杉浦だった。
「―――貸して」
静かで、有無を言わさぬ一言。
「……何をする、杉浦」
佐竹の鋭い視線を、杉浦は、真っ直ぐに受け止めた。
「あんたに、運転はさせられない」
「……は?」
「今の佐竹くんは、頭に血が上りすぎてる。…そんな状態でハンドルを握れば、事故を起こすのがオチでしょ。…そうなったら、未華子ちゃんを助けに行けなくなる」
佐竹は、ぐっと言葉に詰まった。
「……だから、僕が運転するから」
「……」
「……文句ある?」
―――横浜から、六本木へ。
夜の首都高速を、一台の黒いSUVが矢のように突き進んでいく。
運転席には、氷のように冷静な顔で、ハンドルを握る杉浦。
助手席には、腕を組み窓の外の流れる光を、ただ見つめる佐竹。
後部座席では、九十九がノートPCを開き、ミッドタウン・タワーの構造図と、警備システムへのハッキングを試みている。
車内には、重い沈黙だけが流れていた。
その沈黙を破ったのは、佐竹のか細い声だった。
「……………さっきは、すまなかった」
佐竹らしくない、ストレートな謝罪。
九十九が、PCから、ちらり、と顔を上げた。
「……お前ら二人に。……俺の勝手な苛立ちで、八つ当たりした」
「…………別にいいよ」
杉浦は、前を向いたまま、あっさりとそう答えた。
「僕もカッとなってたし。…お互い様でしょ」
「……左様! 喧嘩するほど仲が良い、と申しますからな! 気にしちゃいけませんぞ、佐竹殿!」
九十九も、いつもの明るい声でフォローする。
二人の温かい言葉に、佐竹は、ただ、俯くことしかできなかった。
「……今は、まず」
杉浦が、静かに続けた。
その瞳は、六本木の摩天楼の光を真っ直ぐに捉えている。
「……未華子ちゃんのことが、最優先だから」
「…………ああ」
「……でも」
杉浦は、そこで、一度言葉を切った。
そして、ルームミラー越しに、佐竹の顔をちらりと見ると、少しだけ、本当に、少しだけ、意地悪く笑ってみせた。
「……全部終わったら。…超高級中華、おごりね。…もちろん、未華子ちゃんの分も含めて、四人分」
「…………」
「……異論は認めないから」
不器用で、どこまでも彼らしい「手打ち」の提案。
佐竹は、呆れたように、ふっ、と息を吐くと、窓の外へと顔を向けた。
その横顔に、ほんの少しだけ、笑みが戻っていたのを。
杉浦は見逃さなかった。
戦いの舞台は、もう、すぐそこだ。
三人の騎士の心は、今確かに一つになっていた。
*
夜のミッドタウン・タワー屋上。
地上250メートル。
吹き荒れるビル風は、氷のように冷たく、骨の髄まで凍えさせるようだった。
そこに、エイトは立っていた。
眼下に見える、東京のきらびやかな夜景を、まるで自分が創り上げた箱庭でも眺めるかのように。
そして、その隣には。
彼の趣味であろう、肌が透けるような薄いシルクのネグリジェを、一枚だけ着せられた未華子が、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「―――来たか」
屋上へと続く、最後の扉が開かれる。
息を切らし、駆け込んできたのは、杉浦、佐竹、九十九の、三人。
そして、その背後には、佐竹からの連絡を受け包囲網を敷いていた、公安の精鋭たちが静かに控えていた。
その先頭に立つのは、かつて、彼が誰よりも慕い、そして、超えたいと願った先輩の姿。
「……松田先輩」
畠山の声は、静かだった。
「……ハタケ」
佐竹の声は、震えていた。
二年ぶりの再会。
その間には、深くて暗い、血の川が、流れていた。
「……なんで、こんなことをした」
佐竹の絞り出すような問いに、畠山は、ふ、と昔と変わらない、人懐っこい笑顔で笑った。
「……楽しかったんですよ、先輩」
その声には、後悔など微塵もない。
「正義とか法律とか、そんな息苦しいものに縛られずに、自分の頭脳一つで世界を動かすのが。…俺は自由になりたかっただけ。…松田先輩も、本当はそうだったんでしょ? 愉快な仲間たちと、"探偵ごっこ"なんか始めちゃってさ」
的確で残酷な指摘に、佐竹は何かを言い返す余力すら残っていなかった。
「……動くな!」
包囲していた捜査員たちが、一斉に銃口を彼へと向ける。
だが、その時。
夜空を引き裂くように、大型ヘリコプターの重いローター音が響き渡った。
「……残念」
畠山は、心底つまらなそうに肩をすくめた。
「勝負の決着は、まだまだ着きそうにないね」
彼が手配していた、逃走用のヘリだった。
ホバリングする機体から、一本のロープが投げ下ろされる。
彼は去り際、呆然と立ち尽くす、未華子の元へとゆっくりと歩み寄った。
そして、その震える耳元で甘く囁いた。
悪魔の呪いのように。
「―――愛してるよ」
その一言だけを残し、彼はまるで重力などないかのように、軽々とヘリのロープへと飛び移る。
夜の闇へと、消えていく堕天使。
その美しく、絶望的な飛翔を、誰もがただ見上げるしかなかった。
「ハタケええええええええええええっ!!」
佐竹の悲痛な叫びだけが、六本木のきらびやかな夜景の中に、虚しく吸い込まれていった。
事件は終わった。
だが、彼らの心には、決して癒えることのない深い深い傷跡と、そして、いつかまた、再び相見えるであろう、宿命の残照だけが焼き付いていた。
――全てが終わった。
燃え尽きたようにベッドに沈む未華子の横で、エイト――畠山は、静かにタバコに火をつけた。
その横顔は、満足げでありながら、どこか、深い寂しさを湛えているようにも見えた。
「……潮時だな」
彼は、ぽつりとそう呟くと、ベッドから抜け出し服を身につけ始めた。
そして、眠る未華子の額に、そっと最後の口づけを落とす。
「……じゃあね、未華子さん」
その声は、もう、未華子には届いていなかった。
◎場面転換[場所:横浜九十九課]
事務所の空気は、鉛を通り越し、もはや、毒を含んでいるかのように重かった。
未華子が、攫われてから五日。
時間は、容赦なく過ぎていく。
九十九は、ほとんど眠らずに、キーボードを叩き続けていた。
「くっ! また、ハズレか!」
九十九が、机に拳を叩きつけた。
エイトは、天才的な情報戦を仕掛けてきていた。
日本中、数十もの偽の「足跡」をばらまき、九十九と公安の捜査網を完璧に撹乱し続けていたのだ。
沖縄でカードが使われたかと思えば、次の瞬間には、北海道で監視カメラにそれらしき人物が映る。
その全てが、巧妙な「罠」。
杉浦も、ほとんど眠らずに、街を走り回っていた。
鉄爪たちと連携し、考えうる全てのアジト候補を、一つまた一つと潰していた。
だが、成果はゼロ。
そして、佐竹は、古巣の公安と連絡を取り続けながら、その全ての情報を統括しプロファイリングを続けていた。
だが、天才詐欺師の思考回路は、彼の完璧な論理をもあざ笑うかのように、その尻尾を掴ませなかった。
三人の心身は、すでに限界だった。
「―――クソがっ!」
佐竹が、壁に拳を叩きつけた。
その顔には、焦燥と無力感、そして、どうしようもない自己嫌悪が深く刻まれている。
「……………はぁ」
九十九が、大きく息を吐きながらヘッドセットを外した。
「……ダメですな。…これ以上はラチがあきません。…一度、休憩しましょう。…ボク、ピザでも頼みますぞ」
精一杯の気遣いの言葉。
ソファで、死んだ魚のような目をしていた杉浦も、それに力なく頷いた。
「……うん、そうだね。…何か、腹に入れないと…」
そののんきな二人の会話が、引き金だった。
「―――ピザ、だと?」
それまで、黙って地図を睨みつけていた、佐竹の低い声が、事務所に響いた。
その声は、怒りを通り越し、もはや殺気に満ちていた。
「……てめぇら、本気で言ってんのか? …あいつが、今、どこで、何をされてるかもわからねえって時に!」
理不尽な八つ当たり。
九十九が、慌てて弁解する。
「いや、佐竹殿! そうではなく、一度エネルギーを補給しないと、効率が…!」
「効率!? 俺の知る限り、おめえの、そのご自慢のハッキング能力とやらは、この五日間、何一つ成果を上げていねえじゃねえか! もっとちゃんと追えよ! 使えねえな!」
「なっ……!」
矛先は、次に杉浦へと向かう。
「……お前もそうだ、杉浦! お前が得意なのは、三下のチンピラ相手の喧嘩だけだな。…こういう頭脳戦では、なんっの役にも立たない、ただの脳筋馬鹿だ! …違うか!」
「……………っ!」
杉浦の中で、何かが切れる音がした。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、佐竹の目の前に立った。
その瞳は、静かで、それでいて鋼のように、硬い「覚悟」の色に染まっていた。
「……………いい加減にしろよ」
その地を這うような、低い声。
事務所の空気が、凍りつく。
「あんたが一番、辛いのはわかる。…後輩に裏切られて、そのせいで、未華子ちゃんまで巻き込まれた。…でもな」
杉浦の拳が、固く握りしめられる。
「……僕たちだって、同じなんだよ」
「……………」
「ここで仲間割れして、喜ぶのは誰だ? …エイトか? それとも、あんたかよ」
正論すぎる痛い一言に、佐竹の顔が苦悩に歪む。
だが、もう止まれない。
「―――だったら、お前に何ができる!」
佐竹の拳が振り上げられる。
「あんたこそ、口だけじゃねえか!」
杉浦も、それに応じるように拳を構えた。
二人の騎士の拳が、互いの顔面を捉えようと、激しくぶつかり合おうとした、まさに、その瞬間。
ピリリリリリ!
事務所の固定電話が、けたたましい、音を立てた。
非通知設定の着信。
九十九が慌てて、その電話に出る。
『―――もしもし? …横浜九十九課さん?』
スピーカーから聞こえてきたのは、少しだけノイズ混じりながら、聞き覚えのある、若い男の声。
『ちょっと、面白い"情報"があるんですけど。…おたくの事務所の、綺麗な女性従業員の方。…さっき、六本木のミッドタウン・タワーの屋上で似た人を見掛けましたよ。ひとりで夜景でも見てるのかなぁ?』
ふざけつつも、全てを計算し尽くしたような口調。
「―――ハタケ……!」
佐竹が、呻くようにその名を呟いた。
電話の主はエイト、本人だった。
『…まあ、迎えに行ってあげたらどうです? …彼女も、退屈してる頃でしょうから』
一方的に、それだけを告げると電話は無慈悲に切れた。
全ては、彼の描いたシナリオ通り。
彼は、自らの手で、この長すぎたゲームの幕を引こうとしていたのだ。
その瞬間。
事務所の、凍りついていた空気が爆発した。
「行くぞ!」
佐竹が、獣のような低い唸り声を上げ、ジャケットを掴む。
だが、彼がデスクの上の車のキーに、手を伸ばしたその瞬間。
横から、ひょい、とそのキーを奪い取ったのは、杉浦だった。
「―――貸して」
静かで、有無を言わさぬ一言。
「……何をする、杉浦」
佐竹の鋭い視線を、杉浦は、真っ直ぐに受け止めた。
「あんたに、運転はさせられない」
「……は?」
「今の佐竹くんは、頭に血が上りすぎてる。…そんな状態でハンドルを握れば、事故を起こすのがオチでしょ。…そうなったら、未華子ちゃんを助けに行けなくなる」
佐竹は、ぐっと言葉に詰まった。
「……だから、僕が運転するから」
「……」
「……文句ある?」
―――横浜から、六本木へ。
夜の首都高速を、一台の黒いSUVが矢のように突き進んでいく。
運転席には、氷のように冷静な顔で、ハンドルを握る杉浦。
助手席には、腕を組み窓の外の流れる光を、ただ見つめる佐竹。
後部座席では、九十九がノートPCを開き、ミッドタウン・タワーの構造図と、警備システムへのハッキングを試みている。
車内には、重い沈黙だけが流れていた。
その沈黙を破ったのは、佐竹のか細い声だった。
「……………さっきは、すまなかった」
佐竹らしくない、ストレートな謝罪。
九十九が、PCから、ちらり、と顔を上げた。
「……お前ら二人に。……俺の勝手な苛立ちで、八つ当たりした」
「…………別にいいよ」
杉浦は、前を向いたまま、あっさりとそう答えた。
「僕もカッとなってたし。…お互い様でしょ」
「……左様! 喧嘩するほど仲が良い、と申しますからな! 気にしちゃいけませんぞ、佐竹殿!」
九十九も、いつもの明るい声でフォローする。
二人の温かい言葉に、佐竹は、ただ、俯くことしかできなかった。
「……今は、まず」
杉浦が、静かに続けた。
その瞳は、六本木の摩天楼の光を真っ直ぐに捉えている。
「……未華子ちゃんのことが、最優先だから」
「…………ああ」
「……でも」
杉浦は、そこで、一度言葉を切った。
そして、ルームミラー越しに、佐竹の顔をちらりと見ると、少しだけ、本当に、少しだけ、意地悪く笑ってみせた。
「……全部終わったら。…超高級中華、おごりね。…もちろん、未華子ちゃんの分も含めて、四人分」
「…………」
「……異論は認めないから」
不器用で、どこまでも彼らしい「手打ち」の提案。
佐竹は、呆れたように、ふっ、と息を吐くと、窓の外へと顔を向けた。
その横顔に、ほんの少しだけ、笑みが戻っていたのを。
杉浦は見逃さなかった。
戦いの舞台は、もう、すぐそこだ。
三人の騎士の心は、今確かに一つになっていた。
*
夜のミッドタウン・タワー屋上。
地上250メートル。
吹き荒れるビル風は、氷のように冷たく、骨の髄まで凍えさせるようだった。
そこに、エイトは立っていた。
眼下に見える、東京のきらびやかな夜景を、まるで自分が創り上げた箱庭でも眺めるかのように。
そして、その隣には。
彼の趣味であろう、肌が透けるような薄いシルクのネグリジェを、一枚だけ着せられた未華子が、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「―――来たか」
屋上へと続く、最後の扉が開かれる。
息を切らし、駆け込んできたのは、杉浦、佐竹、九十九の、三人。
そして、その背後には、佐竹からの連絡を受け包囲網を敷いていた、公安の精鋭たちが静かに控えていた。
その先頭に立つのは、かつて、彼が誰よりも慕い、そして、超えたいと願った先輩の姿。
「……松田先輩」
畠山の声は、静かだった。
「……ハタケ」
佐竹の声は、震えていた。
二年ぶりの再会。
その間には、深くて暗い、血の川が、流れていた。
「……なんで、こんなことをした」
佐竹の絞り出すような問いに、畠山は、ふ、と昔と変わらない、人懐っこい笑顔で笑った。
「……楽しかったんですよ、先輩」
その声には、後悔など微塵もない。
「正義とか法律とか、そんな息苦しいものに縛られずに、自分の頭脳一つで世界を動かすのが。…俺は自由になりたかっただけ。…松田先輩も、本当はそうだったんでしょ? 愉快な仲間たちと、"探偵ごっこ"なんか始めちゃってさ」
的確で残酷な指摘に、佐竹は何かを言い返す余力すら残っていなかった。
「……動くな!」
包囲していた捜査員たちが、一斉に銃口を彼へと向ける。
だが、その時。
夜空を引き裂くように、大型ヘリコプターの重いローター音が響き渡った。
「……残念」
畠山は、心底つまらなそうに肩をすくめた。
「勝負の決着は、まだまだ着きそうにないね」
彼が手配していた、逃走用のヘリだった。
ホバリングする機体から、一本のロープが投げ下ろされる。
彼は去り際、呆然と立ち尽くす、未華子の元へとゆっくりと歩み寄った。
そして、その震える耳元で甘く囁いた。
悪魔の呪いのように。
「―――愛してるよ」
その一言だけを残し、彼はまるで重力などないかのように、軽々とヘリのロープへと飛び移る。
夜の闇へと、消えていく堕天使。
その美しく、絶望的な飛翔を、誰もがただ見上げるしかなかった。
「ハタケええええええええええええっ!!」
佐竹の悲痛な叫びだけが、六本木のきらびやかな夜景の中に、虚しく吸い込まれていった。
事件は終わった。
だが、彼らの心には、決して癒えることのない深い深い傷跡と、そして、いつかまた、再び相見えるであろう、宿命の残照だけが焼き付いていた。
