第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第二幕:籠鳥の夜想曲
東京湾の、冷たく汚れた水を飲み込みながら。
杉浦と佐竹が、命からがら岸壁へと這い上がった、まさにその頃。
一台の赤いフェラーリは、悪魔の戯れのように夜の首都高を駆け抜けていた。
緊急配備された公安のNシステム。
その監視の網を完璧に読み切った、未知のルートですり抜ける。
料金所の検問を、ありえない速度とテクニックで突破する。
その後ろを必死で食らいついてくる、公安の黒塗りの覆面パトカーたちも、まるで子供をあやすかのように撒いてみせる。
やがて、その赤い閃光は、無数のテールランプの光の中に溶けるように消えていった。
◎数時間後[場所:横浜九十九課]
事務所の空気は、鉛のように重かった。
海水の生臭い匂いを纏わせたまま、杉浦と佐竹は呆然とソファに座っている。
床には、びしょ濡れになった彼らの服から滴り落ちた、小さな水たまりがいくつもできていた。
「……………くそっ!」
九十九が、机に拳を叩きつけた。
メガネの奥の瞳は、悔しさと無力感で赤く充血している。
「あらゆる手段を尽くしましたが…。…エイトの痕跡は、完全に消失! 九十九課、および警察が管轄する、全ての防犯カメラネットワークから忽然と姿を消しています!」
未華子のスマホのGPS。
インカムに仕込まれた、超小型の発信機。
その全ての信号は、あのナイトクラブ周辺を最後に、ぷつりと途絶えてしまっていた。
まるで、最初からそこに何も存在しなかったかのように。
絶望的な沈黙を破ったのは、一本の電話だった。
佐竹の個人用のスマートフォン。
ディスプレイには、今回の「K」の文字。
黒沢 忠臣(くろさわ ただおみ)――佐竹の同期入庁の公安捜査官。
組織を去った佐竹を今も案じ、時には公安の内部情報を彼にリークするなど、九十九課にとって最も信頼できる協力者の一人だ。
「……………」
佐竹は無言で通話を繋ぎ、スピーカーモードに切り替えた。
受話器から漏れ出たのは、いつもの穏やかな口調を押し殺した、静かな声だった。
『―――松田。確認が取れた』
「……………」
『エイトの正体は、畠山大志。…間違いない』
短く、重い宣告。
「……ありえない」
佐竹の絞り出すような声が、静かな事務所に響いた。
太陽のように真っ直ぐで、正義感に燃えていた後輩が、なぜ。
『……ナイトクラブに残されていた複数の指紋と、遺留品の吸い殻から検出されたDNAが畠山のデータと一致した。それに、現場で拘束した実行犯グループの数名が、すでに割れている。……彼らに報酬を支払い、指揮を執っていた「エイト」の特徴は、すべて畠山の身体的特徴と符号するんだ』
黒沢の声には、かつての後輩を悼むような、微かな震えがあった。
『ミイラ取りが、ミイラになった。……ということなんだろう』
二年前、初代エイトに単独で接触した畠山。
そこで、法や倫理を軽々と超えていく絶対的な自由とスリルに、魅入られてしまった。
そして、初代エイトを殺害し、彼自身が二代目「エイト」となったのだ、と。
絶望的な「真相」に、佐竹は、言葉を失った。
(俺が……)
(俺が、ハタケを、そんな場所に送り込んでしまったから……)
(そして……)
(俺のくだらない、個人的な感傷のせいで、…あいつ(未華子)まで……!)
脳裏に浮かぶのは、あの黒いドレスの女神の、怯えたような瞳。
自分を信じ、そして無防備にあの獣の巣窟へと足を踏み入れてしまった、彼女の姿。
その全てを、ぶち壊してしまったのは自分だ。
「―――クソッ!!!!!」
佐竹は、獣のような咆哮を上げると、拳を固め、目の前の剥き出しのレンガ壁の柱へと叩きつけた。
ドン! ドン!
何度も何度も、拳が血に染まるまで殴りつけ続ける。
だが、痛みは感じなかった。
それ以上の、どうしようもない後悔と自己嫌悪が、彼の全身を支配していたからだ。
その痛々しい自傷行為を、杉浦は、ただ黙って見つめていた。
そして、彼は静かに立ち上がると、その血の滲む拳を、自分の手でそっと包み込むように止めた。
「……佐竹くん」
その声は、驚くほど冷静だった。
「……今は、そんなことしてる場合じゃないでしょ」
静かな言葉に、佐竹はハッとしたように顔を上げた。
杉浦の琥珀色の瞳は。
悲しみや、絶望ではない。
静かな、しかし鋼のように硬い「覚悟」の色に、染まっていたのだから。
◎場面転換[場所:タワーマンションの一室]
エイトが運転する赤いフェラーリは、六本木の高層タワーマンションの地下駐車場へと音もなく滑り込んだ。
連れてこられたのは、息を呑むような東京の夜景が、宝石のように眼下に広がる最上階のペントハウス。
ガラス張りの壁、高級そうな白い革張りのソファ、そして、壁に埋め込まれた巨大なワインセラー。
「……どう? 結構いい部屋じゃない?」
畠山――エイトは、そう言って、悪戯っぽく笑った。
彼は、まるで大切なゲストをもてなすかのように、ワインセラーから一本のヴィンテージシャンパンを恭しく取り出すと、美しい音を立ててその栓を抜いた。
ラベルには、重厚な盾の紋章。
「ドン・ペリニヨン、P2の98年。…せっかくこんなところまで来てもらったんだ。これくらい出さないと、失礼でしょ?」
彼は、慣れた手つきで黄金色の液体をグラスに注いでいく。
未華子が呆然とその光景を見つめていると、彼は、泡の立ち上るフルートグラスを彼女の目の前に差し出した。
「……さあ、どうぞ」
「……………」
「やだなぁ。そんな警戒しなくても。…毒なんて入れてないよ」
軽薄な笑み。
エイトは、まるで、旧友に再会したかのように、屈託なく笑い語りかけてくる。
「いや~でも、本当に驚いたなあ。…あの"鉄の仮面"だった松田先輩が。国家機密を守る“崇高な戦士”を辞めたかと思ったら。横浜の、場末の探偵事務所で、でしょ? …人生って何が起きるかわかんないよねぇ。…最高に、面白いけど」
「……どうして、こんなことを」
未華子の震える声に、彼は心底不思議そうに、小首を傾げた。
「どうして?」
彼はソファに深く腰掛けると、その甘いマスクに残酷な笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと語り始めた。
一介の公安捜査官だった「畠山大志」が、いかにして「エイト」という名の怪物へ変貌を遂げたのか、その経緯を。
「協力者のフリをして奴に近づき、手錠 をかける……。それが松田先輩との任務だった。でも、奴の思考に深く入り込めば入り込むほど、気づいたんだ。国家が、先輩たちが、必死に守ろうとしている『ルール』なんて、結局誰も幸せにしない。外の世界はもっともっと理にかなった『自由』があるんだって」
それは、後悔や罪悪感など微塵も感じさせない、まるで英雄譚を語るかのような、楽しげな口ぶりだった。
「……あの日、山梨の山奥でエイト本人と対峙した時、確信したんだ。『俺ならもっと高い次元で、もっと美しくこなせる』ってね」
エイトは、自身の掌を愛おしそうに見つめた。
「だから、あいつ(初代)を殺した。『畠山大志』が殺されたように細工してね。奴の思考も情報網も、すでに全部頭に入っていた。……成り代わるのは簡単だった」
俺は、自由になったのだ――。
彼は、そう繰り返した。
「松田先輩は、俺の死を悲しんでくれてたのかな? 嬉しいな。今でも尊敬してるんだよね。……でも、あんな狭い世界で擦り切れていく彼を見てると、気の毒で気の毒で」
歪んだ、自己陶酔の物語。
未華子は、ただ黙って聞き終えると、一つだけ質問をした。
「…………それで、私を、ここまで連れてきた理由は何?」
未華子の真っ直ぐな問いに。
エイトは、感心したように、一度拍手をしてみせた。
「……素晴らしい人だよ、あなたは」
「……え?」
「あのVIPルームで。公安も、松田先輩も、全員があのチンケな男に気を取られていた。…なのに、なぜ、あなたは俺が本物の『エイト』だとわかった?」
その問いに、未華子は記憶を探るように答えた。
「…………なんとなく、としか」
「……なんとなく?」
「部屋の空気、視線、力の流れ。…その全てが、あなたを中心に回っているように見えたから。…ただ、それだけ」
感覚的ながら、本質を射抜いた答え。
それを聞いたエイトは、心底楽しそうに声を上げて笑った。
「……ははっ! 最高だ! …流石だね!」
彼は、ソファから立ち上がると、音もなく未華子の目の前に立った。
「そう。それだよ。俺があなたを、ここに連れてきた一つ目の理由」
美しい顔が近づいてくる。
「あの一瞬で全てを見抜いた、あなたの、その『勘』と『度胸』に、俺は興味を持った」
そして、その冷たい指先で、未華子の顎をくいと持ち上げたのだ。
その瞳は、もはや、好青年のそれではない。
獲物を品定めする、冷酷な捕食者の目。
「―――そして、もう一つの理由」
「松田先輩が、華麗なるあのキャリアを全部捨ててまで。…お国のためでも、金のためでもなく、あんな掃き溜めみたいな探偵事務所で働き始めた、その理由。…それが知りたくて知りたくて、仕方なかったんだよね」
彼の目が、すぅと細められる。
「……で、思ったんだよね。…もしかしたらその答えの"カギ"はさ。…あなたが持ってるんじゃないかなって。…違う? 橘未華子さん」
全てを見透かしたような言葉と美しい目に、未華子は、息を呑むことしかできなかった。
*
その夜から、奇妙な軟禁生活が始まった。
そこは、天国であり地獄だった。
身体への直接的な拘束はない。
バスルームも、自由に使えた。
だが、このガラス張りの鳥かごから外の世界へと続く、ただ一つの扉は彼の指紋がなければ決して開かない。
もちろんスマホは取り上げられ、その他の通信機器も使えない。
未華子は、囚われたのだ。
この、東京の夜景を全て見下ろす、偽りの楽園に。
そして、その楽園の王である彼は、最初の残酷なルールを、未華子に告げたのだ。
「―――夜は、俺と同じベッドで寝てもらう」
◎一日目の夜:支配の始まり【未華子SIDE】
その夜、大理石の巨大なダイニングテーブルには、完璧なフルコースが並べられていた。
「……さあどうぞ。腹が減っては戦はできぬ、じゃん?」
エイトは、楽しそうに私に席を勧める。
私はもちろん、それに手をつける気にはなれなかった。
「……いらない」
「食べないんだ? 残念。せっかく、未華子さんの好きそうなシーフードで揃えてみたんだけどな」
彼は、心底残念そうに肩をすくめると、一人黙々と食事を始めた。
その姿を見ながら、私は改めて目の前の男を「観察」する。
佐竹が見せてくれた、あの写真の好青年とは、似て非なる存在。
スーツに身を包んだ「畠山大志」は、爽やかで知的な、好青年の顔をしていた。
だが、目の前の「エイト」は、違う。
ラフな黒いシャツを無造作に着こなし、その胸元は大胆にはだけている。
無邪気で、それでいて、どうしようもなく色っぽい。
甘いマスクと、少年のような屈託のない笑顔。
そのアンバランスな魅力が、逆に、彼の底知れない危険性を際立たせていた。
食事が終わる。
彼は、私のすぐ後ろに立つと、その冷たい指先で、私のこわばった髪筋に、そっと触れた。
「―――っ!」
「……ずいぶんと緊張している。…松田先輩は、あなたに、何を教えていたのかな」
その囁き声が耳を焼く。
これが、彼のやり方。
暴力ではない。
じわじわと心を支配し、相手のテリトリーを侵食していく。
そして、彼は静かに言った。
「……時間だ。…服を、脱いで」
「……は?」
「聞こえなかった? 二人とも、生まれたままの姿でベッドに入る。…それがここでの最初のルール」
理不尽で屈辱的な命令も、抵抗は無意味だった。
私は震える手で、自分の服を一枚、また一枚と脱ぎ捨てていった。
彼もまた、音もなく、その黒いシャツを脱ぎ捨てていく。
薄暗い間接照明の中、浮かび上がる二つの裸体。
目の前の「エイト」の身体は、細身だが、無駄な脂肪が一切なく、まるで黒豹のようにしなやかで、美しい筋肉に覆われていた。
その完璧な肉体美を前にして。
私はただ、自分のコンプレックスだらけの柔らかな身体を、両手で隠すことしかできなかった。
キングサイズの巨大なベッド。
彼は先に、その中央に仰向けになると、私の入るべき場所を顎で示した。
私はロボットのように、その冷たいシーツの中に身体を滑り込ませる。
背中合わせでも、向かい合わせでもない。
ただ、同じ方向を向いて、仰向けに横たわる。
彼の体温が、すぐ隣から伝わってくる。
彼の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
彼は、何もしなかった。
ただ、そこにいるだけ。
だが、その「何もしない」という行為こそが最大の拷問だった。
私は生まれて初めて、男と完全に裸で同じベッドに入り、そして、ただ監視されるように眠りについた。
その夜、私は、一睡もできなかった。
◎二日目の夜:境界線の侵食
翌朝、私は眩いばかりの陽光で目を覚ました。
遮るもののないタワーマンションの高層階。
視界を埋め尽くす東京のパノラマは、ここが地上から切り離された「絶海の孤島」であることを突きつけてくる。
軟禁生活は、不気味なほど穏やかに過ぎていった。
日中、エイトは気まぐれに部屋を空け、あるいはリビングのソファでノートPCに向かっていた。
食事は三食、正確な時間に運ばれてきた。
エイトの手下と思しき無口な男が届けるのは、銀のクロッシュに覆われたホテルのフルコース。
エイトが不在の数時間、私は部屋の隅々まで調べ尽くした。
隠された通信機器、外壁に伝う通気口――。
しかし、天才詐欺師が用意した檻に、素人の付け入る隙などなかった。
そんな中、唯一の外界との接点は、壁に備え付けられた巨大なモニターだった。
ニュース番組から流れるアナウンサーの声、バラエティ番組の無意味な笑い声。
そのノイズだけが、自分がまだ、この空の上の狂気ではなく、地上の「日常」に繋がっていることを教えてくれる唯一の命綱だった。
*
夜になると、昨夜と同じ儀式が始まる。
完璧なディナーの後、私は再び冷たいシーツの中へと導かれた。
生まれたままの姿で。
だが、その夜の彼は違っていた。
仰向けになった私のすぐ隣に、彼も横たわると、その美しい顔をこちらに向けた。
そして、静かに囁いた。
「……昨日の夜は、よく眠れなかったようだね」
「……………」
「……今日は、ぐっすりと眠れるように。…俺が手伝ってあげるよ」
その言葉と同時に。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、その冷たい唇が、私の額にそっと触れた。
蝶が羽を休めるような、軽やかで純粋なキス。
私は、息を呑んだ。
彼の唇は、そこからゆっくりと旅を始めた。
瞼へ、鼻筋へ、そして頬へ。
その一つ一つが、驚くほど優しくて丁寧で、そこに一切の欲望は感じられなかった。
まるで、壊れやすいガラス細工にでも、触れるかのように。
「…………やめ……」
私のか細い抵抗の言葉を、彼は遮らなかった。
その代わり、彼は初めてその冷たい唇を、私のものにそっと重ねたのだ。
それは、舌を差し込むような深いキスではなかった。
ただ、唇と唇が触れ合っているだけ。
しかし、その「触れているだけ」という事実こそが、私の全ての感覚を、そこへと集中させていく。
やがて、彼の唇は私の顎のラインをなぞり首筋へ。
そして、鎖骨へ。
「―――っ!」
彼の唇の旅は、続く。
肩へ、二の腕へ、そして、手首へ。
指の一本一本に、丁寧にキスを落としていく。
最初は、恐怖と嫌悪で、身体を固くしていた。
杉浦くんのこと、九十九課の仲間たちのことを、必死で頭に思い浮かべ、この男の魔性から、逃れようとした。
しかし、私はもう抵抗することを忘れていた。
まるで身体中の血液が、彼の唇が触れた場所へと集まっていくような、不思議な感覚。
全身がじわりと熱を持ち、痺れていく。
彼の唇は、ついに私の胸の谷間へと達した。
しかし彼は、その一番敏感な頂上には、決して触れない。
ただ、その周りを、焦らすように円を描くだけ。
「……ん……っ」
思わず、甘い声が漏れてしまう。
腹部へ、そして、へその周りへ。
太ももの内側へ。膝小僧へ。
足首へ、そして、足の指の一本一本へ。
彼の唇は、私の全身のありとあらゆる場所を、巡礼するように旅をした。
しかし、ただの一度も、私の一番秘密の場所には触れなかった。
どれくらいの、時間が経っただろうか。
彼の唇が、ようやくその旅を終えた時。
私の身体は、汗でぐっしょりと濡れ、荒い息を繰り返していた。
全身が、感じたことのないほど敏感になり、そして中心にはどうしようもないほどの「熱」と「渇き」だけが、残されていた。
欲しくて、たまらないのに、与えられない。
残酷で、巧みな拷問。
それは、快楽よりも、むしろ精神を支配するための究極の儀式だった。
「……………おやすみ、未華子さん」
彼は、悪魔のように優しく微笑むと、私に背を向け、そして本当に穏やかな寝息を立て始めたのだ。
残されたのは、欲望の生殺しにされた、私一人。
その夜も、私は自分の身体から立ち上る、熱と疼きで一睡もできなかった。
東京湾の、冷たく汚れた水を飲み込みながら。
杉浦と佐竹が、命からがら岸壁へと這い上がった、まさにその頃。
一台の赤いフェラーリは、悪魔の戯れのように夜の首都高を駆け抜けていた。
緊急配備された公安のNシステム。
その監視の網を完璧に読み切った、未知のルートですり抜ける。
料金所の検問を、ありえない速度とテクニックで突破する。
その後ろを必死で食らいついてくる、公安の黒塗りの覆面パトカーたちも、まるで子供をあやすかのように撒いてみせる。
やがて、その赤い閃光は、無数のテールランプの光の中に溶けるように消えていった。
◎数時間後[場所:横浜九十九課]
事務所の空気は、鉛のように重かった。
海水の生臭い匂いを纏わせたまま、杉浦と佐竹は呆然とソファに座っている。
床には、びしょ濡れになった彼らの服から滴り落ちた、小さな水たまりがいくつもできていた。
「……………くそっ!」
九十九が、机に拳を叩きつけた。
メガネの奥の瞳は、悔しさと無力感で赤く充血している。
「あらゆる手段を尽くしましたが…。…エイトの痕跡は、完全に消失! 九十九課、および警察が管轄する、全ての防犯カメラネットワークから忽然と姿を消しています!」
未華子のスマホのGPS。
インカムに仕込まれた、超小型の発信機。
その全ての信号は、あのナイトクラブ周辺を最後に、ぷつりと途絶えてしまっていた。
まるで、最初からそこに何も存在しなかったかのように。
絶望的な沈黙を破ったのは、一本の電話だった。
佐竹の個人用のスマートフォン。
ディスプレイには、今回の「K」の文字。
黒沢 忠臣(くろさわ ただおみ)――佐竹の同期入庁の公安捜査官。
組織を去った佐竹を今も案じ、時には公安の内部情報を彼にリークするなど、九十九課にとって最も信頼できる協力者の一人だ。
「……………」
佐竹は無言で通話を繋ぎ、スピーカーモードに切り替えた。
受話器から漏れ出たのは、いつもの穏やかな口調を押し殺した、静かな声だった。
『―――松田。確認が取れた』
「……………」
『エイトの正体は、畠山大志。…間違いない』
短く、重い宣告。
「……ありえない」
佐竹の絞り出すような声が、静かな事務所に響いた。
太陽のように真っ直ぐで、正義感に燃えていた後輩が、なぜ。
『……ナイトクラブに残されていた複数の指紋と、遺留品の吸い殻から検出されたDNAが畠山のデータと一致した。それに、現場で拘束した実行犯グループの数名が、すでに割れている。……彼らに報酬を支払い、指揮を執っていた「エイト」の特徴は、すべて畠山の身体的特徴と符号するんだ』
黒沢の声には、かつての後輩を悼むような、微かな震えがあった。
『ミイラ取りが、ミイラになった。……ということなんだろう』
二年前、初代エイトに単独で接触した畠山。
そこで、法や倫理を軽々と超えていく絶対的な自由とスリルに、魅入られてしまった。
そして、初代エイトを殺害し、彼自身が二代目「エイト」となったのだ、と。
絶望的な「真相」に、佐竹は、言葉を失った。
(俺が……)
(俺が、ハタケを、そんな場所に送り込んでしまったから……)
(そして……)
(俺のくだらない、個人的な感傷のせいで、…あいつ(未華子)まで……!)
脳裏に浮かぶのは、あの黒いドレスの女神の、怯えたような瞳。
自分を信じ、そして無防備にあの獣の巣窟へと足を踏み入れてしまった、彼女の姿。
その全てを、ぶち壊してしまったのは自分だ。
「―――クソッ!!!!!」
佐竹は、獣のような咆哮を上げると、拳を固め、目の前の剥き出しのレンガ壁の柱へと叩きつけた。
ドン! ドン!
何度も何度も、拳が血に染まるまで殴りつけ続ける。
だが、痛みは感じなかった。
それ以上の、どうしようもない後悔と自己嫌悪が、彼の全身を支配していたからだ。
その痛々しい自傷行為を、杉浦は、ただ黙って見つめていた。
そして、彼は静かに立ち上がると、その血の滲む拳を、自分の手でそっと包み込むように止めた。
「……佐竹くん」
その声は、驚くほど冷静だった。
「……今は、そんなことしてる場合じゃないでしょ」
静かな言葉に、佐竹はハッとしたように顔を上げた。
杉浦の琥珀色の瞳は。
悲しみや、絶望ではない。
静かな、しかし鋼のように硬い「覚悟」の色に、染まっていたのだから。
◎場面転換[場所:タワーマンションの一室]
エイトが運転する赤いフェラーリは、六本木の高層タワーマンションの地下駐車場へと音もなく滑り込んだ。
連れてこられたのは、息を呑むような東京の夜景が、宝石のように眼下に広がる最上階のペントハウス。
ガラス張りの壁、高級そうな白い革張りのソファ、そして、壁に埋め込まれた巨大なワインセラー。
「……どう? 結構いい部屋じゃない?」
畠山――エイトは、そう言って、悪戯っぽく笑った。
彼は、まるで大切なゲストをもてなすかのように、ワインセラーから一本のヴィンテージシャンパンを恭しく取り出すと、美しい音を立ててその栓を抜いた。
ラベルには、重厚な盾の紋章。
「ドン・ペリニヨン、P2の98年。…せっかくこんなところまで来てもらったんだ。これくらい出さないと、失礼でしょ?」
彼は、慣れた手つきで黄金色の液体をグラスに注いでいく。
未華子が呆然とその光景を見つめていると、彼は、泡の立ち上るフルートグラスを彼女の目の前に差し出した。
「……さあ、どうぞ」
「……………」
「やだなぁ。そんな警戒しなくても。…毒なんて入れてないよ」
軽薄な笑み。
エイトは、まるで、旧友に再会したかのように、屈託なく笑い語りかけてくる。
「いや~でも、本当に驚いたなあ。…あの"鉄の仮面"だった松田先輩が。国家機密を守る“崇高な戦士”を辞めたかと思ったら。横浜の、場末の探偵事務所で、でしょ? …人生って何が起きるかわかんないよねぇ。…最高に、面白いけど」
「……どうして、こんなことを」
未華子の震える声に、彼は心底不思議そうに、小首を傾げた。
「どうして?」
彼はソファに深く腰掛けると、その甘いマスクに残酷な笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと語り始めた。
一介の公安捜査官だった「畠山大志」が、いかにして「エイト」という名の怪物へ変貌を遂げたのか、その経緯を。
「協力者のフリをして奴に近づき、
それは、後悔や罪悪感など微塵も感じさせない、まるで英雄譚を語るかのような、楽しげな口ぶりだった。
「……あの日、山梨の山奥でエイト本人と対峙した時、確信したんだ。『俺ならもっと高い次元で、もっと美しくこなせる』ってね」
エイトは、自身の掌を愛おしそうに見つめた。
「だから、あいつ(初代)を殺した。『畠山大志』が殺されたように細工してね。奴の思考も情報網も、すでに全部頭に入っていた。……成り代わるのは簡単だった」
俺は、自由になったのだ――。
彼は、そう繰り返した。
「松田先輩は、俺の死を悲しんでくれてたのかな? 嬉しいな。今でも尊敬してるんだよね。……でも、あんな狭い世界で擦り切れていく彼を見てると、気の毒で気の毒で」
歪んだ、自己陶酔の物語。
未華子は、ただ黙って聞き終えると、一つだけ質問をした。
「…………それで、私を、ここまで連れてきた理由は何?」
未華子の真っ直ぐな問いに。
エイトは、感心したように、一度拍手をしてみせた。
「……素晴らしい人だよ、あなたは」
「……え?」
「あのVIPルームで。公安も、松田先輩も、全員があのチンケな男に気を取られていた。…なのに、なぜ、あなたは俺が本物の『エイト』だとわかった?」
その問いに、未華子は記憶を探るように答えた。
「…………なんとなく、としか」
「……なんとなく?」
「部屋の空気、視線、力の流れ。…その全てが、あなたを中心に回っているように見えたから。…ただ、それだけ」
感覚的ながら、本質を射抜いた答え。
それを聞いたエイトは、心底楽しそうに声を上げて笑った。
「……ははっ! 最高だ! …流石だね!」
彼は、ソファから立ち上がると、音もなく未華子の目の前に立った。
「そう。それだよ。俺があなたを、ここに連れてきた一つ目の理由」
美しい顔が近づいてくる。
「あの一瞬で全てを見抜いた、あなたの、その『勘』と『度胸』に、俺は興味を持った」
そして、その冷たい指先で、未華子の顎をくいと持ち上げたのだ。
その瞳は、もはや、好青年のそれではない。
獲物を品定めする、冷酷な捕食者の目。
「―――そして、もう一つの理由」
「松田先輩が、華麗なるあのキャリアを全部捨ててまで。…お国のためでも、金のためでもなく、あんな掃き溜めみたいな探偵事務所で働き始めた、その理由。…それが知りたくて知りたくて、仕方なかったんだよね」
彼の目が、すぅと細められる。
「……で、思ったんだよね。…もしかしたらその答えの"カギ"はさ。…あなたが持ってるんじゃないかなって。…違う? 橘未華子さん」
全てを見透かしたような言葉と美しい目に、未華子は、息を呑むことしかできなかった。
*
その夜から、奇妙な軟禁生活が始まった。
そこは、天国であり地獄だった。
身体への直接的な拘束はない。
バスルームも、自由に使えた。
だが、このガラス張りの鳥かごから外の世界へと続く、ただ一つの扉は彼の指紋がなければ決して開かない。
もちろんスマホは取り上げられ、その他の通信機器も使えない。
未華子は、囚われたのだ。
この、東京の夜景を全て見下ろす、偽りの楽園に。
そして、その楽園の王である彼は、最初の残酷なルールを、未華子に告げたのだ。
「―――夜は、俺と同じベッドで寝てもらう」
◎一日目の夜:支配の始まり【未華子SIDE】
その夜、大理石の巨大なダイニングテーブルには、完璧なフルコースが並べられていた。
「……さあどうぞ。腹が減っては戦はできぬ、じゃん?」
エイトは、楽しそうに私に席を勧める。
私はもちろん、それに手をつける気にはなれなかった。
「……いらない」
「食べないんだ? 残念。せっかく、未華子さんの好きそうなシーフードで揃えてみたんだけどな」
彼は、心底残念そうに肩をすくめると、一人黙々と食事を始めた。
その姿を見ながら、私は改めて目の前の男を「観察」する。
佐竹が見せてくれた、あの写真の好青年とは、似て非なる存在。
スーツに身を包んだ「畠山大志」は、爽やかで知的な、好青年の顔をしていた。
だが、目の前の「エイト」は、違う。
ラフな黒いシャツを無造作に着こなし、その胸元は大胆にはだけている。
無邪気で、それでいて、どうしようもなく色っぽい。
甘いマスクと、少年のような屈託のない笑顔。
そのアンバランスな魅力が、逆に、彼の底知れない危険性を際立たせていた。
食事が終わる。
彼は、私のすぐ後ろに立つと、その冷たい指先で、私のこわばった髪筋に、そっと触れた。
「―――っ!」
「……ずいぶんと緊張している。…松田先輩は、あなたに、何を教えていたのかな」
その囁き声が耳を焼く。
これが、彼のやり方。
暴力ではない。
じわじわと心を支配し、相手のテリトリーを侵食していく。
そして、彼は静かに言った。
「……時間だ。…服を、脱いで」
「……は?」
「聞こえなかった? 二人とも、生まれたままの姿でベッドに入る。…それがここでの最初のルール」
理不尽で屈辱的な命令も、抵抗は無意味だった。
私は震える手で、自分の服を一枚、また一枚と脱ぎ捨てていった。
彼もまた、音もなく、その黒いシャツを脱ぎ捨てていく。
薄暗い間接照明の中、浮かび上がる二つの裸体。
目の前の「エイト」の身体は、細身だが、無駄な脂肪が一切なく、まるで黒豹のようにしなやかで、美しい筋肉に覆われていた。
その完璧な肉体美を前にして。
私はただ、自分のコンプレックスだらけの柔らかな身体を、両手で隠すことしかできなかった。
キングサイズの巨大なベッド。
彼は先に、その中央に仰向けになると、私の入るべき場所を顎で示した。
私はロボットのように、その冷たいシーツの中に身体を滑り込ませる。
背中合わせでも、向かい合わせでもない。
ただ、同じ方向を向いて、仰向けに横たわる。
彼の体温が、すぐ隣から伝わってくる。
彼の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
彼は、何もしなかった。
ただ、そこにいるだけ。
だが、その「何もしない」という行為こそが最大の拷問だった。
私は生まれて初めて、男と完全に裸で同じベッドに入り、そして、ただ監視されるように眠りについた。
その夜、私は、一睡もできなかった。
◎二日目の夜:境界線の侵食
翌朝、私は眩いばかりの陽光で目を覚ました。
遮るもののないタワーマンションの高層階。
視界を埋め尽くす東京のパノラマは、ここが地上から切り離された「絶海の孤島」であることを突きつけてくる。
軟禁生活は、不気味なほど穏やかに過ぎていった。
日中、エイトは気まぐれに部屋を空け、あるいはリビングのソファでノートPCに向かっていた。
食事は三食、正確な時間に運ばれてきた。
エイトの手下と思しき無口な男が届けるのは、銀のクロッシュに覆われたホテルのフルコース。
エイトが不在の数時間、私は部屋の隅々まで調べ尽くした。
隠された通信機器、外壁に伝う通気口――。
しかし、天才詐欺師が用意した檻に、素人の付け入る隙などなかった。
そんな中、唯一の外界との接点は、壁に備え付けられた巨大なモニターだった。
ニュース番組から流れるアナウンサーの声、バラエティ番組の無意味な笑い声。
そのノイズだけが、自分がまだ、この空の上の狂気ではなく、地上の「日常」に繋がっていることを教えてくれる唯一の命綱だった。
*
夜になると、昨夜と同じ儀式が始まる。
完璧なディナーの後、私は再び冷たいシーツの中へと導かれた。
生まれたままの姿で。
だが、その夜の彼は違っていた。
仰向けになった私のすぐ隣に、彼も横たわると、その美しい顔をこちらに向けた。
そして、静かに囁いた。
「……昨日の夜は、よく眠れなかったようだね」
「……………」
「……今日は、ぐっすりと眠れるように。…俺が手伝ってあげるよ」
その言葉と同時に。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、その冷たい唇が、私の額にそっと触れた。
蝶が羽を休めるような、軽やかで純粋なキス。
私は、息を呑んだ。
彼の唇は、そこからゆっくりと旅を始めた。
瞼へ、鼻筋へ、そして頬へ。
その一つ一つが、驚くほど優しくて丁寧で、そこに一切の欲望は感じられなかった。
まるで、壊れやすいガラス細工にでも、触れるかのように。
「…………やめ……」
私のか細い抵抗の言葉を、彼は遮らなかった。
その代わり、彼は初めてその冷たい唇を、私のものにそっと重ねたのだ。
それは、舌を差し込むような深いキスではなかった。
ただ、唇と唇が触れ合っているだけ。
しかし、その「触れているだけ」という事実こそが、私の全ての感覚を、そこへと集中させていく。
やがて、彼の唇は私の顎のラインをなぞり首筋へ。
そして、鎖骨へ。
「―――っ!」
彼の唇の旅は、続く。
肩へ、二の腕へ、そして、手首へ。
指の一本一本に、丁寧にキスを落としていく。
最初は、恐怖と嫌悪で、身体を固くしていた。
杉浦くんのこと、九十九課の仲間たちのことを、必死で頭に思い浮かべ、この男の魔性から、逃れようとした。
しかし、私はもう抵抗することを忘れていた。
まるで身体中の血液が、彼の唇が触れた場所へと集まっていくような、不思議な感覚。
全身がじわりと熱を持ち、痺れていく。
彼の唇は、ついに私の胸の谷間へと達した。
しかし彼は、その一番敏感な頂上には、決して触れない。
ただ、その周りを、焦らすように円を描くだけ。
「……ん……っ」
思わず、甘い声が漏れてしまう。
腹部へ、そして、へその周りへ。
太ももの内側へ。膝小僧へ。
足首へ、そして、足の指の一本一本へ。
彼の唇は、私の全身のありとあらゆる場所を、巡礼するように旅をした。
しかし、ただの一度も、私の一番秘密の場所には触れなかった。
どれくらいの、時間が経っただろうか。
彼の唇が、ようやくその旅を終えた時。
私の身体は、汗でぐっしょりと濡れ、荒い息を繰り返していた。
全身が、感じたことのないほど敏感になり、そして中心にはどうしようもないほどの「熱」と「渇き」だけが、残されていた。
欲しくて、たまらないのに、与えられない。
残酷で、巧みな拷問。
それは、快楽よりも、むしろ精神を支配するための究極の儀式だった。
「……………おやすみ、未華子さん」
彼は、悪魔のように優しく微笑むと、私に背を向け、そして本当に穏やかな寝息を立て始めたのだ。
残されたのは、欲望の生殺しにされた、私一人。
その夜も、私は自分の身体から立ち上る、熱と疼きで一睡もできなかった。
