第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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幕間:双龍の鎮魂歌(レクイエム)
◎場所:「サバイバー」のカウンター席
伊勢佐木異人町のざわめきから逃れるように。
スナック「サバイバー」の重い扉の向こう側は、いつも通りの静かで温かい時間が流れていた。
カウンター席。
私とソンヒさんは並んでグラスを傾けていた。
月に一度の定例女子会。それが、最近の私たちの密かな楽しみになっていた。
「―――そういえば」
私がグラスの中のカシスオレンジをかき混ぜながら呟く。
「最近、中華街のお店とか行くと、すごいサービスされちゃって」
「……ほう」
「なんか、餃子とかごま団子とか、頼んでないものがどんどん出てくるんです。帰り際にこっそり『あの二人の歴史的な和解は、女神様のおかげですから…!』って、耳打ちされたりして」
ソンヒさんはふっと微笑むと、マティーニを一口含んだ。
「趙さんと十朱会長が“腐れ縁”なのは、うっすら聞いたことあるんですけど。…『和解した』って、どういうことなんですか? そんなに、ずっと、仲悪かったんですか?」
私の純粋な疑問に、ソンヒさんは、少しだけ考える素振りを見せた後、静かに口を開いた。
その瞳は、まるで遠い昔の風景を辿っているかのようだった。
「……私は生まれは韓国だが、縁あってこの街に来てから。あいつらとは、ガキの頃からの付き合いなんだ。だから、よくわかる」
「ソンヒさんも、幼馴染みたいなものだったんですね」
「まあな。……あの二人は、『仲が悪い』という簡単な言葉で片付けられる関係じゃない。言ってみれば、同じ星の下に生まれた双子のようなものだ。……光と影。太陽と月。互いが互いを映し出す鏡。だからこそ憎み合い、そして誰よりも、互いの存在に縛られていた」
彼女は静かに、二人の生い立ちから語り始めた。
ーーー回想ーーー
――趙天佑。
知っての通り、横浜流氓の先代総帥の一人息子として生まれた。幼い頃から文武両道で、悪知恵も働く。誰もが次期総帥と目していた。だが、あいつは自分自身のことを「器用貧乏」だと冷めた目で見ていてな。トップに立つことなんて、全く興味を示さなかった。
――そして、もう一人が。
元・横浜流氓幹部だった父と、日本人の母との間に生まれた男。当時の名前は「是安 聡 」、中国名を「劉 詩荃 」と言った。……今の十朱 雅 だ。 十朱もまた、次期総帥候補として幼少期からあらゆる帝王学を叩き込まれていた。二人は同い年で、常に比較され、競い合ってきた宿命のライバルだった。
意外かもしれないが、子供の頃、常に一歩先を走っていたのは十朱の方だったんだ。勉強も喧嘩も、あいつは努力の塊で、いつだって一番だった。 ……でも、十朱には、一つだけ絶対に手に入れられないものがあった。
それは、趙が生まれながらに持っていた、圧倒的な「人望」。 誰をも惹きつけ、全てを許して包み込んでしまう、陽のカリスマ性と器の大きさだ。 十朱は、自分がどれだけ完璧になろうと努力しても、みんなが心からついて行きたいと願うのは趙の方だと、骨の髄まで思い知らされていた。
もしかしたら、十朱自身の複雑なルーツも影響していたのかもしれない。生粋の中国人でもなければ、日本人でもない。その不安定なアイデンティティが、彼に根深い劣等感を植え付けていたんだろうな。
趙という「太陽」の前に、十朱は一生逃れることのできない、絶対的な敗北とコンプレックスを刻み込まれる。そして、「趙の方が総帥に向いている」と自らの限界を悟った十朱は、高校を卒業した後、「是安」や「劉」という名も、過去も、すべてを捨てて単身でこの街を去ると決めたんだ。
……でもな、皮肉なことに、趙は趙で、全く逆のコンプレックスを抱いていた。
何でもそつなくこなせる器用貧乏な自分には、トップに立ち続けるための「向上心」が欠落している。趙はずっと、そう自己評価していた。 だからこそ、向上心の塊である十朱を見て、彼自身は心のどこかで信じていたんだ。 「あいつこそが本当の王にふさわしい」と。
ーー互いが互いに「相手の方がボスの器だ」と確信しながら、それを口にできないまま迎えた、決別の夜。
降りしきる雨の中。バッグ一つを肩にかけ、独り街を去ろうとする十朱の背中を、趙の声が呼び止めた。
「逃げるわけ?」
その挑発的な問いかけに、十朱は振り返ることなく、軽蔑を込めて言い返した。
「お前のような向上心のない奴が、この街に居座るのが我慢ならないからな」
それが、殴り合いの合図だった。
容赦なく叩きつける雨の中、互いの拳が砕けるほどの衝撃が路地裏に響く。 泥にまみれ、息を乱しながら、今度は趙が冷たく煽り返した。
「お前のようなケツの穴が小さい男が。この街どころか、どんな組織だって背負えるわけねえんだよ」
本当は一番認めている相手の本質を、あえて呪いのような言葉に変えて叩きつけ合うことでしか、二人はサヨナラを言えなかった。
十朱が異人町を捨てて去っていったあの日から、趙の隣の席はぽっかりと空席になった。 二人は、一番相手を嫌いながら、一番相手を認めていた。 ただ、絶望的に不器用で、すれ違っていただけなんだ。
*
……それからだ。あいつ(十朱)が、おかしくなったのは。
趙天佑という「太陽」に勝つためだけに、十朱は全てを捨て、力だけを求めて闇の深淵へと突き進んでいった。 目の前に立ちはだかる壁を、圧倒的な暴力と知略で全てひれ伏させる。目的のためなら手段を選ばず、感情すらも削ぎ落とす。愛も友情も、あいつにとっては「完璧な王」という概念に到達するための駒に過ぎなくなった。
圧倒的な権力と金を手に入れて、いつか、趙すらも自分の前に跪かせるーー。ただ、それだけのために。
19歳の頃、底知れない才覚を東鞘会の先々代会長に見込まれた十朱は、裏社会へと完全に足を踏み入れた。戸籍ロンダリングで「劉」や「是安」の名をこの世から抹消し、そこから「十朱雅」と名乗り始めたんだ。
そこからのあいつは、まさにバケモノだった。
東鞘会の庇護の下、北京大学へ進学し、国際政治と経済学を修めた。だが、あいつがそこで本当に手に入れたのは、学問などではない。中国共産党の中枢を担うことになる幹部候補生たちとの、強固な血のコネクション――「絆(グァンシー)」だ。
さらにその後、アメリカへ留学。裏ではチャイニーズマフィアと渡り合い、FBIやCIAといった情報機関の内部にまで独自のネットワークを構築していった。
日・米・中、すべての政府機関に影を落とす、無形の資産。 あいつは若くして、地上の誰一人として逆らえない絶対的な地盤を築き上げたのさ。
2018年。 東鞘会は、分裂した和鞘連合との間で泥沼の抗争状態にあった。先代の六代目会長が暗殺され、組織が崩壊の淵に立たされたその時。 若頭補佐に過ぎなかった十朱が、歴史の表舞台に姿を現した。
血で血を洗う抗争を、あいつはたった一人で、その天才的な知略とカリスマ性によって鮮やかに終結させてみせたんだ。 その圧倒的な功績の前に、百戦錬磨の極道どもも、彼を「王」として認めるしかなかった。
35歳にして、東鞘会七代目会長、襲名。 異例という言葉すら生温い、若き独裁者の誕生だった。
*
かつて、この関東の裏社会を牛耳っていたのは「東城会」という巨大組織だったのは、知っているだろう?
2012年頃には、構成員だけで最大3万から5万人を数えたその巨体に比べれば、当時の東鞘会は比較的小さな組織に過ぎなかった。
だが、先代の六代目会長・神津の時代から、東鞘会は静かに、そして確実に変質を始めていた。組織のマフィア化を推進し、組員に正業と裏稼業の二面性を持たせる。水面下で爪を研ぎ続け、奴らは着実にその存在感を増していった。
転機は2019年末。 当時の東京都知事による「神室町3K作戦」によって東城会は実質的な崩壊に陥り、その後、近江連合と共に同時解散に追い込まれた。その関東にぽっかりと空いた巨大な権力の穴に、見事に入れ替わるように滑り込んで牛耳ったのが……七代目・十朱雅が率いる東鞘会というわけだ。
ーーあいつら(東鞘会)はもはや、ただの極道組織じゃない。
暴力至上主義から完全に脱却し、金融、IT、不動産といったあらゆるビジネスを傘下に収める巨大な「経済複合体(コングロマリット)」へと姿を変えた。
関西ヤクザのような無闇な拡張主義は取らず、国家権力とも程よくつるみ、東京の地下深くに根を張る。実際、十朱を含む一部の幹部たちは、暴力団員として警察のデータベース、いわゆる「Bリスト」にすら登録されていない。 ヤクザから、警察も手出しできない完璧な「ビジネスマン」へと進化したんだよ。
法も暴力も飼い慣らし、関東の裏社会を完璧に統治する。十朱雅の帝国が誕生した瞬間だった、というわけさ。
*
――一方、その頃。置いてけぼりを食らった形の趙はどうしていたと思う?
運命とは皮肉なものだ。あいつは2009年、26歳の頃。父親の死と敵対組織の抗争激化という抗えない濁流の中で、望まないまま横浜流氓の総帥の座へと引きずり上げられた。目の前に降りかかる火の粉を払い、同胞を守るために。ただそれだけのために、趙は血塗られた冠を被る道を選んだ。
私と趙は、同時期に日本という異国の地で同胞をまとめるトップになった。未華子も知っての通り、「異人三」は表向きこそ一触即発の対立関係を装っているが、その実は外部勢力からこの街を守るために結託した「不可侵共同体」だ。趙と私は、いわばずっと一緒にこの異人町を守ってきた戦友(同志)のようなもの。十朱の“活躍”についても、二人でよく情報交換していたさ。
十朱は、ずっと「趙を超える」という強烈なコンプレックスだけで、この20年近く、血反吐を吐きながら孤独に戦ってきたんだろう。 だが、肝心の趙は、一ミリもそんなことは考えていなかった。
精神年齢で言えば、趙の方が若干、大人だったというわけだな。
趙は、十朱が自分に対して抱えているどす黒い感情に当然気づいていた。けれど、あいつ自身は十朱に対してそんな感情は持っていなかった。むしろ誰よりも、十朱雅という男の「本当の強さ」と「凄まじさ」を認めていたんだ。 だから、十朱が東鞘会のトップに立ったと聞いた時も、趙は驚かなかった。「だろうな」と、ただ笑って必然を受けとめていただけだった。
趙が、あの完璧な男に対して唯一気に入らないことがあるとすれば、それはその「やり方」だけだ。感情を殺し、他人を駒のように扱い、どこまでも孤独に突き進んでいく不器用すぎる生き様。 でも、趙も分かっているんだよ。十朱がそんな歪んだ道を選ばざるを得なかったのは、全部、自分の存在のせいだということをな。
だからこそ、あいつはずっと心のどこかで夢を見ていたのさ。
「いつかまた、ガキの頃みたいにさ。馬鹿みたいに殴り合って、血まみれになって。 泥だらけで並んで、塩むすびでも食いながら『やっぱ馬鹿だな、お前は』って笑い合える日が来たらいいよなぁ」……なんてな。
マフィアのトップにまで上り詰めた男が抱くには、ひどく青臭くて、ノスタルジックな夢だろう?
お互いのことが一番大嫌いで、けれど、誰よりも一番大好きで。 何年もの歳月を隔ててなお、二人の魂は、あの日の雨の路地裏から一歩も動いてはいなかったんだよ。
*
趙は数年前、2019年に、組織内で起きたクーデターの責任を一人で被る形で、あっさりと総帥の座を降りた。そしてあいつは、事もあろうに、一番厄介なバトンをこの私に押し付けてきやがったんだ。
コミジュルの総帥でありながら、武闘派マフィアである横浜流氓をもまとめる立場。 最初はなんとか持ち堪えていた。だが、やはり二つの組織を同時に統治し、異人三のバランスを保つには無理があったんだ。その歪なパワーバランスを外部の敵に突かれれば、一気にこの街は崩壊する。異人三そのものが、潰えかねなかった。
私は決断した。そして、どう転ぶかわからない「唯一の切り札」を使うことにしたんだ。
私は、数年ぶりに連絡を取ったんだ。 かつてこの街を捨て、今や関東の裏社会でその名を轟かせていた、若き王。 ――十朱雅に。
「異人町に、戻ってきてくれ」と。
趙がその座を降りた今、混沌とした横浜流氓を、その力で押さえ込み、まとめ上げられる器を持つ男は、もう、あいつしかいなかった。
もちろん、私が十朱に声をかける前に、趙には話を通したさ。趙は一言だけ、「あいつ以外に、いねえだろ」と言ったよ。
趙も、すべてわかっていたんだ。自分が去った後の空席を埋められるのは誰なのか。そして、その「誰か」が戻ってくることを、心のどこかでずっと望んでいた。
もちろん、十朱もただで戻ってきたわけじゃない。
あいつが出した交換条件。一度捨てた名「劉詩荃」として横浜流氓総帥の座に就く代わりに、「異人三」そのものを、彼が率いる東鞘会の事実上の傘下に置くというものだった。
極めて傲慢で、壮大すぎる野望。 あいつはライバルが去った後の空の玉座に座るだけでは、満足しなかった。その玉座ごと、自分の帝国の一部へと組み込むという、完璧な「支配」を望んだんだ。
趙も、その条件を飲んだ。
「ったく、あいつは本当に、どんだけ権力好きなんだよ」
そう呆れたように笑いながらな。
だが、その苦笑いの奥には、どうしようもないほどの「嬉しさ」がにじみ出ていたのをよく覚えているよ。
ただ、だからってすぐにガキの頃のように笑い合えるわけもない。二人の関係は、依然として変わらなかった。
支配する者(十朱)と、支配される者(趙)。 決して馴れ合わず、むしろ互いを牽制し合う冷たいライバルのようにあいつらは振る舞い続けてきた。
*
――そして、お前がこの街に現れた。
あの趙天佑が。婚約者の死以来、十数年間一切の女の影を見せなかった男が。初めて命がけで守ろうとしたカタギの女。それが未華子だった。
十朱にとっちゃ、最初のお前への興味なんてそんなものだったんだろう。「趙がそれほどまでに執着する女なら、俺が先に奪ってやる」とでも考えたはずだ。ガキのおもちゃの取り合いみたいなもんだな。至極迷惑な話だが。
慶錦飯店で十朱が放ったとかいう、「趙も杉浦も夢中にさせる、お前が欲しくなった」という台詞は、奴の本音そのものだろう。
十朱が未華子に手を出してきたと知ったとき。
趙は心の底から「めんどくさいことになった」と。
最初に漏らしたのは、そんな一言だったよ。言うことを聞かない“弟”が、ついに一番手を出してはいけないおもちゃに手を出してしまった時のような、”兄”の深い溜息。そんなところだろう。
*
ここからの話は、未華子は預かり知らぬことだと思うがーーー
その慶錦飯店の一件以来、十朱の趙への当てつけはさらに過激さを増していった。趙がかつて可愛がっていた古参の幹部たちに無理な難癖をつけ、次々と組織から追放していく。その冷酷なやり方に、横浜流氓の内部では不満の火種が渦巻き始めていた。
そして、ついにその「膿」が破裂した。
十朱に追い詰められた老齢の古参幹部の一人が、暴発したんだ。そいつは、未華子の故郷に人を送った。未華子の実家や家族の写真を盗撮させ、それを十朱に送りつけたんだ。
「お前が横暴を続けるのならば、次はない。この女の幸せな家族が、どうなってもいいのか」とな。
その情報を十朱から聞いた私は、趙に伝えた。 趙は最初、静かに聞いていた。だが、お前の家族が写っている写真を見せた、その瞬間。
あいつの中で、何かが完全に切れたんだ。
そして趙は、十朱を呼び出した。「話がある」と、一言だけ。
場所は、あの、コンテナ埠頭ーーー
ーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーー
ー
その夜の横浜港は、まるで世界から見捨てられたかのような静寂と闇に包まれていた。
空には星もなく、ただ分厚い雨雲だけが低く垂れ込めている。
錆びついたコンテナが巨大な墓標のように並ぶその一角。
趙天佑はただ一人、その場所で静かに煙草をふかしていた。
ここは二人がガキの頃、飽きもせずに何度も何度もくだらない理由で殴り合った、思い出の場所。
やがて闇の奥から一つの影が現れる。
寸分の狂いもない、完璧なスーツ姿。
ーー十朱雅だった。
彼は趙の数メートル手前で足を止めると、氷のような声で言った。
「……何の用だ。俺は忙しい」
「……へぇ。お前ほどの大物が、こんな場末の埠頭までわざわざちゃんと一人で来てくれるとはねぇ」
趙は、煙をゆっくりと吐き出すと、飄々とした笑みを消した。
その瞳には、これまで誰にも見せたことのない冷たい怒りの炎が燃えていた。
「てめぇのくだらねえ意地の張り合いのせいで。みーちゃんの家族まで危険に晒してんじゃねえか」
その地を這うような低い声。
十朱の完璧な眉がぴくりと動いた。
「……お前には関係ない」
「とぼけんじゃねえよ。いい加減にしろ、詩荃 」
幼い頃を思い起こさせる、中国語読みの呼び名。
十朱の瞳の奥が僅かに揺らぐ。
「……俺のやり方に不満があるなら」
彼は静かにジャケットのボタンを外した。
「―――力づくで、止めてみろ」
ぽつり。
冷たい雫が趙の頬を濡らした。
雨だ。
「……望むところだよ」
そこからはもう、言葉はいらなかった。
二十年の空白と、確執。その全てを埋めるための、ただ、一つの言語。
コンテナに打ち付ける雨音を切り裂き、最初に動いたのは、趙だった。
水たまりを踏み抜く音さえ置き去りにする、神速の踏み込み。一切の予備動作もなく放たれたのは、相手の喉笛を狩り取るための、鋭く、しなやかなハイキック。達人でさえ反応できないであろう、中国武術の極致とも言えるその一撃を、十朱は表情一つ変えず、ミリ単位の目測で紙一重に躱した。
空を切った趙の蹴り足の軌道を、縫うようにして、十朱が懐へと潜り込む。
長身痩躯のスーツ姿からは想像も絶する、超高速の連撃。極限まで無駄を削ぎ落としたミニマルな体捌きは、殺気というノイズすら孕んでいない。最短ルートで的確に相手の急所のみを破壊しようとする、冷徹にして完璧な「暗殺術(CQC)」だ。目にも止まらぬ錐 のようなストレートが、趙のボディを正確に捉えた。
「ぐっ……!」
骨と肉が軋む重低音が、埠頭に響く。
だが、趙は倒れなかった。被弾の瞬間に強靭な腹筋と流麗な足捌きでその衝撃を分散し、着地と同時に水しぶきを上げながら反転。十朱の死角から、大気を震わせるほどの重厚な剛拳を連続で叩き込む。
それは、もはや「喧嘩」という生易しいものではなかった。
東鞘会と横浜流氓、関東の裏社会の頂点に君臨する「王」同士の、極限の死闘。
殺意と紙一重の距離で、肉体の限界を超えた暴力が交錯する。
水飛沫が舞い、雨を弾き飛ばすほどの衝撃波が何度も衝突した。
十朱の動きは、音を置き去りにする氷の刃だった。一切の力みや無駄がないステップで致命傷を避け、目、喉、鳩尾と、生物の急所だけを精密機械のようにピンポイントで貫いていく、神速と技巧。
対する趙は、大地を抉るような重い重心から放たれる、圧倒的な力と武のスペシャリストとしての本能。飄々とした仮面の下に隠していた「武神」としての牙をむき出しにし、十朱の鋭い刃を剛力で弾き落としては、圧倒的な破壊力の拳で十朱の完璧な防壁を強引にこじ開けていく。
両者共に、数多の死線を潜り抜けてきた最高峰の捕食者 。どんな強者でも一瞬で肉の塊に変える暴力の応酬が続く。互いの思考を先読みし、数手先を潰し合いながら、殺し合いのワルツを踊る。
完璧に着こなされていた最高級のスーツは裂け、純白のシャツやコックコートは、容赦なく泥と自らの血で染まっていく。
だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
月と太陽。
氷の狂気と、炎の逆鱗。
雨が強さを増す中、彼らを縛っていた「王」としての理性や技巧の探り合いは削ぎ落とされ、やがて、ただの男と男の感情のぶつけ合いへと変貌していく。
防御が甘くなる。身を躱すための高度な技術すらも投げ捨て、ただひたすらに、己の魂と積年の痛みを相手に叩き込むことだけに執着した、凄惨なインファイト。端正な顔面に互いの重い拳がめり込むたび、熱い鮮血が雨水に溶けて地に散った。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
二人とも、息は上がり、立っているのが不思議なほど満身創痍だった。それでも、相手を睨みつける瞳の熱だけは、一向に衰えない。
無言のまま、互いの最後の一歩が、深く泥を蹴った。
そこに、ガードも、フェイントも存在しなかった。ただ残った全霊の力を込めた右拳が、重く、硬く、同時に互いの頬を正確に打ち抜いた。
ごきり、と骨が軋む鈍い音が鳴り、相討ちのクロスカウンターが決まる。
ダブルノックアウト。
雨だれの音の中、二つの身体は限界を迎え、糸が切れたように水たまりの出来た地面へと力なく崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
「……ぜぇ……ぜぇ……」
冷たいアスファルトの上に仰向けに倒れ込み、大の字になる二人。
土砂降りの雨が、限界を超えて火照りきった身体を容赦なく打ち付けている。
見上げた空には、いつの間にか厚い雨雲の切れ間から、ガキの頃に二人で並んで見上げたものと寸分違わぬ、冷たい月が浮かんでいた。
先にその静寂を破ったのは、趙の息も絶え絶えな声だった。
「…………やっぱ、むかつくなぁ、お前…………」
裏社会の(元)トップ同士ではない、子供のような純粋な一言。
それを聞いた十朱の唇の端から、ふっ、と短く息が漏れた。
張り詰めていたものがほどけるように、それはやがて堪えきれない笑い声へと変わっていく。
「……は、はは……っ」
「……それは、こっちのセリフだ……ばかやろう……天佑 」
冷たい雨音の中に、かつての親友同士の、泥臭くてどうしようもない笑い声が静かに溶けていく。
二十年。長すぎた冬の時代が、ようやく終わりを告げた瞬間だった。
▽
その夜のスナック「サバイバー」のカウンターは、これまでで最も奇妙で、そしてある意味豪華な客を迎えていた。
顔中痣だらけでびしょ濡れのまま、それでもどこかすっきりとした顔でバーボンを呷る二人の王。
十朱雅と、趙天佑。
マスターの柏木は何も聞かずに、ただ黙って乾いたタオルと新しいグラスを差し出すだけだった。
「……で?」
先に切り出したのは趙だった。
「どうすんの? あの老いぼれ(古参幹部)は」
「……潰す」
十朱の答えは短く、そして、冷徹だった。
「……だがその前に、奴が持っている情報を全て吐かせる。奴の背後にまだ誰かいるかもしれん」
その完璧な分析。
趙はニヤリと口の端を上げた。
その唇の切れ端からは、血が僅かに滲んでいる。
「―――俺が陽動する。お前が決めろ」
短すぎる言葉。
だが、その一言に全ての信頼が込められていた。
「俺」という最強の囮が敵の全ての注意を引きつける。その一瞬の隙を突き、お前のその牙で敵の喉笛を掻き切れ、と。
二十年の空白などなかったかのように。
二人の魂は完全にシンクロしていた。
「……ああ、わかった」
十朱はただ短くそう答えた。
▽
翌日の夜。
伊勢佐木異人町のとある高級クラブ。そのVIPルーム。
古参幹部・郭(グオ)はご満悦だった。
十朱に送った「脅迫状」。まだ返事はないが、時間の問題だろう。これで、あの生意気な若造を失脚させ、自分たちの時代を取り戻せる。
そう信じていた。
その祝杯のシャンパンに口をつけようとしたその瞬間だった。
店のドアが凄まじい音を立てて蹴破られた。
「よぉ」
そこに立っていたのは趙天佑だった。
その目は全く笑っていない。
「―――俺の大事な"常連さん"に手ぇ出してくれたらしいじゃねえか」
その言葉に部屋中の空気が凍りつく。
王の屈強なボディガードたちが一斉に銃を構えた。
だが趙は動じない。
その圧倒的な陽動に店の全ての戦力が集中する。
誰も気づいていなかった。
そのVIPルームの背後にあった窓の外。
闇よりも黒い一つの影が音もなくその鍵を開けていたことに。
王が懐から銃を取り出そうとしたまさにその瞬間。
彼の喉元には、氷のように冷たい金属の感触。
「―――ゲームオーバーだ」
耳元で、囁かれたその声は、悪魔のそれだった。
背後にはいつの間にか十朱雅が立っていた。その手には月光を反射し青白く光る一本のナイフが握られている。
ーーその夜。古き因習に囚われていた横浜流氓の旧時代は終わりを告げた。
異人町の裏社会に、いまだかつてないほど強固で絶対的な、新たな歴史が幕を開けようとしていた。
翌日の佑天飯店には、少しばかり変わった光景があった。
厨房の一番隅で、これまでの人生で一度も経験したことがないであろう必死の形相で、泡まみれになって皿を洗う見習い料理人――元・古参幹部の郭の姿が。
そして、その情けない背中を満足そうに眺めながら、どこか嬉しそうに酒を酌み交わす、傷だらけの二人の「王」の姿が。
あったとか、なかったとか。
ー
ーー
ーーーーーーー
ーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
「―――まあ、そういうわけだ」
ソンヒさんはマティーニグラスの最後の一滴を飲み干した。
「未華子をきっかけに、あの馬鹿なガキ二人はようやく二十年越しの仲直りを果たしたというわけさ」
彼女は、静かに続けた。
あの夜を境に、伊勢佐木異人町の潮目は大きく変わったのだ、と。
総帥の座を降りてもなお、絶大な人望を誇る、趙。
そして、関東の裏社会を支配する絶対的な王、十朱。
その二つの巨大な力が、二十年の時を経てついに一つのベクトルで結ばれた。
それは横浜流氓だけでなく、「異人三」と東鞘会の間に、これまでになかった強固な信頼関係を生み出した。
まさに、鬼に金棒。
十朱が東京で多忙な時は、趙がさりげなく横浜流氓の若い衆をまとめたり。
趙が表立って動けない面倒事には、十朱が裏から手を回して火種を揉み消したり。
言葉を交わさずとも、互いが、互いの、一番足りない部分を補い合っている。
まるで、子どもの頃のように。
「……私も嬉しいのさ」
ソンヒさんが、珍しく、ふ、と、柔らかな笑みを浮かべた。
「あのどうしようもない二人がようやく素直になれたんだからな。あいつらは結局、互いがいないとダメなんだよ。唯一無二の親友(ダチ)同士なんだから」
優しい眼差しのまま、ソンヒさんは私を真っ直ぐに見つめて言った。
「……ありがとう、未華子」
「えっ…?」
「お前がこの街に来てくれたおかげだ」
ストレートな感謝の言葉に、私はどうしようもなく照れてしまった。
「い、いやいや! 私は、別に、何もしてませんって…!」
「いいや。お前のおかげさ」
私はただ胸が温かくなるのを感じていた。
飄々としているけれど、どこか物悲しい、趙さんの瞳。
完璧だけどどこか孤独な、十朱会長の背中。
その二つの孤高の魂に、ちゃんと分かり合える親友がいたというその事実が。
自分のことのように嬉しかった。
「―――だから」
ソンヒさんがグラスをことりと置いた。
「この伊勢佐木異人町の住人は、皆お前には足を向けて寝られないのさ」
「…………」
「お前は何度もこの街の窮地を救ってきた。勝利の女神であり、そして平和の女神でもあるんだよ」
知れないほど大きな、温かい言葉。
私は今までずっと「女神」と呼ばれるのがどこか小っ恥ずかしくて、居心地が悪かった。
自分はそんな大層な人間じゃない、と。
でも。
今、この瞬間。
目の前の女王様がくれたその言葉だけは、
すとんと、胸の一番温かい場所に落ちていくのがわかった。
(……そっか)
(……私、ここにいてもいいんだ)
サバイバーの琥珀色の照明の中。
私は誰にも見えないようにこっそりと目元を拭い、そして手元の甘いカシスオレンジを一気に飲み干した。
その味は、いつもの何倍も甘くて、そして、少しだけしょっぱい味がした。
<了>
◎場所:「サバイバー」のカウンター席
伊勢佐木異人町のざわめきから逃れるように。
スナック「サバイバー」の重い扉の向こう側は、いつも通りの静かで温かい時間が流れていた。
カウンター席。
私とソンヒさんは並んでグラスを傾けていた。
月に一度の定例女子会。それが、最近の私たちの密かな楽しみになっていた。
「―――そういえば」
私がグラスの中のカシスオレンジをかき混ぜながら呟く。
「最近、中華街のお店とか行くと、すごいサービスされちゃって」
「……ほう」
「なんか、餃子とかごま団子とか、頼んでないものがどんどん出てくるんです。帰り際にこっそり『あの二人の歴史的な和解は、女神様のおかげですから…!』って、耳打ちされたりして」
ソンヒさんはふっと微笑むと、マティーニを一口含んだ。
「趙さんと十朱会長が“腐れ縁”なのは、うっすら聞いたことあるんですけど。…『和解した』って、どういうことなんですか? そんなに、ずっと、仲悪かったんですか?」
私の純粋な疑問に、ソンヒさんは、少しだけ考える素振りを見せた後、静かに口を開いた。
その瞳は、まるで遠い昔の風景を辿っているかのようだった。
「……私は生まれは韓国だが、縁あってこの街に来てから。あいつらとは、ガキの頃からの付き合いなんだ。だから、よくわかる」
「ソンヒさんも、幼馴染みたいなものだったんですね」
「まあな。……あの二人は、『仲が悪い』という簡単な言葉で片付けられる関係じゃない。言ってみれば、同じ星の下に生まれた双子のようなものだ。……光と影。太陽と月。互いが互いを映し出す鏡。だからこそ憎み合い、そして誰よりも、互いの存在に縛られていた」
彼女は静かに、二人の生い立ちから語り始めた。
ーーー回想ーーー
――趙天佑。
知っての通り、横浜流氓の先代総帥の一人息子として生まれた。幼い頃から文武両道で、悪知恵も働く。誰もが次期総帥と目していた。だが、あいつは自分自身のことを「器用貧乏」だと冷めた目で見ていてな。トップに立つことなんて、全く興味を示さなかった。
――そして、もう一人が。
元・横浜流氓幹部だった父と、日本人の母との間に生まれた男。当時の名前は「
意外かもしれないが、子供の頃、常に一歩先を走っていたのは十朱の方だったんだ。勉強も喧嘩も、あいつは努力の塊で、いつだって一番だった。 ……でも、十朱には、一つだけ絶対に手に入れられないものがあった。
それは、趙が生まれながらに持っていた、圧倒的な「人望」。 誰をも惹きつけ、全てを許して包み込んでしまう、陽のカリスマ性と器の大きさだ。 十朱は、自分がどれだけ完璧になろうと努力しても、みんなが心からついて行きたいと願うのは趙の方だと、骨の髄まで思い知らされていた。
もしかしたら、十朱自身の複雑なルーツも影響していたのかもしれない。生粋の中国人でもなければ、日本人でもない。その不安定なアイデンティティが、彼に根深い劣等感を植え付けていたんだろうな。
趙という「太陽」の前に、十朱は一生逃れることのできない、絶対的な敗北とコンプレックスを刻み込まれる。そして、「趙の方が総帥に向いている」と自らの限界を悟った十朱は、高校を卒業した後、「是安」や「劉」という名も、過去も、すべてを捨てて単身でこの街を去ると決めたんだ。
……でもな、皮肉なことに、趙は趙で、全く逆のコンプレックスを抱いていた。
何でもそつなくこなせる器用貧乏な自分には、トップに立ち続けるための「向上心」が欠落している。趙はずっと、そう自己評価していた。 だからこそ、向上心の塊である十朱を見て、彼自身は心のどこかで信じていたんだ。 「あいつこそが本当の王にふさわしい」と。
ーー互いが互いに「相手の方がボスの器だ」と確信しながら、それを口にできないまま迎えた、決別の夜。
降りしきる雨の中。バッグ一つを肩にかけ、独り街を去ろうとする十朱の背中を、趙の声が呼び止めた。
「逃げるわけ?」
その挑発的な問いかけに、十朱は振り返ることなく、軽蔑を込めて言い返した。
「お前のような向上心のない奴が、この街に居座るのが我慢ならないからな」
それが、殴り合いの合図だった。
容赦なく叩きつける雨の中、互いの拳が砕けるほどの衝撃が路地裏に響く。 泥にまみれ、息を乱しながら、今度は趙が冷たく煽り返した。
「お前のようなケツの穴が小さい男が。この街どころか、どんな組織だって背負えるわけねえんだよ」
本当は一番認めている相手の本質を、あえて呪いのような言葉に変えて叩きつけ合うことでしか、二人はサヨナラを言えなかった。
十朱が異人町を捨てて去っていったあの日から、趙の隣の席はぽっかりと空席になった。 二人は、一番相手を嫌いながら、一番相手を認めていた。 ただ、絶望的に不器用で、すれ違っていただけなんだ。
*
……それからだ。あいつ(十朱)が、おかしくなったのは。
趙天佑という「太陽」に勝つためだけに、十朱は全てを捨て、力だけを求めて闇の深淵へと突き進んでいった。 目の前に立ちはだかる壁を、圧倒的な暴力と知略で全てひれ伏させる。目的のためなら手段を選ばず、感情すらも削ぎ落とす。愛も友情も、あいつにとっては「完璧な王」という概念に到達するための駒に過ぎなくなった。
圧倒的な権力と金を手に入れて、いつか、趙すらも自分の前に跪かせるーー。ただ、それだけのために。
19歳の頃、底知れない才覚を東鞘会の先々代会長に見込まれた十朱は、裏社会へと完全に足を踏み入れた。戸籍ロンダリングで「劉」や「是安」の名をこの世から抹消し、そこから「十朱雅」と名乗り始めたんだ。
そこからのあいつは、まさにバケモノだった。
東鞘会の庇護の下、北京大学へ進学し、国際政治と経済学を修めた。だが、あいつがそこで本当に手に入れたのは、学問などではない。中国共産党の中枢を担うことになる幹部候補生たちとの、強固な血のコネクション――「絆(グァンシー)」だ。
さらにその後、アメリカへ留学。裏ではチャイニーズマフィアと渡り合い、FBIやCIAといった情報機関の内部にまで独自のネットワークを構築していった。
日・米・中、すべての政府機関に影を落とす、無形の資産。 あいつは若くして、地上の誰一人として逆らえない絶対的な地盤を築き上げたのさ。
2018年。 東鞘会は、分裂した和鞘連合との間で泥沼の抗争状態にあった。先代の六代目会長が暗殺され、組織が崩壊の淵に立たされたその時。 若頭補佐に過ぎなかった十朱が、歴史の表舞台に姿を現した。
血で血を洗う抗争を、あいつはたった一人で、その天才的な知略とカリスマ性によって鮮やかに終結させてみせたんだ。 その圧倒的な功績の前に、百戦錬磨の極道どもも、彼を「王」として認めるしかなかった。
35歳にして、東鞘会七代目会長、襲名。 異例という言葉すら生温い、若き独裁者の誕生だった。
*
かつて、この関東の裏社会を牛耳っていたのは「東城会」という巨大組織だったのは、知っているだろう?
2012年頃には、構成員だけで最大3万から5万人を数えたその巨体に比べれば、当時の東鞘会は比較的小さな組織に過ぎなかった。
だが、先代の六代目会長・神津の時代から、東鞘会は静かに、そして確実に変質を始めていた。組織のマフィア化を推進し、組員に正業と裏稼業の二面性を持たせる。水面下で爪を研ぎ続け、奴らは着実にその存在感を増していった。
転機は2019年末。 当時の東京都知事による「神室町3K作戦」によって東城会は実質的な崩壊に陥り、その後、近江連合と共に同時解散に追い込まれた。その関東にぽっかりと空いた巨大な権力の穴に、見事に入れ替わるように滑り込んで牛耳ったのが……七代目・十朱雅が率いる東鞘会というわけだ。
ーーあいつら(東鞘会)はもはや、ただの極道組織じゃない。
暴力至上主義から完全に脱却し、金融、IT、不動産といったあらゆるビジネスを傘下に収める巨大な「経済複合体(コングロマリット)」へと姿を変えた。
関西ヤクザのような無闇な拡張主義は取らず、国家権力とも程よくつるみ、東京の地下深くに根を張る。実際、十朱を含む一部の幹部たちは、暴力団員として警察のデータベース、いわゆる「Bリスト」にすら登録されていない。 ヤクザから、警察も手出しできない完璧な「ビジネスマン」へと進化したんだよ。
法も暴力も飼い慣らし、関東の裏社会を完璧に統治する。十朱雅の帝国が誕生した瞬間だった、というわけさ。
*
――一方、その頃。置いてけぼりを食らった形の趙はどうしていたと思う?
運命とは皮肉なものだ。あいつは2009年、26歳の頃。父親の死と敵対組織の抗争激化という抗えない濁流の中で、望まないまま横浜流氓の総帥の座へと引きずり上げられた。目の前に降りかかる火の粉を払い、同胞を守るために。ただそれだけのために、趙は血塗られた冠を被る道を選んだ。
私と趙は、同時期に日本という異国の地で同胞をまとめるトップになった。未華子も知っての通り、「異人三」は表向きこそ一触即発の対立関係を装っているが、その実は外部勢力からこの街を守るために結託した「不可侵共同体」だ。趙と私は、いわばずっと一緒にこの異人町を守ってきた戦友(同志)のようなもの。十朱の“活躍”についても、二人でよく情報交換していたさ。
十朱は、ずっと「趙を超える」という強烈なコンプレックスだけで、この20年近く、血反吐を吐きながら孤独に戦ってきたんだろう。 だが、肝心の趙は、一ミリもそんなことは考えていなかった。
精神年齢で言えば、趙の方が若干、大人だったというわけだな。
趙は、十朱が自分に対して抱えているどす黒い感情に当然気づいていた。けれど、あいつ自身は十朱に対してそんな感情は持っていなかった。むしろ誰よりも、十朱雅という男の「本当の強さ」と「凄まじさ」を認めていたんだ。 だから、十朱が東鞘会のトップに立ったと聞いた時も、趙は驚かなかった。「だろうな」と、ただ笑って必然を受けとめていただけだった。
趙が、あの完璧な男に対して唯一気に入らないことがあるとすれば、それはその「やり方」だけだ。感情を殺し、他人を駒のように扱い、どこまでも孤独に突き進んでいく不器用すぎる生き様。 でも、趙も分かっているんだよ。十朱がそんな歪んだ道を選ばざるを得なかったのは、全部、自分の存在のせいだということをな。
だからこそ、あいつはずっと心のどこかで夢を見ていたのさ。
「いつかまた、ガキの頃みたいにさ。馬鹿みたいに殴り合って、血まみれになって。 泥だらけで並んで、塩むすびでも食いながら『やっぱ馬鹿だな、お前は』って笑い合える日が来たらいいよなぁ」……なんてな。
マフィアのトップにまで上り詰めた男が抱くには、ひどく青臭くて、ノスタルジックな夢だろう?
お互いのことが一番大嫌いで、けれど、誰よりも一番大好きで。 何年もの歳月を隔ててなお、二人の魂は、あの日の雨の路地裏から一歩も動いてはいなかったんだよ。
*
趙は数年前、2019年に、組織内で起きたクーデターの責任を一人で被る形で、あっさりと総帥の座を降りた。そしてあいつは、事もあろうに、一番厄介なバトンをこの私に押し付けてきやがったんだ。
コミジュルの総帥でありながら、武闘派マフィアである横浜流氓をもまとめる立場。 最初はなんとか持ち堪えていた。だが、やはり二つの組織を同時に統治し、異人三のバランスを保つには無理があったんだ。その歪なパワーバランスを外部の敵に突かれれば、一気にこの街は崩壊する。異人三そのものが、潰えかねなかった。
私は決断した。そして、どう転ぶかわからない「唯一の切り札」を使うことにしたんだ。
私は、数年ぶりに連絡を取ったんだ。 かつてこの街を捨て、今や関東の裏社会でその名を轟かせていた、若き王。 ――十朱雅に。
「異人町に、戻ってきてくれ」と。
趙がその座を降りた今、混沌とした横浜流氓を、その力で押さえ込み、まとめ上げられる器を持つ男は、もう、あいつしかいなかった。
もちろん、私が十朱に声をかける前に、趙には話を通したさ。趙は一言だけ、「あいつ以外に、いねえだろ」と言ったよ。
趙も、すべてわかっていたんだ。自分が去った後の空席を埋められるのは誰なのか。そして、その「誰か」が戻ってくることを、心のどこかでずっと望んでいた。
もちろん、十朱もただで戻ってきたわけじゃない。
あいつが出した交換条件。一度捨てた名「劉詩荃」として横浜流氓総帥の座に就く代わりに、「異人三」そのものを、彼が率いる東鞘会の事実上の傘下に置くというものだった。
極めて傲慢で、壮大すぎる野望。 あいつはライバルが去った後の空の玉座に座るだけでは、満足しなかった。その玉座ごと、自分の帝国の一部へと組み込むという、完璧な「支配」を望んだんだ。
趙も、その条件を飲んだ。
「ったく、あいつは本当に、どんだけ権力好きなんだよ」
そう呆れたように笑いながらな。
だが、その苦笑いの奥には、どうしようもないほどの「嬉しさ」がにじみ出ていたのをよく覚えているよ。
ただ、だからってすぐにガキの頃のように笑い合えるわけもない。二人の関係は、依然として変わらなかった。
支配する者(十朱)と、支配される者(趙)。 決して馴れ合わず、むしろ互いを牽制し合う冷たいライバルのようにあいつらは振る舞い続けてきた。
*
――そして、お前がこの街に現れた。
あの趙天佑が。婚約者の死以来、十数年間一切の女の影を見せなかった男が。初めて命がけで守ろうとしたカタギの女。それが未華子だった。
十朱にとっちゃ、最初のお前への興味なんてそんなものだったんだろう。「趙がそれほどまでに執着する女なら、俺が先に奪ってやる」とでも考えたはずだ。ガキのおもちゃの取り合いみたいなもんだな。至極迷惑な話だが。
慶錦飯店で十朱が放ったとかいう、「趙も杉浦も夢中にさせる、お前が欲しくなった」という台詞は、奴の本音そのものだろう。
十朱が未華子に手を出してきたと知ったとき。
趙は心の底から「めんどくさいことになった」と。
最初に漏らしたのは、そんな一言だったよ。言うことを聞かない“弟”が、ついに一番手を出してはいけないおもちゃに手を出してしまった時のような、”兄”の深い溜息。そんなところだろう。
*
ここからの話は、未華子は預かり知らぬことだと思うがーーー
その慶錦飯店の一件以来、十朱の趙への当てつけはさらに過激さを増していった。趙がかつて可愛がっていた古参の幹部たちに無理な難癖をつけ、次々と組織から追放していく。その冷酷なやり方に、横浜流氓の内部では不満の火種が渦巻き始めていた。
そして、ついにその「膿」が破裂した。
十朱に追い詰められた老齢の古参幹部の一人が、暴発したんだ。そいつは、未華子の故郷に人を送った。未華子の実家や家族の写真を盗撮させ、それを十朱に送りつけたんだ。
「お前が横暴を続けるのならば、次はない。この女の幸せな家族が、どうなってもいいのか」とな。
その情報を十朱から聞いた私は、趙に伝えた。 趙は最初、静かに聞いていた。だが、お前の家族が写っている写真を見せた、その瞬間。
あいつの中で、何かが完全に切れたんだ。
そして趙は、十朱を呼び出した。「話がある」と、一言だけ。
場所は、あの、コンテナ埠頭ーーー
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ーー
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その夜の横浜港は、まるで世界から見捨てられたかのような静寂と闇に包まれていた。
空には星もなく、ただ分厚い雨雲だけが低く垂れ込めている。
錆びついたコンテナが巨大な墓標のように並ぶその一角。
趙天佑はただ一人、その場所で静かに煙草をふかしていた。
ここは二人がガキの頃、飽きもせずに何度も何度もくだらない理由で殴り合った、思い出の場所。
やがて闇の奥から一つの影が現れる。
寸分の狂いもない、完璧なスーツ姿。
ーー十朱雅だった。
彼は趙の数メートル手前で足を止めると、氷のような声で言った。
「……何の用だ。俺は忙しい」
「……へぇ。お前ほどの大物が、こんな場末の埠頭までわざわざちゃんと一人で来てくれるとはねぇ」
趙は、煙をゆっくりと吐き出すと、飄々とした笑みを消した。
その瞳には、これまで誰にも見せたことのない冷たい怒りの炎が燃えていた。
「てめぇのくだらねえ意地の張り合いのせいで。みーちゃんの家族まで危険に晒してんじゃねえか」
その地を這うような低い声。
十朱の完璧な眉がぴくりと動いた。
「……お前には関係ない」
「とぼけんじゃねえよ。いい加減にしろ、
幼い頃を思い起こさせる、中国語読みの呼び名。
十朱の瞳の奥が僅かに揺らぐ。
「……俺のやり方に不満があるなら」
彼は静かにジャケットのボタンを外した。
「―――力づくで、止めてみろ」
ぽつり。
冷たい雫が趙の頬を濡らした。
雨だ。
「……望むところだよ」
そこからはもう、言葉はいらなかった。
二十年の空白と、確執。その全てを埋めるための、ただ、一つの言語。
コンテナに打ち付ける雨音を切り裂き、最初に動いたのは、趙だった。
水たまりを踏み抜く音さえ置き去りにする、神速の踏み込み。一切の予備動作もなく放たれたのは、相手の喉笛を狩り取るための、鋭く、しなやかなハイキック。達人でさえ反応できないであろう、中国武術の極致とも言えるその一撃を、十朱は表情一つ変えず、ミリ単位の目測で紙一重に躱した。
空を切った趙の蹴り足の軌道を、縫うようにして、十朱が懐へと潜り込む。
長身痩躯のスーツ姿からは想像も絶する、超高速の連撃。極限まで無駄を削ぎ落としたミニマルな体捌きは、殺気というノイズすら孕んでいない。最短ルートで的確に相手の急所のみを破壊しようとする、冷徹にして完璧な「暗殺術(CQC)」だ。目にも止まらぬ
「ぐっ……!」
骨と肉が軋む重低音が、埠頭に響く。
だが、趙は倒れなかった。被弾の瞬間に強靭な腹筋と流麗な足捌きでその衝撃を分散し、着地と同時に水しぶきを上げながら反転。十朱の死角から、大気を震わせるほどの重厚な剛拳を連続で叩き込む。
それは、もはや「喧嘩」という生易しいものではなかった。
東鞘会と横浜流氓、関東の裏社会の頂点に君臨する「王」同士の、極限の死闘。
殺意と紙一重の距離で、肉体の限界を超えた暴力が交錯する。
水飛沫が舞い、雨を弾き飛ばすほどの衝撃波が何度も衝突した。
十朱の動きは、音を置き去りにする氷の刃だった。一切の力みや無駄がないステップで致命傷を避け、目、喉、鳩尾と、生物の急所だけを精密機械のようにピンポイントで貫いていく、神速と技巧。
対する趙は、大地を抉るような重い重心から放たれる、圧倒的な力と武のスペシャリストとしての本能。飄々とした仮面の下に隠していた「武神」としての牙をむき出しにし、十朱の鋭い刃を剛力で弾き落としては、圧倒的な破壊力の拳で十朱の完璧な防壁を強引にこじ開けていく。
両者共に、数多の死線を潜り抜けてきた最高峰の
完璧に着こなされていた最高級のスーツは裂け、純白のシャツやコックコートは、容赦なく泥と自らの血で染まっていく。
だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
月と太陽。
氷の狂気と、炎の逆鱗。
雨が強さを増す中、彼らを縛っていた「王」としての理性や技巧の探り合いは削ぎ落とされ、やがて、ただの男と男の感情のぶつけ合いへと変貌していく。
防御が甘くなる。身を躱すための高度な技術すらも投げ捨て、ただひたすらに、己の魂と積年の痛みを相手に叩き込むことだけに執着した、凄惨なインファイト。端正な顔面に互いの重い拳がめり込むたび、熱い鮮血が雨水に溶けて地に散った。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
二人とも、息は上がり、立っているのが不思議なほど満身創痍だった。それでも、相手を睨みつける瞳の熱だけは、一向に衰えない。
無言のまま、互いの最後の一歩が、深く泥を蹴った。
そこに、ガードも、フェイントも存在しなかった。ただ残った全霊の力を込めた右拳が、重く、硬く、同時に互いの頬を正確に打ち抜いた。
ごきり、と骨が軋む鈍い音が鳴り、相討ちのクロスカウンターが決まる。
ダブルノックアウト。
雨だれの音の中、二つの身体は限界を迎え、糸が切れたように水たまりの出来た地面へと力なく崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
「……ぜぇ……ぜぇ……」
冷たいアスファルトの上に仰向けに倒れ込み、大の字になる二人。
土砂降りの雨が、限界を超えて火照りきった身体を容赦なく打ち付けている。
見上げた空には、いつの間にか厚い雨雲の切れ間から、ガキの頃に二人で並んで見上げたものと寸分違わぬ、冷たい月が浮かんでいた。
先にその静寂を破ったのは、趙の息も絶え絶えな声だった。
「…………やっぱ、むかつくなぁ、お前…………」
裏社会の(元)トップ同士ではない、子供のような純粋な一言。
それを聞いた十朱の唇の端から、ふっ、と短く息が漏れた。
張り詰めていたものがほどけるように、それはやがて堪えきれない笑い声へと変わっていく。
「……は、はは……っ」
「……それは、こっちのセリフだ……ばかやろう……
冷たい雨音の中に、かつての親友同士の、泥臭くてどうしようもない笑い声が静かに溶けていく。
二十年。長すぎた冬の時代が、ようやく終わりを告げた瞬間だった。
▽
その夜のスナック「サバイバー」のカウンターは、これまでで最も奇妙で、そしてある意味豪華な客を迎えていた。
顔中痣だらけでびしょ濡れのまま、それでもどこかすっきりとした顔でバーボンを呷る二人の王。
十朱雅と、趙天佑。
マスターの柏木は何も聞かずに、ただ黙って乾いたタオルと新しいグラスを差し出すだけだった。
「……で?」
先に切り出したのは趙だった。
「どうすんの? あの老いぼれ(古参幹部)は」
「……潰す」
十朱の答えは短く、そして、冷徹だった。
「……だがその前に、奴が持っている情報を全て吐かせる。奴の背後にまだ誰かいるかもしれん」
その完璧な分析。
趙はニヤリと口の端を上げた。
その唇の切れ端からは、血が僅かに滲んでいる。
「―――俺が陽動する。お前が決めろ」
短すぎる言葉。
だが、その一言に全ての信頼が込められていた。
「俺」という最強の囮が敵の全ての注意を引きつける。その一瞬の隙を突き、お前のその牙で敵の喉笛を掻き切れ、と。
二十年の空白などなかったかのように。
二人の魂は完全にシンクロしていた。
「……ああ、わかった」
十朱はただ短くそう答えた。
▽
翌日の夜。
伊勢佐木異人町のとある高級クラブ。そのVIPルーム。
古参幹部・郭(グオ)はご満悦だった。
十朱に送った「脅迫状」。まだ返事はないが、時間の問題だろう。これで、あの生意気な若造を失脚させ、自分たちの時代を取り戻せる。
そう信じていた。
その祝杯のシャンパンに口をつけようとしたその瞬間だった。
店のドアが凄まじい音を立てて蹴破られた。
「よぉ」
そこに立っていたのは趙天佑だった。
その目は全く笑っていない。
「―――俺の大事な"常連さん"に手ぇ出してくれたらしいじゃねえか」
その言葉に部屋中の空気が凍りつく。
王の屈強なボディガードたちが一斉に銃を構えた。
だが趙は動じない。
その圧倒的な陽動に店の全ての戦力が集中する。
誰も気づいていなかった。
そのVIPルームの背後にあった窓の外。
闇よりも黒い一つの影が音もなくその鍵を開けていたことに。
王が懐から銃を取り出そうとしたまさにその瞬間。
彼の喉元には、氷のように冷たい金属の感触。
「―――ゲームオーバーだ」
耳元で、囁かれたその声は、悪魔のそれだった。
背後にはいつの間にか十朱雅が立っていた。その手には月光を反射し青白く光る一本のナイフが握られている。
ーーその夜。古き因習に囚われていた横浜流氓の旧時代は終わりを告げた。
異人町の裏社会に、いまだかつてないほど強固で絶対的な、新たな歴史が幕を開けようとしていた。
翌日の佑天飯店には、少しばかり変わった光景があった。
厨房の一番隅で、これまでの人生で一度も経験したことがないであろう必死の形相で、泡まみれになって皿を洗う見習い料理人――元・古参幹部の郭の姿が。
そして、その情けない背中を満足そうに眺めながら、どこか嬉しそうに酒を酌み交わす、傷だらけの二人の「王」の姿が。
あったとか、なかったとか。
ー
ーー
ーーーーーーー
ーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
「―――まあ、そういうわけだ」
ソンヒさんはマティーニグラスの最後の一滴を飲み干した。
「未華子をきっかけに、あの馬鹿なガキ二人はようやく二十年越しの仲直りを果たしたというわけさ」
彼女は、静かに続けた。
あの夜を境に、伊勢佐木異人町の潮目は大きく変わったのだ、と。
総帥の座を降りてもなお、絶大な人望を誇る、趙。
そして、関東の裏社会を支配する絶対的な王、十朱。
その二つの巨大な力が、二十年の時を経てついに一つのベクトルで結ばれた。
それは横浜流氓だけでなく、「異人三」と東鞘会の間に、これまでになかった強固な信頼関係を生み出した。
まさに、鬼に金棒。
十朱が東京で多忙な時は、趙がさりげなく横浜流氓の若い衆をまとめたり。
趙が表立って動けない面倒事には、十朱が裏から手を回して火種を揉み消したり。
言葉を交わさずとも、互いが、互いの、一番足りない部分を補い合っている。
まるで、子どもの頃のように。
「……私も嬉しいのさ」
ソンヒさんが、珍しく、ふ、と、柔らかな笑みを浮かべた。
「あのどうしようもない二人がようやく素直になれたんだからな。あいつらは結局、互いがいないとダメなんだよ。唯一無二の親友(ダチ)同士なんだから」
優しい眼差しのまま、ソンヒさんは私を真っ直ぐに見つめて言った。
「……ありがとう、未華子」
「えっ…?」
「お前がこの街に来てくれたおかげだ」
ストレートな感謝の言葉に、私はどうしようもなく照れてしまった。
「い、いやいや! 私は、別に、何もしてませんって…!」
「いいや。お前のおかげさ」
私はただ胸が温かくなるのを感じていた。
飄々としているけれど、どこか物悲しい、趙さんの瞳。
完璧だけどどこか孤独な、十朱会長の背中。
その二つの孤高の魂に、ちゃんと分かり合える親友がいたというその事実が。
自分のことのように嬉しかった。
「―――だから」
ソンヒさんがグラスをことりと置いた。
「この伊勢佐木異人町の住人は、皆お前には足を向けて寝られないのさ」
「…………」
「お前は何度もこの街の窮地を救ってきた。勝利の女神であり、そして平和の女神でもあるんだよ」
知れないほど大きな、温かい言葉。
私は今までずっと「女神」と呼ばれるのがどこか小っ恥ずかしくて、居心地が悪かった。
自分はそんな大層な人間じゃない、と。
でも。
今、この瞬間。
目の前の女王様がくれたその言葉だけは、
すとんと、胸の一番温かい場所に落ちていくのがわかった。
(……そっか)
(……私、ここにいてもいいんだ)
サバイバーの琥珀色の照明の中。
私は誰にも見えないようにこっそりと目元を拭い、そして手元の甘いカシスオレンジを一気に飲み干した。
その味は、いつもの何倍も甘くて、そして、少しだけしょっぱい味がした。
<了>
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