第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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スピンオフ:“密談”シリーズ【各視点】
① 密談はキムチの香り【杉浦SIDE】
その夜、僕、鉄爪さん、そしてジュンギさんという謎すぎる三人で、コミジュル近くの韓国料理屋のテーブルを囲んでいた。
表向きは「伊勢佐木異人町の平和を守るための、組織を超えた秘密の密談」ということになっている。
まあ、実際は、鉄爪さんが「たまには男だけでサシで飲もうや!」と言い出したのに、なぜかジュンギさんまでついてきた、ただの飲み会だ。
ジュウ、と音を立てて焼けるサムギョプサル。
キムチの酸っぱい匂い。
鉄爪さんが、マッコリの入ったグラスを豪快に呷りながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて、僕に絡んできた。
「それにしても、杉浦よぉ」
「……なに」
「また、色々あったみてぇだな。我らが“女神様”は」
女神、というのは、もちろん未華子ちゃんのことだ。
鉄爪さんが、勝手にそう呼んでる。
「……まあね。でも、もう解決したから」
「そうじゃねえよ。問題は、お前だ、お前」
鉄爪さんが、にんにくの芽を口に放り込みながら、僕の肩を、バシン! と強く叩いた。
「お前、まだみーちゃんと付き合わねえのか? うみねこタワーの時なんざ、インカム通して全世界に愛の告白、生中継しといてよぉ!」
「ぶっ!?」
思わず、飲んでいたマッコリを吹き出しそうになる。
「ぜ、全世界ってなんだよ!それに、あれはそういうのじゃ……!」
「何が違うんだよ。あの、最後の口づけまでしといてよぉ」
「〜〜〜っ!」
顔がカッと熱くなるのがわかる。
なんで、この人はこんなにデリカシーがないんだ。
隣で、鉄の仮面のように無表情で肉を焼いていたジュンギさんが、静かに、しかし、はっきりと呟いた。
「……あれは、感動的でした」
「だよなー!?」
あんたまで、どっちの味方なんだよ!
僕は、言い訳するように早口でまくし立てた。
「だからあれは、その、不可抗力っていうか! 極限状況だったからっていうか!」
「言い訳が見苦しいぜ、杉浦」
鉄爪さんは、心底楽しそうに笑うと、とんでもない爆弾を投下してきた。
「まあ、ぐずぐずしてっと、ウチの総帥に掻っ攫われるぞ」
「……は?」
総帥というのは、もちろん
「知らねえのか? 今、ウチの若い衆の間で賭けが始まってんだよ。『女神の心を射止めるのは、杉浦か、劉総帥か』ってな。ちなみに、今のところ総帥の方が圧倒的に人気だぜ?」
嘘だろ。
あの、何を考えてるかわからないヤクザのトップと、僕が?
賭けの対象に?
衝撃で僕が固まっていると、追い打ちをかけるように、ジュンギさんが静かに、しかし致命的な一言を放った。
「……それは、うちも同じです」
「え……?」
「コミジュル内でも、その賭けは流行しています。……ちなみに、私はあなたの方に賭けておきました」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
「ソンヒ総帥は、『はしたないからやめなさい』と、表向きは止めていますが……」
ジュンギさんは、そこで一瞬だけ、本当に一瞬だけ、遠い目をした。
「……実は、彼女も賭けています」
「……………はああああああああ!?」
頭が、ぐらぐらする。
横浜流氓でもコミジュルでも、僕らのことが賭けの対象になってる?
冗談じゃない。
でも、一番腹が立ったのは、そんな下世話な噂話じゃない。
何も言えずに、ただ顔を真っ赤にしてる自分自身に対してだ。
「……おいおい、そんなに頭抱えんなって」
鉄爪さんの呆れたような声。
僕はヤケクソで、目の前のマッコリを一気に飲み干した。
アルコールが喉を焼いていく。
「……別に、怒ってるとかじゃないんだよ」
ぽつりと、自分でも驚くくらいか細い声が漏れた。
「……ただ、さ」
僕は、空になったグラスをテーブルに置いた。
「あの子がこの街に来てから、もう一年以上経つんだよね」
指で、テーブルの上の水滴をなぞる。
「マフィアに襲われて。詐欺師に監禁されて。爆弾で死にそうになって。記憶まで無くした」
一つ一つ、思い出すだけで、腹の底が冷たくなる。
全部、僕のすぐそばで起きたことだ。
「……その度に、あの子は傷ついてきた。身体も心もズタズタになって。……なのに、あの子は絶対に逃げないんだよ」
そうだ。
君は、いつもそうだ。
泣きながら、震えながら、それでも必ず、自分の足でまた立ち上がろうとする。
その姿が、眩しくて、どうしようもなくて。
「……守りたいって思うよ。当たり前だろ」
グラスの縁を、なぞる指が止まった。
「……でも、僕にその資格があるのかって……時々わからなくなるんだ」
それが、僕のずっと誰にも言えなかった本音だった。
「僕じゃダメなんじゃないかって。僕がそばにいるから、あの子は不幸になるんじゃないかって……」
しん、と静まり返った店内に、鉄爪さんの、どこまでも不器用で、豪快な声が響き渡った。
「―――馬鹿野郎が」
見ると、彼は呆れたような、でもどこまでも優しい目で僕を見ていた。
「お前以外に、誰がいんだよ」
その真っ直ぐな言葉。
ジュンギさんも黙って、こくり、と頷いている。
「資格だの、自信だの、そんなもんはな、後からついてくんだよ。……違うか?」
鉄爪さんはそう言うと、店員を呼びつけマッコリのボトルをもう一本注文した。
「いいか、杉浦! 悩みがあるなら、酒飲んで忘れろ! そして、明日になったらまた、がむしゃらに女神のこと守りゃいいんだよ!」
彼は、なみなみと注がれたマッコリを僕の前に、ドン、と置いた。
「わかったな!? 飲め!」
「……うん」
僕はもう何も言えなかった。
ただ、目の前の仲間たちが注いでくれた温かい酒を、涙と一緒に飲み干すだけだった。
ああ、本当に敵わないな。
この街の、どうしようもなくお節介で優しいこの人たちには。
……そして、君にも。
② 密談はワインの香り【未華子SIDE】
その夜私は、ソンヒさんと九十九氏と三人で、馬車道のお洒落なワインバルに来ていた。
ソンヒさん曰く、「たまには女同士で、ゆっくり話でもしないとね」とのこと。
……まあ、九十九氏は女同士ではないのだけれど。
「未華子。体調はもういいのか?」
目の前で、ソンヒさんが優しく、そして全てを見透かすような瞳で私を見つめる。
「はい。もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
努めて明るく、いつも通りに振る舞う。
ここで弱音を吐けば、この二人はきっとどこまでも心配してしまうから。
「無理はするな。お前は、少し溜め込みすぎる癖がある」
グラスに注がれた、綺麗なルビー色のワイン。
あの日以来、私の心に重くのしかかっていた澱が、少しだけ溶けていくような気がした。
一通りの食事とお酒を楽しんだあと。
ずっと気になっていた、エイトが九十九課を訪ねてきたときの状況を九十九氏から教えてもらっていた。
「それにしても……」
九十九氏が、少しだけ言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。
「あの時の杉浦氏は、本当にすごかったですぞ。……エイトが事務所に来て、未華子氏の……そ、その、大変な状況を、面白おかしく話そうとした、その時です」
彼は、私の顔色を窺いながら続けた。
「佐竹殿が、怒りで拳を振り上げるよりも、早く。……杉浦氏の見えないほどの速さの鉄拳が、エイトの顔面を捉えたのです。……彼のあんなに怒った顔は、ボクも初めて見ました」
あの日、事務所で見た、彼の赤く腫れ上がった拳。
「間違えてサンドバッグじゃないところを殴った」なんて、子供みたいな嘘で必死に誤魔化そうとしていた、あの不器用な優しさの本当の理由。
それが今、九十九氏の口から決定的な事実として語られる。
(……馬鹿だな、本当に)
胸の奥が、きゅう、と甘く痛んだ。
嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
彼の、真っ直ぐな想いが。
でも、その想いが眩しければ眩しいほど。
自分の内側にある、どうしようもない闇が、濃くなっていくのを感じる。
(……ごめんね、杉浦くん)
心の中で、何度も謝った。
こんな私で、ごめんね。
あなたの綺麗な想いを素直に受け取れない、こんな汚れた私で、本当にごめんね。
「……わかったか、杉浦のあの想い」
ソンヒさんが、静かにワイングラスを傾けながら言った。
「それが、あいつの答えだ。……お前も、そろそろ応えてやったらどうだ?」
「え……?」
「とぼけるな。付き合ってやれ、と言っている」
ストレートな言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。
そして、必死でいつもの強気な自分の仮面を被る。
「い、いや、でもそれは……。彼から、直接そういう風に言われたわけでは……ないですし」
まだ、強がっていられる。
まだ、冗談めかしてはぐらかせる。
だって、そうでもしないと、このどうしようもない醜い自分の本音が、溢れ出してしまいそうだったから。
だが、ソンヒさんは、そんな私の薄っぺらい仮面を、いとも容易く剥ぎ取っていった。
「……まさか、とは思うが」
その静かな声に、私は心臓が凍りつくような気がした。
「……自分はもう穢れてしまった、とか。あいつにふさわしい女じゃない、とか。……そんな馬鹿なことを考えているんじゃないだろうな?」
―――図星だった。
エイトにされたこと。
身籠ってしまったこと。
そして、その命を自分の手で終わらせてしまったこと。
そんな穢れた私が、杉浦くんの隣にいる資格なんてあるはずがない。
心の奥底に必死で蓋をしていた、一番醜い部分を見抜かれてしまった。
俯く私に、ソンヒさんは静かに、しかし有無を言わさぬ強い口調で言った。
「いいか、未華子。よく聞け」
彼女は、テーブル越しに私の手を、その冷たくて綺麗な手で強く握りしめた。
「お前は、何も穢れてなどいない。お前は、ただ戦っただけだ。自分の命と尊厳を守るために、必死で戦い抜いただけだ。……それは、誇れこそすれ、恥じることなど何一つない」
その言葉。
その温かい手の感触。
堪えていた涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。
「……そうですぞ、未華子氏!」
隣で、九十九氏も真剣な顔で頷いていた。
「そもそも! 杉浦氏にふさわしい、ふさわしくない、というのは杉浦氏が決めることです! あなたが勝手に結論を出すのは、論理的ではありません!」
「……九十九氏……」
「それに! ボクの見立てでは、杉浦氏は、あなたが思う以上に、あなたにベタ惚れですぞ! 断言します!」
真っ直ぐでどこまでも優しい、二人の言葉に。
私は、ただ「ありがとう」と涙声で呟くのが精一杯だった。
ソンヒさんは、私の手の甲を、ポン、と優しく叩くと、悪戯っぽく笑った。
「……まあ、それでも、どうしても言うことを聞かない、というのなら」
彼女は、ちらり、と、九十九氏の方を見る。
「―――『証拠』を用意してやってもいい」
物騒な響きながら、とてつもなく頼もしい一言。
その意味を、九十九氏は瞬時に理解したようだった。
「おお! なるほど!」
九十九氏が、興奮して声を上げる。
「例えば、杉浦氏が夜な夜な未華子氏の名前を、寝言で呟いている『音声データ』とか! あるいは、彼が無意識に検索してしまっている、あなたに似た女優の『閲覧履歴』(※FA●ZA)とか!」
「……え、ちょっと、何それ、怖いんだけど…」
「そういう動かぬ『証拠』を突きつければ、あの鈍感な杉浦氏も、さすがに自分の気持ちを認めざるを得なくなるのでは、と! さすがはソンヒ殿! 発想が我々探偵とは、レベルが違いますな!」
マフィア的な、恋の後押しの仕方。
私は、呆れてものも言えなかったが、同時に心の底から笑ってしまった。
久しぶりに腹を抱えて。
最高のお姉さんと、最高の親友。
この二人がいるから、私はまた明日から、前を向いて歩いていける。
そう心の底から思った。
③ 密談はブランデーの香り【佐竹SIDE】
その夜、俺は一人、慶錦飯店のあの豪華絢爛な会長室にいた。
玉座のような椅子に腰かけた十朱雅が、まるでチェスでも打つかのように、ゆっくりとグラスの中のブランデーを揺らしている。
「……それで? 結論は出たのか」
議題は、先日の銃撃事件の「後始末」についてだった。
あの事件の黒幕は、榊亜希子。
だが、彼女に銃を渡し、ホテルでのパーティという「舞台」を用意し、そして、伊勢佐木異人町を混乱に陥れようとしたさらなる黒幕がいる。
東鞘会系のある三次団体。
彼らは、十朱が敷いた新しい秩序を快く思っていなかった。
「証拠は、ほぼ揃っています」
俺は、タブレットに表示した膨大なデータをテーブルに滑らせる。
金の流れ、通信記録、内通者のリスト。
それは、元・公安のエースでなければ、決して手に入れられない完璧な証拠だった。
「……いつでも潰せますよ」
十朱は、満足そうに頷いた。
「……見事な手際だな。警察を辞めたのが惜しいくらいだ」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
――そう。
俺が九十九課に加入して以来、時折、こうして十朱会長からの「依頼」が舞い込むようになっていた。
それは、九十九課がもはやただの探偵事務所ではない、伊勢佐木異人町の秩序を保つための重要な「装置」の一つとして、認められた何よりの証だった。
だが、この男が本当に聞きたいのは、こんな話じゃない。
わかっていた。
「……それで?」
十朱がグラスを置き、その全てを見透かすような瞳で、俺を真っ直ぐに見据えた。
「……彼女はどうしてる」
彼女、というのが誰なのか。
聞くまでもなかった。
橘未華子。
俺も、そして、目の前のこの男も囚われている、たった一人の女。
「……元気ですよ。相変わらず無茶ばっかりしてますが」
俺は、努めて冷静に答えた。
「……そうか」
短い沈黙。
その間に、どれだけの腹の探り合いがあっただろうか。
十朱が、グラスの中の琥珀色の液体に視線を落としたまま、静かに切り出した。
その声は、まるでチェス盤の駒の動きを、ただ読み上げるかのように、無機質だった。
「……確認したが」
「……ええ」
「―――あの女を、汚した"ネズミ"は。…元は、お前が手綱を握っていたらしいな」
冷徹で、そして、全てを見透かしたような言葉。
俺は、一瞬だけ息を呑んだが、すぐにポーカーフェイスを取り戻した。
「……そうですね。…俺の、くだらない後始末です」
「……どう落とし前をつけるつもりだ」
静かだが、有無を言わさぬ問いに、俺は少しだけ笑ってしまった。
「……あなたにだけは、言われたくないですね」
「……ほう?」
「あなたも。趙さんも。……そして、杉浦も。みんな、あいつを自分のせいで傷つけてきた」
それは、この男の前で口にしてはいけない、禁断の言葉だったかもしれない。
だが、もう偽りの仮面はどこにもない。
「……面白いことを言う」
十朱は怒るでもなく、ただ楽しそうに笑っていた。
「……だから、俺が守るんですよ」
俺は静かに、はっきりと宣言した。
「あんたたちが、それぞれのやり方であいつを傷つけて、そして守ってきたように。……俺も、俺のやり方であいつを守る。……九十九課の一員としてね」
その言葉に、十朱は何も言わなかった。
ただ、満足そうにブランデーのグラスを掲げてみせた。
それは、敵でも味方でもない。
ただ一人の女を、それぞれの場所から守ることを決めた、二人の男の静かな誓いの儀式のようだった。
<了>
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