第9話:偽りの楽園、堕天使の罠
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第一幕:因縁の詐欺師
2022年4月。
横浜九十九課には、新しい日常が確かに根付き始めていた。
4人になった事務所は、以前よりもずっと賑やかで、そして、遥かに強くなった。
だが、佐竹幸人――松田仁の心には、公安時代から引きずる、一つの「心残り」が重い影を落としていた。
『一つだけやり残したことがある。数年前から、ずっと追ってる事件が……』
あの日、九十九課への加入を決めた時、九十九にそう告げた自分の声が、耳の奥で蘇る。
それは、公安を辞めるにあたって、彼が唯一、自分自身に課した「宿題」だった。
――畠山 大志(はたけやま たいし)。
公安という疑心暗鬼が渦巻く世界で、彼が唯一「ハタケ」と愛称で呼び心を許した、太陽のように明るい、直属の2期下の後輩――。
二年前、佐竹(松田)と畠山の二人は、世界を股にかける謎の天才詐欺師「エイト」を追っていた。
インターポールの依頼を受け、国内での調査を進めていたその矢先。
真相にあと一歩まで迫ったところで、ハタケは忽然と姿を消した。
山梨県の山奥、古い吊り橋に残された、争いの跡と彼の私物。
死体は上がらなかった。
公安は、エイトに消されたものと判断し、捜査を打ち切った。
――だが、佐竹だけは、信じていなかった。
そして、心のどこかで、自分の僅かな判断ミスが彼を危険に晒してしまったのではないかという、消えない罪悪感をずっと抱えていたのだ。
「……佐竹殿。例の、エイトに関する情報ですぞ」
九十九が、モニターに一つのデータを表示する。
エイトが、再び日本に潜伏している。
その報せに、佐竹の瞳に鋭い光が宿った。
「……今回こそ、必ず尻尾を掴む」
公安の元同僚とも連携し、九十九課と公安による合同捜査チームが結成された。
「公安と探偵の共同戦線! まさに、映画のようですな!」
「まあ、面白そうじゃん。僕も、腕が鳴るよ」
九十九と杉浦は、この危険なゲームを心の底から楽しんでいるようだった。
数日後。
エイトが、東京湾に面した会員制のナイトクラブに現れるとの情報が入った。
「警察が正面から踏み込めば、匂いで気づかれる。……潜入は、俺たちが行く」
佐竹の冷静な声が、作戦会議室に響いた。
◎潜入当日[場所:ナイトクラブ@有明]
潮風に晒された巨大な物流倉庫。
その一角にある、看板のない重厚な鉄扉がナイトクラブの「入り口」だった。
一歩足を踏み入れれば、外の静寂が嘘のような重低音のビートが、身体の芯を暴力的に揺さぶる。
紫煙と高級酒の匂いが混じり合う、煌びやかな箱の中。
その喧騒の隙間を、3つの影が静かに動いていた。
杉浦と佐竹は、黒いタイトなスーツに身を包み、フロアスタッフを装って壁際に溶け込んでいる。
変装用にかけた銀縁の伊達メガネが、二人のただでさえ高い偏差値の顔面を、さらに知的に、そして危険に見せていた。
180cm前後の完璧なスタイルの二人が、並んで立つ姿。
それは異様なほど目立ち、周囲の着飾った女性客たちの熱い視線を一身に集めていた。
(……ったく。目立ちすぎでしょ、あの2人)
そして、その2人の視線の遥か先。
VIPエリアへと続く階段の下で、シャンパングラスを片手に、ターゲットを待つ女が一人。
橘未華子だった。
身体のラインを惜しげもなく晒す、タイトな黒のミニドレス。
普段とは比べ物にならないほど濃く、そして挑発的なスモーキーメイク。
その姿は、これまでの彼女のボーイッシュなイメージを完全に覆し、夜の闇に咲く一輪の毒々しい華のような、危険な色香を放っていた。
背中に突き刺さる、2人の騎士の熱い視線を感じながら。
未華子は、口元に隠した超小型のインカムのマイクに、そっと唇を寄せた。
「…………どう? 変じゃない?」
囁くような問いに、インカムの向こう側で、明らかな「動揺」が走った。
『……いや、変とか、そういうレベルじゃなくて……。……その、なんていうか……』
狼狽えきった杉浦の、しどろもどろな声。
『……目のやり場に困りますな、これは! 非常にけしからん! ……最高ですぞ!』
完全に欲望がダダ漏れの、九十九の叫び。
その素直な男たちの反応に、未華子は小さく笑みをこぼした。
今回の作戦は、こうだ。
女好きと噂されるエイトに、未華子を接触させ、公安からの「交渉」の手紙を渡す。
杉浦と佐竹は、その護衛。
九十九が、外から全体の指揮を執る。
『―――ターゲット、VIPルームに入ったぞ。…今だ、未華子』
佐竹の冷静な指示が、鼓膜を揺らした。
未華子は深呼吸を一つすると、フロアを見下ろす最上階のVIPルームへと、その不慣れなハイヒールを鳴らしながら、足を踏み入れたのだった。
*
黒人のSPたち数人がVIPルームの隅に立ち並び、威圧感を放っている異様な空間。
その部屋の中央、豪華な革張りのソファに、一人の男がふんぞり返るように座っていた。
金のネックレスをじゃらつかせ、派手なヴェルサーチェのシャツを着た、いかにも成金といった風情のギラついた中年男。
公安からの情報では、彼こそがターゲットの「エイト」。
そして、その隣。
一定の距離を保ちながら、フードを目深に被り、表情の読めない黒ずくめの若い男が、まるで影のように控えていた。
「よぉ姉ちゃん。こっち来て、一杯どうや?」
下品な笑みを浮かべ、手招きする中年男。
未華子は、完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、グラスを片手に、その隣へと優雅に歩み寄った。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。…それにしても、賑やかなパーティですね?」
「まあな。景気がええからな、わしは」
“エイト”は、未華子の肩から太ももまでを、じろりと舐めるように見つめた。
「……姉ちゃん、ええ"目"ぇしとるなあ。…どうや、今夜?」
直接的すぎる誘いに、内心(キモっ……)と毒づくも。
未華子は、彼の機嫌を損ねないように、甘えるように小首を傾げてみせる。
「あは、お上手。…でも、私、安くないですよ?」
「ははっ! 気に入った! 金なら、いくらでもあるで!」
下品に高笑いする男。
―――だが。
未華子の意識は、全く別の場所にあった。
(……なんか、おかしい)
違和感が、全身の皮膚を粟立たせる。
この男は、「エイト」として公安にマークされているはずの大物詐欺師。
だが、彼から全く「王」としてのオーラが感じられない。
彼の視線。
その動き。
どこか、常に落ち着きがなく、周囲をキョロキョロと窺っている。
まるで、誰かの「顔色」をうかがっているかのように。
そして、部屋の隅に立つ黒服の屈強なSPたち。
彼らの、忠誠心に満ちた鋭い視線が向かっているのは、この目の前の中年男ではなかった。
―――その隣にいる、影(シャドー)。
フードで顔の見えない、あの若い男に向けられていたのだ。
この空間の、本当の王は誰なのか。
その、わずかな空気の揺らぎ。
パワーバランスの歪み。
未華子のジャーナリストとしての「勘」が、警鐘を鳴らしていた。
真実はそこじゃない。
佐竹も、杉浦も、九十九も、そして、公安でさえも。
全員が、この派手で“いかにも”な「ダミー」に、気を取られている。
だが、本当の脅威は、静かに息を潜めている。
未華子は覚悟を決めた。
これは、賭けだ。
――もし間違えれば、私は、ここで消されるかもしれない。
未華子は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、下品に笑う中年男には一瞥もくれることなく。
その隣にいる影のような若い男の、その黒いフードの、さらに奥にある闇を、真っ直ぐに見据えた。
「―――あなたに、お話があります」
そう言って、ドレスの胸の谷間に隠していた公安からの手紙を、テーブルの彼の目の前に滑らせた、その瞬間。
インカムの向こうの九十九と佐竹が、息を呑むのがわかった。
『未華子氏!? なぜその男に!?』
彼らのモニターには、未華子が“エイト”ではなく、彼から少し距離を置いて座っていた、ただの取り巻きの男に話しかけているようにしか見えていない。
その時。
影のようだった若い男が、ゆっくりとそのフードを上げた。
「……よく、俺だとわかったね」
いたずらっぽく笑う、人懐っこい笑顔。
どこか、懐かしい、甘いマスク。
その顔を見た瞬間、未華子の思考は完全に停止した。
「―――は、畠山、さん……?」
九十九課のオフィスで。
佐竹が、何度も何度も、悔しそうに見つめていた、あの写真の顔。
間違いない。
彼こそが、佐竹がずっと探し続けていた後輩、畠山大志だった。
◎場面転換[場所:クラブの外・非常階段]
『―――は、畠山、さん……?』
未華子の囁くような声が、インカムを通して鼓膜を揺らした。
その瞬間。
それまで、完璧なポーカーフェイスで壁にもたれかかっていた佐竹の時が、完全に止まった。
彼の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。
(……ハタケ……? なぜ、お前が、そこに……!)
息を呑む。
脳内で、いくつもの最悪のシナリオが高速で駆け巡る。
隣で、同じように息を殺していた杉浦が、そのただならぬ佐竹の気配に気づいた。
「……佐竹くん?」
だが、佐竹はもう答えない。
彼は、ジャケットの内側に隠していた、公安からこの日のためだけに借り受けたSIG SAUER P230の冷たい感触を確かめると、音もなく地を蹴っていた。
VIPルームへと続く裏ルートを、最短距離で駆け上がる。
その背中は、もはやただの探偵ではない。
獲物を見つけた、一匹の孤高の狼の、それだった。
◎場面転換[場所:VIPルーム]
畠山――エイトは動いた。
その動きは洗練され、そして一切の無駄がなかった。
彼は、まず、未華子の隣のソファの下に隠してあった小型のEMP(電磁パルス)装置のスイッチを足で蹴り上げる。
ジジッ!
一瞬だけ、部屋の照明が明滅し、中年男が持っていたスマホの画面が真っ暗になった。
そのコンマ数秒の混乱。
エイトは、その隙を見逃さない。
彼は、中年男(ダミー)の襟首を掴むと、その派手なシャツの胸ポケットに薬物(MDMA)の入った小さな袋を音もなく滑り込ませた。
そして彼は、部屋中の黒服のSPたちに向かって、こう叫んだのだ。
「―――警察だ! 薬物取引の現行犯で、逮捕する! 全員、動くな!」
全ては、罠だった。
中年男もSPたちも、全員エイト(本物)が雇ったただの役者。
公安のこの潜入捜査を逆手に取った、完璧な「カウンター」。
混乱の中、彼は、呆然と立ち尽くす未華子の腕を掴んだ。
「……行くよ」
その、どこか楽しそうな声。
「―――ハタケ!」
部屋に飛び込んできた、佐竹の絶叫が響き渡る。
だが、遅い。
エイトは、あらかじめ設置していたワイヤーを使い、まるでスパイダーマンのように軽々と地上へと降りていく。
「くそっ!」
佐竹と、後から追いついた杉浦は、すぐに踵を返し、非常階段を駆け下りた。
クラブの外に出ると、一台の真っ赤なフェラーリが、獣のような咆哮を上げ走り出すのが見えた。
「……乗れ、杉浦!」
佐竹は、近くに停めてあった、作戦用の黒い大型バイクに飛び乗る。
杉浦も、別のバイクにまたがった。
二台の黒い影が、赤い悪魔の尾灯を追いかけ、夜のベイエリアへと飛び出していく。
咆哮を上げるV12エンジン。
タイヤが路面を削る悲鳴。
激しいカーチェイスが始まる。
神がかったエイトの運転技術。
それに対し、こちらも、常人離れしたバイクテクニックで食らいついていく、二人の騎士。
だが、勝負は一瞬だった。
距離を詰める二台のバイクに対し、フェラーリは埠頭の行き止まり、直角の急カーブで真横を向いた。
針の穴を通すような挙動でコーナーを抜ける一方、追う二台のタイヤは限界を超えていた。
「「しまっ……!」」
佐竹と杉浦の声が、ハモった。
タイヤがスリップし、コントロールを失った二台の大型バイクは。
ガシャーン!という凄まじい轟音と共に、ガードレールを突き破り。
ザッパァァァァァン!!!!
水飛沫を派手に上げながら、二人の騎士を乗せたまま、冷たい東京湾の黒い水の中へとその姿を消したのだった。
「……大丈夫。死にはしないよ」
バックミラーで、その光景を確認したエイトは、絶望する未華子の横で、楽しそうに笑った。
その手は、未華子の耳元からインカムをひったくると、慣れた手つきで窓の外へと放り捨てる。
行き先は、わからない。
ただ、この男から、もう逃れることはできないということだけを、未華子は悟っていた。
2022年4月。
横浜九十九課には、新しい日常が確かに根付き始めていた。
4人になった事務所は、以前よりもずっと賑やかで、そして、遥かに強くなった。
だが、佐竹幸人――松田仁の心には、公安時代から引きずる、一つの「心残り」が重い影を落としていた。
『一つだけやり残したことがある。数年前から、ずっと追ってる事件が……』
あの日、九十九課への加入を決めた時、九十九にそう告げた自分の声が、耳の奥で蘇る。
それは、公安を辞めるにあたって、彼が唯一、自分自身に課した「宿題」だった。
――畠山 大志(はたけやま たいし)。
公安という疑心暗鬼が渦巻く世界で、彼が唯一「ハタケ」と愛称で呼び心を許した、太陽のように明るい、直属の2期下の後輩――。
二年前、佐竹(松田)と畠山の二人は、世界を股にかける謎の天才詐欺師「エイト」を追っていた。
インターポールの依頼を受け、国内での調査を進めていたその矢先。
真相にあと一歩まで迫ったところで、ハタケは忽然と姿を消した。
山梨県の山奥、古い吊り橋に残された、争いの跡と彼の私物。
死体は上がらなかった。
公安は、エイトに消されたものと判断し、捜査を打ち切った。
――だが、佐竹だけは、信じていなかった。
そして、心のどこかで、自分の僅かな判断ミスが彼を危険に晒してしまったのではないかという、消えない罪悪感をずっと抱えていたのだ。
「……佐竹殿。例の、エイトに関する情報ですぞ」
九十九が、モニターに一つのデータを表示する。
エイトが、再び日本に潜伏している。
その報せに、佐竹の瞳に鋭い光が宿った。
「……今回こそ、必ず尻尾を掴む」
公安の元同僚とも連携し、九十九課と公安による合同捜査チームが結成された。
「公安と探偵の共同戦線! まさに、映画のようですな!」
「まあ、面白そうじゃん。僕も、腕が鳴るよ」
九十九と杉浦は、この危険なゲームを心の底から楽しんでいるようだった。
数日後。
エイトが、東京湾に面した会員制のナイトクラブに現れるとの情報が入った。
「警察が正面から踏み込めば、匂いで気づかれる。……潜入は、俺たちが行く」
佐竹の冷静な声が、作戦会議室に響いた。
◎潜入当日[場所:ナイトクラブ@有明]
潮風に晒された巨大な物流倉庫。
その一角にある、看板のない重厚な鉄扉がナイトクラブの「入り口」だった。
一歩足を踏み入れれば、外の静寂が嘘のような重低音のビートが、身体の芯を暴力的に揺さぶる。
紫煙と高級酒の匂いが混じり合う、煌びやかな箱の中。
その喧騒の隙間を、3つの影が静かに動いていた。
杉浦と佐竹は、黒いタイトなスーツに身を包み、フロアスタッフを装って壁際に溶け込んでいる。
変装用にかけた銀縁の伊達メガネが、二人のただでさえ高い偏差値の顔面を、さらに知的に、そして危険に見せていた。
180cm前後の完璧なスタイルの二人が、並んで立つ姿。
それは異様なほど目立ち、周囲の着飾った女性客たちの熱い視線を一身に集めていた。
(……ったく。目立ちすぎでしょ、あの2人)
そして、その2人の視線の遥か先。
VIPエリアへと続く階段の下で、シャンパングラスを片手に、ターゲットを待つ女が一人。
橘未華子だった。
身体のラインを惜しげもなく晒す、タイトな黒のミニドレス。
普段とは比べ物にならないほど濃く、そして挑発的なスモーキーメイク。
その姿は、これまでの彼女のボーイッシュなイメージを完全に覆し、夜の闇に咲く一輪の毒々しい華のような、危険な色香を放っていた。
背中に突き刺さる、2人の騎士の熱い視線を感じながら。
未華子は、口元に隠した超小型のインカムのマイクに、そっと唇を寄せた。
「…………どう? 変じゃない?」
囁くような問いに、インカムの向こう側で、明らかな「動揺」が走った。
『……いや、変とか、そういうレベルじゃなくて……。……その、なんていうか……』
狼狽えきった杉浦の、しどろもどろな声。
『……目のやり場に困りますな、これは! 非常にけしからん! ……最高ですぞ!』
完全に欲望がダダ漏れの、九十九の叫び。
その素直な男たちの反応に、未華子は小さく笑みをこぼした。
今回の作戦は、こうだ。
女好きと噂されるエイトに、未華子を接触させ、公安からの「交渉」の手紙を渡す。
杉浦と佐竹は、その護衛。
九十九が、外から全体の指揮を執る。
『―――ターゲット、VIPルームに入ったぞ。…今だ、未華子』
佐竹の冷静な指示が、鼓膜を揺らした。
未華子は深呼吸を一つすると、フロアを見下ろす最上階のVIPルームへと、その不慣れなハイヒールを鳴らしながら、足を踏み入れたのだった。
*
黒人のSPたち数人がVIPルームの隅に立ち並び、威圧感を放っている異様な空間。
その部屋の中央、豪華な革張りのソファに、一人の男がふんぞり返るように座っていた。
金のネックレスをじゃらつかせ、派手なヴェルサーチェのシャツを着た、いかにも成金といった風情のギラついた中年男。
公安からの情報では、彼こそがターゲットの「エイト」。
そして、その隣。
一定の距離を保ちながら、フードを目深に被り、表情の読めない黒ずくめの若い男が、まるで影のように控えていた。
「よぉ姉ちゃん。こっち来て、一杯どうや?」
下品な笑みを浮かべ、手招きする中年男。
未華子は、完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、グラスを片手に、その隣へと優雅に歩み寄った。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。…それにしても、賑やかなパーティですね?」
「まあな。景気がええからな、わしは」
“エイト”は、未華子の肩から太ももまでを、じろりと舐めるように見つめた。
「……姉ちゃん、ええ"目"ぇしとるなあ。…どうや、今夜?」
直接的すぎる誘いに、内心(キモっ……)と毒づくも。
未華子は、彼の機嫌を損ねないように、甘えるように小首を傾げてみせる。
「あは、お上手。…でも、私、安くないですよ?」
「ははっ! 気に入った! 金なら、いくらでもあるで!」
下品に高笑いする男。
―――だが。
未華子の意識は、全く別の場所にあった。
(……なんか、おかしい)
違和感が、全身の皮膚を粟立たせる。
この男は、「エイト」として公安にマークされているはずの大物詐欺師。
だが、彼から全く「王」としてのオーラが感じられない。
彼の視線。
その動き。
どこか、常に落ち着きがなく、周囲をキョロキョロと窺っている。
まるで、誰かの「顔色」をうかがっているかのように。
そして、部屋の隅に立つ黒服の屈強なSPたち。
彼らの、忠誠心に満ちた鋭い視線が向かっているのは、この目の前の中年男ではなかった。
―――その隣にいる、影(シャドー)。
フードで顔の見えない、あの若い男に向けられていたのだ。
この空間の、本当の王は誰なのか。
その、わずかな空気の揺らぎ。
パワーバランスの歪み。
未華子のジャーナリストとしての「勘」が、警鐘を鳴らしていた。
真実はそこじゃない。
佐竹も、杉浦も、九十九も、そして、公安でさえも。
全員が、この派手で“いかにも”な「ダミー」に、気を取られている。
だが、本当の脅威は、静かに息を潜めている。
未華子は覚悟を決めた。
これは、賭けだ。
――もし間違えれば、私は、ここで消されるかもしれない。
未華子は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、下品に笑う中年男には一瞥もくれることなく。
その隣にいる影のような若い男の、その黒いフードの、さらに奥にある闇を、真っ直ぐに見据えた。
「―――あなたに、お話があります」
そう言って、ドレスの胸の谷間に隠していた公安からの手紙を、テーブルの彼の目の前に滑らせた、その瞬間。
インカムの向こうの九十九と佐竹が、息を呑むのがわかった。
『未華子氏!? なぜその男に!?』
彼らのモニターには、未華子が“エイト”ではなく、彼から少し距離を置いて座っていた、ただの取り巻きの男に話しかけているようにしか見えていない。
その時。
影のようだった若い男が、ゆっくりとそのフードを上げた。
「……よく、俺だとわかったね」
いたずらっぽく笑う、人懐っこい笑顔。
どこか、懐かしい、甘いマスク。
その顔を見た瞬間、未華子の思考は完全に停止した。
「―――は、畠山、さん……?」
九十九課のオフィスで。
佐竹が、何度も何度も、悔しそうに見つめていた、あの写真の顔。
間違いない。
彼こそが、佐竹がずっと探し続けていた後輩、畠山大志だった。
◎場面転換[場所:クラブの外・非常階段]
『―――は、畠山、さん……?』
未華子の囁くような声が、インカムを通して鼓膜を揺らした。
その瞬間。
それまで、完璧なポーカーフェイスで壁にもたれかかっていた佐竹の時が、完全に止まった。
彼の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。
(……ハタケ……? なぜ、お前が、そこに……!)
息を呑む。
脳内で、いくつもの最悪のシナリオが高速で駆け巡る。
隣で、同じように息を殺していた杉浦が、そのただならぬ佐竹の気配に気づいた。
「……佐竹くん?」
だが、佐竹はもう答えない。
彼は、ジャケットの内側に隠していた、公安からこの日のためだけに借り受けたSIG SAUER P230の冷たい感触を確かめると、音もなく地を蹴っていた。
VIPルームへと続く裏ルートを、最短距離で駆け上がる。
その背中は、もはやただの探偵ではない。
獲物を見つけた、一匹の孤高の狼の、それだった。
◎場面転換[場所:VIPルーム]
畠山――エイトは動いた。
その動きは洗練され、そして一切の無駄がなかった。
彼は、まず、未華子の隣のソファの下に隠してあった小型のEMP(電磁パルス)装置のスイッチを足で蹴り上げる。
ジジッ!
一瞬だけ、部屋の照明が明滅し、中年男が持っていたスマホの画面が真っ暗になった。
そのコンマ数秒の混乱。
エイトは、その隙を見逃さない。
彼は、中年男(ダミー)の襟首を掴むと、その派手なシャツの胸ポケットに薬物(MDMA)の入った小さな袋を音もなく滑り込ませた。
そして彼は、部屋中の黒服のSPたちに向かって、こう叫んだのだ。
「―――警察だ! 薬物取引の現行犯で、逮捕する! 全員、動くな!」
全ては、罠だった。
中年男もSPたちも、全員エイト(本物)が雇ったただの役者。
公安のこの潜入捜査を逆手に取った、完璧な「カウンター」。
混乱の中、彼は、呆然と立ち尽くす未華子の腕を掴んだ。
「……行くよ」
その、どこか楽しそうな声。
「―――ハタケ!」
部屋に飛び込んできた、佐竹の絶叫が響き渡る。
だが、遅い。
エイトは、あらかじめ設置していたワイヤーを使い、まるでスパイダーマンのように軽々と地上へと降りていく。
「くそっ!」
佐竹と、後から追いついた杉浦は、すぐに踵を返し、非常階段を駆け下りた。
クラブの外に出ると、一台の真っ赤なフェラーリが、獣のような咆哮を上げ走り出すのが見えた。
「……乗れ、杉浦!」
佐竹は、近くに停めてあった、作戦用の黒い大型バイクに飛び乗る。
杉浦も、別のバイクにまたがった。
二台の黒い影が、赤い悪魔の尾灯を追いかけ、夜のベイエリアへと飛び出していく。
咆哮を上げるV12エンジン。
タイヤが路面を削る悲鳴。
激しいカーチェイスが始まる。
神がかったエイトの運転技術。
それに対し、こちらも、常人離れしたバイクテクニックで食らいついていく、二人の騎士。
だが、勝負は一瞬だった。
距離を詰める二台のバイクに対し、フェラーリは埠頭の行き止まり、直角の急カーブで真横を向いた。
針の穴を通すような挙動でコーナーを抜ける一方、追う二台のタイヤは限界を超えていた。
「「しまっ……!」」
佐竹と杉浦の声が、ハモった。
タイヤがスリップし、コントロールを失った二台の大型バイクは。
ガシャーン!という凄まじい轟音と共に、ガードレールを突き破り。
ザッパァァァァァン!!!!
水飛沫を派手に上げながら、二人の騎士を乗せたまま、冷たい東京湾の黒い水の中へとその姿を消したのだった。
「……大丈夫。死にはしないよ」
バックミラーで、その光景を確認したエイトは、絶望する未華子の横で、楽しそうに笑った。
その手は、未華子の耳元からインカムをひったくると、慣れた手つきで窓の外へと放り捨てる。
行き先は、わからない。
ただ、この男から、もう逃れることはできないということだけを、未華子は悟っていた。
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