第1話:最悪で、最高の一日
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[宿泊しているホテルの部屋]
シャワーを浴びても、心についた汚れは、落ちなかった。
不採用続きで終わりが見えない転職活動。
手応えのない面接、チンピラとの遭遇。
そして、初対面のイケメンに投げかけられた、冷たい言葉。
それらが、ぐちゃぐちゃになって、黒い塊となって、胸につかえている。
(もう、全部、どうでもいいや……)
自暴自棄な気持ちのまま、空腹を満たすためだけにホテルの外に出た。
近くのコンビニで適当な弁当とお菓子を買い、繁華街からほど近い夜の路地を、とぼとぼと歩く。
その時だった。
「――よう、見つけたぜェ、橘毅の孫」
ねっとりとした、不快な声。
振り返ると、そこにいたのは昼間のチンピラとは明らかに格の違う、高級だが着られている感のあるスーツに身を包んだ男たちだった。
そして、その中心に立つ男の姿に、未華子は生理的な嫌悪感を覚えた。
不摂生でむくんだ顔。脂で光る髪。
血走った目で未華子を品定めするように舐めまわし、その唇が醜く歪んでいる。
彼こそが、墨影組・若頭の長谷部だった。
「お前みたいな由緒正しい血筋の女を嫁にもらえば、俺の格も上がるってワケだ。光栄に思えや」
血筋にすがることでしか自己を保てない、器の小ささが透けて見える。
「―――お断りします」
未華子は、恐怖に震えながらも、その男を、真っ直ぐに睨みつけた。
「それに、何か、大きな勘違いを、しているようですけど」
「……ああん?」
「私の祖父は、ヤクザじゃありません! 一度も、盃を交わしたことなんてない、ただの、一匹狼の
その、凛とした声。
長谷部の脂ぎった顔が、一瞬だけ怯んだように見えた。
「あなたみたいな、血筋と看板にすがるしか能のない三下とは、格が違うんです!」
叫ぶと同時に、未華子は踵を返して全力で走り出した。
黒いヒール靴がアスファルトを叩く音が、夜の神室町に虚しく響く。
だが、すぐに路地に追い込まれ、雑居ビルの非常階段を駆け上がるしか道はなかった。
錆びた鉄の扉を開け、屋上へ転がり込む。
しかし、そこは行き止まり。追いかけてきた長谷部たちが、ゆっくりと包囲網を狭めてくる。
「……へえ。威勢のいい女じゃねえか」
長谷部の目が、下卑た光を宿す。
「関係なくねぇんだよ! ヤクザだろうが、侠客だろうが、その血が利用できるってことに、変わりはねぇんだよ!」
長谷部は、もはや理屈の通じる相手ではなかった。
「大人しくしやがれ! 俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ!」
「誰が……あんたなんかと……!」
未華子は、最後の力を振り絞って、叫んだ。
「―――あんたみたいな男と結婚するくらいなら! 今、ここから、飛び降りて、死んだ方が100倍マシ!」
フェンス際に追い詰められ、もうダメだと思った、その時――。
「――なんかあったら、すぐに連絡してって言ったよね?」
静かだが、怒りを含んだ声。
弾かれたように顔を上げると、そこにはフェンスの向こう側、非常階段の手すりに軽々と立つ杉浦の姿があった。
彼は、手にしたスマートフォンを一瞥すると、呆れたようにため息をつく。
「……ほんと、ほっとけない人だな」
次の瞬間、杉浦の身体が宙を舞った。
未華子のすぐ前に立っていたチンピラの顔面を、着地の勢いを乗せた強烈な蹴りが捉える。
「部外者はすっこんでろ!!」
長谷部の怒声に、杉浦の纏う空気が変わった。
昼間の面倒くさそうな態度は消え失せ、冷たく研ぎ澄まされた闘志がその瞳に宿る。
「僕が部外者かどうかは……お前ら全員をここで眠らせた後に、ゆっくり考えてあげるよ」
それは、宣戦布告だった。
杉浦の身体が再び躍動する。
彼の本気は、昼間とは比較にすらならなかった。
カポエラをベースにした予測不能な蹴りの連撃が、嵐のようにチンピラたちを襲う。
数で勝るはずの男たちは、その人間離れした動きに翻弄され、悲鳴を上げる間もなく次々と意識を失っていく。
最後に残った長谷部が、恐怖に顔を引きつらせながらナイフを振り回す。
「ひぃっ! 来るな!」
「……終わりだよ」
冷徹な一言と共に、杉浦の回し蹴りがナイフを弾き飛ばし、返す脚で長谷部の顎を正確に打ち抜いた。
巨体が崩れ落ち、屋上には静寂だけが残った。
その時、長谷部が最後の力を振り絞り、倒れ込みながら隠し持っていたナイフで未華子の足元を狙った。
「……!」
未華子が動くよりも早く、杉浦は咄嗟に彼女の前に立って庇いながら、長谷部に最後の一撃を加えた。
鋭い刃が、彼の黒いジャンパーの脇腹をザッと切り裂いたが、彼の身体には傷一つついていない。
「……これ、お気に入りの服だったんだけどな」
裂けたジャンパーを見て悪態をつく杉浦。
その姿に、未華子は腰が抜けそうになりながらも、安堵の息を漏らした。
戦闘の終わりを見計らったかのように、屋上の扉が開き、海藤と東が息を切らして駆け込んできた。
屋上に転がる男たちの山を見て、二人は呆然とする。
「杉浦、お前……一人で全部やったのか!?」
「……まあね。ちょっとは運動になったかな」
平然とそう言ってのける杉浦に、海藤と東は呆れたように顔を見合わせる。
未華子は、震える足で杉浦に駆け寄った。
「杉浦さん……! ごめんなさい、私のせいで、服まで……」
「……謝んないでよ」
杉浦は、少し照れたように視線を逸らすと、ゆっくりと顔を上げた。
「あんたは何も、悪くないでしょ。……それに、さっきの啖呵、ちょっとだけ……かっこよかったよ」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑った。
その笑顔を見た瞬間、反発心で凍っていた未華子の心臓が、大きく、熱く脈打った。
この感情の正体に気づくのに、もう時間はかからなかった。
