第1話:最悪で、最高の一日
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2021年、春。
紫紺の空がどす黒く染まり始める夕刻。
東京・新宿神室町の無数のネオンサインが一斉に火を灯し、街が纏う昼間の虚飾を洗い流していく。
欲望と暴力が渦巻くこの街の、本当の時間が始まろうとしていた。
「…はぁ」
アスファルトに吐き出すため息は、今日だけで何度目になるだろうか。
橘未華子は、手にしたビジネスバッグの重みが、手応えの一切ない面接だった己の不甲斐なさとシンクロしているように感じていた。
今回も今回とて、結果を聞くまでもなく「不採用」だろう。
「元新聞記者」という矜持も、今の彼女にとっては荷物の重さを増すだけの重りだ。
人波をかき分けるように雑踏を進んでいた、その時。
背後から来た男と、不意に肩が強くぶつかった。
「あっ、すみませ――」
「いってぇな! てめぇ、どこ見て歩いてんだ、あぁ!?」
謝罪の言葉は、刺々しい怒声に遮られる。
見れば、いかにもチンピラ然とした男が、わざとらしくよろめきながら未華子を睨みつけていた。
その手には、中身の入ったコンビニのコーヒーカップが握られている。
「俺の新しいスーツが、お前のせいでコーヒーまみれだろうが。どうしてくれんだ、これ」
言いがかりだ。スーツにはシミ一つついていない。
だが、男たちの目は明らかに獲物を見つけた肉食獣のそれだった。
「……おいくらですか。クリーニング代ならお支払いします」
恐怖を押し殺し、未華子は毅然と言い放つ。
ここで怯えれば、相手の思う壺だ。しかし、男はせせら笑った。
「クリーニング代? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。このスーツがいくらするか知ってんのか? 慰謝料込みで30万。今すぐここで払えや」
逃げ場はない。
じり、と男たちが距離を詰めてきた、その時だった。
「おい、アンタら。お嬢さんが困ってんだろうが」
地を揺らすような低い声。
振り返ると、そこに立つ男の威圧感に思わず息を呑んだ。
左眉尻に走る古い切り傷、モミアゲから顔のラインに沿って繋がる顎髭。
赤とオレンジの派手な花柄シャツにグレーのスラックスという、いかにもなヤクザ風の出で立ちをした大男――海藤正治が、鋭い眼光でチンピラたちを射抜いていた。
その両脇に立つ青年たちも、実に対照的で目を引く。
一人は、ボサボサの黒髪に度の強そうなメガネ。
お世辞にもお洒落とは言えないパーカーを着た彼は、天才ハッカー、九十九誠一。
「やや、これぞ神室町の日常風景! テンプレ的イベント発生ですぞ!」
そしてもう一人。
灰色のフード付きパーカーの上に黒のジャンパーを羽織り、街の汚れた光の中でも際立つほどの明るい茶色の髪と、透けるような色白の肌を持つ美青年――杉浦文也。
彼は、やれやれ、とでも言うように、首を小さく、コキリと鳴らした。
「はぁ……めんどくさいことに巻き込まれちゃったな……」
心底面倒くさそうな、しかし、どこか、その状況を楽しんでいるかのような声。
未華子は、あまりに現実離れした美しい横顔と、その声の響きに、恐怖の只中にいるのも忘れ、ほんの一瞬だけ、心臓が、きゅう、と甘く鳴るのを感じていた。
海藤の一喝でチンピラたちは一瞬怯んだものの、数の利を頼りに凄んでみせる。
だが、次の瞬間、杉浦がまるで重力を無視するように軽やかに地を蹴り、チンピラの一人を打ちのめしていた。
美しい見た目からは想像もつかないアクロバティックな動きに、未華子は目を奪われる。
あっという間に片付いたチンピラたちを背に、一行は海藤の舎弟分だという東徹が営むゲームセンター「シャルル」へと避難することになった。
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