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短編

 喪失状態の島田清次郎が補修室から脱走した、と聞いた時は本当に吃驚した。数多の文豪(と書いて扱いにくい人間とルビがふってあるような人たち)を転生させてきたが、流石に脱走する人はいなかった。あの精神不安定が服着て歩いているような太宰先生ですらそんなことはしでかさなかった。いや三十分ほど前までここに寝ていたはずの島田清次郎がいないベッドを眺めながら呑気にそんなことを考えている場合ではない。
 しかし、捜索と言われてもどこから探せばいいのだろう。普段から賑わっている談話室や食堂にいたら既に彼は補修室のベッドに無理矢理押し込まれているはずであるし、結構な大所帯となったこの図書館において、人気のない場所と言われてもすぐには思いつかない。よほど巧妙に隠れているようだった。素直に感心してしまう。


 巧妙に隠れているようだ、なんて感心していたのに、蓋を開けてみれば彼は司書室にいただけだった。研究資料をまとめている最中に斎藤先生が血相を変えて「島田君が補修室からいなくなった!」と叫びながら飛び込んでくるものだから思わず資料を手に持ったまま司書室を飛び出してしまったのだ。捜索するにしてもまず資料を司書室に置いてからにしようと一旦戻ったら件の島田清次郎がいるのだ、一瞬我が目を疑った。まあそりゃ補修室から脱走した人間が司書室にいるだなんて誰も思わないから発見も遅れるわけだ。
 しかし一体どういうことなのだろう。少なくとも、斎藤先生が司書室に飛び込んでくる前まではいなかった。いたとしたら流石の私でも気が付くし、そもそも斎藤先生の目が節穴だったということにもなってしまう。私が急いで飛び出していった後、どこか別の場所にいた彼が司書室へ移動してきたと考えるのが妥当な線だ。そもそも何故司書室だったのかという問題が残るが、私が入ってきた時に彼もようやくここが司書室であることを認識したような表情をしたため、おそらくは錯乱していた彼が人気のない場所を求めて、たまたまそこに司書不在の司書室が存在していただけの話なのだろう。もしかしたら事実とは異なるかもしれないが、とりあえず自分の中で納得する理屈は立てられた。問題は島田清次郎だ。彼は現在ソファの影にうずくまっていて、こちらが近寄ればまるで寄るなと言わんばかりに睨んでくる。というか先ほど言われた。
「ええと、とりあえずソファに座ってください。床より座り心地はいいので」
 至極当たり前のことを言ってしまった。しかし移動する気配はない。どうしたものかと困って、結果隣に座ることにした。何を考えているんだこいつは、とでも言いたげな目を向けられるけれど、正直何も考えていない。なんとなく隣に座ってみたがこれからどうするか一切考えていないし、ただ別に貴方を害するようなことはしませんよ、と言いたいが今言ったところで信じてもらえるのだろうか。わからない。第一こういう時に、どう言葉をかければいいのだろう。ただ、心配する言葉も脱走したことを咎める言葉も、いくら言っても無駄なんだろうな、と思った。こういった時に同調の言葉を求める人間が、やれ自分は精神界の帝王だのやれ闇の力だのと言っているわけがない。黙っているのが一番いいのかもしれない。
 そういえば、と思ってポケットの中に手を突っ込む。書類をまとめる類いの仕事をしているとどうにも口寂しいから、と持っていた飴がまだあったはず。丁度二つ持っていたのは運が良かった。
「飴」
「……は?」
「舐めますか、ソーダ味か葡萄味が嫌いじゃなければですけど」
 果たしてこいつは何がしたいんだ、といった怪訝な顔をずっと向けられている気がする。飴をあげたいだけです。私の顔と、差し出された二つの飴を交互に見比べて、悪意などは感じないと判断されたのか葡萄味の方を手に取ってくれた。たまたま手に取ったのが葡萄味だっただけなのだろうけれど、そういえばこの人の髪の色も葡萄みたいだなと思って、すこし面白かった。
「これあれなんですよ、口のなかでしゅわしゅわするやつ」
 じっと飴の包装を見ている彼が話を聞いているかどうかはわからない。けれどもとりあえず「おいしいですよ」と付け加えて、また黙ることにした。
 これからどうしよう、本来ならば補修室に連れて行くのがいいのだろうけど、脱走したのも補修室が嫌なそれなりの理由が(なんとなく彼の来歴を見れば察しはつくが)あるのだろうと思う。でも喪失状態で放置しておくのはもっとよくない。補修って結局墨があればいいのだから、なんとか今回だけでも司書室でできたりしないだろうか。さすがに前例を作ってしまうのはいけないかなあ、専用の道具一式を持ってくるのも大変だし、なんて考えながらソーダ味の飴の包装を破く。というか、隣の彼は飴を食べないのだろうか。
「…………連れて行かないのか」
 主語の抜け落ちた発言だったけれど、言いたいことはわかる。補修室に連れて行かないのか、ということなのだろう。なるほど、いつ補修室に連れ戻されるのか怯えていたわけか。
「まあ、嫌なら仕方ないです。早く元気になってほしいので補修はしたいですけど」
 それきり彼は黙ってしまった。なにを考えているのか表情は読み取れない。けれど多分、変なことは考えていないはずだと思う。私がそう思いたいだけかもしれない。
 結局この後もう探していないのは司書室だけだとやってきた森先生や斎藤先生に事情を話せば、患者優先の彼らは快く補修道具を持ってきてくれた。融通がきかないように見えて、筋さえ通っていれば別にそうでもないのは彼らのいいところだと思う。きかない時は本当にきかないけれど。
 
 
「……どうしてここまでするんだ」
 幾分か落ち着いたらしいけれど、いつもの調子に戻るにはしばらくかかりそうな島田清次郎は、司書室のソファに寝かされている。そんな彼が天井を見ながらそうぽつりと呟いた。
「そうしたかったからです」
 どうして、と言われてもそうとしか答えられない。しかし、そう言えば相手は何がなんだかわけがわからない、とでも言いたげな顔でこちらを見るものだから困ってしまった。
 難しい人なのだと思う。なんで理解してくれないんだ、とか言うわりに「理解しているよ」なんて言えば「貴様ごときがこの俺を理解できるわけないだろう」等と言いそうな人だし、第一理解しようと、受け入れようとする態度は取れるかもしれないけれど、彼を完全に理解するなんてことは多分できない。だって私は島田清次郎ではないから。
「よくわからん凡人だ」
「凡人に天才の思考はわからないので、だったらもうやりたいようにやるしかないんですよ凡人は。そういうことです」
 面倒くさくなって適当に答えてしまった。いや適当とはいえ自分の思ったままを言っているはずなので間違ったことは言ってないはず。でもこれで機嫌を損ねられたら司書室からすらも逃走するかもしれない、と若干怯えつつ本人の様子を見れば、また「よくわからん」と言われた。
「わからなくてもいいんですよ、私は私で先生は先生だから。別の人間のことを全部わかる人はいないです」
 ややあって、「それはそうだな」と返ってきた。
 まあ、この調子だとあと一時間もすればまたいつもみたいにこの身体に秘められし闇の力がうんぬんかんぬんとか言い出すだろう。本調子に戻った時は、とりあえずまた何か別の飴でも勧めてみようと思った。
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