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短編

 なるほど彼が自身の一番有名な著作に書いていた通り、確かに良い場所である。気を抜くと目的以外の品物にも目移りして、時間が無限に溶けてしまいそうだ。無論彼が生きていた当初と品揃えも変わっていれば、そもそもここは東京に存在する本店であるため、あの小説の舞台とも違う。それでもその名称自体が彼にとっては思い入れがあるのか、本屋という場所自体が好ましい(仮にも文士であるのだから当然なのかもしれないが)のか、単に外出が嬉しいのか、図書館に居るよりその表情は晴れやかであるように見える。
 事の発端と言えば正直ありきたりなものである。少し研究に関連した本が入り用になって、まあ勤務先が勤務先であるので大丈夫だろうとタカを括っていたら、どうにも一冊ほど貸し出したきり行方不明だと言うのだから呆れてしまった。無論利用者側に、である。このまま待っていたとて本が返却される望みは薄いが、どうにも借りていった人物は既に引っ越してしまったらしくすぐにその所在がわかるわけでもないらしい。どうしたものかと悩んでいたところ、暇を持て余していたらしい梶井先生に「なら丸善へ行こう」と提案され、悔しいことにそれは理にかなった提案であったために否定することも出来ず、あれよあれよと言う間に今へ至るのであった。梶井先生については言い出したのは自分なのだから同行するのは当然だ、とかなんとか言い出したので同行して頂いているが、どう考えても彼本人が行きたかっただけである。外出届を出す必要はあるが、文士自体の外出は厳しい制限などされていないので、行きたかったのなら一人で勝手に行けば良いのにと思わなくもない。

 きらきらと輝く横顔を見て、紛れもなく青年男性の姿かたちであるにも関わらず、少年のようであると思ってしまうのも仕方のないことだと思う。それと同時に、これなら扱いに慣れている三好先生に同行を頼んだ方が良かったかもしれない、その方がまだ彼の手綱を握りきれる自信はあった、とわずかに後悔する自分もいた。さすがに突然走り出すなんてことはないだろうけれど、しっかり見ていなければはぐれてしまいそうではあった。本棚がいくつも乱立しているこの場所では、棚の影に隠れてしまうといくら梶井先生が(もちろん良い意味で)目立つ容姿をしていると言っても、すぐに見つけられる保証はない。
「ああ失敗した、青果店で檸檬を買ってくれば良かった」
「あれは店側に迷惑ですからやめてください、そもそも今の梶井先生は丸善に来てからも心が沈んだままだったりしてませんよね」
「それもそうだ、君に迷惑をかけるわけにはいかないからね」
 あはは、と笑う梶井先生にすこしだけ呆れた目線を向ける。あの作品は好きだし、教科書に載っているのも納得の名作であるとも思う。でも例の行動を実際にされるとなると話は別だ。あれは先生の空想に留めておいてほしい。そもそも私は店側に迷惑がかかるという話をしているのであって、私に迷惑がかかるという話はしていない。確かに私にも迷惑はかかるが店側の迷惑のほうが重要視されるべきだろう。
 まったくもって色々と自由な人だ。自由すぎて、なんと言えばいいのか、風船のようだなと思う。手を離すとどこかへ飛んでいってしまいそうな危うさがあって、時折不安になる。
「先生」
「うん?」
「その、どこにも行きませんよね」
 まったく脈絡のない話だったと思う。脈絡どころか具体性もない。それでも嫌な顔ひとつせず、それどころか私の考えていたことが分かったような表情をして、聞いたのは私からなので完全に私の自業自得なのに、私のことならなんでもお見通しとでも言いたげな表情がとても癪だった。
「どうだろうね。未来のことはいくらでも空想出来るけれど、確実にそうだとは言えないからなあ」
 それはそうだ。先生らしからぬ、いや、むしろ現実的な意見というのは先生らしいのかもしれない。空想というのは現実を見なくてはできないものだ。とにかく、その意見に反論することはできなかった。ここで感情にまかせて反論してしまったら、それは私が梶井先生から「どこにも行かない」といった類いの言葉を欲しがっていたことを証明してしまうような気がして、これもまた癪だった。
「でも、例え俺がどこかに行ってしまったとしても、君が連れ戻してくれるんだろう?」
「え」
「君はそういう人じゃないか」
 確信めいたその言葉に、私はどう反応していいか戸惑うしかできなかった。本当に、この人は私のことをなんでも見透かすのではないか。そう、きっと私は連れ戻す。特務司書だからとか、そういう責任の面もあるけれど、なにより私が転生させたのだから勝手にどこかへ行くのは許せないというまったくもって自分勝手な気持ちもあって、それを見透かされるのは恐ろしかった。
「で、君が必要とする本というのはどのあたりにあるんだい、今日の本題はそれだろう?」
 まるで何事もなかったかのように話をする先生に複雑な気持ちになりながらも、先生からの言葉に返答するのも恐ろしくはあったので少し安心するところもあった。願わくば、もう似たような話題は私から振らないし、向こうから振られなければいいと思いながら。
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