03. 動き出した禁断魔法

禅との会話を最後に正悟は溜まってしまった仕事の方へと意識を集中させていく。
そうでもしなければまた千草のことを思い出して溜め息が出てしまいそうになり、禅の心配事が増える気がしたため必死で溜め息を我慢しながら仕事を淡々と熟していくことにした。
そのお陰か小さい仕事をいくつも終わらせていくうちに時間が過ぎていき、気が付けば店を閉める時間まで時計の針が進んでいる。
それを横目に見た正悟は閉店作業を済ませ、その後は自宅へと帰宅するために荷物をまとめてそれを持つと、禅への挨拶は忘れずにしてから裏口へと向かう。

「じゃあ禅さん、先に帰るね」
「ああ、気を付けてお帰り」

正悟は店を出る際、それだけ会話をするといつも通りの帰路へ就く。
その後ろ姿を見て禅は今日の出来事を振り返り千草のことを思い出していくのだが、いつもの飄々とした雰囲気とは裏腹に少しだけ複雑な思いがある。
千草の気持ちは確かなもので、熱意も気に入った。
だが、このまま上手くやり過ごしていけるのだろうかと思うと心がざわつく。
禅の心配も当然のことで、大切な甥のことだ──今までの経緯もある。
正悟の周りで起こる事件を思えば些細なことでも敏感になってしまうのはおかしくもない。
しかし今は純粋に千草の存在を信じてみたいと思えるほど、今日話した内容は実りのある話でもあった。
それでも心のざわつきは落ち着かないもので、明日からの高校生活も無事に過ごせるようにと祈るだけしか出来ないのが心苦しいが、その祈りが少しでも届くように禅はとある人物に電話で話をしてみることにする。
いつもかけているため連絡先を調べずともすぐに繋がるほどその相手は身近に感じる人物で、相手からしてみても同じことであるのか禅が数回電話を鳴らしただけでそれはすぐに繋がった。

「あ、郁磨?」
「何か用か?」
「少し声が聴きたくなってね」
「そういう気色の悪い冗談は止めろ」
「おや、冷たい反応」

禅の冗談から始まる電話であったが、郁磨は面倒臭がることもなく対応をしてくれている。
二人はそれほどの間柄でもあり幼馴染というのも悪いものではない。
しかし今はそんな話をする時ではないと思ったのか禅も冗談は程々に、話を本題の方へと向かわせるように言葉を選ぶ。

「今日、千草くんが来たよ」
「……アイツか」
「郁磨には彼がお気に召さないようだ」
「別にそういうことではない」
「千草くんのこと、どう思う?」
「俺はお前の様に勘が鋭くはないからな。お前がそれほどアイツを気にしている理由が分からん」

千草と正悟の接触を認めていない郁磨からすれば、何故これほどまでに禅が千草を気にしているのか理由が分からなかった。
禅としてもその辺りはただの“勘”であるとしか言えず、明確な理由はない。
だが、少なくとも郁磨の勘よりかは禅の勘の方がよく当たる。
昔からそういう傾向があるのだが今は昔話に花を咲かせている場合でもないので、禅は話が逸れないように会話を続けていく。

「彼を気にする理由はいくつかあるけど、正悟の様子を見ているとつい彼を応援したくなる」
「天ヶ瀬の好奇心だけだったとしてもか?」
「それでもいいと思ってる」
「……は?」
「郁磨の心配も分かるよ。でも、好奇心だけなら既に何か起きているよ」
「後々天ヶ瀬が裏切ったらどうする」
「彼、裏切ると思うかい?」
「さぁな。だが、可能性はゼロではない」
「そうだね、でもそれは能力には関係のない人間関係で起きてくることだ」

正悟の抱える悩みの種である能力についても二人は共有しているということもあり、郁磨はそういった話に持っていこうとするが禅としてはそれとは関係のないところでの悩みが生まれることはあっても、能力で苦しむことはないのではないかと思っている。
当然確固たる自信があるわけではないが、二人の様子を見ていると信じたいと思う気持ちの方が勝るからであった。

「アイツには正悟の能力が及ばないということか?」
「少なくとも今のところ正悟からそういう報告は受けていない」
「言い出せないだけかもしれないぞ」
「それはない」
「やけに言い切るな。根拠は?」
「正悟が彼を受け入れ始めている。千草くんにとって正悟は大切な存在なんだろうけど、それ以上に正悟は彼を気にしているからね」
「あの子のことだ。心配させないようにしているという可能性だって──」
「郁磨も二人が話しているところを見たら納得できるかもね」

禅は含みを持たせた言葉で郁磨と話す。
今日来た千草から訳を聞けば、郁磨がどのように言っていたかというのは大体想像が付く。
禅から見ると郁磨は負けず嫌いなところもあり、少しではあるが子供っぽいと言われても仕方がない部分も持ち合わせている。
それ故に危うい気もしてはいるのだが二人のそばに居ながらにして見守るのは禅一人では不可能なので、郁磨の協力が必要不可欠だ。
郁磨としても正悟のことを守りたいというのはあるので、そうなれば千草の存在も関係してくるため無視する訳にはいかない。
だからこそ禅は二人を見守るようにと、改めて郁磨に頼むことにした。
しかし、それを察したのか郁磨の方から言葉を投げかけてきたので、禅の方から頼む必要もなくなる。

「つまり見守れ……そういうことだな」
「そう。だからよろしくね」
「ったく、人使いが荒い……」
「フフッ、頼りにしてるんだよ」
「今度奢れよ」
「はいはい。いつもの店だろう?」
「分かってるならそれでいい」

二人の会話内容がこのような形で続けていられるのは幼馴染という点が大きい。
他にも同胞、親友、腐れ縁、色々な言い方は出来るが二人の中では幼馴染という言い方が一番落ち着き、長く関係性を維持出来ている秘訣だとも思っている。
──そんな二人が通話をしている最中も、正悟は自宅へと向かうために人気のない道を歩いていた。
途中薄暗い道もあり、本来であれは明るい道を通るべきではあるが、正悟にとってはそれすらも避けたい状況でしかなく考え事をしながら仕方なさそうに自宅のマンションまでゆっくりと進んでいく。
道中でもやはり千草のことは何度か頭に過ぎり少しだけつらくなる時もあった。
そういった気持ちもあり明日からの高校生活も千草と出会う前のような、ある意味平穏で憂鬱なつまらない日常を変わらず過ごしたいと願いつつ、無理であろうなと正悟は自宅に着いた後も想像しながら寝る支度を整え、次の日を迎えることにして眠りに就く。
朝を迎えていつも通り高校まで足を運び昼を迎えるのだが、当然その日も千草は昼の時間に正悟の前へと現れ昼食を共にしていた。
他愛のない会話を続けながらそういった日が何日も続き互いに慣れ始めた頃、千草の方から質問を投げかけてきたので正悟は仕方なくそれに答えていく。
そもそも昼食中、会話を発展させていくのは千草で正悟はそれに渋々答えているだけである。
今日に至るまで様々なことを質問され答えてきたが、よく聞きたいことが尽きないなと思うと正悟は逆に感心してしまう。

「先輩っていつも弁当だよな」
「そうだな」
「誰が作ってんの?」
「……自分で作ってる」
「え、そうなの?先輩の親は?」
「今、一人暮らしだから……」
「そうなんだ」

正悟はこの手の話題が好きではない。
既に他界してしまった母親のことを思い出すのはつらいことで、父親のことを思い出すのは腹立たしさが際立つが故、どちらに転んでも感情が不安定になりかねないからだ。
──あんな思いをするのはもう沢山だ。
正悟の思いはそれだけ強く、あの日の夜を思い出すだけでつらさが増していく。
誰とも話すことのなかった正悟はその記憶をなるべく思い出さないようにしてきた。
だが、誰かと話すということは嫌な記憶も呼び起こさなければならない時があるということだ。
そんな感情を抱いていると自然に表情が暗くなる。
千草は持っていたパンを食べ終え空を眺めていたのだが、正悟をちらりと横目で見ると俯き気味に悲しそうにしているのが手に取るように分かった。

「先輩……?」
「──え、あぁ……なに?」
「いや、なんか悪いこと聞いちゃったかなって……」
「大丈夫……なんでもない」

正悟はそれ以上何も言えずにいた。
出会って大分経つとはいえ正悟はそれほど千草を信用してはおらず、警戒はしたままである。
勿論千草のことは興味もあるし気に入ってはいるのだろうが、それだけだ。
自分の大切な思い出も、つらい思い出も、全てを話すには値しない。
そう思っていた──だからこそ、次の質問で正悟は少しだけ感情的になるのを自分でも感じていた。

「そういえば、先輩ってなんでそんな格好してるの?」
「は?」
「いや、折角綺麗な顔立ちなのに前髪とかメガネとか勿体ないなって……」
「…………」
「先輩?」
「俺だって……本当は……」

千草の言葉は正悟の心に強く突き刺さる。
何故正悟が自分で自分を偽り貶め日々生きていかなければならないのか──それを千草は知らない。
それは仕方がないことだ。
だからとはいえ聞いてほしくはなかった。
自分を絡めとる茨のような呪いを正悟は振りほどく力がない。
深く突き刺さるその棘で、これ以上の傷を作らないようにすることしか出来なかった。
千草が不躾な訳では無い。
全ては自分の中に流れる能力ちからにより引き起こされる呪縛禁断魔法のせいなのだから。

「先輩……」
「──っ!?」

突然起きた出来事に正悟は驚いてしまう。
千草が正悟の肩を抱き自分の方へと寄せて全身で包み込むように抱きしめたからだ。
思わずされるがままだったのだが、正悟としては一番避けたい状態である。
自分に近付けば近付くほど千草にも茨の棘は深く突き刺していく。
自分にはそれほどの能力が宿っている。
正悟は無理にでも離れようとしたのだが、千草の様子を見て考えを変えた。
以前近付いた時もそうであった。
正悟に関心を持つ者が触れればそれこそ呪縛に絡め取られる可能性は増していく。
だが、この時の千草はどうだ──そういったことは無くいつも通りと言えばいつも通りの接し方だ。
以前にも感じたこの感覚に正悟は違和感を覚えると同時に普通・・ではない、そんな風に思いながらも正悟はしばらくそのままの体勢を取り千草の話を聞いてみることにした。

「オレ……先輩の悲しむ顔、見たくないんだ。だから、ごめん」
「……別にお前が悪い訳じゃない」
「だけどさ、先輩には笑っていて欲しいんだ」
「…………」
「いつでも力になるからさ。ううん、なりたいんだ。先輩の力に──」
「天ヶ瀬……」

千草は自覚を持たないまま正悟を抱き寄せている。
正悟も話を聞いているうちに抱かれていることを少しだけ忘れていた。
名前を呼んで千草の表情を確認しようとして顔を上げた時になって気付く──距離が近過ぎるということに。
それに気付いたのは正悟だけでなく、千草も同じである。
距離も問題ではあったのだが、心地の良い香りが鼻先を掠り視線の先には潤んだ唇があるその事実を認識してしまった千草は気持ちが高鳴るのを心で感じると焦って離れようとして肩と頭に置いていた手を放して慌てながらも誤解を解く。

「……っごめん!あ、あの、抱きしめるとかそんなつもりはなくて!」
「フフッ……大丈夫。気にしてないから」

それはそれで千草は複雑な思いでもあった。
意識されていない訳だから脈なしという気すらする。
少しずつ仲良くなれた気もしていたが、自分という人間を未だに認識してもらえていない感覚に陥ったからというのもあり千草は少し落ち込む。
そんな千草の傍らで正悟の心は揺れ動いていた──千草のことを考えると頭の中は混乱してくる。
千草を受け入れたい自分と拒絶しなければと思う自分、そういったものが交差して正悟はいつの間にか千草のことを考えない日が少なくなっていた。
互いにすれ違う形になっていながらも、それでも今のままで居心地が良いと正悟は思い少しだけ頬を赤らめていた。

「オレ、今日は先に戻るけど……また、来てもいい?」
「……勝手にどうぞ」
「ありがと、先輩!」

そう言って嬉しそうに去る千草を見ていると正悟の不安は増すばかりである。
千草が屋上から居なくなって扉が閉まる音がすると、正悟は大きめの溜め息を吐き、いつかは千草を拒絶しなければならない日が来るのではないかと思うと胸が痛む。
初めは自分の能力で他人・・を傷付けるのが怖くて、千草が傷付くのが怖かった。
しかし気付けば千草の心配をするのではなく正悟は自分の心が傷付かないことを優先してしまっていた。
──俺は巻き込みたくないのではなく自分が拒絶されるの怖いんだ。
それ故の溜め息、暗い表情、幸せに思えば思うほど、何かしらの事件が起こり千草に拒絶されるのが怖い。
正悟はつらくなる気持ちを抑えつつ、食べ終わった弁当箱を片手に教室へと戻ることにした。
するとその途中、聞きたくもない話を盗み聞く形で耳にしてしまう。

「天ヶ瀬くん、こっちの方に来たって言ってたよね?」
「うん、誰かが見たって言ってた」
「今日?」
「うーん、そこまでは聞いてないー」

千草の話をしている女子生徒が二人、屋上の階段に繋がる廊下の角で立ち話をしていたのだが屋上で隠れて昼食を取っている正悟としてはここで出ていく訳にもいかない。
女子生徒の会話内容は一先ず置くとしてもここで噂話を始められたら正悟としてはいい迷惑ではあるのだが、仕方がないので何とかやり過ごすため必死になって身を隠す。
初めは千草を探しているだけだと思っていたのだがどうもそれだけではないようで、女子生徒は楽しげに千草の話を続けていく。

「──天ヶ瀬くん、カッコイイよねー!」
「まぁ顔も良いし身長高いし、いつもクールだしね」
「あれで不良じゃなければな〜」
「けど、最近雰囲気変わったよね。入学式の時はやっぱり少し怖かったっていうか……」
「だよねー。でも今がカッコ良ければいいよね!」
「相変わらずミーハーなんだから……」
「彼女とかいるのかな?」
「多分いるんじゃない?」
「天ヶ瀬くんの彼女とか羨ましすぎ──と、予鈴なっちゃった」
「早く教室戻ろ!」

予鈴が鳴ったために正悟はそれ以上聞きたくもない会話を聞かずに済んだ。
千草の容姿を考えれば、最初から女子の好感を得ていることは分かっていた。
告白でもされた暁にはその女子との時間の方が楽しくなりきっと自分のことなど忘れてしまうだろう。
その方が千草にとってもどれほど良いか──だが、それら全てを認めてしまったら今の慣れ始めた生活が終わってしまうのではないかと思うと、正悟は中々そのことを認められずにいる。
認めずにいれば今のまま少しだけ楽しい時間が続いてくれるのではないか、現実から目を背ける事が出来るのではないか──正悟がそう思ってしまうのも無理はない。
千草の事を考えながら教室まで戻ると正悟は自分の席へと座り授業の準備をしていくのだが、その時でさえも呪われた自身の運命に腹立たしさを感じていた。
こんな自分ではなく普通・・の人間であればいい関係が築けたのではないか、と──。
しかし、それを考えるのは今ではない。
本鈴が鳴り響き、教師が入ってくることで授業が始まるので正悟はそれを真面目に受けることにした。
午後の授業が全て終わり放課後のホームルームが終わると同時に帰り支度をしながら人の出入りが緩やかになるまで教室に留まっていると段々と人が居なくなり帰宅しやすくなる。
今日は委員会の仕事も無いので寄り道することなく禅の店へと向かうことにして校舎を出ると、店までの道のりを丁度半分くらい歩いたところだろうか──そこには小さな公園があり見慣れた人物が立っていた。
それほど大きな動作ではなく胸の辺りで小さく手を振り正悟を呼び寄せるが、正悟は複雑な思いを抱えたままそれを無視する。

「ちょ、先輩!」

無視された方は、流石に寂しかったのか追いかけるように正悟の後ろを付いてくる。
そのまま五分ほど歩いたのではないだろうか、景色が変わり店が近付き始めた頃に正悟は溜め息を吐いて振り返り少しだけ会話をするつもりで後ろに居る千草へと声をかけた。
千草もそれまでずっと黙って付いて来ていたので、正悟が急に立ち止まり振り返れば吃驚して身体を少しだけ仰け反って反応するというのも仕方ないことである。

「……何の用?」
「えっと、先輩と話したいなって思って──」
「なら、手短にして。俺、仕事あるから」
「あのさ……先輩はオレが来ると迷惑?」
「迷惑って訳じゃないけど……」
「なら、付いて行っていい?」
「…………変なやつ」

千草の問いに正悟ははっきりと答えられなかった。
答えたくないというのもあり、つい素っ気ない対応をしてしまう。
本音を言えば嬉しい・・・という感情が正しいのだろうが、千草には自分以外にも遊ぶ人間は居るだろうし自分に割く時間など本当はないのではと考えると正悟は胸が痛くなる。
優先されるのは嬉しい。
だけど失う時が来ればそれだけつらすぎる思いも待っている。
そんな思いをするのはもう嫌だ──正悟はだからこそ千草から距離を取った方がいいのではないかと考えていた。
とはいえ現実にそれを実行するのは難しいところで、相手がいる話だからこそ千草が諦めない限りこの距離感は続く。
そう思うと正悟は溜め息しか出なかった。
溜め息と共に変なやつ・・・・と、最後にそれだけ呟くと正悟は再び歩き出す。
千草はそれに付いていく。
帰れ・・来るな・・・と言われなかったのでつまりは付いて行って良いのだろうと勝手な解釈をしたのだが、実際千草が付いて行っても正悟が怒ることは特になかった。
それくらいならば千草も正悟のことが分かってきたようである。
しかし正悟と出会ってからよく変なやつ・・・・という言葉を耳にすることが増えた気がしてならない。
もちろん正悟に言われる回数が、ということではあるのだが千草自身考えてしまう。
そんなに変なことをしているのか、と──。
千草は考え事をしながらも正悟の後ろを歩いて行くのだがしばらくすると店が視界に入るので、正悟はもう一度振り向き千草に確認する。

「お前、本当に付いてくるんだな……」
「うん。先輩ともっと一緒に居たいし」

随分と素直に言うもんだ──正悟はそんな風に受け取り千草の受け答えに恥じらいなどはないのだろうかと思ったのだが当の本人は特に気にしていないようであった。
仕方なく正悟は再び溜め息を吐きながら店へ入ることにして、それを追う形で千草は店の中へと入っていく。
千草は正悟を追いかけながらも思う。
こんな風に追いかけるのではなくいつかは隣に並んで歩けるように、と願いながら入店すると禅が優しく微笑んで出迎えてくれる。

「おや、いらっしゃい」
「こんにちは」

禅は視線に映る千草へ挨拶をすると、正悟は再度軽く溜め息を吐き仕事をする準備を始めるために事務室へと向かう。
しばらくすると正悟が出てくるのでそれからは雑談を交えつつ仕事をしていく。
仕事内容を考えると間違いなく非効率ではある。
しかし禅が許している以上、正悟がなにか言える状態ではなかった。
それから数時間が経過した頃、二人の様子を見ていた禅が前々から聞いてみたいことがあったのか、まずは千草へと質問を投げかけてみる。

「千草くん、正悟と居るのは楽しい?」
「はい!」

あまりにも即答であったため禅よりも先に正悟が驚き、事務仕事をしていたその机に頭でもぶつけるのではないかと思うほどの勢いで体勢を崩してしまう。
それを二人が揃って見てくるのだから正悟としてもその会話に混ざるしかなくなり、表情としては訝しげと言ったらいいのか、そこまではいかなくとも不可思議に思うところではあった。
禅がいきなりそのようなことを千草に聞くのだから何かあるのかと思い、正悟は恐る恐る禅に聞いてみることにする。

「禅さん……急に、なに?」
「何となくだよ」

返ってきた言葉がこれであった。
何となく・・・・──それは凄く使い勝手がよく答える際には万能な言葉であるのだろうが、答えを求めている者からすると迷惑・・という言葉が当て嵌るのではないかと思う。
答えた側はそれを答えとするが、質問した側は当然満足のいく回答になどなりはしないのだから困る・・という意味での迷惑・・ということであった。
正悟も例外ではなく禅の返事を聞いてどんな言葉で会話を繋げればいいか分からなかったので少し間が空いたがそれでも正悟は返事に困っていた。
ようやく何か言葉が出るかと思ったがそれまでに数秒を要し、いざ言葉を発しようとすると禅に先を越されて逆に質問される側に回ることになる。

「正悟は千草くんと居るの、楽しいかい?」
「俺は別に……楽しくない、とは言わないけど──」

正悟は千草の顔を見ながら少し恥じらった表情で受け答えをしていて、それは肯定でもなく否定でもないものではあるが、しかし禅はそれを見ただけで満足したようであった。
正悟がこれほどまでに気に入り、気にかけている千草に禅は賭けてみたい・・・・・・という気持ちを抱く。
千草の想いを受け止めるか拒絶するか、いずれにしても正悟の気持ち一つではあるが、何かあった時、そして何か相談された時、禅はそれを承諾すると決めこの時はこの質問で終わりとする。
それから数十分が経ち、千草が帰宅すると言い出したので二人は見送ることにしたのだが、正悟はどこか安心感と不安感で心が満たされ今にも溢れ出そうなほど気持ちに余裕がなかった。
これから先もこんな感情を抱きながら付き合って行くのかと思うと少しだけ疲れたという気持ちにもなっている。
単刀直入に言えば慕ってくれるのは嬉しいという感情でしかないが、その分正悟は不安も抱えなければならない。
常々考える拒絶・・という言葉──それが正悟に課せられた最大の難関とも言える呪縛の言葉。
その試練を乗り越える鍵を握っているのが天ヶ瀬千草という人間であろう。
そして正悟にばかり試練が立ち塞がる訳では無い──正悟に関わろうとするならば、当然関わる方にも試練が課せられても致し方ないということでもある。
第一の試練をどちらが乗り越えることが出来るのか、どちらも乗り越えることが叶わぬのか、そればかりはその時にならなければ分からないことではあるが、願わくば二人で試練を乗り越えて欲しい、そう思う者が二人のそばには存在する。

二人の物語ストーリーはまだ始まったばかりなのだから──。
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