短編
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紅をひく
「悪いな、名前。」
『気にしないで。留、そのまま動かないで。』
そう小さくやり取りを交わす。
ここは恋仲である六年は組、食満留三郎の部屋。現在わたしは、彼の女装の補習授業に向けた化粧に付き合っていた。
事の始まりは先ほどのこと。長屋の廊下を通りかかった際、これから補習へ向かうのであろう、どこか不格好で化粧の濃い留三郎の姿を見かけてしまったのだ。忍びとしての変装とはいえ、あまりの出来栄えに見過ごすことができず、思わず引き止めて化粧直しを提案したというのが事の顛末である。
『留、目線下向けて。』
「女はいつもこんな大変な事をしているんだな。」
『慣れればどうって事ないわ。』
そう言いながら筆を走らせる名前の目は、自然と伏せがちになっている。
女装の化粧直しとはいえ、互いの吐息が届くほどの至近距離だ。ふわりと香る名前の髪や肌からの香油の匂いに、俺の胸は嫌でも高鳴ってしまう。
つい先刻まで濃すぎたはずの不格好な化粧が、名前の手によって白粉、頬紅、口紅と手際のいい手順でみるみる綺麗に整えられていく。
『……できた。どう?』
「………これ、本当に俺か?」
『留三郎は白粉とかを付けすぎなの。化粧はただ乗せればいいって訳じゃないのよ。』
鏡に映る自身の姿を見て、留三郎は思わず息を呑む。
白粉が丁寧に叩かれた頬から首筋にかけては、元々の浅黒い肌がまるで雲のように淡く包み込まれ消えていた。濃すぎた化粧をすべて落とすのではなく、元のベースを上手い具合に調整して仕上げられた姿は薄化粧でありながらも、清楚でどこか上品な佇まいを見せている。
『あっ、忘れてた。』
「お、何だ。』
『これよ。』
そう言った直後、名前に口吸いされる。
ほんのわずかに触れ合うだけの口付け。だが、まったくの油断を突かれた俺の肩はびくりと跳ね上がった。
唇がそっと離れると思わず名前の顔を凝視してしまう。整った眉に、かさりと揺れる長い睫毛。今まで近すぎたが故に気づかずにいた彼女の艶やかさが、距離がなくなったことで一層鮮明に突き刺さってくる。
「お、お前……っ。」
『うん、良い色合いになった。』
言葉を詰まらせる俺の唇を名前は指先で軽く押さえ、紅の乗り具合を整える。
口吸いによって名前の唇にも紅が移り、ほのかに浅紅色へ染まっていた。鼻腔をくすぐる優美な香油の匂いと、目の前にあるどこか魅惑的な名前の姿に、俺のなかの「男」が強く刺激されていく。
『ふふっ、留三郎可愛い。』
「からかうな!」
留三郎の頬がカッと朱色に染まる。その分かりやすく照れる様子に、胸の内でちょっぴり加虐心がくすぐられる。
『留子さんは、女の子に口吸いされて照れるのね。』
「……それは、お前だからだろ。」
『ふふっ、ここも乱れてるわ。』
クスクスと笑いながら名前がさらに近づき、一連のやり取りで乱れてしまった俺の胸元にそっと手を伸ばす。
手際よく着物を整えてくれるその手つきはどこか甲斐甲斐しく、まるで長年連れ添った夫婦のようだなどという思いが頭をよぎり、また余計に胸が高鳴ってしまう。
『そんなに見ないでよ。穴が開いちゃうわ。』
「すまない。でも、なんかいいな。」
『化粧をするのがいいの?』
「違う!」
『冗談よ。……できたわ。補習、頑張ってね。』
「待て。名前。」
『えっ、んっ……。』
役割を終えて自室を出ようと踵を返しかけた、その時だった。
低く引き止めるような留三郎の声に驚いて振り返った瞬間、強い力でぐっと肩を引き寄せられる。不意を突かれて体勢を崩した私の唇を、今度は留三郎から深く覆い隠すように、強引で愛おしい口吸いが落とされたのだった。
「さっきのお返しだ。」
『もう!……紅がよれるわ。』
そう言うと、留三郎はどこか満足そうに照れた笑みを浮かべた。
白粉で整えた色白の肌に、赤みがすうっと広がっていくのがはっきりと分かる。その朱色は頬だけでなく、耳の先まで綺麗に染め上げていた。
先に自分から仕掛けたくせに、いざ返しをされると急に恥ずかしくなってしまう。わたしは照れくささを誤魔化すように視線をそらしながら、そっと指先を伸ばして留三郎の口元に付いた紅を丁寧に拭った。
ふいに触れ合う指先の熱と、少しだけ重なる視線。その仕草に留三郎の瞳がどこか熱を帯びて艶めかしく揺れたような気がした。
「これ以上は、また今度な。」
意地悪そうに、けれど少しだけ名残惜しそうに微笑む留三郎の言葉に胸が甘く締めつけられる。
『……待ってるわね。行ってらっしゃい。』
そう答えて見送ると、彼はどこか気恥ずかしそうに照れくさそうに笑い、女装の着物の裾を少し気にして直しながら補習の場へと歩き出した。
遠ざかっていくその背中を見つめながら、そっと自分の唇に指先で触れる。
触れ合った場所に残る熱と、彼の残した紅の微かな余韻。
「……早く戻ってこないかしら。」
ぽつりと溢れた呟きは、秋の風に溶けて廊下の奥へと消えていった。
「悪いな、名前。」
『気にしないで。留、そのまま動かないで。』
そう小さくやり取りを交わす。
ここは恋仲である六年は組、食満留三郎の部屋。現在わたしは、彼の女装の補習授業に向けた化粧に付き合っていた。
事の始まりは先ほどのこと。長屋の廊下を通りかかった際、これから補習へ向かうのであろう、どこか不格好で化粧の濃い留三郎の姿を見かけてしまったのだ。忍びとしての変装とはいえ、あまりの出来栄えに見過ごすことができず、思わず引き止めて化粧直しを提案したというのが事の顛末である。
『留、目線下向けて。』
「女はいつもこんな大変な事をしているんだな。」
『慣れればどうって事ないわ。』
そう言いながら筆を走らせる名前の目は、自然と伏せがちになっている。
女装の化粧直しとはいえ、互いの吐息が届くほどの至近距離だ。ふわりと香る名前の髪や肌からの香油の匂いに、俺の胸は嫌でも高鳴ってしまう。
つい先刻まで濃すぎたはずの不格好な化粧が、名前の手によって白粉、頬紅、口紅と手際のいい手順でみるみる綺麗に整えられていく。
『……できた。どう?』
「………これ、本当に俺か?」
『留三郎は白粉とかを付けすぎなの。化粧はただ乗せればいいって訳じゃないのよ。』
鏡に映る自身の姿を見て、留三郎は思わず息を呑む。
白粉が丁寧に叩かれた頬から首筋にかけては、元々の浅黒い肌がまるで雲のように淡く包み込まれ消えていた。濃すぎた化粧をすべて落とすのではなく、元のベースを上手い具合に調整して仕上げられた姿は薄化粧でありながらも、清楚でどこか上品な佇まいを見せている。
『あっ、忘れてた。』
「お、何だ。』
『これよ。』
そう言った直後、名前に口吸いされる。
ほんのわずかに触れ合うだけの口付け。だが、まったくの油断を突かれた俺の肩はびくりと跳ね上がった。
唇がそっと離れると思わず名前の顔を凝視してしまう。整った眉に、かさりと揺れる長い睫毛。今まで近すぎたが故に気づかずにいた彼女の艶やかさが、距離がなくなったことで一層鮮明に突き刺さってくる。
「お、お前……っ。」
『うん、良い色合いになった。』
言葉を詰まらせる俺の唇を名前は指先で軽く押さえ、紅の乗り具合を整える。
口吸いによって名前の唇にも紅が移り、ほのかに浅紅色へ染まっていた。鼻腔をくすぐる優美な香油の匂いと、目の前にあるどこか魅惑的な名前の姿に、俺のなかの「男」が強く刺激されていく。
『ふふっ、留三郎可愛い。』
「からかうな!」
留三郎の頬がカッと朱色に染まる。その分かりやすく照れる様子に、胸の内でちょっぴり加虐心がくすぐられる。
『留子さんは、女の子に口吸いされて照れるのね。』
「……それは、お前だからだろ。」
『ふふっ、ここも乱れてるわ。』
クスクスと笑いながら名前がさらに近づき、一連のやり取りで乱れてしまった俺の胸元にそっと手を伸ばす。
手際よく着物を整えてくれるその手つきはどこか甲斐甲斐しく、まるで長年連れ添った夫婦のようだなどという思いが頭をよぎり、また余計に胸が高鳴ってしまう。
『そんなに見ないでよ。穴が開いちゃうわ。』
「すまない。でも、なんかいいな。」
『化粧をするのがいいの?』
「違う!」
『冗談よ。……できたわ。補習、頑張ってね。』
「待て。名前。」
『えっ、んっ……。』
役割を終えて自室を出ようと踵を返しかけた、その時だった。
低く引き止めるような留三郎の声に驚いて振り返った瞬間、強い力でぐっと肩を引き寄せられる。不意を突かれて体勢を崩した私の唇を、今度は留三郎から深く覆い隠すように、強引で愛おしい口吸いが落とされたのだった。
「さっきのお返しだ。」
『もう!……紅がよれるわ。』
そう言うと、留三郎はどこか満足そうに照れた笑みを浮かべた。
白粉で整えた色白の肌に、赤みがすうっと広がっていくのがはっきりと分かる。その朱色は頬だけでなく、耳の先まで綺麗に染め上げていた。
先に自分から仕掛けたくせに、いざ返しをされると急に恥ずかしくなってしまう。わたしは照れくささを誤魔化すように視線をそらしながら、そっと指先を伸ばして留三郎の口元に付いた紅を丁寧に拭った。
ふいに触れ合う指先の熱と、少しだけ重なる視線。その仕草に留三郎の瞳がどこか熱を帯びて艶めかしく揺れたような気がした。
「これ以上は、また今度な。」
意地悪そうに、けれど少しだけ名残惜しそうに微笑む留三郎の言葉に胸が甘く締めつけられる。
『……待ってるわね。行ってらっしゃい。』
そう答えて見送ると、彼はどこか気恥ずかしそうに照れくさそうに笑い、女装の着物の裾を少し気にして直しながら補習の場へと歩き出した。
遠ざかっていくその背中を見つめながら、そっと自分の唇に指先で触れる。
触れ合った場所に残る熱と、彼の残した紅の微かな余韻。
「……早く戻ってこないかしら。」
ぽつりと溢れた呟きは、秋の風に溶けて廊下の奥へと消えていった。