長編
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完遂
「えぇい! なぜ賊一匹ごときに手こずっておる! 早く捕らえんか!」
「そ、それが……奴の動きがあまりに速く、我々の手には負えませぬ!」
「言い訳など聞きとうない! 警護を増やせ、何としても引っ捕らえるのだ!」
「ははっ!」
廊下の先から響く怒号と、慌ただしく駆け交う武士たちの足音が夜の城内に不気味に反響していた。
重々しい畳の上に座した男は手元の杯を静かに傾けながら、狼狽える配下たちを冷ややかな目で見下ろす。
城内に侵入した手練れの忍び――間違いない、このあいだのくのいちだ。
(……フン、騒ぎ立ておって。雑魚どもがどれだけ束になったところで、あの女を止められるはずもなかろう)
だが、警備がどれほど破られようと構いはしなかった。
過去の血煙と憎悪に身を焼き、危険を顧みずに突っ込んでくるあの女の狙いが誰なのかは、言わずとも分かっている。
目的は、ただ一人。この儂の首だ。
「……来い。逃げも隠れもせん。長年の宿怨、ここで引導を渡してやるわ。」
男は薄汚い笑みを浮かべ、腰の刀の鍔を親指で静かに押し上げた。
次から次へと城内の兵が湧き出てくる。
ギラついた刀や長槍を構えて襲い掛かってくるが、この程度の雑兵など恐るるに足りない。
刃を交える一瞬の間に、相手の目を観察する。恐怖に引きつる目、必死に奮闘する目、焦りで泳ぐ目――それぞれの動揺から、兵たちの踏み込みと距離感を正確に測り分ける。
力強く踏み込み、床板を鳴らして先頭の兵との間合いを一気に詰めた。
わざと大きく歪な軌道で刀を振り下ろし、相手の意識を刃先へ強く惹きつける。狙い通り、男の視線が刀の軌道に釣られたその刹那、空いていた左手で苦無を逆手に握り直し、鎧の隙間――無防備な脇腹を深く切り裂いた。
「ぐわぁっ……!」
「お、臆するな! 包囲して討ち取れ!」
『……悪いけれど、お前たちごときに倒されるわけにはいかないの。』
冷徹に言い放ち、刀身に付着した血をバサリと一振りに切り払う。周囲を囲む兵たちから、ひっと引きつった悲鳴が漏れ出た。
だが、敵の数は依然として多い。
このペースで雑兵の相手を続けていれば体力を削られ、肝心の仇に逃げられてしまうかもしれない。焦燥感が胸の奥でじわりと首をもたげる。
(――落ち着け。焦ってしまっては駄目だ)
呼吸を深く整え、刃を構え直す。
かつての自分なら仇への憎悪に任せて闇雲に切り結び、無駄な血を流していただろう。だが、いまの私にはあの日交わした約束がある。必ず生きて、あの学園へ帰らなければならないのだ。
冷徹に正確に、そして最短で駆け抜け、再び目の前の敵陣へと疾風のごとく踏み込んだ。
「がっ……!?」
「ぐはっ!」
「な、なんだ……!?」
「賊がもう一匹――がはっ!!」
再び刃を構え直し、目の前の兵へ踏み込もうとした瞬間、前列にいた敵たちが悲鳴を上げて次々と倒れ伏した。
背後からの急襲に敵陣が激しく乱れていく。自分以外の賊とは、この城の兵たちもついていない……そう思いながら目を凝らしたその視線の先で、重厚な鉄の塊が宙を舞い、敵の兜を砕いた。
――見覚えがありすぎる、あの武器。
その輪郭を目に捉えた瞬間、私の硬く結ばれていた口元がふっと緩んだ。
あっという間に周囲の兵を薙ぎ払い、水飛沫のような血煙の中から一人の男が駆け寄ってくる。口布をはずしたその顔は、他でもない食満留三郎だった。
「名前、無事か!」
『留三郎……なぜ、ここに?』
「学園長から聞いたんだ。お前がここへ向かったと。」
『……あのおじいさん、野暮な真似をしてくれるのね。』
「言っておくが、お前を一人で行かせる気なんて最初からなかったからな。」
『……私を、止めに来たの?』
まっすぐ視線をぶつけると、留三郎は力強く首を横に振った。
「いいや。それはしない」
『……?』
予期せぬ答えに一瞬だけ目を丸くし――次の瞬間、おかしさがこみ上げて思わず「ははっ!」と笑い声を上げてしまった。
てっきり「学園へ戻れ」と力尽くで引き止められるものだと思っていた。けれど彼は、私の覚悟を何一つ否定しようとはしなかったのだ。
「何がおかしい!」
『ふふ、何でもないわ。』
奥の廊下からは事態を察知した城兵たちのドタバタとした足音と怒号が再び近づいてくる。
だが、もう焦りも孤独もどこにもなかった。背中を預けられる男が、隣に立っているのだから。
『……もう引き返せないわよ。本当にいいの?』
「勿論だ。ここでお前を一人にするつもりはない。」
『……頼りにするわ。』
「名前……」
『なに?……んっ』
言葉の途中で不意に名を呼ばれ、留三郎の方へと顔を向けた瞬間――視界が眩み、熱い唇が重なった。
足元には気絶した敵兵たちが転がり、奥からは刻一刻と増援の足音が迫る殺伐とした戦場。そんな絶体絶命の真っ只中だというのに、あまりにも場違いで、あまりにも愛おしい熱が唇から体内へと伝わってくる。
言葉をどれだけ交わすよりも雄弁に、互いの「生きて共に帰る」という猛烈な覚悟が、その触れ合い一つで全身に駆け巡っていた。
名残惜しそうに離れた唇の隙間から、留三郎の灼熱のような視線がまっすぐに射抜いてくる。
「絶対に死ぬな。……生きて、学園へ戻るぞ。」
『……死なないわ。約束だもの。』
明かりの消えた暗がりの室内で、私は再び口布を引き上げ、気配が迫る廊下の奥へと向き直った。それとほぼ同時に、待ち構えていた城兵たちが刃を光らせて怒涛のごとく雪崩込んでくる。
『とりあえず、目の前のこの雑魚どもを片付けてからね。』
「背後は任せろ!」
『ふふ、前は任せて。』
ぴたりと背中を合わせると、彼の厚い背中の体温と、力強い鼓動が直に伝わってきた。
なんて心強いのだろう。そして……この優しく熱い人を、こんな汚い場所で死なせるわけには絶対にいかない。
武器を握り直す手になお一層の力を込め、私たちは息を合わせて猛然と押し寄せる敵陣へ躍り出た。
「奴は討ち取ったのか!? 報告はどうなった!!」
「は、はい! まだ……まだ配下からの報せが届いておらず……っ」
「なっ……ふざけるな、この役立たずどもがぁぁっ!!」
激昂した男が投げつけた盃が宙を舞い、乾いた音を立てて床を転がる。怒り狂う姿に、傍らに控えていた側近の兵たちが恐怖で肩をすくませていた。
——己の身を守るためだけに叫び暴れる、あまりにも肝の小さい、愚かな男。
かつて親の命を奪った仇の落ちぶれた姿に、失望すら覚える。武人としての誇りも矜持もとうにドブに捨て、私利私欲のために恨みを買い続けてきたのだろう。無数の兵で幾重にも身を固めている滑稽な様子を見れば、その臆病さは一目瞭然だった。
怒号が響く部屋の天井裏から、一筋の影のように物音ひとつ立てず舞い降りる。
男を囲んでいた最後の護衛たちの背後へ回り込むと同時に、刃の背で首筋を正確に打ち抜いた。
ドサリ、ドサリと兵たちが倒れていく中、人障壁を失った中央には、あの男が腰を抜かしてへたり込んでいた。
暗がりからゆっくりと歩み寄り、冷ややかな瞳で見下ろす。
『……こんばんは。』
「ひっ……!? き、貴様……っ」
『……そう怯えなくてもいいでしょう。久しぶり、というわけでもないのだから。』
「ひ、ひぃぃっ! 出た、出たぞ! 誰か、誰か奴を討ち取れぇぇ!!」
必死に叫ぶ男に対し、私は静かに首を横に振った。
『無駄よ。兵なら……もう一人も残っていないわ。』
「た、頼む! 金ならいくらでもやる! 命だけは……儂を助けてくれぇっ!」
かつて親を奪った恐ろしい掠奪者はどこにもいない。そこにいたのは、尻餅をついたまま必死に後退りし、情なく命乞いを繰り返すだけの惨めな老醜だった。
「な、頼む……! この通りだ!!」
『……貴様は今まで、目の前で命乞いをしてきた人々を見逃してやったことがあるか?』
「あっ、あ……っ」
『……大勢、殺してきたでしょう?』
「っあ、ああぁぁっ……!」
『だから……救えるはずがないのよ。』
「た、頼むぅぅっ! 金でも領地でも何でもやる! 何でも言うことを聞くからぁっ!!」
哀れな鳴き声のような命乞いに、私は静かに眉を顰めた。怒りを超えた冷酷な殺意が、胸の中を鋭く吹き抜けていく。
『……私が望むものはただ一つ。貴様の死だ。』
「そ、そんな……っ!」
絶望に顔を歪ませながら、男の手元が微かに動く。倒れた配下の握っていた刀へ必死に手を伸ばす企みが、視界の隅にはっきりと映り込んでいた。ほんのわずかに男の瞳に宿った醜い悪あがきの余裕――あまりにも丸分かりで、呆れすら覚える。
「死ねぇぇぇっ!!」
拾い上げた刀を振りかざし、狂ったように斬りかかってくる男。
だが、その一撃を冷徹に刃で受け止めると、そのまま力任せに横一文字へと一閃し、刀ごと力任せに跳ね飛ばした。
――キィンッ! ガシィンッ!!
強烈な衝撃に耐えかねて男の手から離れた刀は、空気を切り裂く音を立てて近くのぶっとい柱深くへと突き刺さった。
「ヒッ……!? あ、ガはっ……っ!」
反動で後ろへ転げ倒れた男の呼吸は激しく乱れ、その顔は先ほどよりもなお一層、死人のように青白く染まっていた。
『……貴様がどこまでも非情な下衆で、本当に良かったわ』
「頼むぅぅっ! 命だけは! 命だけは助けてくれぇっ!!」
地べたを這いずり、涙と鼻水に顔を汚して命乞いをする男。
そのあまりにも情けない姿を見下ろしながら、私は冷たい微笑みを口元に浮かべ、静かにけれど迷いなく刀を天高く振り上げた。
『――御命、頂戴する。』
宣告と同時に、刃が疾風となって振り下ろされる。
――一瞬の静寂。
空間の時が止まったかのような錯覚の後、遅れて空気が激しく流動し、鋭い刃風の音が室内へ遅れて届いた。
一切の猶予も有無も言わせぬ一閃が、男の首を呆気なく跳ね飛ばしていた。
ドサリ、と音を立てて床に転がり、ゴロゴロと濡れた畳を転がっていく生首。
『……父様と母様に、あの世で死ぬほど詫びてくるといい。』
命の灯火が完全に消え去ったかつての宿敵を見下ろし、私は静かに刃に付着した血を拭うと、最期の言葉を冷ややかに投げかけた。
「えぇい! なぜ賊一匹ごときに手こずっておる! 早く捕らえんか!」
「そ、それが……奴の動きがあまりに速く、我々の手には負えませぬ!」
「言い訳など聞きとうない! 警護を増やせ、何としても引っ捕らえるのだ!」
「ははっ!」
廊下の先から響く怒号と、慌ただしく駆け交う武士たちの足音が夜の城内に不気味に反響していた。
重々しい畳の上に座した男は手元の杯を静かに傾けながら、狼狽える配下たちを冷ややかな目で見下ろす。
城内に侵入した手練れの忍び――間違いない、このあいだのくのいちだ。
(……フン、騒ぎ立ておって。雑魚どもがどれだけ束になったところで、あの女を止められるはずもなかろう)
だが、警備がどれほど破られようと構いはしなかった。
過去の血煙と憎悪に身を焼き、危険を顧みずに突っ込んでくるあの女の狙いが誰なのかは、言わずとも分かっている。
目的は、ただ一人。この儂の首だ。
「……来い。逃げも隠れもせん。長年の宿怨、ここで引導を渡してやるわ。」
男は薄汚い笑みを浮かべ、腰の刀の鍔を親指で静かに押し上げた。
次から次へと城内の兵が湧き出てくる。
ギラついた刀や長槍を構えて襲い掛かってくるが、この程度の雑兵など恐るるに足りない。
刃を交える一瞬の間に、相手の目を観察する。恐怖に引きつる目、必死に奮闘する目、焦りで泳ぐ目――それぞれの動揺から、兵たちの踏み込みと距離感を正確に測り分ける。
力強く踏み込み、床板を鳴らして先頭の兵との間合いを一気に詰めた。
わざと大きく歪な軌道で刀を振り下ろし、相手の意識を刃先へ強く惹きつける。狙い通り、男の視線が刀の軌道に釣られたその刹那、空いていた左手で苦無を逆手に握り直し、鎧の隙間――無防備な脇腹を深く切り裂いた。
「ぐわぁっ……!」
「お、臆するな! 包囲して討ち取れ!」
『……悪いけれど、お前たちごときに倒されるわけにはいかないの。』
冷徹に言い放ち、刀身に付着した血をバサリと一振りに切り払う。周囲を囲む兵たちから、ひっと引きつった悲鳴が漏れ出た。
だが、敵の数は依然として多い。
このペースで雑兵の相手を続けていれば体力を削られ、肝心の仇に逃げられてしまうかもしれない。焦燥感が胸の奥でじわりと首をもたげる。
(――落ち着け。焦ってしまっては駄目だ)
呼吸を深く整え、刃を構え直す。
かつての自分なら仇への憎悪に任せて闇雲に切り結び、無駄な血を流していただろう。だが、いまの私にはあの日交わした約束がある。必ず生きて、あの学園へ帰らなければならないのだ。
冷徹に正確に、そして最短で駆け抜け、再び目の前の敵陣へと疾風のごとく踏み込んだ。
「がっ……!?」
「ぐはっ!」
「な、なんだ……!?」
「賊がもう一匹――がはっ!!」
再び刃を構え直し、目の前の兵へ踏み込もうとした瞬間、前列にいた敵たちが悲鳴を上げて次々と倒れ伏した。
背後からの急襲に敵陣が激しく乱れていく。自分以外の賊とは、この城の兵たちもついていない……そう思いながら目を凝らしたその視線の先で、重厚な鉄の塊が宙を舞い、敵の兜を砕いた。
――見覚えがありすぎる、あの武器。
その輪郭を目に捉えた瞬間、私の硬く結ばれていた口元がふっと緩んだ。
あっという間に周囲の兵を薙ぎ払い、水飛沫のような血煙の中から一人の男が駆け寄ってくる。口布をはずしたその顔は、他でもない食満留三郎だった。
「名前、無事か!」
『留三郎……なぜ、ここに?』
「学園長から聞いたんだ。お前がここへ向かったと。」
『……あのおじいさん、野暮な真似をしてくれるのね。』
「言っておくが、お前を一人で行かせる気なんて最初からなかったからな。」
『……私を、止めに来たの?』
まっすぐ視線をぶつけると、留三郎は力強く首を横に振った。
「いいや。それはしない」
『……?』
予期せぬ答えに一瞬だけ目を丸くし――次の瞬間、おかしさがこみ上げて思わず「ははっ!」と笑い声を上げてしまった。
てっきり「学園へ戻れ」と力尽くで引き止められるものだと思っていた。けれど彼は、私の覚悟を何一つ否定しようとはしなかったのだ。
「何がおかしい!」
『ふふ、何でもないわ。』
奥の廊下からは事態を察知した城兵たちのドタバタとした足音と怒号が再び近づいてくる。
だが、もう焦りも孤独もどこにもなかった。背中を預けられる男が、隣に立っているのだから。
『……もう引き返せないわよ。本当にいいの?』
「勿論だ。ここでお前を一人にするつもりはない。」
『……頼りにするわ。』
「名前……」
『なに?……んっ』
言葉の途中で不意に名を呼ばれ、留三郎の方へと顔を向けた瞬間――視界が眩み、熱い唇が重なった。
足元には気絶した敵兵たちが転がり、奥からは刻一刻と増援の足音が迫る殺伐とした戦場。そんな絶体絶命の真っ只中だというのに、あまりにも場違いで、あまりにも愛おしい熱が唇から体内へと伝わってくる。
言葉をどれだけ交わすよりも雄弁に、互いの「生きて共に帰る」という猛烈な覚悟が、その触れ合い一つで全身に駆け巡っていた。
名残惜しそうに離れた唇の隙間から、留三郎の灼熱のような視線がまっすぐに射抜いてくる。
「絶対に死ぬな。……生きて、学園へ戻るぞ。」
『……死なないわ。約束だもの。』
明かりの消えた暗がりの室内で、私は再び口布を引き上げ、気配が迫る廊下の奥へと向き直った。それとほぼ同時に、待ち構えていた城兵たちが刃を光らせて怒涛のごとく雪崩込んでくる。
『とりあえず、目の前のこの雑魚どもを片付けてからね。』
「背後は任せろ!」
『ふふ、前は任せて。』
ぴたりと背中を合わせると、彼の厚い背中の体温と、力強い鼓動が直に伝わってきた。
なんて心強いのだろう。そして……この優しく熱い人を、こんな汚い場所で死なせるわけには絶対にいかない。
武器を握り直す手になお一層の力を込め、私たちは息を合わせて猛然と押し寄せる敵陣へ躍り出た。
「奴は討ち取ったのか!? 報告はどうなった!!」
「は、はい! まだ……まだ配下からの報せが届いておらず……っ」
「なっ……ふざけるな、この役立たずどもがぁぁっ!!」
激昂した男が投げつけた盃が宙を舞い、乾いた音を立てて床を転がる。怒り狂う姿に、傍らに控えていた側近の兵たちが恐怖で肩をすくませていた。
——己の身を守るためだけに叫び暴れる、あまりにも肝の小さい、愚かな男。
かつて親の命を奪った仇の落ちぶれた姿に、失望すら覚える。武人としての誇りも矜持もとうにドブに捨て、私利私欲のために恨みを買い続けてきたのだろう。無数の兵で幾重にも身を固めている滑稽な様子を見れば、その臆病さは一目瞭然だった。
怒号が響く部屋の天井裏から、一筋の影のように物音ひとつ立てず舞い降りる。
男を囲んでいた最後の護衛たちの背後へ回り込むと同時に、刃の背で首筋を正確に打ち抜いた。
ドサリ、ドサリと兵たちが倒れていく中、人障壁を失った中央には、あの男が腰を抜かしてへたり込んでいた。
暗がりからゆっくりと歩み寄り、冷ややかな瞳で見下ろす。
『……こんばんは。』
「ひっ……!? き、貴様……っ」
『……そう怯えなくてもいいでしょう。久しぶり、というわけでもないのだから。』
「ひ、ひぃぃっ! 出た、出たぞ! 誰か、誰か奴を討ち取れぇぇ!!」
必死に叫ぶ男に対し、私は静かに首を横に振った。
『無駄よ。兵なら……もう一人も残っていないわ。』
「た、頼む! 金ならいくらでもやる! 命だけは……儂を助けてくれぇっ!」
かつて親を奪った恐ろしい掠奪者はどこにもいない。そこにいたのは、尻餅をついたまま必死に後退りし、情なく命乞いを繰り返すだけの惨めな老醜だった。
「な、頼む……! この通りだ!!」
『……貴様は今まで、目の前で命乞いをしてきた人々を見逃してやったことがあるか?』
「あっ、あ……っ」
『……大勢、殺してきたでしょう?』
「っあ、ああぁぁっ……!」
『だから……救えるはずがないのよ。』
「た、頼むぅぅっ! 金でも領地でも何でもやる! 何でも言うことを聞くからぁっ!!」
哀れな鳴き声のような命乞いに、私は静かに眉を顰めた。怒りを超えた冷酷な殺意が、胸の中を鋭く吹き抜けていく。
『……私が望むものはただ一つ。貴様の死だ。』
「そ、そんな……っ!」
絶望に顔を歪ませながら、男の手元が微かに動く。倒れた配下の握っていた刀へ必死に手を伸ばす企みが、視界の隅にはっきりと映り込んでいた。ほんのわずかに男の瞳に宿った醜い悪あがきの余裕――あまりにも丸分かりで、呆れすら覚える。
「死ねぇぇぇっ!!」
拾い上げた刀を振りかざし、狂ったように斬りかかってくる男。
だが、その一撃を冷徹に刃で受け止めると、そのまま力任せに横一文字へと一閃し、刀ごと力任せに跳ね飛ばした。
――キィンッ! ガシィンッ!!
強烈な衝撃に耐えかねて男の手から離れた刀は、空気を切り裂く音を立てて近くのぶっとい柱深くへと突き刺さった。
「ヒッ……!? あ、ガはっ……っ!」
反動で後ろへ転げ倒れた男の呼吸は激しく乱れ、その顔は先ほどよりもなお一層、死人のように青白く染まっていた。
『……貴様がどこまでも非情な下衆で、本当に良かったわ』
「頼むぅぅっ! 命だけは! 命だけは助けてくれぇっ!!」
地べたを這いずり、涙と鼻水に顔を汚して命乞いをする男。
そのあまりにも情けない姿を見下ろしながら、私は冷たい微笑みを口元に浮かべ、静かにけれど迷いなく刀を天高く振り上げた。
『――御命、頂戴する。』
宣告と同時に、刃が疾風となって振り下ろされる。
――一瞬の静寂。
空間の時が止まったかのような錯覚の後、遅れて空気が激しく流動し、鋭い刃風の音が室内へ遅れて届いた。
一切の猶予も有無も言わせぬ一閃が、男の首を呆気なく跳ね飛ばしていた。
ドサリ、と音を立てて床に転がり、ゴロゴロと濡れた畳を転がっていく生首。
『……父様と母様に、あの世で死ぬほど詫びてくるといい。』
命の灯火が完全に消え去ったかつての宿敵を見下ろし、私は静かに刃に付着した血を拭うと、最期の言葉を冷ややかに投げかけた。