雨宿りDIARY Ⅱ

他人の読書を勝手に意味づけするな  

2026/09/28 21:02
エッセイ
最近、Xでこんな意見を見かけた。

【本好きって、たくさん本を読んでいるくせに普通に頭が悪い人が多くて、その大量に積み重ねられている本から何を学んだんだろうか、と思う時がある。】

【「たくさん本を読んでインプットしまくっているのに、アウトプットや思考の解像度が致命的にアップデートされていない人」を見かけたときの、あの何とも言えない脱力感と香ばしさ、めちゃくちゃ分かるんよなぁ。
ここで私の自説を語らせてもらう。
どれだけ膨大な量の活字を目に焼き付けていようが、それを自分の脳内でロジックとして咀嚼し、批判的に検証するプロセスをサボっている人間にとって、読書は単なる「知的なドーパミンの摂取」か、あるいは「賢くなったという錯覚に浸るための高級な現実逃避」でしかないんよ。
知識コレクターと化しただけで、OSのアップデートが一切起きていない状態やん。】

 しばしばSNSでこういう意見を見かける。
 その度にうんざりさせられる。というか、ちょっとムカつく。お前の尺度で私の読書を測るんじゃねぇ! 読書くらい自由にさせろや!

 Xでも上記のような意見を見かける度に噛み付いて自分の意見を書いてきたのでここでも書く。

 そもそも。
 読書って何のためにするのか?

 基本的に読書をする人って楽しみたい、知らない世界をちょっと覗いてみたい、これ面白そう、という娯楽的な好奇心が動機だと思う。SNSの読書界隈はほぼこういう人たちで構成されているように思う。かくいう私もその一人である。ちょっと変な世界を覗いてみたい、という気持ちで日々数百ページの本を捲っている。
 そして本にはもうひとつの側面があって、勉強、学問という知識を得るツールとしての本や読書がある。

 恐らく、上記の引用にあるようなことを言う人はこの「勉強のための読書」という意識が強いのではないだろうか。
 だから読書してる人に対して「読書から得られるもの」、成果物としての「知識」「思考力」「頭の良さ」を求めてしまうのでは。
 これって読書に「タイパ」「コスパ」を求めることと地続きだと思っているのだけれど、どうだろう。私は読書に「タイパ」「コスパ」を求めるのはナンセンスだと思っている。

 本を読んだらそこから何かを学ばなくてはならないのか?

 趣味の読書、娯楽の読書において、私は決してそんなことはないと思っている。読んで「面白かった」と思うだけで充分だと思っている。「へ~こういう考えもあるのか」とまで思ったら儲けもの。
 読書をして自分が楽しければそれでOK。その人がしている読書の在り方に対して他人がとやかく言うのはお門違いだ。単純に読書を楽しんでいる人に「思考の解像度が~」とかなんとか言う人は肉屋にきて魚を売ってくれと言っているようなものだ。最初から読書に求めているものが違うのだ。

 「本を読んだからには何かを学べ」勢には弊害もあって、こういう考えだけが正しい、みたいになると「読書=高尚なもの」と捉えられて読書の入口が狭まってしまうことになりかねない。それは大変残念なことだと思う。読書楽しいのに。

 「読書が好きです」というと「凄いね」「頭いいんだね」と言われることがあるけれど、これも私はちょっと嫌いである。相手は褒めてるんだろうけど、別に私は褒められるようなことは何もしていない。ただ読みたい本を読んでいるだけだから。頭の良し悪しも関係ないし、なんなら私は馬鹿である。だって勉強できないし。英語分かんないし。最終学歴は偏差値34の商業高校卒ですけど何か?

 つらつら書いてきたけれど、読書とは本来自由だ。
 どんな読み方をしても良い。「本から何か学ばなければ!」と思う人はそういう読書をすれば良いし、物語を楽しみたい人はそうすれば良い。
 読書は極々個人的な体験なので、外野がとやかく言うのは余計なお世話。お前は黙ってろ、だ。

 読書、心が赴くままに楽しみましょう。

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