薔薇(そうび)の館


 風にふるえる薔薇を眺めていると玄関ドアの向こうから黒い影が現れた。いつか見た中年の女である。女は裾の長い黒いワンピース姿で白いものが混じった髪を一つに纏めて結い上げている。化粧気がない顔には不思議な威厳が漂っていた。
 女はあなたを認めると軽く会釈をして歩み寄って来、何か御用ですかとアルトの声音で訊ねた。いえ薔薇が綺麗だったものでつい、とあなたは曖昧な言葉で濁す。薔薇はお好きですか、宜しければお分けしましょうか。唐突な女の申し出にあなたはやや面を食らいながらも断るのは却って悪いような気がして、ええ好きです、少しくださいますかと答えた。女が門扉を開けてあなたを招き入れる。女の後をついていくと建物の裏側に回った。裏手は広い庭になっていて、晩秋に色褪せた芝生と青々とした薔薇の茂みが広がっていた。片隅には鋼鉄製のガーデンチェアとテーブルがあった。
 あなたは薔薇を見て瞠目した。淡い藤色をしていたので。夜来香イエライシャンです――女が厳かに告げる。それが薔薇の品種名らしい。不意に薄雲を透かして陽が差す。朧げな陽光は仄かに暖かい。
 女は少しお待ちくださいと前置きしてから一旦建物の中に姿を消すと今度は青いバケツを提げて戻ってくる。彼女はバケツの中から剪定鋏を取り出すとなるべく花が開いていないものを選んで切っていく。あなたは手持無沙汰になって沈黙に耐えらず、口を開いた。――全てあなた独りで育てているのですか。彼女は小さく頷きながら今は、と付け加えた。旦那様が亡くなりましたので。思わぬ告白にあなたは瞳を瞬かせると女はこちらを一瞥して片頬だけで微笑んでみせた。そこで初めて黒のワンピースは喪に服しているのだとあなたは思い至った。
 ――薔薇気狂い。
 今なんとおっしゃいましたか。耳を疑うような言葉にあなたは心臓を乱して訊き返す。彼女は特に顔色を変えずにもう一度同じ言葉を口にした。薔薇気狂い、と。旦那様は世間からそう蔑称されていました。あまりにも薔薇を育てることに熱心でいらしたので。失礼ですが、あなたは奥様でいらっしゃいますか。いいえ、わたしは住み込みのただの使用人です。奥様は随分前にこの屋敷を出て行かれてそれきり行方が知れません。ではあの男性はご子息ですか。使用人だという女は僅かに目を見開いてあなたを見た。訝しげな眼差しに居心地が悪くなる。以前――かなり前ですがあなたと一緒にいるところをお見かけしました。女は薔薇と向き合うと来月にこの屋敷は取り壊されるのだと静かに告白した。旦那様もお亡くなりになり、奥様も行方知れず。跡を継ぐ方もいらっしゃらないので。旦那様は身寄りのないわたしの身を案じてこのお屋敷を残してくださいましたが、独りで住むには広すぎますし、手入れも満足にできませんから。取り壊すなんて勿体ない気がします。売りに出したらすぐに買い手が見つかりそうですが。今時こんな立派な洋館も珍しいでしょうに。あなたが仰るように何件か買い取りたいとのお話しは頂きましたが、全てお断りしました。このお屋敷は遺さない方が良いのです。パチンと乾いた音共に薔薇が切り離される。あなたは彼女の横顔を見詰める。眼尻の皺が深い。何かを憂いているような顔色は秘密を抱える者のそれで、女はその秘密を誰かに打ち明けたいのかもしれない――あなたは自身の好奇心を都合良く考えて、彼女の内に秘めた隠し事を聞き出そうとそれとなく水を向けた。
 薔薇がお好きだった旦那様というのはどんな方だったのですか。……世間では色々言われているようですが、薔薇に対する情熱は本物でした。元々は植物学者だそうで……わたしは詳しくは存じあげませんけれど、いつか青い薔薇を造るんだと仰って日夜研究に勤しんでいらっしゃいました。今では青い薔薇も珍しくなく一般的な市場に出回っていますが、青い薔薇が誕生した知らせを聞いた旦那様は先を越されたと大層口惜しがっておいででした。きっとそれがきっかけだったのでしょうね。女はどこか憐れむような口調で告げる。それからというもの旦那様は殆ど眠らなくなり、地下にある研究室に籠りきりで……稀に姿をお見せになったと思ったら訳の判らないことを譫言うわごとのように呟かれて……奥様もそんな旦那様を見て愛想を尽かしてしまわれたのでしょう。ある日突然荷物をまとめて出て行かれました。わたしにも何も仰らずに。女は当時のことを思い出しているのか悲痛そうに片頬を攣らせる。それから旦那様は? それから――それから旦那様は妙なことを仰るようになりました。決して枯れない薔薇を造ると。枯れない薔薇? それはどういう――? 重ねて訊くと彼女は軽く下唇を噛んで沈黙し、ゆるくかぶりを振った。わたしにも良く判りません。嘘だ、とあなたは直感した。彼女は何かを知っている。
 女は切った薔薇の茎の根元を手早く濡れた脱脂綿で包むと輪ゴムで束ねて上から新聞紙で包んだ。薄紫の薔薇の花束をあなたに差し出す。これ以上話を聞き出すのは無理そうだと判断したあなたは薔薇を受け取った。こんなにたくさんありがとうございます。早速部屋に飾ります。すんと匂いを嗅ぐと夜来香イエライシャンから清らかな甘さが香った。どういたしまして。来月の中頃から取り壊しが始まります。それまででしたらいつでも薔薇をお分けしますから、いらしてください。女は疲れたように笑った。
 あなたは女と別れてから、名前を訊きそびれたことに気が付いた。
 
 ◆◆◆

 薔薇を貰った日からあなたは足繁く傾斜十八度の坂道を上って『薔薇屋敷』の前を通った。相変わらず、赤煉瓦の洋館は百年の永い眠りに就いたようにひっそりとしていた。
結局、あの日以来使用人を自称する女とは一度も顔を合せなかった。もしかしたら既に『薔薇屋敷』を出て行ったのかもしれない。
 月が改まったある日の夕暮れ時、あなたは洋館の鉄門扉の前に立って瀟洒しょうしゃなその佇まいを惜しむように眺めていた。建物の玄関脇に咲いていた深紅の薔薇は見る影もなく枯れていた。本当にもう誰もいないのかもしれない。そう思ったら確かめずにはいられなくなって、あなたは門扉を押して敷地内に足を踏み入れた。玄関のインターホンを押す。呼び鈴は鳴るが応答がない。束の間、耳をそばだてて中の気配を窺うがなんの物音もしなかった。あなたは殆ど無意識にドアノブに手を触れた。僅かに引くと玄関ドアが開いた。あなたは驚いて咄嗟に手を離したが、もう一度同じ動作をして、薄く開いたドアの隙間から中を覗いた。それから誰何すいかする。が、広い玄関ホールに己の声が響くだけで家人は姿を見せない。本当にあの女は出て行ったのだろう。鍵をかけてないことを不用心に思いながら流石にこれ以上中に踏み込む勇気がなくて、あなたは踵を返して建物の裏手に回った。
 以前来た時は薄紫の薔薇が咲き乱れていたが、今は立ち枯れて蕭条しょうじょうとしていた。片隅に置かれていたガーデンチェアとテーブルもない。と、良く見ると枯れた薔薇の茂みの下に掘り返したような痕跡が認められた。好奇心に駆られてあなたは花壇に近付く。黒く湿った土の中に僅かに覗く白いものが目に付いた。一体なんだろう――白いものに触れてみる。滑らかな手触りで仄かに温もりがあった。予期せぬその温度に心臓がふるえる。緊張と幾分かの期待、恐怖心に突き動かされてあなたはまだ柔らかい黒く湿った土を素手で掘り返す。枯れた薔薇はただ土の上に置かれていただけだったので取り除くのは容易だった。土を弄りながら自分はこんなところで何をしているのかと醒めた頭の一部で考える。掘り進めていくと土中から青い花弁が覗いた。薔薇だ。青い薔薇が埋まっている。一体なぜ。更に掘り進めていくと白い面積が増えていく。表面を触ると柔らかい。あなたは薄らとした予感を確信に変える。
この白いものは――人だ。
 ここには人間が埋まっている!
 掘り進める手を急がせて土を掻き分ける。次第に露わになる腕、手、腹。胸元、そして青い薔薇の花。薔薇は土に根を張らず、白い皮膚から重たげな頭を伸ばしていた。
 これはなんだ。
 一体何なんだ!
 殆ど叫び出しそうになるのをどうにかあなたは堪えて埋められた白い躰を掘り返していく。
土にまみれた黒髪、薄汚れた頬、閉じられた瞼、色を失った唇。
見たことがある。彼だ。使用人の女と一緒にいた男だ。
 蒼褪めた瞼がふるえて瞳が開いた。黒すぎる瞳があなたを見た。驚いて飛びのいた拍子に青い薔薇に手を引っかけてしまい、引き千切った。ぶちぶちと厭な音を立てて千切れた茎から鮮血が零れ、あなたの手を汚した。
 ――決して枯れない薔薇。
 不意に女の言葉が耳の奥で蘇った。
 薔薇気狂いの男は宣言通り、完成させていたのだ。薔薇を人体に移植することによって。
 あなたは叫び声をあげながら一目散に駆け出した。
 土の中で枯れえぬ薔薇は静かに目を閉じた。

(了)
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