雨の中で密やかな睦言を(太中/文スト)
雨が降って来やがったーー中原は舌打ちをして、慌てて寺院の軒下に駆け込む。家を出た時はカラリとした青空が覗いていたのに、急速に雨雲が湧き起こったようで、重たげな灰色のそれは圧迫するように中原の頭上に広がっていた。
中原は衣服の上に零れる雨粒を手で払う。せっかく袖を通したばかりの着物が雨で汚れては敵わない。彼が纏っている着物は先日、首領から贈られた物だ。と云っても、元々の出処は紅葉らしく、何でも彼女が贔屓にしている呉服屋で特別に誂えたものだと後から知った。何故、紅葉が自分に着物を作って寄越したのか、多少の疑問はあったが、理由を問うのは無粋であるし、失礼にもあたる。中原は有難く頂戴して、久し振りの休暇となった今日に着てみたのだった。
和装は何だか特別な気持ちになる。一言で云えば、気分が昂揚した。中原は気を良くして、普段は訪れることのない寺に足を向けたのだ。ヨコハマの喧騒を離れて、ただ独り、静謐な場所でゆっくり過ごしたかったのである。誰も己を知る者がいない、ところで。
雨足は次第に強くなりつつあった。
降り頻る雨に景色が白く烟り、霞んでいく。
境内の中に夥しく咲いた紫陽花の花も雨に打たれて、潤っていく。
中原はぼんやりと濡れていく風景を眺めていた。そうしながら、雨もまたそれ程悪くないと思い始めていた。天から落ちる雨音が不思議と彼の気持ちを寛がせた。
「おや。蛞蝓が雨宿りしてる。何だか前よりも縮んだかな?」
耳に厭と云う程馴染んだ声音。何故、此処に彼がいるのか甚だ疑問であったが、しかし中原は無視を決め込む。相手にしたら、終わりだ。心地よい鎮静が破られてしまう。
「あれー? 中也ってば、何で無視するの。私の声が聞こえてないのかな?」
突然現れた太宰は雨合羽から雫を滴らせて、中原に歩み寄る。と、隣に立って少し長身を屈めると、彼の耳元に形の佳い唇を寄せて「わぁ!」と叫んだ。大声を浴びせられた中原は堪ったものではない。
「手前ェ、青鯖ァァァッ!!」
満身の怒りを込めて太宰の胸倉を掴むとガクガクと揺さぶる。しかし太宰は可笑しそうに笑うばかり。
「なあんだ、ちゃんと私の声、聞こえてるじゃない」
「五月蝿ェ、手前今すぐ失せろ。ついでに死ね」
「え? 何? 私と心中したいの?」
それは初耳だなあと目を輝かせる太宰に中原は酷い徒労を感じた。心が折れそうになる。現在、太宰の相棒を務める人物をふと思い出して密かに同情した。
太宰を手荒く解放して、溜め息を吐く。
「……もう良い。俺は、帰る」
英気を養うために独りで散策していたのに、これでは台無しである。 雨に濡れるのも致し方ない。そう思って中原が歩き出そうとした時、太宰が肩を掴んで引き止めた。
「何だよ」
触ンなと手を払いながら、中原は振り返る。
「中也、濡れてしまうよ。傘、持ってないんでしょう? ほら、これ」
何処に隠し持っていたのか、彼は折り畳み傘を差し出した。中原は意外に思って、傘と太宰とを見比べてしまう。用意周到。怪しい。
「……何を企んでやがる」
「別に何も。まぁ、ちょっとその辺を一緒に歩きたいかな。傘を貸してあげるよ」
太宰は微笑んで、折り畳み傘を開くと無理矢理彼の手に握らせた。
「おい、太宰」
中原は当惑してしまう。予想外の展開に。しかし、当の太宰は頓着せずに中原を促して歩き出す。少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた中原は太宰の後を追って雨の中を走った。
「手前、今日は仕事どうしたんだよ」
隣に肩を並べて太宰に話しかける。沈黙は何だか気詰まりに思えたから。
「うん? 私は非番だよ。暇だったから、ちょっと散歩してただけ」
「散歩でこんなところまで来るのかよ?」
「別にそんなこと、どうでも良いじゃない」
ねぇ? と太宰は微笑するが、散策出来る距離を遥かに超えている。後を付けられていたのかもしれないと咄嗟に思った。
「紫陽花が綺麗だねえ」
太宰はのんびりした口調で云いながら「梅雨が終わったら、次は向日葵でも咲くのかなあ」と子供じみた言葉を吐く。中也知ってる? と訊ねられて、知らねェと短く答えた。何だか調子が狂ってしまう。
暫くお互い無言のまま雨の中を歩いた。
中原は時折、太宰の顔をちらりと盗み見たが何を考えているのか良く解らない表情を浮かべていた。決して無表情ではないが、ぼんやりと惚けているわけでもない。況してや笑顔でもなかった。本当に掴み所のない男だと思う。癪に障る。
「中也、何?」
視線に気が付いたらしい太宰が不思議そうに首を傾げる。
「別に何でもねェよ」
素っ気なく云って顔を背ける。
「嘘。私に見蕩れてたでしょう」
「はぁ!? そんなわけあるかッ!」
がなり立てて反射的に太宰に向き直ると、ひょいと傘が奪われた。
「手前ッ、か」
中也の言葉は行き場をなくした。太宰の唇で自身のそれを塞がれたので。
思いもよらない出来事に中原は抗うことも忘れて太宰の唇を受け止めていた。口付けはそれ程、長くはなかったが中原には酷く長い時間のように思えた。
唇が離れて、視界いっぱいに太宰の微笑が広がる。細められた双眸は確かに愛しげな色が滲んでいた。それが解らない中原ではなかったが、認めたくはなかった。自分がその情愛を密かに求めていることを。太宰に己の気持ちを悟られていたとしても、尚。
「ふふ。何て顔してるの、中也」
太宰はうっとりと唇を歪める。それから、硬直している中原の耳元に口元を寄せて、甘く、毒のように囁く。
「一緒に私と溺れてくれる覚悟が出来たら、私のところにおいで。死にたくなる程、愛してあげる」
明るくにっこり笑って。
太宰は手にした傘を中原に押し付けるようにして「じゃあまたね」と云い残して降り頻る雨の中へ姿を消した。
中原は動けなかった。
太宰の囁きを頭の中で反芻する。
怪しく胸がときめくのを覚えたので。
「畜生ッ!」
誰に向けるでもなく、中原は悪態を吐いたのだった。
雨はまだ止みそうにもない。
(了)
中原は衣服の上に零れる雨粒を手で払う。せっかく袖を通したばかりの着物が雨で汚れては敵わない。彼が纏っている着物は先日、首領から贈られた物だ。と云っても、元々の出処は紅葉らしく、何でも彼女が贔屓にしている呉服屋で特別に誂えたものだと後から知った。何故、紅葉が自分に着物を作って寄越したのか、多少の疑問はあったが、理由を問うのは無粋であるし、失礼にもあたる。中原は有難く頂戴して、久し振りの休暇となった今日に着てみたのだった。
和装は何だか特別な気持ちになる。一言で云えば、気分が昂揚した。中原は気を良くして、普段は訪れることのない寺に足を向けたのだ。ヨコハマの喧騒を離れて、ただ独り、静謐な場所でゆっくり過ごしたかったのである。誰も己を知る者がいない、ところで。
雨足は次第に強くなりつつあった。
降り頻る雨に景色が白く烟り、霞んでいく。
境内の中に夥しく咲いた紫陽花の花も雨に打たれて、潤っていく。
中原はぼんやりと濡れていく風景を眺めていた。そうしながら、雨もまたそれ程悪くないと思い始めていた。天から落ちる雨音が不思議と彼の気持ちを寛がせた。
「おや。蛞蝓が雨宿りしてる。何だか前よりも縮んだかな?」
耳に厭と云う程馴染んだ声音。何故、此処に彼がいるのか甚だ疑問であったが、しかし中原は無視を決め込む。相手にしたら、終わりだ。心地よい鎮静が破られてしまう。
「あれー? 中也ってば、何で無視するの。私の声が聞こえてないのかな?」
突然現れた太宰は雨合羽から雫を滴らせて、中原に歩み寄る。と、隣に立って少し長身を屈めると、彼の耳元に形の佳い唇を寄せて「わぁ!」と叫んだ。大声を浴びせられた中原は堪ったものではない。
「手前ェ、青鯖ァァァッ!!」
満身の怒りを込めて太宰の胸倉を掴むとガクガクと揺さぶる。しかし太宰は可笑しそうに笑うばかり。
「なあんだ、ちゃんと私の声、聞こえてるじゃない」
「五月蝿ェ、手前今すぐ失せろ。ついでに死ね」
「え? 何? 私と心中したいの?」
それは初耳だなあと目を輝かせる太宰に中原は酷い徒労を感じた。心が折れそうになる。現在、太宰の相棒を務める人物をふと思い出して密かに同情した。
太宰を手荒く解放して、溜め息を吐く。
「……もう良い。俺は、帰る」
英気を養うために独りで散策していたのに、これでは台無しである。 雨に濡れるのも致し方ない。そう思って中原が歩き出そうとした時、太宰が肩を掴んで引き止めた。
「何だよ」
触ンなと手を払いながら、中原は振り返る。
「中也、濡れてしまうよ。傘、持ってないんでしょう? ほら、これ」
何処に隠し持っていたのか、彼は折り畳み傘を差し出した。中原は意外に思って、傘と太宰とを見比べてしまう。用意周到。怪しい。
「……何を企んでやがる」
「別に何も。まぁ、ちょっとその辺を一緒に歩きたいかな。傘を貸してあげるよ」
太宰は微笑んで、折り畳み傘を開くと無理矢理彼の手に握らせた。
「おい、太宰」
中原は当惑してしまう。予想外の展開に。しかし、当の太宰は頓着せずに中原を促して歩き出す。少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた中原は太宰の後を追って雨の中を走った。
「手前、今日は仕事どうしたんだよ」
隣に肩を並べて太宰に話しかける。沈黙は何だか気詰まりに思えたから。
「うん? 私は非番だよ。暇だったから、ちょっと散歩してただけ」
「散歩でこんなところまで来るのかよ?」
「別にそんなこと、どうでも良いじゃない」
ねぇ? と太宰は微笑するが、散策出来る距離を遥かに超えている。後を付けられていたのかもしれないと咄嗟に思った。
「紫陽花が綺麗だねえ」
太宰はのんびりした口調で云いながら「梅雨が終わったら、次は向日葵でも咲くのかなあ」と子供じみた言葉を吐く。中也知ってる? と訊ねられて、知らねェと短く答えた。何だか調子が狂ってしまう。
暫くお互い無言のまま雨の中を歩いた。
中原は時折、太宰の顔をちらりと盗み見たが何を考えているのか良く解らない表情を浮かべていた。決して無表情ではないが、ぼんやりと惚けているわけでもない。況してや笑顔でもなかった。本当に掴み所のない男だと思う。癪に障る。
「中也、何?」
視線に気が付いたらしい太宰が不思議そうに首を傾げる。
「別に何でもねェよ」
素っ気なく云って顔を背ける。
「嘘。私に見蕩れてたでしょう」
「はぁ!? そんなわけあるかッ!」
がなり立てて反射的に太宰に向き直ると、ひょいと傘が奪われた。
「手前ッ、か」
中也の言葉は行き場をなくした。太宰の唇で自身のそれを塞がれたので。
思いもよらない出来事に中原は抗うことも忘れて太宰の唇を受け止めていた。口付けはそれ程、長くはなかったが中原には酷く長い時間のように思えた。
唇が離れて、視界いっぱいに太宰の微笑が広がる。細められた双眸は確かに愛しげな色が滲んでいた。それが解らない中原ではなかったが、認めたくはなかった。自分がその情愛を密かに求めていることを。太宰に己の気持ちを悟られていたとしても、尚。
「ふふ。何て顔してるの、中也」
太宰はうっとりと唇を歪める。それから、硬直している中原の耳元に口元を寄せて、甘く、毒のように囁く。
「一緒に私と溺れてくれる覚悟が出来たら、私のところにおいで。死にたくなる程、愛してあげる」
明るくにっこり笑って。
太宰は手にした傘を中原に押し付けるようにして「じゃあまたね」と云い残して降り頻る雨の中へ姿を消した。
中原は動けなかった。
太宰の囁きを頭の中で反芻する。
怪しく胸がときめくのを覚えたので。
「畜生ッ!」
誰に向けるでもなく、中原は悪態を吐いたのだった。
雨はまだ止みそうにもない。
(了)
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